馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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【伊予国遠征5】河後森城4、西第十曲輪

2021-08-25 22:41:07 | 伊予国の史跡

2021年2月21日(金)
河後森城の曲輪群は馬蹄状になってます。
中央部の本郭を境にして東尾根と西尾根に段々曲輪群が並ぶ


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西尾根曲輪群を下ってます。


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西第六と第七との間の薄い薄い堀切土橋


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第7から第9へは第8を飛び越えての大きな階段がある。


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第8は帯曲輪兼馬出虎口的な性格があるのかな?

素人の我が輩はわからない…


第9から第10へも階段で移動


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そして、
11時56分、
「西第十曲輪」


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先端部にあり谷の入口を見張る大きな曲輪。
門がある。

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下には帯曲輪があります


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薄い堀切土橋も見える

↓こんな感じ
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ここで初めて曲輪を囲む土塁が登場しました。

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低いです。
解説板によると完全な復元ではない。
高さも幅もわかっていない、
ということなのであくまでも想像の土塁です
土塁は古い時代のもので後に土塁を取り払い長屋風の多聞櫓が築かれた、そうな。


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防御方法に時代差があるというわけです。


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現代の多聞櫓?

柵があるため下に降りられない。


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↑柵のすき間から下の堀切と曲輪を見る

中央に「馬屋」復元


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柱の列が正確なので番匠と呼ばれる建築の専門工人が造った建物だとか?


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2つの建物が確認されたが建て替えられたもので同時期に存在したわけではない、という。

馬屋の所で
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百名城スタンプGET!

ノートに記帳した
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門から西第十曲輪を見る


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河後森城と宇和島城の門の違いについての解説板

感心!感心!

この後、門からの通路を下って風呂ヶ谷へ向かい、柵の下の堀切・竪堀群を見に行きます


次回へ続く~

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征4】河後森城3、本郭~西段々曲輪へ

2021-08-01 23:18:13 | 伊予国の史跡

2021年2月21日(金)
古城→新城を探索後、


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次は本郭(本城本丸)を目指します。


11時15分

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↑東第三曲輪→東第二曲輪の南側斜面の犬走を登る


振り返ると古城方面が見えるf:id:umahide:20210713233701j:image
↑東第二曲輪は薄く上下段に分離してます


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本郭が見えてきた

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発掘調査の結果に基づいて掘立柱建物跡(主殿舎)が復元されてます


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東西12m、南北9m


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縁側は板の間↑
客人・家来・主人などの部屋は畳で、


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ここで公式の儀式が執り行われたと推定されてます
出土遺物は15世紀~16世紀にかけてのものばかりなので江戸時代には使用されてなかったようです。


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柱は岩盤を丸く掘って建てたそうです。


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広見川方面を見る。
眺望抜群!

西南部に門跡


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一段下の西第二曲輪との間に通路、門、堀切、土橋。
いずれも岩盤を切り抜いて造ったそうな。


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2つの時期差があるのでちょっと構造かややこしい。


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石垣、通路は新しい時期で1600年前後。
関ヶ原合戦頃ですな。


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次の下の郭の「西第二曲輪」から振り返って本郭を見る

土橋の左右に堀跡、石垣がよくわかります。

でもホントにこれは土橋だったのか?

右手に犬走通路虎口があるので中央に土橋があるのは解せない。

これも時代差なのか?


「西第二曲輪」


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本郭とほぼ同じ位の大きな曲輪。
例のごとく平坦地。
北側下に腰曲輪あり。

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こちらも南側に犬走通路あり、


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そして、西第三曲輪との間の細い堀切。


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堀切そのものは浅く幅も狭いが西二曲輪の切岸と物凄い落差がある。
堀切通路は人間1人通るのがやっとの狭さ。


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この堀切は通路として北側の腰曲輪と行き来できるようになってたと思われる。

