福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,真言宗でいう「阿字本不生」とは?・・その3

2012-06-08 | 諸経
問、請ふらくは禅密の理の浅深を聞ん、又前に聞きつる本不生の義は唯其の大概のみにして委細の説明なし。猶その深義を演らるべし。

答、禅密の理の浅深は本不生の理を明かすに自ずからあらはるべし。先ず本不生の義を広説せば凡そ是に相濫すること多し。真金を識んと欲せば先ず鍮鉐(チュウセキ、真鍮)を弁ぜよというが故に先正見に似たる邪見を弁知べし。(邪見の)一には本不生とは本とは生ぜずといふ義なりとこころえて目前歴々たるところの万法は因縁より起こる。因縁いまだ合せざる已前には一物も無、故に本は生ぜずと云うなりと解す、是れ天台宗に無明法性より起こると云う、一念不生のところを強いて中道と号すると、三論宗に一念不生前後裁断と云ひ、又因縁性のゆえに無自性、無自性のゆえに畢竟空、畢竟空のゆえに不可得というに々。また因縁性とは談じざれども禅家に本来無一物というも此れに同じ。
(邪見の)二には又一類の人錯って解することあり。いわく本不生は本有の義なり。本有というは松は何も松なり、竹は何も竹なり、人は三世に人なり、畜は三世に畜なりと思ふ族らあり、是は外道の常見に全同なれば此の二義ともに謬見なり。又華厳宗に真如の理性より自ら万法を生ずと云うも是なり。


さて真実の本不生の義と云うは一切色心の諸法おのおの一一に万法を具したり、もし有情に就いて云はば唯合は人にして人の形を具したれば人と名ずくれども、若し一念瞋恚を起こすときは即ち地獄の火なり。一念の慳恡(けんりん)を起こせば即ち餓鬼の飢渇となる。少分も愚痴を起こせば即ち畜生の無知なり。少分も我慢闘争を起こせば即ち修羅の心なり。もし五常を守り五戒を持てば(五戒は五常にあたる)即ち人道なり。若し一食の頃なりとも十善戒を守り或は四禅四無色定を修すれば天道の心なり。若し四諦を修行する心を起こせば声聞なり。若し十二因縁を観ぜば縁覚なり。若し自利し利他する心をおこらば即ち菩薩なり。若し諸法の本不生を観ぜば即ち佛心なり。頼耶の別種子生あらざることを能く弁ずべし。

かくの如く人の心に本より十界を具したり、自余の九界にも亦各余の九界を具したり。これを新にそれそれの心起るとみるは四宗大乗及び禅門の意なり。本有なるがゆえに縁によって顕るると云うは真言の義なり。たとえばとう籥の中に風満ちてあれども鼓動かざれば風出でざるが如し。然れば則ち現世は人なれども善悪の業を造るによって来世に三悪道に赴き、あるいは天上浄土にも生ずるなり。ゆえに前にいうところの松は松、竹は竹、人は人、天は天にしていつまでも改むることなしというとは雲泥遥かに異せり。又十界に各十界を具したれば自他平等の理ここに決定す。たとえば礼楽射御書数に通ぜる者六人あらんに各々一芸を以て是は礼者、是は楽者等と名を呼ぶが如し。名は異んずれども其の六芸を備えたることは全同じきが如し。

佛はこの本有の義に通達したまふが故に自他平等にしてよく他の心を知り、能く無量の形を変現す。衆生は此の本不生の理に暗きがゆえに他の心をも知ることあたわず。形を変ずることも自由ならず。真言教に説くところの三密(身には印を結び、口には真言を唱え、意には観念するをいう)を行ずる力によって、病身を転じて無病となし、禍を転じて福となし、賊しきが貴き人となり、怨も変じて親しくなることはこの本不生の深理を具したる印真言観念なるがゆえなり。又唯是のみにあらず、陵は崩れて谷となり、草木変じて蟲類となり、昔の牛哀が虎となり、夫を思ふて遥かに望みやりし女変じて石となりしも皆本有の法なるがゆえに本より具したるが不図あらわるるとなり。金は至って堅けれども火に入るるときは湯となる。水は冷なるものなれども火の縁に依っては熱く成る。これ等も堅き物にもとより軟なる徳を具え、冷なるものに本より熱なる功を具したる故なり。かくのごとく万法に歴て各々に万法を具したりと知るこれを本不生の知見といふなり。(続)



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 守護國界主陀羅尼經卷第十阿... | トップ | 不空羂索毘盧遮那佛大潅頂光... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事