福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

宇宙の命、大峰顕師

2018-05-04 | 法話
有本:  先生のお考えの宇宙、或いは宗教のいう宇宙というのはどういう宇宙なんでございますか。

 

大峯:  これはやっぱり今日では、「宇宙」と言えば、やっぱり自然科学、宇宙物理学がいうような〈自然科学的な宇宙〉だと。これはそう思われるのも自然なことで、要するに、〈時間空間というものの物質的なことを言っている〉わけですね。〈物質的なものを宇宙〉と言っておりますが、私だけでなしに、哲学の概念の上で、宇宙という時にはそれも入りますね。自然科学的な物質の体系も入って来ますけども、それはそういうものもその中にあるような、つまり〈歴史も自然も時間も空間もその中にある〉ような、そういう〈無限者のことをこれを宇宙〉というわけです。だから、〈無限のもの〉と言ったらよろしいんですね。こういうことを哲学の世界で言った人は、ヨーロッパでは十九世紀の初めに宗教論を書いたフリードリヒ・シュライエルマッハー博士です。これは近代プロテスタントの祖と言われる。彼が、

 

     宗教は宇宙を感じることだ。

 

と言ったんです。

 

     宇宙という無限者の中に、
     我々は全部無限の働きによって働かれて生きている。
     我々はどんな力のあるものでもないものでも、
     宇宙の働きに任せて来ているんだという。
     そのことを感じることが宗教だ

 

と言ったんです。〈宗教は別に神様がこの世界を創造したことを信じるとか、或いは自分が罪人であって、それを悔い改めて天国に生まれ、そんなことじゃない〉。そういう教義じゃない。キリスト者であろうがなかろうが、無神論者であろうが、唯物論者であろうが、〈全て無限の中にしかおることが出来ない〉。だから、〈全ての有限なものは無限の中に抱かれておる〉という。無限の中に位置しているわけで、その無限者を我々は普段忘れているわけですけれども、ある意味ではしかし直接にみんな知っている筈だと言うんですね。無限の中にあると神は。その無限の「宇宙直観」。「宇宙直観」というのは〈宇宙の方が我々の方に働きかけてあるもの〉〈その我々は全く宇宙に中に出たら、全く無力であり、一人の赤ん坊のような状態として宇宙に抱かれている〉んだという、その〈感じが宗教〉という。「宗教をもっている」というのは、その〈直観をもっている人〉だとこう言っている。そこに私がほぼ使う宇宙も大体シュライエルマッハー氏が言ったような、決して〈自然科学的宇宙でなくて、無限のこと〉ですね。その〈無限の中に我々のいのちがある〉ということを、詩に上手に表現した井上靖さんの詩がありますので、ちょっとそれ引用致しますと、『地中海』という井上さんの詩集の中に出てくる「アスナロウ」という題の詩ですね。これ初めはちょっと説明ですが、

彼は下北半島のアスナロウの林をジープで走ったことがあったと言うんですね。夕方から雪になって、吹雪になったと。同行していた森林管理人がアスナロウという木の交配がこのような吹雪の中で行われるということを教えてくれたというんですね。そこから彼の詩ですが、ちょっと読んで見ます。

 

     私は昼間通り抜けた
     鬱蒼(うっそう)たる大原始林が

     雪に降り込められているさまを

     目に浮かべながら、

     絶えてない解放された思いに打たれた。

     そこでは生と死は

     スポーツのように軽快であった。

     どうしてこのようなことに

     気付かなかったのか。

     太古(たいこ)から死は

     まさしく吹雪のように

     空間を充満して来るものであったし、

     その中に於て、

     生はアスナロウの花粉のように

     烈しく飛び交うもの以外の

     何ものでもなかった筈だ

       (井上靖『アスナロウ』より)

 

