今日は後宇多法皇遷化の日です。以下密教辞典等に依ります。後宇多法皇は、文永4年1267、12月1日生まれ元亨4年1324、6月25日大覚寺御所にて崩御。享年58。祖父後嵯峨上皇、父亀山天皇。文永11年(1274年)8歳で亀山天皇から譲位を受けて践祚。治世中には、元・高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生し、身を以て国難にあたらんとされ、東寺長者道宝・勝信らに両部大法受け、禅助(仁和寺真光院首・東寺長者)に受戒、其の後叡尊に再度受戒、徳治二年1307禅助の許で出家、翌年より東寺西院小子坊に住み修行、禅助から廣澤流、醍醐憲淳から小野流の伝法灌頂を受け、大覚寺に住す。大師を慕い真言宗の外護に努められた。
正和2年(1313年)高野山参詣、途中雷雨に遭うも輿に乗らなかったとされる。高野山には大師御真筆とされる御影堂の二十五箇条を施入。また所縁の寺には多くの御宸筆を残され国宝・重文となっている。大覚寺には国宝、御手印遺告、弘法大師傳一幅のほか高雄曼荼羅修覆記、灌頂私注上一巻、灌頂印明六巻‥悉曇印信七帖等々。東寺には国宝の東寺興隆條々事御添状、庄園敷地施入状二巻、弘法大師像賛等。醍醐寺報恩院には国宝、当流紹隆教戒三通一巻と御消息一巻、御灌頂御諷誦一通。神護寺には灌頂暦名の施入状一通、寄進状一幅、が残っている。
神皇正統記にも後宇多天皇は歴史にのこる天皇として褒め称えています。
「第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は世仁、亀山の太子。御母皇后藤原の僖子〈後に京極院と申す〉、左大臣実雄の女なり。甲戌の年即位、乙亥改元。
丙子の年、唐土の宋の幼帝徳祐二年に当たる。ことし、北狄の種、蒙古起こりて元国と云ひしが宋の国を滅ぼす〈金国起こりにしより宋は東南の杭州に移りて百五十年になれり。蒙古起りて、先づ金国をあはせ、後に江を渡りて宋を攻めしが、ことし遂に滅ぼさる〉。
辛巳の年〈弘安四年なり〉蒙古の軍多く船をそろへてわが国を侵す。筑紫にて大きに合戦あり。神明、威を表はし形を現じて防がれけり。大風にはかに起こりて数十万艘の賊船みな漂倒(ひょうとう)破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約(「宝祚(=皇位)の栄えまさんこと天地と極まりなかるべし」)の変らざることこれにて推し量るべし。
この天皇天下を治め給ふこと十三年。思ひの外にのがれ(=国政から離れ)ましまして十余年ありき。後二条の御門立ち給ひしかば、世をしらせ給ふ(第一皇子である後二条天皇(94代)の治世、正安3年(1301年)から徳治3年(1308年)まで院政を敷いた)。
遊義門院(=皇后)隠れまして、御歎きの余りにや、出家せさせ給ふ。前の大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて灌頂せさせ給ふ。めづらかにたふとき事に侍りき。その日は後醍醐の御門、中務の親王とて、王卿の座につかせ御座ます。只今の心地ぞしはべる。
後二条隠れさせ給ひしのち、いとど世を厭(いとは)せたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云ふ所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立ててぞ行なはせ給ひし。その後、後醍醐の御門位につきましまししかば、またしばらく世をしらせ給ひて、三とせばかりありて譲りましましき(第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が文保2年(1318年)に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居)。
大方この君は中古よりこなたにはありがたき御事とぞ申し侍るべき。文学の方も後三条の後には、かほどの御才聞こえさせ給はざりしにや。寛平の御誡(=宇多)には、「帝皇の御学問は『群書治要』などにて足りぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふな」と見えたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をも知らせたまひ、政事も明らかにましまししかば、先の二代(=醍醐・村上)はことふりぬ(=言うまでもない)、つぎては寛弘・延久(=一条・後三条)をぞ賢王とも申すめる。
