今回の豪雨被害の映像を見るたび、唯識三十頌に我々の深層意識(阿頼耶識)は氾濫した河の様だという最初の記述「(阿頼耶識は)恒に転ずること暴流の如し」を思い出します。われわれの日々の行為は残らず蓄積されてそれが豪雨で氾濫する河の様に無限に変化して様々な現象を作り出しているというのです。
唯識三十頌 (世親菩薩造 三蔵法師玄弉譯)です。
「仮に由て我法と説く。種々の相転ずること有り。(我(アートマン)とか法(ダルマ)となずけているものは仮のものである。あるのは、「変化の流れ」だ。)
彼は識の所変に依る。此が能変は唯三つのみなり。( これは「識の変化」により生成され、認識される。そして、これをつくりだす心には、三種類のものがある。)
謂わく異熟と思量と,及び了別境との識。(異熟という行為が蓄えられ結果を生みだす心と、思量という無意識に己を思いはかり続ける心と、了別境という外界を認識する心だ。)
初めは阿頼耶識なり,異熟なり一切種なり。( 第一の心を「阿頼耶識」という。なした行為がこの阿頼耶識に全て蓄えられ、そして一切の結果を生みだすもとになる)
不可知の執受,処と了とあり。常に触と,作意と受と想と思と相応す。唯だ捨受のみなり。(阿頼耶識は心の深層にあり、知ることはできない。執着を受け、行為を蓄え、認識をする。常に触と作意(注意作用)と受(苦楽等を感ずる)と想(想い考える)と思(心を造作する)とに相応し、ただ捨受し続ける )
是無覆無記なり。触等も亦た是の如し(この阿頼耶識は、それ自体は無覆無記(善悪から中立)である)
恒に転ずること暴流の如し。阿羅漢の位に捨す。(阿頼耶識は氾濫した河の流れのごとく、常に激しく変転し続けている。しかし阿羅漢の位となると転換される)」
唯識三十頌 (世親菩薩造 三蔵法師玄弉譯)です。
「仮に由て我法と説く。種々の相転ずること有り。(我(アートマン)とか法(ダルマ)となずけているものは仮のものである。あるのは、「変化の流れ」だ。)
彼は識の所変に依る。此が能変は唯三つのみなり。( これは「識の変化」により生成され、認識される。そして、これをつくりだす心には、三種類のものがある。)
謂わく異熟と思量と,及び了別境との識。(異熟という行為が蓄えられ結果を生みだす心と、思量という無意識に己を思いはかり続ける心と、了別境という外界を認識する心だ。)
初めは阿頼耶識なり,異熟なり一切種なり。( 第一の心を「阿頼耶識」という。なした行為がこの阿頼耶識に全て蓄えられ、そして一切の結果を生みだすもとになる)
不可知の執受,処と了とあり。常に触と,作意と受と想と思と相応す。唯だ捨受のみなり。(阿頼耶識は心の深層にあり、知ることはできない。執着を受け、行為を蓄え、認識をする。常に触と作意(注意作用)と受(苦楽等を感ずる)と想(想い考える)と思(心を造作する)とに相応し、ただ捨受し続ける )
是無覆無記なり。触等も亦た是の如し(この阿頼耶識は、それ自体は無覆無記(善悪から中立)である)
恒に転ずること暴流の如し。阿羅漢の位に捨す。(阿頼耶識は氾濫した河の流れのごとく、常に激しく変転し続けている。しかし阿羅漢の位となると転換される)」