「阿弥陀は既に無量劫の昔に正覚を感じた、さうしてこの成正覚の条件として衆生の成正覚を提供しているのです。もし弥陀の方で既に成正覚の事実があれば人間も既に成正覚してゐるものと考えなければならぬ。はたしてそうだとすればなにもそれが為にせっせと求道だ何だと云って騒ぐに及ばない・・」と(俗人は)かふ云ふ風に考えるのです。しかしこれも人間的知性的分別を本にしての判断で、未だに法界の風光には接してゐないのです。弥陀が無量劫の昔に正覚を成じたといふのは、人間的歴史的事実として傳へられるのではなくて、人間各自が霊性的直観に入る時,感得又は悟得せられる事実なのです。自らにこの感得の事実のない間は、弥陀の成正覚云々は何等の意味を持ちえないものです。(親鸞上人とルターは共に「信仰がすべてであり、修行や儀礼は必要ではない」と説き、似ていると言われますが、親鸞上人には少なくともこの霊性的直観があったと思われます。「法界の風光」に接してはおられたと思います。).
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