芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

葛西氏2

2006年07月17日 | Weblog
応永七年(一四〇〇)には、伊達、大崎、登米が結んで、登米町北部のイタチ沢に陣を張って葛西、桃生、深谷などの鎌倉方と戦って勝利したと『伊達正統世次考』にいう。同書と『留守文書』では、同じ頃に現在の登米に属する日根牛が葛西領であったことも記している。大崎探題をはじめとするこの地方の領主たちが鎌倉府から独立的だったようだ。
なかでも伊達氏は十五世紀に入って主な領主たちと縁組みをして勢力を増していった。奥州探題に補任された伊達成宗の子息宗清は葛西氏に入嗣し、父の権力を背景に葛西氏全体の実権を握った。明応九年(一五〇〇)桃生、登米、深谷の三郡一揆があった。
十六世紀永正三年(一五〇六)葛西氏と深谷長江氏の戦いに登米郡の小野寺氏が参戦したと『藤原姓小野寺系図』に記され、永正八年(一五一一)山内首藤、登米、伊藤らの一揆があり、永正八年と九年の秋に山内首藤氏は葛西宗清と戦って滅びている。登米氏もその頃に滅ぼされている。かくして江刺、伊沢、磐井、気仙、本吉、牡鹿、登米、桃生の八郡は、伊達系の葛西宗清によって葛西氏の支配下に入った。『伊達家治家記録』によると、伊達稙宗は、子息牛猿丸を宗清の死後、その娘に配して入嗣したという。葛西晴胤である。葛西晴胤は天文十七年寺池に新城を築き、居館とした。その子義重は寺池城に居住した。さらにその子晴信は寺池城を本館とした。