こういう詩なんですけれども。ここに私の言う〈宇宙の中における自分の存在の知覚というものが宗教だ〉と。そういうふうに言ったシュライエルマッハー博士の思想がリアルに出ているんじゃないかと思いますね。吹雪の空間、真っ暗な寒中、死以外のなにものでもない。その無限の寒い空間の中に吹雪が飛び交っている。その中にアスナロウの生の証(あかし)が、交配が行われておると。つまり、〈我々の生はいつも死と一緒にあるんだ〉ということですね。そこには少しも深刻ぶったことがない。〈生と死はなんか花粉と吹雪が戯れ合うような、そういう実に軽快なものであった〉と。そんなことを私はどうして今まで気付かずに、死を重苦しいものと考えておったのかと。そういうことを彼はここで言っているわけですね。だから、〈生は死の真っ直中にあるということが、我々の存在が宇宙の中にある〉という。そういうことだと思うんですね。もっと別な例で言うと、例えば、我々は親しい、例えば、自分の妻とか、子供とかが一緒に生きている時は別にそれを感じないが、突然妻に死なれるとか、そういうことが起こって、オロオロする旦那さん、彼は宇宙の中に自分がいるんだということを経験したわけですよ。今まで別に平気でおる時は、それはそうじゃないんだけど、突然愛するものに死なれて、どうしていいか分からんという。その時に初めて、我々はおるところは何かよく分かったような、何もかも全部自分の慣れた、そういう世界じゃなくて、未知の広大な空間の中だということを。やっぱり妻に死なれてオロオロする。どうしていいか分からなくなるような、或いは子供に死なれて、親がそういう非常な悲しみを持つ時に、やっぱりそういう彼の経験が、やっぱり我々の存在を、みなやっぱり無限の中にあるという、そのことだと思うんですね。ちょっと分かり難いかも知りませんけども、そういうことが平生はみんな有限の中におると思っておるわけですよ。だから、〈死が入って来て、初めて我々は有限の中にあるんじゃなくて、無限の中にあるんだ〉ということが分かると思いますね。〈死はやっぱり我々に無限を教える〉わけですね。例えば、死んだ人は生き返ってこないということは、死んだ人は、そういう世界へ行っちゃったということですね。〈時間空間を超えた世界へ行ってしまった〉ということですから。まあそういうわけで、死ということが一番我々を宗教に入り易い。入れるこの一番チャンスなんで、昔からみんなやっぱり肉親との死別を通して、仏教に入るということがあったわけですね。けれども、現代では今言ったことが、暫くの間は、一瞬はそう思っても、また何か宇宙というものが閉じられてしまって、またやっぱり何事もなかったような平素の世界に戻ってしまって、故(もと)の木阿弥(もくあみ)になるということが、ほとんどの場合のようですね。けれども、少なくともそっちの方が何ともないんだということが、やっぱり我々の本当のいのちの姿ではないと思うんです。だから、何とかしてそういう〈無限の中にあるところの私の短いいのち〉だということを気付くような、そういう何か言葉が、今我々はそういう言葉を聞いたり、言ったりすることも必要なんですね。まあそれは本当の宗教の役割なんですけれどもね。でも、近頃は、宗教家の言葉も、今言ったようなことを喚起させる力が、だんだん少なくなってしまっているように思います。〈いのちが無限の中にある〉ということを、言い換えますと、〈私は死んで、私というものを決して終わるものでない〉ということなんですね。そのことを言ったのが、中国の善導(ぜんどう)という中国浄土教のお坊さんですね。善導大師の言葉がありますので、ちょっとそれを引用致しますけれども。これは我々の存在に対する、自己というものの存在に対する非常に深い目覚めのことを書いた文章ですね。我々は自分と呼んでいる。個人と言っている。この個人が、我々が普通思っているような死んで終わりという。生まれて初めて現れて、墓場に行ったら消えてしまうという、そういうものでないということを言った文章ですね。こういう文章です。

 

     一つには、決定(けつじょう)して深く、
     自身は現(げん)にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、
     曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(ぼっ)し、
     つねに流転(るてん)して、出離(しゅつり)の縁あることなしと信ず。

          (善導大師『観経疏』より)

 

