観音霊験記真鈔4/34
西國三番紀州粉河寺千手観音
釋して云く、千手観音とは具には千手千眼観音と云ふ。所謂、観音の御尊躰に千の御手あり、其の一手掌の中に御眼一つ宛在す。故に千手千眼と云。千手は大悲、千眼は大智なり。千の手と千の眼と千の持物と三千の数量を以て観音の一躯に具足せり。是即ち一念三千なり。千手千眼千の持物、一躰三千の用、三千世界に感應して一切衆生を抜苦與樂ならしめ玉ふ事は皆利佗の故なり。説法明眼論に云く、衆聖の中に独り大悲と號す、観音の事なり矣。https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjcwoqTr5OEAxX9r1YBHXsOCK4QFnoECBUQAQ&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2F41908b2ada1147a5d130403d86e24071&usg=AOvVaw3H1rvehHDvQd8L_zDwbBoV&opi=89978449
又手は引導の便宜、眼は悲生の智見なり。然るに今千手観音の尊容に在る處の手は四十手なり。千手観音經の意(「千光眼觀自在菩薩祕密法經 」 「菩薩於身上 具足四十手」)。或が云、千手の中四十二手のみに持物あり、自餘の御手は施無畏の印なり。此の施無畏の印手に傳あり。明師に尋ねて印結を聞くべし、千手の意委しくは下に至りて説くべし。
次に千手観音の利益多き中に、西國三番紀州粉河寺千手観音菩薩は寶亀元年770年大伴孔子古(おおとものくじこ)が開基也。
古老傳へて云く、紀州に猟者あり、大伴孔子古と名く。常に山谷に住み身を樹上に隠して夜夜鹿を窺ひて井る。或夜山中に光あり。大さ傘の如し。伴氏驚き則ち樹より降りて光る處を見んとするに、髣髴として定まらず。是の如く光を現すこと三四夜、伴氏つくつ゛くと見て則ち其の地を知る。我宿縁に非ずんば争(いかで)か瑞光に逢はむ。既に光る處に草庵を結び亦思ひけるは、佛像を得て精舎を営まん。而も幾ならずして一人の童子来たりて宿を伴氏が家に乞ふ。是を赦す。童子悦び語りて云く、主何ぞ望みなきや否や。願はくは助けて宿託の恩を報ぜん。伴氏瑞光の事を語る。我此の地に佛像を安置せんと思ふに未だ佛師を得ざる耳。童子の云く、我拙なき佛師なり。伴氏悦び、吾に二つの願あり、像を刻まば、一つは法界有情の為、二つは我が弟子奥州の國司に隨ふ道遥かなり、願はくは安穏にして古里に歸らんことを思ふ。伴氏童子を連れて庵を見するに童子の云く、我此の庵の中に於いて一七日像を刻まん。其の内来る事無れ。功畢らば我往て告げん。伴氏答て去る。童子庵に入り戸を閉る。第八の暁に至りて門を扣く聲を聞く。伴氏出て見るに人なし。則ち詣でてみれば金色の観世音菩薩の像在す。而も童子を見ず。伴氏悦び怪しみをなして是より弓矢を捨てて像に仕へて修行す。其の後、河内國澁河郡佐大夫といふ者の一子煩ふ。萬医手を拱(たんだく)す。一日童子舎に来たり大夫子の病を語る。童子の云く、我試みに是を呪せん。即ち大悲陀羅尼(
のうぼう。あらたんのうたらやあや。のうまくありや。ばろきていじんばらや。ぼうじさとばや。まかさとばや。まかきゃろにきゃや。おん。さらばらばえいしゅ。たらだきゃらや。たすめい。のうばそきりたば。いまんありや。ばろきていじんばら。たばにらけんた。のうまくきりだや。まばりたいしゃみ。さらばあらたさだなん。しゅばんあぜいえん。さらばぶたなん。ばばまらぎゃびしゅだかん。たにゃた。おんあろけい。
