福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

井筒俊彦の大師論その4

2013-11-27 | 法話
真言密教の法身に当るものを、東洋のほかの宗教伝統では神、または神に相当するものとして表象する。神がコトバで世界を創造したという思想は、『旧約聖書』の「創世記」をはじめ、その他いろいろな民族の宇宙生成神話によく見られる考え方で、それほど珍しくないが、神(あるいは神に相当するもの)がコトバであるというのは、かなり特異な考え方である。ヒンドゥー教の聖音「オーム」崇拝はその典型的な一例。また、もっと一般的に、古代インドでは、『ヴェーダ』時代、早くも「コトバ」(ヴァーチュ、vāc)を形而上的最高原理とする思想が明瞭な形で現れており、経験的世界を超越しながら、全経験世界の根源――つまり、万有を生み、万有に遍在し、万有の存在性を保持する究極的存在エネルギー――としてコトバが至高の位置の占めている。
<略>
 構造的にこれと全く同じ型の言語観は、インド以外にも、例えばユダヤ教やイスラームのように、真言密教と歴史的関係の全くないセム系統の一神教のなかに、著しく真言密教の言語哲学に近い形で現れる。東洋思想の一つの普遍的な思想パターンとして、真言密教の理解に資するところ大であると思うので、以下、やや詳しく論述しておきたい。