というか、後で腰曲輪から行けることを確認しました。

西第三曲輪~尾根先端の第10曲輪までは段々曲輪として下がっていきます。


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曲輪ごとの切岸に萌えます↑

西第六曲輪の西側に犬走通路があり西出曲輪へ行けます


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西出曲輪は西第三曲輪の尾根伝いに西側にあります。

整備されてなくてちょっと藪状態。

西出曲輪はパンフレットに掲載されてません。
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二段で竪堀、空堀っぽいものを確認しました


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土塁が初めて出てきました!
さらにその下にも曲輪がありそうだが無茶するのはあきらめた


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この後、帯曲輪から上り↑


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第二と第三の間の細い堀切に戻りました

人間1人通るのがやっとの細い堀です。

この後、段々曲輪を下り先端部の西第十曲輪へ向かいます。

続く~

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

小浜市の天ヶ城跡に登りました。

二重堀切がありました。

山頂部は物見櫓かな?

と思わせるほど小さな曲輪でした。


それよりも山頂付近で雷鳴が何度も襲いかかり、生きた心地しなかった。


急いで下山したため膝痛めた


結局、雷は鳴っただけで雨は降らなかった…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征3】河後森城2、新城へ

2021-07-13 23:17:02 | 伊予国の史跡

2021年2月21日(金)
古城探索後、大堀切の門へ戻った。


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ここは本郭、古城、新城の3方向の分岐になってる

10時31分
新城へ向かう。


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解説板によると、
発掘調査の結果、新城主郭には見張り用の高層櫓や土塀があった、と判明した。
とある。


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尾根上の細い道を南へ進む



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通路に階段があり、左手の盛り上がりには小さな段曲輪群が連なる


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前方に高まりが見えてきた。


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低い切岸です
あの上が新城の本丸です
南東側の虎口へ回り込む


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主郭下にはいくつも小さな帯曲輪が取り巻いてる
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主郭を見上げる

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上の看板の所に門があったそうです。


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帯曲輪を見る

新城本丸から
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土佐国方面を見る


本郭(本城本丸)方面を見る


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本郭の左手下に西10曲輪の建物が見える。


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百名城スタンプはあの建物にあります。
谷の向こう岸まで遠い、ですわ。
今いる新城と西10曲輪の間に風呂ヶ谷があるので、谷を見下ろす形で両方の曲輪が防御してるわけです。
駐車場は風呂ヶ谷の入り口にあります


新城本丸は例のごとく土塁のない平坦地です


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土塀が取り巻いてただけの造り。


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こちらは高い切岸と下の帯曲輪

南東側の堀切土橋


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左手が大きく掘れてるのがわかるかな?
土塁の向こうにも小さな堀切のようなものがありました


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↑新城の東側に長い竪堀があるはずなので斜面に降りた


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が、下草が多くてわからない。
あきらめて引き返しました。

11時11分、またまた大堀切門に戻りました


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そして、最初の登山場所に戻った。


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本郭を見上げる

本郭へは南斜面の道を登ります

次回へ続く~



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征2】河後森城1、永昌寺~古城

2021-06-25 22:59:23 | 伊予国の史跡

河後森城、「かごもり」と読む。

伊予と土佐の国境にある。だから、高知県からJR予土線でのアクセスもあり、です。

中世の巨大山城で愛媛県最大級と言われてる。

最大、じゃなくて最大級…

最初の城主は渡辺氏で鎌倉時代に入城したとされる。

国境のため土佐一条氏と長宗我部氏の戦闘の舞台となり、長宗我部氏が支配下となるが、秀吉の四国平定後は、小早川氏→戸田氏→藤堂氏→冨田氏と城主が変遷。

江戸時代は、伊達藩の領地となり付家老の桑折氏の居城となりました。

伊達家にとって国境の河後森城は要衝だったことがわかりますね。

なお、藤堂氏時代に天守が板島城(宇和島城)の月見櫓として移された、という説があります。


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松丸駅からパンフの徒歩ルートに従って山へ向かいました


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芝不器男という俳人の出身地で、いたるところに石碑、句碑があります。


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なお、芝氏は最初の城主渡辺氏の重臣だったが、戦国時代に渡辺氏を謀略で追い出し新城主となり一条氏や長宗我部氏の間をうまく立ち回った。