和漢の古事をしらせ給はねば、政道も明らかならず、皇威も軽し、定まれる理なり。『尚書』に尭・舜・禹の徳をほむるには「古へに若(した)がひ稽(かんが)ふ」と云ふ。傅説(ふえつ=殷の大臣)が殷の高宗を教へたるには「事古へを師とせずして、世に長き(=治世が長い)は説(えつ=ふえつ・傅説)の聞かざる所なり」とあり。
唐に仇士良(きゅうしりょう)とて、近習の宦者(=宦官)にて内権をとる、極めたる奸人(=悪人)なり。その党類に教へけるは「人主(=皇帝)に書を見せ奉るな。はかなき遊びたはぶれをして御心を乱るべし(=乱させておけ)。書を見てこの道を知りたまはば、わがともがらは失せぬべし」と云ひける、今もありぬべきことにや。
寛平の『群書治要』をさしての給ひける(=上の言葉は)、部狭(ぶせば=範囲が狭)きに似たり。但しこの書は唐太宗、時の名臣魏徴をして選ばせられたり。五十巻の中に、あらゆる経・史・諸子までの名文を載せたり。全経の書(=儒学書)・三史(=「史記」「漢書」「後漢書」)等をぞ常の人は学ぶる。この書に載せたる諸子なんどはみる者少なし。ほとほと名をだに知らぬ類ひもあり。まして万機をしらせ給はんに、これまで学ばせ給ふことよしなかる(=必要がない)べきにや。
本経等を習はせましましそ(=だけを習わせろ)まではあるべからず。已(すで=上記に)に「雑文」とてあれば、経・史の御学問のうへに(=以外にさらに)この書(=『群書治要』)を御覧じて、諸子等の雑文までなくともの御心なり。
寛平はことにひろく学ばせ給ひければにや、周易の深き道をも愛成(ちかなり)と云ふ博士に受けさせ給ひき。延喜の御こと左右にあたはず(=当然のこと)。菅氏輔佐し奉られき。その後も紀納言(=紀長谷雄)・善相公(=三善清行)等の名儒ありしかば、文道の盛りなりしことも上古におよべりき。
この御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申す人のはべる、浅ましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。
この君(=後宇多)は在位にても政事をしらせ給はず、また院にて(=後二条崩後)十余年閑居し給へりしかば、稽古に明らかに、諸道をしらせ給ふなるべし。御出家の後もねむごろに(=学問を)行なはせましましき。
上皇の出家せさせ給ふことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・後深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病重くなりてぞせさせ給ひし。
(後宇多のように)かやうにあまた聞こえさせ給ひしかど、戒律を具足し、始終欠くることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへ せさせ給ひしこといとありがたき御ことなり。
この御末に一統の運をひらかるる、有徳の余薫とぞ思ひ給ふる。元亨の末甲子の六月に五十八歳にて隠れましましき。」
「第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は世仁、亀山の太子。御母皇后藤原の僖子〈後に京極院と申す〉、左大臣実雄の女なり。甲戌の年即位、乙亥改元。
丙子の年、唐土の宋の幼帝徳祐二年に当たる。ことし、北狄の種、蒙古起こりて元国と云ひしが宋の国を滅ぼす〈金国起こりにしより宋は東南の杭州に移りて百五十年になれり。蒙古起りて、先づ金国をあはせ、後に江を渡りて宋を攻めしが、ことし遂に滅ぼさる〉。
辛巳の年〈弘安四年なり〉蒙古の軍多く船をそろへてわが国を侵す。筑紫にて大きに合戦あり。神明、威を表はし形を現じて防がれけり。大風にはかに起こりて数十万艘の賊船みな漂倒(ひょうとう)破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約(「宝祚(=皇位)の栄えまさんこと天地と極まりなかるべし」)の変らざることこれにて推し量るべし。
この天皇天下を治め給ふこと十三年。思ひの外にのがれ(=国政から離れ)ましまして十余年ありき。後二条の御門立ち給ひしかば、世をしらせ給ふ(第一皇子である後二条天皇(94代)の治世、正安3年(1301年)から徳治3年(1308年)まで院政を敷いた)。
遊義門院(=皇后)隠れまして、御歎きの余りにや、出家せさせ給ふ。前の大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて灌頂せさせ給ふ。めづらかにたふとき事に侍りき。その日は後醍醐の御門、中務の親王とて、王卿の座につかせ御座ます。只今の心地ぞしはべる。