 先ずイスラームの場合、イスラームの特徴的な思想の一局面として、「文字神秘主義」または「文字象徴主義」の名称で世に知られた言語・存在論がある。英語では、よくletter symbolismなどというが、原語ではḥurūfīyahという。前半のḥurūfはḥarfの複数形で、「文字」とか「アルファベット」の意。後半のīyahは何々「主義」という意味。合わせてḥurūfīyahは、大体、「文字主義」、あるいは「文字絶対主義」とでも訳すのが適当だと思う。とにかく、これは八世紀、イスラームの歴史としては比較的初期、イランの北方に現れた一人のきわめて独創的な思想家、ファズル・ッ・ラー(Faḍlullāh 740~795)が興した学派である。時、あたかも蒙古侵入の時代に当り、始祖ファズル・ッ・ラーは、モンゴル朝の支配者、帖木児(チムール)の息子ミーラーンシャーに捕らえられ、異端者として処刑された。胴体は猛犬に咬み裂かれ、首はドブに投げ込まれるという悲惨な最期だったが、彼の思想は強力な思想潮流となって、その後も長くイスラーム思想界を騒然ならしめた。彼を信奉する人々は、彼を神として崇めたのであった。
 ファズル・ッ・ラーの所説は、およそ次の通りである。万物が存在し、我々自身が存在しているこの世界、我々が物質界と呼んでいる世界、は四つの元素から構成されている。四つの元素とは、地・水・火・風であって、真言の「四大」に当る。もっとも、空海はこれに「空」を加えて「五大」とし、それにさらに「識」を加えて「六大」とするが、視野を四大に限っても、普通、顕教が物質的な要素とする地・水・火・風を、空海は法身の「徳」、すなわちそれぞれ法身大日如来の特殊な存在エネルギーの表れと考え、決して純粋に物質的世界の純粋に物質的な構成要素とは考えない。それと同じくファズル・ッ・ラーにとっても、地・水・火・風は「神の声」であって、純物質的な元素ではなかった。
 ファズル・ッ・ラーによれば、力動的に働いてやまぬ四元素が触れ合い、ぶつかり合うとき、その衝撃で響を発する。響は、すなわち、四元素の「声」であるという。四元素が、動いても互いにぶつかり合わなければ、「声」は発出しない。と、いうことは、ただ「声」が実際に我々の耳には聞こえないということにすぎないのであって、実は元素間に衝突が起らなくとも、「声」はいつでも現に起っている。この万物の響、万物の「声」こそ、ほかならぬ神のコトバなのである、と。前に引用した空海の「内外の風気、纔かに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」とか、同じく『声字実相義』で、「四大相触れて、音響必ず応ずるを名づけて声という」などの言葉を髣髴とさせる。
 この「声」の究極的源泉を、空海のように大日如来と呼んでも、ファズル・ッ・ラーのように神(アッラー)と呼んでも、もうここまで来れば、まったく同じことだ。とにかく、ファズル・ッ・ラーにとっては、いわゆる物質は、実はすべて神の声であり、神のコトバなのである。
<略>
 神が、わずかに、自己顕現的に動く時、そこにコトバが現れる。但し、コトバとはいっても、神の自己顕現のこの初段階では、我々が知っているような普通のコトバではない。一種の根源言語、つまりまだ何の限定も受けていない、全く無記的なコトバ、無相のコトバ、それが、次の第二段階で、はじめてアラビア文字、三十二個のアルファベットに分化する(アラビア語本来のアルファベットは28文字だが、ペルシャ語に入ると4文字加わって32文字となる)。もっとも、そのアラビア文字も、この段階ではまだ純粋に神的事態であり、神の内部に現れる根源文字なのであって、人間はこれを目で見ることはできないし、その字音は人間の耳には聞こえない。人間の耳に聞こえないままに、このアルファベットは全宇宙に遍満し、あらゆる存在者の存在の第一原理として機能する。
 ところで、この宇宙的根源アルファベットは、それ自体では、まだ何の意味を表さない。つまり、無意味である。無意味であるということは、具体的存在性のレベルには達していないということだ。有意味的なもののみが存在であり得るのだから、コトバが有意味的であるためには、何らかの「もの」の名でなくてはならない。「声発って虚しからず、必ず物の名を表わすを号して字というなり」という空海のコトバが憶い合わされる。
<略>
 こうして、ファズル・ッ・ラーの文字神秘主義的世界においては、すべては文字であり、文字の組合わせである。この広い世界、隅から隅まで、どこを見ても、人はただアラビア文字アルファベットの様々な組み合わせを見る。これ以外には何もない。存在世界は一つの巨大な神的エクリチュールの拡がりなのである。
要するに、ファズル・ッ・ラーは、アルファベットを、絶対的コトバ、宇宙的根源語としての神の創造的エネルギーが、四方八方に溢出しつつ、至るところに存在形象を呼び出してくる呼び声と見るのだ。この神的コトバの呼び声の力は、その源泉から遥か遠くに距って、かすかに響くにすぎない周辺地帯、すなわち我々の日常的現実の世界、にも波及して、そこに見出されるすべての事物事象の末端にまで行きわたっている。
<略>
 ファズル・ッ・ラーの文字神秘主義と空海の真言密教。細部的には、勿論、数々の著しい相違点がある。しかし、東洋哲学全体という広い見地に立って見る時、両者がきわめて特徴ある同一の思考パターンに属し、そのパターンを二つの相互に全く異なる宗教文化的枠組みのなかに具現していることを、我々は知るべきである。そしてこの点では、ユダヤ教のカッパーラーもまた同様である。
 ファズル・ッ・ラーの場合とは違って、カッパーリストたちは、神をそのままコトバであるとはいわない。彼らにとって、神は絶対的超越者なのであって、それがコトバであるか、何であるか、などということは人間の知り得るところではない。ただ、神の無底の深みに創造の思いが起る、すると、この最も内密な、ひそやかな創造への意志が、その場でたちまちコトバになるのだ、という。
 神の無底の深みから湧き出てくるこのコトバは、声ではあるが音ではない。この無音の声は、もう一度展開すると、響となって神の外に発出する。だが、この響は、この段階では、まだ全く無分節である。だが次に、この根源的な無分節の響は、自己分節して二十二個のヘブライ文字となり、さらには進んでこれらのアルファベットは互いに様々に組み合わされて物象化し、そこからいわば下に向って層一層と感覚性の濃度を増しながら様々に凝結し、かくて次第に全被造界を形成していく。上は至高天使から下は物質界に至る存在世界現出のこのプロセスは、終始一貫して神の創造的コトバの自己顕現のプロセスにほかならない。
<略>
 神がコトバを語るから、世界が存在する。神がコトバを語り続けるから、世界が存在し続ける、という。ここでもまた、真言密教に著しく接近した言語・存在論に人は出会う。


