福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言句義釈 (明恵上人)

2019-06-25 | 諸経
不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言句義釈 (明恵上人)

ひそかに釈家の意を案ずるに、如来の密語に二の意趣あり。可釈の義と、不可釈の義となり。初めは機縁に応ずるが故に無量甚深の義理の中に、略して一分を出さしめ、人をして恵解を生ぜしむ。後にはこれ如来の密語なるがゆえに思議の境界に非ず、ただ仰言を生じてこれを持念すべし。
いま、初門について多含の一義を出して、いささか持者の信心を勧む。願わくは佛恵の光明を挑けて無明の長夜を破せん。
時にこれ、貞応元年四月十九日持念沙門高弁集
「真言にいわく
「おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや
うん(梵字)」
釈していわく。「おん(梵字・・以下同じ)」とは、一切の真言の母なり。「あ、う、ま、あ(梵字)」の四字合成にして、三身具足する義等はつねに説かれるが如し。
「あ、ぼ、きゃ(梵字)」「べいろしゃのう(梵字)」「まか(梵字)」「ぼだら(梵字)」とは不空毘盧遮那仏大印なり。これすなわち毘盧遮那如来之不空大印なり。即ち「まに、はんどま、じんばら(梵字)」とはこれ。まず「まに」とはこれ摩尼珠なり。すなわち一切如来の福徳聚門なり。即ち下の大智大悲所生の功徳なり。「はんどま」とはこれ蓮華なり。即ち一切如来の法身なり。これ大悲なり。「じんばら」とはこれ光明なり。すなわち一切如来の大智恵なり。上の三種はこれ不空大印の体なり。
また「あぼきゃ」「べいろしゃのう」とはこれ法界体性智、毘盧遮那如来なり。法界体性智をもって不空の徳となす。「まか」「ぼだら」とは大円鏡智なり。よく法界智をもって所依となして三十七尊(金剛界曼荼羅の成身会のうちに配された大日如来をはじめとする三七の仏・菩薩のこと)等の塵数の海会を印現するなり。つぎに「まに」とはこれ平等性智なり。摩尼珠の明浄無垢なるが如し。この智よく倶生の我法二執の差別の垢を浄めて平等性の理を証す。このゆえに宝生尊はこの智より生す。次に「はんどま」とはこれ蓮華なり。妙観察智なり。この智深く諸法の自相共相を観察して諸の疑網を断じて、心花を開敷するなり。このゆえに五部のなかにこの智をもって蓮華部に寄するなり。次に「じんばら」といっぱ、これ光明なり。成所作智なり。大智円満して無量の神通を現す。まえの四智はこれ「体」。神通はこれ「用」なり。用をもって光明に喩えるなり。あるいは神通のなかに光明はこれその一なるがゆえにまず、これを挙げて一切の神通を接するなり。次に、「はらばりたや」とは易きなり、転ずるなり。いわく前の諸功徳この真言の功力によれば成就しやすきなり。また上の功徳を転じてすなわちわが身に充満し、罪障を転滅し、福徳を転徳するなり。

「まに」(おんあぼきゃべいろしゃのうまかぼだら まに はんどまじんばらはらばりたやうんの「まに」)の句は貧業を除いて大富饒を得、内には慳貪の罪を除いて無貧の善根を成す。「はんどま」の句は敬愛を成さしめ、衆人の愛敬を受く。内には瞋恚を除いて慈悲なす。「じんばら」の句は大勢力を具さしめて、怨敵を降伏す。内には愚痴を除いて大知恵を得るなり。このごとく世出世の障碍を除滅するはこれ即ち転なり。無量の大願を成満するはこれ即ち易の義なり。次に「や」といっぱ、第四転、即ち為音なり。いわく、この毘盧遮那如来大智大悲不空大印の為に印せらるるところの故に、この三不善根の汚泥の中においてすなわち如来の無量の功徳を印現す。このゆえに衆生わずかに名字を聞かばすなわち如来の加持を得、ないし草木土砂を呪すれば即ち佛徳を印現すなり。次に「うん」とはこの真言の種子なり。理趣釈には大楽金剛不空三昧耶本誓心真言と名ずく。即ちいまの真言の大意によれば毘盧遮那如来不空大印の心真言なり。大印とは即ち本誓なり。二名相順するなり。即ち理趣釈にいわく、「うん」字とは因の義なり。因の義とはいわく菩提心を因となす。即ち一切如来の菩提心、またこれ一切如来の不空真如の妙体なり。恒沙の功徳みなこれより生ず。この一字に四字の義を具す。「か」字をもって本体となす。「か」字は「あ」字より生ず。「あ」字一切法本不生なるによるがゆえに、一切法因不可得なり。その字の中に「う」字の声あり。「う」字の声とは一切法損減不可得なりその字の頂上に円点半月あり。すなわちいわく「「ま」なり。「ま」字は一切法我の義不可得なり。我に二種あり。いわく人我、法我なり。この二種はみなこれ妄情の所執なればなずけて増益の辺となす。もし損減増益を離るれば、すなわち中道にかなう。
いまこの真言の大意によって解せば、「はんどま」の大悲、「じんばら」の大智をもって因となして毘盧遮那如来不空大印「まに」無尽の福徳聚を生するがゆえに因の義といふなり。しかるに「あ」字門に入れるはこの三法みな本不生なり。いわく妄情の中には我執によって如幻の報を受く。この我報中に居するに十方立することあり。自他彼此差別して増益損減の謀を生じて、我はこの物を有す、彼はこの物を有せずという。これみな法性を謗するなり。いわく四大五蘊の中には本より主宰なし。十方誰がためにか立せん。本性虚空にして体自ら明白なり。内に十方性を照らすを大智となずく。外に衆生の相に滞るを大悲となずく。