「自身」というのは〈自己〉という、〈自分〉と言ってもいいですね。この〈自己の正体は何か〉という。これは人間であるとか、或いは職業を持った社長であるとか、校長であるとか、或いは政治家であるとか、男であるとか、女であるとか、父親であるとか、孫であるとか、そういうことじゃなくて、「罪悪生死の凡夫」罪悪生死の凡夫というのは、〈真理というものに出会うことの出来ない、迷える存在〉ということですね。それは「曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して出離の縁あることなし」ということは、〈永遠の過去から迷いに迷っている〉と言うんですね。〈何回も生まれては死に、死んではまた生まれるという、そういう生死流転を無限に繰り返して来て、今ここにおる。これが自分というものの正体だ〉と。こういう具合に言っているわけです。これを私は〈宇宙の中の自己〉だと言うんです。〈社会の中の自己〉じゃありません。社会の中の自己は生まれて初めて出て、〈死んだらお終い〉ですね。それで終わっちゃう。社会から出ることですから。死ぬということは。だから、社会の中におる間は、それはその社会的連環の中の自分だけが問題になっているわけですね。みなこれは、社会的自己というのは我々が着ている着物みたいなものだと思うんですね。その自己がやっぱり宗教が問題にしている自己なんで、これ仏によって救われる以外にどうにもならない自己ですけれども、善導大師は、いま阿弥陀如来の本願に会うまでは、どれだけ長く迷いに迷って来たことか、ということを言っているわけですね。これはやっぱり宇宙の中の自己のことであって、決して生きている間の社会の連環の中にある自己のことでありません。でもこれ、やっぱり現代は非常に分かり難くなっていると思います。この善導大師の言葉さえ、空想のように聞く人がほとんどですね。ちょっとよく分からんと。何のことを言っているのか、よく分からんという人が非常に多いと思いますが。けど、分からないんじゃなくて、よく仏法というものを探求していったら、そのことが真理だということが必ず分かるわけでありますね。これはいわば宇宙の中にある否定面を言っているわけです。つまり、〈無限の宇宙の中にあって、輪廻(りんね)を繰り返しておる絶望的な存在〉、まあ、宇宙の中を孤独な一人の旅をしている、孤独な魂のことですね。だから、現代の人間はもっと〈安らかに生きるということが出来る為には、その個体主義を突破しなければならない〉んですね。個体主義、いのちが個体の中にあるものだけじゃないと。むしろ個体のいのちは、いのちの海のようなものの中に浮かんでいるんだという、そういういのちの見方の方へ出ることが宗教でありますね。宗教はそういうものであって、特に仏教で「阿弥陀如来」と言っているのは、〈無限のいのち〉のことなんです。無限のいのち、そのもののことなんですよ。「無量寿如来」というのは、これは〈無限のいのち〉ということですね。〈無限のいのちを持った如来〉というふうに解釈しますと、如来と仏といのちが別のようになりますからね。ちょっと分かり難いわけですね。けども、「南無阿弥陀仏」というのは、〈無限のいのち、無限の光〉ということでありますから、〈無限のいのち、そのもののことを仏と、如来〉とこういう具合に言っているわけですね。〈それに生かされている〉ということが分かると言いますかね。それが宗教ですね。だから、〈生きることの原点を個体に置かないで、普遍の方に置く〉。大きな方に置く。大きな方から個体を見ると言いますかね、我々はみな個体から大きなものをどうしても見るわけですが、そうじゃなくて、それは何故かと言いますと、〈個体というものへのしがみつき、執着〉というものがあるからどうしてもそうなるんだけれども、その〈個体に対する執着を捨てられて、大きな方から自分のところを見る〉と。まあこんな譬え、どうか知りませんが、海原と、一つ一つの波頭のようなものとの関係ですね。一つ一つの波なんていうものは海の上でなかったらないわけですね。それは絶えず生まれたり消えたりしているわけで、その一々の波頭(なみがしら)が大きな海の一部だという、そういうふうに見られて来ると言いますか、「南無阿弥陀仏」とか、「帰命無碍光如来(きみょうむげこうにょらい)」とかというのは、みんなそういう〈小さないのちが大きな如来のいのちの中に生かされておる〉という、そのことを言っているわけですね。それはどうしたらそういう立場に出られるか。これは具体的に言ったら、それはやっぱりそういう〈真理を言っている言葉に、つまり仏教を聞かなければなりません〉ね。聞くということは、何も話しを聞くということだけじゃなくて、書かれたものを読むとか、そういういろんな場合があると思いますが、兎に角、何もしないでそういう個体主義を破れるとは私は思いませんがね。何も努力も何もしないで、それが出られると思いません。その為にはやっぱり死にたくないという思いを痛切に持たないと、やっぱりそんな話し聞こうという気にはならないですよね。その為にはやっぱり一番身近には、やっぱり肉親、親しい人の死に出会って、悩み苦しみ悲しむという、そういうことがあって初めて出来るんだと。平和の生活をしておってなかなかそうはならない。そうすると、現代という状況は非常にそれが難しくなっていると言えますね。なかなかやっぱり大きな普遍のいのちに貫かれている私のいのちだという。そういう平和なところへなかなか出にくくなっておるということは事実です。それでも、それにも関わらず、その現代人の考え方は、やっぱり地獄だと私は思っております。
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