福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

亡弟子智泉の為の達嚫の文

2024-02-14 | お大師様のお言葉

亡弟子智泉の為の達嚫の文

「それ寥廓たる性虚は諸因を離れて凝然なり。飄蕩たる染海は衆縁に随ってもって起滅す。故によく一念の妄風は波濤を心壑に鼓ち、十二の因縁は生死を迷夢に化す。識幻三有の獄に構へ、色焔六趣の野に逸す。つひに無明の羅刹は亀鶴の命を斫り、異滅の旃陀は蜉蝣の体を殺す。たちまちになく、たちまちにあることすでに浮雲のごとし。たちまちに顕れたちまちに隠るること還って泡沫に似たり。天・獄の県に苦楽し、人畜の落に憂喜す。嘆くべし幻化の子。悠なるかな、悠なるかな乾城の客。ここに覚王悲しみを垂れて群迷を接誘し智臣忍に騎って衆憝(しゅうたい・愚衆)を汲引す。広く教網を投げて沈淪の魚を漉ひ、高く法羅を張って飛散の鳥をこめたり。宰するに智慧の刀をもってし、煮るに一味の鼎を以てす。三点四徳の客(法身・般若・解脱の三点と常楽我浄も四徳を体現されている如来)日夜に般楽し、不二一如の主、歳時に無為なり。無為の為、誰か敢へて思議せむ。
おもんみれば亡せし我が法化金剛子智泉は俗家には我れを舅 と謂 ひ、道 に入 ては卸 ち長子 な り。 孝心 吾 れ に事 るこ と今 に二紀(24年)。恭 敬 して法 を稟く、両部遺すこと無 し。 口密に秘なし。豈唯嗣宗(竹林の七賢人の阮籍のこと。他人の批判をしなかった)が言わざるのみならんや。怒をまた移さず、誰か顔子が弐せざることを論ぜむ。(論語に「顔子といふものあり。学を好み、怒を移さず、過を弐せず」)。斗藪と同和と、王宮と山巖と、影の如く随って離れず。股肱のごとくして相従ふ。吾飢うれば汝もまた飢う。吾楽しめば汝も共に楽しむ。いわゆる孔門の回愚、釈家の慶賢(阿難)、汝すなわちこれに当たれり。冀ふところは百年の違輪を転じて三密を長夜に驚かさんことを。豈圖 んや棺榔 を吾 が車に請 ふとは。 慟いたみあることを吾 が懐 に感 せし めんとは 。 哀哉 哀哉 、哀 中 の哀 、悲 哉悲 哉 、悲 中 の悲
なり。覚りの朝には夢虎なく、悟りの日には幻像なしというといへども、しかれども猶、夢 夜 の別 れ不覚の涙 に忍 びず。巨壑半ば渡って片檝(へんしゅう一棹のみ)たちまちに折れ、大虚未だ凌がざるに一翎(はね)たちまちに摧く。哀れなるかなまた哀れなるかな、悲しいかな悲しいかな、重ねて悲しいかな。
またそれ世諦の事法は如来すら存して破りたまはず(お釈迦様ですら世俗諦の生滅の法には従った)、真言の非印をば汝すでに授かって謬らず。一字一畫衆経を呑んで飽かず。一誦一念諸障を銷すこと難きにあらず。不生を一阿に証し、五智を鑁水に得、法界の三昧は汝久しく習得し遮那の四秘は(金大日の四智印)汝また遊泳す。月鏡を心蓮に観じ、妄薪を智火に焼く。我則金剛、我則法界、三等の真言加持の故に五相成身し、妙観智力をもって即身成仏し、即心の曼荼なり。
故に経に曰く『我覚本不生云々』また真言にいわく『曩莫三曼多没駄南阿三迷底里三迷三麼曳沙縛訶のうまくさまんだぼだなんあさんめいちりさんまえいそわか云々』かくのごときの真言、かくのごときの伽陀は法体をこの身に示し真理をこの心に表す。一たび聞けば四重・一闡提を除き、一たび誦すれば三等・四法身(身口意の三平等、自性・受用・変化・等流の四法身)を証す。汝久しくこの義を解る。吾重ねて汝為に説く。仰ぎ願わくは金剛界海三十七尊・大悲胎蔵・四種曼荼羅・入我我入の故に、六大無碍瑜伽の故に、
塵数の眷属と共に無来にして来り、海滴の分身とともにして不摂にして摂し給え。五智本有の殿を開き(智泉の霊魂をして本覚五智の仏殿に入らせ)、九尊性蓮の宮(第九識の覚り)を授けたまえ。法界を都として帝と称し、刹塵に遍して民を撫でん。有情の所摂、無明の所持、同じくこの理を悟ってすみやかに自ら大覚を証せん(無明に覆われている一切有情もこの本覚三平等を覚らんことを)。」


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