公事根源には八日に御七日御修法の他にも天皇や国家の安泰をねがって様々な密教修法が行われていたとあります。
「公事根源」
「(正月)御斎會 八日
是は大極殿にて八日より十四日まで七日日の間、最勝王経を講ぜられて朝家を祈り申し侍る也。この経とりわけ國家を護持する功能あるによりてあら玉の年の始めにはまつ゛講ぜらるるにや。天平元年十月に大極殿にて講ぜらる。又天武天皇九年五月に始めて金光明経を宮中幷に諸司にて講ぜらる。是れなんども始めとは申すべきか。桓武の御宇延喜二十一年正月よりかやうに年々にはなりぬるなるべし。」
「真言院の御修法 同日(八日)
是も今日より行はる。今年金剛界ならば明年は胎蔵界、年々にかはるがはる修せらる。後七日の御修法とは此の事なり。(淳和)天長六年に弘法大師の内道場に准じて真言院を宮中に申し立てられて、(仁明)承和元年大師すなはち此の法を始められける。」
「太元帥法 同日(八日)
治部省にて七日日是を行はる。蔵人内蔵寮の官人をして御衣を給はりて壇所に送る。御衣筥に入れて緋の綱にてこれを結ぶ。御所より給へば蔵人封を付けて是を治部省に遣して御祈りを致さしむ。結願の日は御衣をもとの如く返上するなり。この帥の字をば読まず。ただ太元法とよむが口伝にて侍るなり。小栗栖の常暁律師、仁明天皇承和五年に入唐して衛林寺の元照といふ人にあひてこの太元帥法を傳ふ。秘法なるによりて異朝にも都の外へは不出と雖も常暁が才器を見てひそかに授けけるとかや。其の後帰朝して小栗栖の法琳寺と云ふ所にて修しけるなり。文徳天皇の比、天下の大旱に神泉苑にてこの法を修しけるに白蛇現じて雨をくだし侍りけるとなむ。」