ささきいさおのコンサートが、今日7月2日(日)麻生市民館であった。和製プレスリーとはやされて、今年がデヴュ-45年の記念公演だそうだ。プレスリー、ポールアンカの唄を歌ってくれたので、懐かしかった。また、私の好きなフランク永井の「お前に」も聞けた。「お前に」はNHKの歌謡ショウに出演するため作詞家吉田正の直々の指導で練習したのだそうだ。
佐々木功氏は、私の幼馴染みだ。敗戦直後の昭和20年代に彼が東京から登米に疎開していたときによく遊んだのだ。彼とは、同じ年齢だ。
当時、登米では持っている子供などはいなかったが、彼は三輪車を持っていて、彼の三輪車で私は500メートルくらい離れている我が家に帰り、「明夫ちゃんが、僕の三輪車に乗って行っちゃった」と泣かしてしまったのだそうだ。乗って帰ったのと、それを返しに行かされたのは、覚えている。しかし、その後、彼が東京に帰ってからは、全く交流がなかったのだが、ある日、母と祖母がテレビに出ている「ささきいさお」を見ながら、「ほら、いさちゃんだよ」と教えてくれたので、思い出した。
数年前、地下鉄の竹橋から、サングラスをかけた私と同年くらいの男が乗ってきて私の隣りに座った。私はすぐ彼とわかったので、
「失礼ですが、ささきいさおさんでしょう。覚えていらっしゃらないでしょうが、わたしは、子供の頃登米で一緒に遊んだハガアキオと言います。あの頃、タッちゃんとも遊びましたね」と、彼のいとこの名前もだして、私がいい加減なことを云っているのでないことを示した。彼は、登米をちゃんと覚えていて、驚いていた。
「タッちゃんとは会うことがありますか」と、聞くと、
「来週会います」というではありませんか。
「ハガアキオと言えばわかりますから、宜しくお伝え下さい」と言って、私は、大手町で東西線の地下鉄を降りた。ほんの数分のやりとりだった。
それが、今度は、すぐ近くで、コンサートをするというので、田舎で名物のあぶら麩を買ってきて、渡すのを楽しみにしていたのだ。普通は花をあげるのだろうが、公演が終わってから、CDを買った人と握手をするというので、握手しに行き、
「お荷物になって済みませんが、登米の名物あぶら麩です」と言って、渡すと、また驚いていた。
佐々木功氏は、私の幼馴染みだ。敗戦直後の昭和20年代に彼が東京から登米に疎開していたときによく遊んだのだ。彼とは、同じ年齢だ。
当時、登米では持っている子供などはいなかったが、彼は三輪車を持っていて、彼の三輪車で私は500メートルくらい離れている我が家に帰り、「明夫ちゃんが、僕の三輪車に乗って行っちゃった」と泣かしてしまったのだそうだ。乗って帰ったのと、それを返しに行かされたのは、覚えている。しかし、その後、彼が東京に帰ってからは、全く交流がなかったのだが、ある日、母と祖母がテレビに出ている「ささきいさお」を見ながら、「ほら、いさちゃんだよ」と教えてくれたので、思い出した。
数年前、地下鉄の竹橋から、サングラスをかけた私と同年くらいの男が乗ってきて私の隣りに座った。私はすぐ彼とわかったので、
「失礼ですが、ささきいさおさんでしょう。覚えていらっしゃらないでしょうが、わたしは、子供の頃登米で一緒に遊んだハガアキオと言います。あの頃、タッちゃんとも遊びましたね」と、彼のいとこの名前もだして、私がいい加減なことを云っているのでないことを示した。彼は、登米をちゃんと覚えていて、驚いていた。
「タッちゃんとは会うことがありますか」と、聞くと、
「来週会います」というではありませんか。
「ハガアキオと言えばわかりますから、宜しくお伝え下さい」と言って、私は、大手町で東西線の地下鉄を降りた。ほんの数分のやりとりだった。
それが、今度は、すぐ近くで、コンサートをするというので、田舎で名物のあぶら麩を買ってきて、渡すのを楽しみにしていたのだ。普通は花をあげるのだろうが、公演が終わってから、CDを買った人と握手をするというので、握手しに行き、
「お荷物になって済みませんが、登米の名物あぶら麩です」と言って、渡すと、また驚いていた。