あろうきゃまち。ろうきゃちきゃらんてい。ちい。ちい。かれい。まかぼうじさとば。さんまらさんまら。きりだや。くろくろ。きゃらまん。さだやさだや。どろどろ。びじゃえんてい。まかばじゃやえんてい。だらだり。んどれしゅばら。しゃらしゃら。あまら。びまら。あまらぶくてい。えいけいき。ろけしゅばら。らがびし。びなしゃや。どべいしゃびしゃ。びなしゃや。もうかしゃらびしゃ。びなしゃや。ころころ。まらころかれい。はんどまなば。さらさら。しりしり。そろそろ。ぼうじやぼうじや。ぼうだやぼうだや。まいとりや。にらかけんた。きゃましゃ。だらしゃなん。はらからだまやな。そわか。しつだや。そわか。まかしつだや。そわか。しつだゆけい。しゅばらや。そわか。にらけんたや。そわか。ばらかぶきゃ。そわか。ぶきゃや。そわか。はまかしつだや。そわか。しゃきゃらあしつだや。そわか。 はんどまかさたや。そわか。しゃぎゃらゆくたや。そわか。しょうきゃしゃぶたねい。ぼうだのうや。そわか。まからくただらや。そわか。ばまそけんたじしゃしちたきりしっだじなや。そわか。びぎゃらしゃらまにばさなや。そわか。
のうぼう。あらたんのう。たらやあや。のうぼうありや。ばろきてい。じんばらや。そわか。しっしゃじんとう。まんたらばだや。そわか。)を呪するに病立處に平癒す。父母悦び童子に賂す。童子受けず、一の箸筒を取りて出る。大夫門に送りて云く、恩意深し住所何の處ぞ、數々音問を通ぜん。童子の云く、我は紀州那賀郡風市村粉河寺に住むと談り畢って見へず。いく程なく大夫妻子を連れて彼に至る。風市村を尋ぬるに粉河寺といふ物なし。帰り見れば片原に一つの澗あり。東西に渡る流れに添て下れば河水甚だ白し。林中を見れば一宇あり。戸を閉じて人なし。是尋る處と思ひ日すでに暮方になれば戸を開いて中に入る。火燭なし。像を見ずと雖も其の御寺なることを以て、花をつみ机に置くのみ。衆人共に眠る中像の前燈火自然に火を轉ず。堂内赫煜(かくいく)たり。大夫驚き是を見るに千手観音在す。近く見れば童子の取る處の箸筒、施無畏の臂に縣りたり。即ち童子此の像の應化なることを知りぬ、禮拝して普く四来に告ぐる。爰に絲郡(伊都郡のこと)渋田村の富める寡、此の事を聞き住宅を捨て精舎を改め、然してより霊應日々にあらたなり。故に西國三番目に安坐し玉へり。
歌に「父母の恵みも深き 粉河寺 佛の誓ひ頼敷哉」
私に云く、歌の上の五文字は粉河と云はむ枕言なり。歌の下の句は註せざるに聞へたり。此の歌の裏を案ずるに謂く、父母とは凡そ與へて是を云はば、彌陀釈迦二尊を指すなるべき歟。故に普門品に云ふ、諸の方處に應じて弘誓の深きこと海の如し云々。歌の下の句に佛の誓といふにかけてみるべし。又法華経に云ふ、三界の中の衆生は悉く吾が子也と説き玉ふ(法華経譬喩品「今此の三界は皆これ我が有なり、その中の衆生は悉くこれ吾が子なり、而も今この所は諸の患難多し、ただ我れ一人のみ能く救護をなす」)。或經に云ふ、彌陀は一切衆生の悲母也と(拾遺黒谷上人語燈録「彌陀悲母ノ御心サシフカクシテ。名號ノ利劍ヲモチテ生死ノキツナヲキリ」)。善導の釋(玄義分)に云く、仰惟(あおぎおもんみれば)釈迦(父也)此方より發遣、彌陀(母也)即ち彼の國より来迎し玉ふ。彼喚び此に遣る、豈に去らざるべけんや矣。今の歌と佛教と合して曲しく講ずべし已上(觀經玄義分卷第一(沙門善導集記)「仰惟釋迦此方發遣。彌陀即彼國來迎。彼喚此遣。豈容不去也。唯可勤心奉法畢命爲期。捨此穢身。即證彼法性之常樂」)。
古今の歌に
「父母の親の守りと合ひ添ふる 心計りは関と留めそ」(「小野千古が陸奥介にまかりける時に、母のよめる. たらちねの 親のまもりと あひそふる 心ばかりは せきなとどめそ. (巻第八離別歌368)」)
又神代の巻の歌に
「父母(かぞいろ)は何に哀れと思ふらん 三歳(みとせ)になりぬ 足立たずして」
(日本書紀 巻第一 神代上「次生蛭兒。雖已三歲、脚猶不立、故載之於天磐櫲樟船而順風放棄」とあるのを受けて、『和漢朗詠集』下 697 に大江朝綱「かそいろはいかにあはれとおもふらんみとせになりぬあしたたすして」)已上。西國の歌に引き合うべし矣。