福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その1

2014-05-01 | 四国八十八所の霊験
1章 はじめに その1 記録を書き残すにあたり
 
「月日は百代の過客にしていきかふ人も旅人也、・・・予もいずれの年よりか片雲の風にさそわはれて漂泊のおもひやまず、・・・そぞろ神のものにつきて心をくるはせ道祖神のまねきにあひてとるものもてにつかず・・・」芭蕉の「奥の細道」の記述は当時の私の気持ちそのものでした。
実家が児島八十八所の札所だったことや若くして亡くなった母が熱心なお大師様信者だったことなどから四国遍路は物心ついて以来の夢でした。しかし真言僧侶でありながら俗世のしがらみに永く漬かっていたため本四国をすべてお参りする縁にはなかなかめぐまれませんでした。代わりに、御府内八十八所、多摩八十八所、関東八十八所、神島八十八所、秩父三十四観音、坂東三十三観音などをそれぞれ何度かおまいりしてきましたが還暦を前にやっと機縁が熟し、本四国をお参りできました。平成17年秋に三十三日をかけて歩き遍路成満し、18年19年と区切打で二回目の歩き遍路修行を終え、20年の閏年には逆打ち遍路を成満できました。またその後も毎年区切打ちですが四国遍路を続けることができています。これはそれらの遍路のときの有り難い出来事を子孫に残し有縁の人にも知らせたいと思い、記録を綴ることにしたものです。

本来僧侶たるもの書き物などに時間を費やすよりも修行第一であるべきことはかの慈雲尊者の御母君が

「ことを省き、縁をしりぞけ、日夜座禅修行を御心がけみずから生死を解脱して、この解脱をもって人をも利益なされわが身も善処へご誘引候へかし」

と尊者に書き送られているとおりです。しかしお遍路を薦めていただいたN老尼から「有難いお蔭を頂いた以上記録し仏縁を広める契機にすべきである」との指摘を受け、恥を忍んでここに書き残すことと致しました。 (そして有縁の方にこの本をさしあげると時々見知らぬ方から電話がかかってきて「有難い気持ちになる」という感想を頂くようになりました。やはり恥を忍んで書いておいてよかったと思うこのごろです。)



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