多くの経典に小善でも務めるべきと出てきます。
・出曜經「小善を輕んじ以って無福と為す莫れ 水渧は微なりと雖も 漸く大器を盈す。 凡そ福の充滿するは纎纎の積に依るなり。
小善を輕んじ以って無福と為す莫れ。善人あり、彼の塔寺に詣でて禮拜して福を求め、或は明を上げ燃燈燒香掃灑し、伎樂を作倡し、幡蓋を懸繒するも一錢より始るし。復た人に勸て施心を発せしめ、已上に一搏し聖衆を供養し、或は楊枝淨水を以て供給し清淨ならしめ、或は脂燈續明す。此の如くは小小なれども亦た輕んずべからず。彼の心識に依りて報を獲るこ無量なり。一燈を燃やし舍闇を除くに冥は冥之蹤跡を不知なるがごとし。極微妙香を燒けば臭穢を盡く除き所在を知らざるが如し。利劍は小なりと雖も能く毒樹を断ずるが如し。此も亦た如是なり。善行は微なりと雖も能く重罪を除く。人天の往來して更に苦惱せず。此によりて彼の受福は無量なることを現在に知るべし。渧渧は絶ずして遂に大器を満たす。勇者は福を行じて漸漸に成就す。是の故に福の充滿するは纎纎の積に依るなり。・・」
・法句經第十七惡行品二十二章「小善を軽んずること莫れ、 以って無福なりといえども水が微なりといえども漸く大器を盈すがごとく 凡そ福は充滿す・・」
・大智度論には「12年間毎日天にお供えをした人が宝の出る徳瓶を授かった」という話が出てきます。
「人ありて常に天を供養するがごときは其人貧窮なるも一心に供養して十二歳に満ち富貴を求索するに天は此人をあわれんで自ら其身を現じ之に問うて曰く、「汝何等をか求む」答て言く「我富貴を求む。心の所願をして一切皆得ならしめんと欲す」と。天、一器をあたふ。名て曰く徳瓶と。而して之に語りて言く、「所須うる所の物は此瓶より出ず」と。其人得已って
應に意の欲するところに応じて得ざるところなく、如意なることを已って具に好舍・象馬・車乘を作り、七寶具足し、賓客に供給するに事事乏しきことなし。客之に問うて言く、「汝先に貧窮なりき。今日何に由って此のごとき富をうるや」と。答言「我天瓶を得、瓶能く此の種種の衆物を出す故に富如是なり」。