第三章 さとりの心
第一節 清らかな心
三、もともとすべてのひとびとが、はじめも知れぬ昔から、煩悩の好意に縛られて、迷いを重ねているのは、二つのもとを知らないからである。
一つには生死のもとである迷いの心を、じこの本性とおもっていること。二つには、さとりの本性である清浄な心が、迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上にそなわっていることをしらないことである。
拳をかためて肱をあげると、目はこれを見て、心はこのことを知る。しかし、その知る心は、真実の心ではない。
はからいの心は欲から起こり、自分の都合をはからうこころであり、縁に触れて起こるこころであって、真実の本体のない、移り変わる心である。この心を実体があると思うところに、迷いの心が起こる。
次にその拳を開くと、心は拳のあいたことを知る。動くものは手であろうか、心であろうか、それともそのいずれでもないのか。
手が動けば心も動き、また、心の動きにつれてても動く。
第一節 清らかな心
三、もともとすべてのひとびとが、はじめも知れぬ昔から、煩悩の好意に縛られて、迷いを重ねているのは、二つのもとを知らないからである。
一つには生死のもとである迷いの心を、じこの本性とおもっていること。二つには、さとりの本性である清浄な心が、迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上にそなわっていることをしらないことである。
拳をかためて肱をあげると、目はこれを見て、心はこのことを知る。しかし、その知る心は、真実の心ではない。
はからいの心は欲から起こり、自分の都合をはからうこころであり、縁に触れて起こるこころであって、真実の本体のない、移り変わる心である。この心を実体があると思うところに、迷いの心が起こる。
次にその拳を開くと、心は拳のあいたことを知る。動くものは手であろうか、心であろうか、それともそのいずれでもないのか。
手が動けば心も動き、また、心の動きにつれてても動く。