この故に若しこの悲智、自体あり、方所あり、我法性を知り、衆生を憐れむといはば、万法天然として衆生はこれ実の衆生、賢聖はこれ実の賢聖にして修得にあらず、業報にあらず、しからば諸仏は能化にあらず、衆生は所化にあらず。教化の理なし。この故に諸法増益の有を離れ、損減の無を離れ、有無の相違を離れ、非二の戯論をはなれたり。このゆえに本不生の言は増益の有を空じて、余の三謗を離するなり。この四謗を離れては四義みな立す。このゆえに「うん」字の因の義とは、いわく心性この四謗を離れたり。すなわち一切如来の菩提心なり。またこれ不共真如の妙体なり。このゆえに自性清浄心あり。この心性もとより自不生なり。性と相と互いに立す。相望するに有無にあらず。このゆえに諸仏あり。衆生あり。能家所家断惑証理の道本不生なるがゆえに皆立するなり。これを「うん」字の因の義となす。また一本の儀軌の説に依るにいわく、「うん」「はった」「そわか」と、次のごとく調伏、息災、成就の句なり。いわく諸悪を調伏し、諸善を成就し、三雑染の災過を息滅するなり。己上は離釈なり。不空羂索経の中に離合両釈の証文あり。まず、離釈の証文てゃ経文の処処に多くいわく、大如意宝、大灌頂秘密曼荼羅印等と云々。即ち真言のなかの「まに」の句なり。又持者の七大善夢を説く。中に処処に云く、一切如来大蓮華種族と云々。すなわち真言の中の「はんどま」の句なり。又経文の処処に云く、大蓮華族と「はんどま」の句也。大金剛種族と、大金剛とは即ち智慧也。即真言中に云う「じんばら」とは是光明、光明とは是智慧也。大摩尼種族「まに」の句也等と云々。次に合釈の義に依らば即ち真言の中の「まに はんどま じんばら」の句、三句合して蓮華光明というべきなり。その証拠は不空羂索経第二十八清浄蓮華明王品第六十七に云く「観世音菩薩の眉間の白毫より甘露の渧を出す、火星の流れの如し。その色明なること頗胝迦寶(はていかほう. 水晶)に超えたり。清浄鑒徹せり。空より墜ち下で正しく仏前に住す。変じて衆宝の千葉の蓮華となる。その花純にして瑠璃を以て茎となす。大光明あり、億千の日の初出の色光に超えたり。盤薄高大にして菩薩等の如し。乃至真言を説きおわって蓮華即ち自ら開敷す。台の中に不空羂索心王清浄蓮華明王等を出現す云々。また灌頂真言成就品第六十八にこの光明真言を説きおわって云く、其の時に十方の一切刹土の三世一切如来、毘盧遮那如来、この真言を説いて明王の頂に灑ぐ云々。またいわく、其の時に十方一切刹土の三世の一切如来毘盧遮那如来、一時に斯の灌頂真言を説いてしかも清浄蓮華明王の為に種々の種族一切神通大如意宝大灌頂秘密曼荼羅印三昧耶灌頂を一切種族大如意宝大灌頂秘密曼荼羅印三昧耶灌頂成就を授く云々。解していわく、華厳経の中に如来の前に蓮華生ず一切諸法勝音菩薩、仏の眉間より出てこの蓮花に坐す。宗家この義を釈するに、蓮華を以て所詮の義となし、菩薩を以て能詮の義となす。探玄記の第三に釈して云く、若し一乗に依らばこの菩薩をすなわち教体を見ると名く。人法無碍の故に、教円をあらわすが故に等と云々。いまの神変経の文おおいにこれに同じ。亦華厳に准じて知る可。謂く、観音の前の蓮華は是所詮の義、明王は是能詮の教なり。このゆえに蓮華明王と名く。一切如来この真言を説いて明王の頂に灌ぐとは是を心頂に受く、即ち法を以て人を成ずる也。この依正ともに光明真言の体なり。不空羂索毘盧遮那佛大灌頂光真言の名義、これに依って立する也。この真言の本尊手印等は輙く説くべきにあらざるゆえに別記に之をのせたり。

光明真言句義釈 金剛仏子高辨抄出之」
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