菅原道真公は承和12年6月25日(845年8月1日)生まれ - 延喜3年2月25日(903年3月26日)薨去。平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を現出、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平の讒訴で大宰府へ流され現地で没。死後天変地異が多発したことから、天満天神として信仰される。現在は学問の神として親しまれる。道真公が平素観世音菩薩を信仰されていたことから本地仏は十一面観音菩薩。天満大自在天神、大威徳天神、日本太政威徳天、火雷天神、天満宮天神といい、忌日祭を梅花祭という。
「神道集」巻第には、「北野天神事。大江匡衡が種々の供物・色々の御幣奉らる。 奏状に云く、 そもそも右天満大自在天神、あるいは塩梅として天下に於いて一人を輔導し、あるいは天上に於いて万民を照臨す、就中文道の大祖、風月の本主なり、翰林の人尤も夙夜に勤労すべし と書きたり。その夜の夢に匡衡の見たりけるは、天神の御殿の扉を押し開けて、何れも心肝に染み覚えん、そもそも日月天上の句は、神ならでは何か推すべき、既に汝は神に通ず、我はこれ本地は十一面観音なり、極楽にては称して無量寿と為し、娑婆にては北野天神と示現す、観音に於いて六観音在す、かく夢見て覚めにけり。
それよりして北野天神をは、本地十一面観音とは知りたてまつりける。
その六観音とは、千手観音をはまたは大慈観音と云ひ、地獄道を利益し給ふ。
請観音をはまた大悲観音と云ひ、餓鬼道を利益し給ふ。
馬頭観音をはまた獅子無畏観世音と云ひ、畜生道を利益し給ふ。
十一面観音をはまた大光普照観世音と云ひ、修羅道を利益し給ふ。
准胝観音をはまた天人丈夫観世音と云ひ、人道を利益し給ふ。
如意輪観音をはまた大梵深遠観世音と云ひ、天道を利益し給ふ。
その中に我はこれ本地十一面観音なれば、修羅道の難を払はんと云ふ願深し。 極楽にては阿弥陀と称して、娑婆にては北野天神と示現し給ふとて、夢覚めぬ。
それよりして北野天神をは観音の垂迹と知り奉けり。」とあり。
数々の霊験をお示しになっています。
・延命十句観音経霊験記には「京都三条通の町家に住む男が難病の妻の快復を願い、毎夜北野天神に丑の刻参りをした。七日目の満願の夜、現れた老僧に十句観音経を授けられ家に帰ってみると、家族中が病人を囲んで声高に延命十句観音経を誦経をしており、老僧が現れてこの経を二三十篇読めば霊験が現れるといったという。ようにすすめられたという。悦び勇んでみなで読誦を続けると、夕方頃から次第に妻の体は快復へと向かっていったという。
・塙保己一史料館によると「34歳で 『群書類従』の出版を決心し、天満宮に祈願する。以後千日間、毎日『般若心経』百巻を読んで、『群書類従』の完成を期す。」とあります。
・文京区作成の旧湯島三組町の町名紹介掲示板には「新渡戸稲造は、数えの9歳で叔父の養子となり上京、翌年旧南部藩の脇慣義塾(三組町105番地)に寄宿した。近くの湯島天神に兄の病気の全快を祈って水垢離をとった。けなげな稲造を見て神官が声を掛け、説教会に呼んだ。『自分自身が光明で自分の信ずる道を進め』という教えは、一生の指針となった。」とある。
・当方も谷保天神様にお参りしていますが、数々の不思議な霊験をいただいています。
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