福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

以前東日本大震災時に有る師から頂いたお便りが出てきました。

2014-11-10 | 法話
A師からきびしいお便りをいただきました。

「『今の対応で未来が変わる。使命感を持ってやる。』

これは決死隊ともいわれる福島原発作業員の言葉です。
しかしこの言葉を原発作業員だけにまかせておき我々はのうのうと今までどおりの自堕落な生活に戻ることでいいのでしょうか。此の言葉はいまや我々すべての日本人に突きつけられている言葉になったとおもいます。

今回またしても政治家、官僚、経営者、学者、マスコミ人たちは、すべて有害・無能であることが露見してしまいました。さらにほとんどの宗教者も無力さを見せ付けました。しかし他者を批判していればそれで免責されるわけではありません。すべては自分自身に還ってきます。政治家が悪い、官僚が悪いとひとごとのように言って許されるほど事態は悠長ではないのです。

地震後は、一人一人が今までの生き方をどう反省し、今後どう生きていくのかということが直接問われているのです。逃げられません。今までどおり生き物や地球を無限に犠牲にして行き着く先を知らない無責任な経済発展をする生活に戻っていいのでしょうか?

この期に及んでまだ「私は大丈夫」「うちは大丈夫」「ここは大丈夫」病が治らない人は、ダライラマ法王が震災四十九日法要で「あらゆるものにguaranteeはない」と喝破されたことをよく味わうべきです。

被災時のインターネットにあるスクールバスに閉じ込められ息絶えた娘を撫でる母親の写真や、体育館に並べられた無数の棺の中から我子を探す若い父親の姿を見るとだれが自分には無関係といえますか?

具体的にはまず、震災物故者に対しどう認識するかからはじめるべきです。物故者は我々の業を変わって受けてくれた代受苦の菩薩なのです。したがって、慰める「慰霊」ではなく「敬う」べきです。「尊い犠牲のおかげで自分が今まで救いようのない愚か者だったことに気づかされました」と「懺悔」し「感謝」することが生き残った我々の勤めなのです。

 復興が声高に叫ばれ始めていますが、復興とは、地獄餓鬼畜生道に堕ちていた自分の過去を懺悔し、本来の佛性を「復興」することでなければならないのです。それにすべての日本人が気ずかなければ物故者の霊は浮かばれません。

しかし終戦後、一億総懺悔といわれても誰も懺悔しなかったように今回も懺悔はされないでしょう。そして残念ながらまたしても人々はおろかな日常に帰り、その報いの次の大きな・・・・。」
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