上宮太子講式 (傳顕真(鎌倉時代前半の法隆寺の僧侶)作)
先、惣禮
敬礼大人大覚尊、恒沙福智円満、因圓果満成正覚、福寿凝然無去来、
南無恭敬供養救世観世音菩薩
次、着座
夫、聖徳太子は用明天皇の太子、推古天皇の儲君、欽明天皇の孫、敏達天皇の甥也。天下に於て賤しからざるの人也。十七個条の憲法を儲けて王法の規模と為し、諸悪莫作の教を弘めて仏法の棟梁と為す。名誉遠く聞て、海内風を慕ふ。西蕃の諸国波を凌ぎて来朝す。其の徳を讃じて堅く来縁を結ぶ。湏く讃嘆盡し叵し。粗ぼ仕要を簡んで以て三段と為す。
初めに権化の利益を讃むとは、所謂太子は是随類化現粟散國の小王身也。弘誓海の如し。漫漫として邊もなく沈沈として底も無し。縦ひ劫石を磨くとも誰か思議することを得ん。昔漢土に在りて衡山に修行せし時、達磨勧て曰く、東海に誕生して正法を宣揚し、遂に倭国に生じたまへる也。託胎之夜、金色の僧有り来て、謂て曰く、我に求世の願有り。暫く后が腹に宿らむ。后問ひたまはく、誰と為さんと。僧の曰く、吾は求世菩薩也。家は西方に在り、と云ひ、口の中に踊り入る。誕育の後、童子の戯に交て難波の館に遊びたまふ。百済の日羅、太子を指して地に跪て拝して曰く、「敬礼救世観世音、傳燈東方粟散王」云々。此れ則ち我が國に観音の名を聞く最初也。名を聞て罪を滅すこと、日の薄霜を照らすが如く、禮念せば恩を蒙ること月の蓮蘂を開くが如し。観音の利益,此の如し。凡そ名を聞き、身を見るに実に以て空しからず。閑に以ば太子、若し出世したまはずば闇より闇に入りて三宝の形を見ず。苦より苦に還て安楽の国を聞かず。我等仏法に値遇す、是誰が力哉ぞや。伏して願くは生生世世、太子に謝し奉らむ。伽陀に曰く、
「弘誓深如海 歴劫不思議、侍多千億佛、發大清浄願。南無帰命頂礼大慈大悲救世観観世音菩薩」
次、傳燈の利益を讃ずとは、夫れおもんみれば、仏法漢土に入りて三百歳を経て百済国に至る。未だ百年を満たずして日本に伝ふ。
所謂欽明天皇の御世、百済の国王、仏像経論等を獻ず。而して異域の神と称して更に之を帰敬せず。敏達天皇元年正月一日に太子誕生したまへり。次の年に至りて二月十五日、早旦に到りて掌を合わせ東方に向ひて「南無佛」と称す。是則ち伝灯の初め也。七歳に至って百済の経論数百巻を披見したまふこと已畢んぬ。爰に守屋の臣、深く迷心を含んで仏像を毀壊して難波に流妄し、経巻を梵焼して灰燼に同ぜんと欲す。太子悲泣して守屋を撃んと欲す。誓願を発して四天王の像を刻んで四王の箭を放るに空しからずして守屋が胸に中って首を倒して地に堕ちぬ。則ち四天王寺を造って天王の像を安置す。宝塔第一の露盤は遥かに遺法興滅の相を表す。乃至諸国に堂塔を競い起て仏像を造り、経を書し、首を剃り、衣を染めて三宝具足して興隆盛んなり。加之、太子法花勝蔓等を講じて義疏を製したまへり。恵慈法師、首に戴き、讃嘆誦習す。爾従已来、或は南岳天台の宗を伝へ、或は無畏不空の教を伝て、伝灯世に絶ず。即身成仏の道の遊び、人、醍醐仏法の味を嘗む。其の根源を尋るに太子の恩に非ざることなし。我等が修する所は只一塵を以て恩山に加へ一適を以て徳海に添るなり。而して志、山海を傾く、誰が忽諸(こっしょ・なおざりにする)ならむと言、伽陀に曰く、
「敬礼救世観世音 伝灯東方粟散王 三宝現世値遇楽 猶如盲亀値浮木 南無帰命頂礼大慈大悲観世音菩薩」
後、当来利益を讃とは釈迦世に出でたまふ偏に極楽を勧め、彌陀を讃じたまふ。世に出でたまふこと亦復是の如し。極楽の方を訓へ往生の業を示す。四天王寺の縁起の如くは宝塔金堂は極楽東門の中心に相当れり。是則ち方隅を示す也。其れ浄業は外に求むべからず。太子の像を迎て一称一禮する、即ち浄土の因也。爾の所以は経に曰く、若しは王宮にも若しは氏宅にもまれ、観音の像を迎て道場に安置すれば功徳を具足して極楽に往生すと云々。斯の言、實也。念々に疑を生ずることなかれ。然れば即ち極楽に我等を待つ。何ぞ強に娑婆を愛せん。頭燃を抜くが如く西方の引接を湏(まつ)べきなり。伽陀に曰く
「帰命蓮花王、上宮王太子、一称一禮往生安楽國、願以功徳、普及於一切、我等輿衆生、皆共成仏道、南無帰命頂礼大慈大悲救世観世音菩薩」
次、神分。祈願。寶號。六種廻向。」