 この時点で真言密教に立ち返り、前に簡単に触れておいた「法身説法」の意味するところを、あらためて言語哲学的に考えてみよう。「法身説法」――法身大日如来が説法する、コトバを語る、ということ。それは一体、何を意味するのか。
<略>
 永遠に、不断に、大日如来はコトバを語る、そのコトバは真言。真言は全宇宙を舞台として繰りひろげられる壮大な根源語のドラマ。そして、それがそのまま存在世界現出のドラマでもある。真言の哲学的世界像がそこに成立する。
 大日如来の「説法」として形象化されるこの宇宙的根源語の作動には、原因もなく理由もない。いつどこで始まるということもなく、いつどこで終るということもない。金剛界マンダラが典型的な形で視覚化しているように、終わると見れば、すぐそのまま、新しい始まりとなる永遠の円環運動だ。しかし、この永遠の円環運動には、それが発出する原点が、構造的に――時間的にではなく――ある。それが阿字(ア音)。すなわち、梵語アルファベットの第一字音である阿字が、大日如来のコトバの、無時間的原点をなす。
 阿字が梵語アルファベットの第一字であるということが、それ自体ですでに絶対的始源性の象徴的表示ではあるが、そればかりでなく、「人が口を開いて呼ぶ時に、必ずそこに阿の声がある」と言われているように、ア音はすべての発声の始め、すべてのコトバの開始点、一切のコトバ的現象に内在する声の本体である。
 ただ、ここで特に注意しなければならないのは、人が「口を開いて呼ぶ」際のア音発生の構造的瞬間には、ア音はまだ何ら特定の意味をもってはいないということ、言葉を換えて言えば、まだ特定のシニフィエと結ばれていない純粋シニフィアンだ、ということである。
<略>
 ア音に後からいろいろな意味をつけることは、勿論、できる。事実、真言密教の教学は、その史的発展のプロセスにおいて、度々そういう意味づけを試みてきた。例えば、『大日経疏』(巻七)の一節は、阿字に三義ありとしている。三義、すなわち、三つの根源的な意味がある、というのだ。一に「(本)不生」、二に「空」、三に「有」。だが、この種の意味づけは、すべて後でなされた解釈学的テクスト「読み」であって、記号学のいうシニフィエとしての「意味」ではない。
 「阿の声は阿の名を呼ぶ」。いま私が問題としている極限的境位でのア音は、「阿の名」が呼び出される以前の純粋無雑な「阿の声」なのであって、この透明な自体性におけるア音は、すでに「名」となったアとは、構造的に区別されなければならない。アという「声」がアという「名」になってはじめて、そこに意味、すなわちシニフィエを考えることができるのである。もっとも、密教的コンテクストにおけるア音は、それが「名」となってからでも、これがア音の意味であるという形で、一つの特定なシニフィエを指定することはできない。
<略>
 こうして、真言密教の、あるいは空海の、構想する言語・存在論的世界展開のプロセスにおいては、未だ何らのシニフィエにも伴われない無辺無際の宇宙的ア音という絶対シニフィアンからすべてが始まる。この絶対シニフィアンの出現とともにコトバが始まり、コトバが始まるまさにそのところに、意識と存在の原点が置かれる。そして、この世界現出の末端的領域をなす人間の日常的言語意識は、それと同じプロセスを、人間的規模において繰り返す。
人がアーと発声する。その瞬間、まだ特定の意味は全然生起していない、しかし己の口から出たこのア音を、己の耳で聞くと同時に、そこに意識があり、それとともに存在が限りない可能的展開に向って開けはじめるのだ。
 自分の口から発する言葉を、間髪を入れず自分の耳で聞きとめ、そこに直接無媒介的な「意味」の現前を捉えるというコトバの現象学的事態が、現代哲学でも重要なテーマの一つになっている。例えば、パロールにおける「意味」の現前性に関するフッサールの所説を批判するに際して、ジャック・デリダの使うs'entendre parlerの概念。しかし批判されるフッサールの「ロゴス中心主義」も、批判するデリダの「解体」も、真言密教の見地からすれば、畢竟するに「浅略釈」的論議なのであって、「深秘釈」には程遠い。
 真言密教の見所によれば、個人的人間意識のレベルに生起する意味現象は、宇宙的レベルにおける意味現象の、ほとんど取るに足らないミニチュアにすぎないのだ。宇宙的「阿字真言」のレベルでは、ア音の発出を機として自己分節の動きを起した根源語が、「ア」から「ハ」に至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール的エネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ね、それとともに、シニフィエに伴われたシニフィアンが数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至るところに「響」を起し、「名」を呼び、「もの」を生み、天地万物を生み出していく。『声字実相義』に「五大にみな響きあり」と言い、かつ空海はそれに註して「内外の五大にことごとく声響を具す。一切の音声は五大を離れず。五大はすなわち声の本体、音響はすなわち用なり。かかるが故に、五大皆有響という」と言っているように、それは地・水・火・風・空の五大ことごとくを挙げての全宇宙的言語活動であり、「六塵悉く文字なり」というように、いわゆる外的世界、内的世界に我々が認知する一切の認識対象(「もの」)はことごとく「文字」なのである。
<略>
 「存在はコトバである」という言語・存在論的命題の絶対的真理性の確信において、真言密教は、東洋哲学全体のなかで、ただひとり孤立した立場ではなかったのである。
(『意味の深みへ』(岩波書店))


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中論第二十六章 | トップ | 孫にお蔭・・その1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事