芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

葛西氏

2006年07月16日 | Weblog
葛西氏は、地頭職、奥州惣奉行の地位にあり、その年貢徴収権を利用して、中尊寺の荘園を侵すなどして、次第に私有地をを増やしていき、中央から派遣された大崎探題などと対立するようになっていった。
少なくとも十四世紀南北朝の建武年間(一三三〇年代)には葛西氏が寺池城に居たことが『奥州寺池葛西系図』からわかる。
また、正平十七年=貞治元年(一三六二)に葛西氏が寺池城を小野寺伊賀守道景に託し石巻日和山に居を構えたという伝承がある(『角川日本地名大辞典 宮城県』)。永和三年=天授三年(一三七七)には山内・長江、登米、留守が一揆契約を結んで同盟し、大崎探題に対立した「五郡一揆」があった。
十五世紀応永九年(一四〇二)には、伊達、大崎、登米が結んで、イタチ沢に陣を張って葛西、桃生、深谷など鎌倉方と戦って勝利したと『伊達正統世次考』にいう。同書と『留守文書』では、同じ頃に現在の登米に属する日根牛が葛西領であったことも記している。
そして、応永18年(1421)に登米氏(豊間)、明応九年(一五〇〇)桃生、登米、深谷の三郡一揆。
十六世紀永正八年(一五一一)山内首藤、登米、伊藤らの一揆があり、登米氏の名前が出てくるから、葛西氏の支配下にあったことが伺われる。
秀吉の小田原北条氏攻略に参戦しなかったために奥州仕置きで葛西が滅ぼされた時には、登米の現在水道浄水場になっている保呂羽城がが葛西氏の城であった。