後二条隠れさせ給ひしのち、いとど世を厭(いとは)せたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云ふ所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立ててぞ行なはせ給ひし。その後、後醍醐の御門位につきましまししかば、またしばらく世をしらせ給ひて、三とせばかりありて譲りましましき(第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が文保2年(1318年)に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居)。
大方この君は中古よりこなたにはありがたき御事とぞ申し侍るべき。文学の方も後三条の後には、かほどの御才聞こえさせ給はざりしにや。寛平の御誡(=宇多)には、「帝皇の御学問は『群書治要』などにて足りぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふな」と見えたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をも知らせたまひ、政事も明らかにましまししかば、先の二代(=醍醐・村上)はことふりぬ(=言うまでもない)、つぎては寛弘・延久(=一条・後三条)をぞ賢王とも申すめる。
和漢の古事をしらせ給はねば、政道も明らかならず、皇威も軽し、定まれる理なり。『尚書』に尭・舜・禹の徳をほむるには「古へに若(した)がひ稽(かんが)ふ」と云ふ。傅説(ふえつ=殷の大臣)が殷の高宗を教へたるには「事古へを師とせずして、世に長き(=治世が長い)は説(えつ=ふえつ・傅説)の聞かざる所なり」とあり。
唐に仇士良(きゅうしりょう)とて、近習の宦者(=宦官)にて内権をとる、極めたる奸人(=悪人)なり。その党類に教へけるは「人主(=皇帝)に書を見せ奉るな。はかなき遊びたはぶれをして御心を乱るべし(=乱させておけ)。書を見てこの道を知りたまはば、わがともがらは失せぬべし」と云ひける、今もありぬべきことにや。
寛平の『群書治要』をさしての給ひける(=上の言葉は)、部狭(ぶせば=範囲が狭)きに似たり。但しこの書は唐太宗、時の名臣魏徴をして選ばせられたり。五十巻の中に、あらゆる経・史・諸子までの名文を載せたり。全経の書(=儒学書)・三史(=「史記」「漢書」「後漢書」)等をぞ常の人は学ぶる。この書に載せたる諸子なんどはみる者少なし。ほとほと名をだに知らぬ類ひもあり。まして万機をしらせ給はんに、これまで学ばせ給ふことよしなかる(=必要がない)べきにや。
本経等を習はせましましそ(=だけを習わせろ)まではあるべからず。已(すで=上記に)に「雑文」とてあれば、経・史の御学問のうへに(=以外にさらに)この書(=『群書治要』)を御覧じて、諸子等の雑文までなくともの御心なり。
寛平はことにひろく学ばせ給ひければにや、周易の深き道をも愛成(ちかなり)と云ふ博士に受けさせ給ひき。延喜の御こと左右にあたはず(=当然のこと)。菅氏輔佐し奉られき。その後も紀納言(=紀長谷雄)・善相公(=三善清行)等の名儒ありしかば、文道の盛りなりしことも上古におよべりき。
この御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申す人のはべる、浅ましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。
この君(=後宇多)は在位にても政事をしらせ給はず、また院にて(=後二条崩後)十余年閑居し給へりしかば、稽古に明らかに、諸道をしらせ給ふなるべし。御出家の後もねむごろに(=学問を)行なはせましましき。
上皇の出家せさせ給ふことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・後深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病重くなりてぞせさせ給ひし。
(後宇多のように)かやうにあまた聞こえさせ給ひしかど、戒律を具足し、始終欠くることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへ せさせ給ひしこといとありがたき御ことなり。
この御末に一統の運をひらかるる、有徳の余薫とぞ思ひ給ふる。元亨の末甲子の六月に五十八歳にて隠れましましき。」