しかし、秀吉時代に追放されてしまった。

芝不器男はこの芝氏の子孫かも?ね。


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旧松丸街道の宿場として栄え、趣のある建物が残されてます。


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坂本龍馬が脱藩した時、土佐からこの松丸街道を通って伊予国へ抜けたそうです。


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松尾西小学校の横を通り


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「永昌寺」へ。


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山上の河後森城は詰城で、城主の普段の居館はこの永昌寺だったそうです。


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境内には不器男の句碑と、


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城跡碑あります。


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車の場合、北の駐車場から登れるが、我が輩は永昌寺登山口から登りました


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10時05分、



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東第二曲輪と東第三曲輪の間に出ました。

「東2」の右上が主郭になる。

登山口から寺の登山口から7分ほどです

主郭は後回しにして、まずは東曲輪群を探索します。

東3から東4へは一段下がる

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右手の下は犬走通路かな?

そして、

東曲輪群と古城群の間の堀切が見えてきました
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犬走通路へ降ります

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曲輪の間の堀切へ


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門が復元されてます。

犬走から堀切へは通路として利用されたようで、門から旧松丸街道及び広見川方面への大手もしくは搦手の登城道があったかな?と想像できます。

堀の深さは3m、幅は4~7m

城内では最大の堀切です。

発掘調査で掘立柱跡が見つかったのでそれをもとに門が復元された。

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↑堀切・門の向こうの下が旧松丸街道、広見川。


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門の解説図があるが、読みにくい。

地元の小学生の手製の図は好感度大!

気持ちが嬉しいです。

堀切を越えて
本丸の下の段曲輪「古城第二曲輪」から階段を登り

【古城1、本丸】
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古城には、番小屋や櫓があった

配置図
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↑松野西小学校生徒の作品


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西側(街道側)に「石打棚」があった。

初耳の用語です


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板塀を使った防御壁
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柱跡などからの想定図です

色々と想像をかきたてられますな


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麓を見る。

眺望良し。

古城という名前から察するに鎌倉時代から戦国時代にかけての本来の城跡のメインはここだったのだろうね。

ここまで見てきて気づいたのは平坦な削平地ばかりで竪堀も土塁も見当たらない。

これが伊予国の古い城のあり方なのかな?

ちょっと物足りないような…

本丸の東の端から下をのぞく
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段曲輪、堀切が見える

道が無く恐いけど、なんとか降りてみた


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すぐに土橋、堀切
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堀切は短く薄い、竪堀として落ちてない

向こうに古城4と3が見えます


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古城4は古城3の下の段曲輪


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古城3は細長い曲輪で東尾根に伸びる


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先端近くまで進んだが下草多く
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引き返して

堀切・門へ戻りました

この後、新城、本郭へ向かいます

次回へ続く…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征】その1、宇和島へ

2021-06-18 15:31:00 | 伊予国の史跡

2020年、伊予国へ遠征しました。その記録を紹介します。


2月のこの時期は母がリハビリ入院してました。
3月に退院予定だったので、今のうちということで愛媛県の百名城巡り遠征に旅立つことにしたのです。


2月20日(木)夜、新大阪駅阪急高速バスターミナル。

22時50分発、深夜高速バスに乗りました。


2月21日(金)早朝。

石鎚山SAで休憩。
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アンパンマン列車が停まってました


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ここから汽車で移動。


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7時11分発に乗り、
8時04分「宇和島駅」着。

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宇和島は祖父の故郷。

祖父はある日行商に出て関西に行き、我がひこにゃん市に住み着いたと聞いてます。

我が輩は10数年前にマイカーで四国一周した時に宇和島に立ちよった。
と言ってもその時は豪雨で、通過しただけです。


駅のロッカーに荷物を預ける。
続百名城の「河後森城」向かうのだが、次のバスまでに50分あるので駅近辺を散策しました。


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マンホールにも牛が
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「龍光院」
宇和島初代藩主伊達秀宗が宇和島城の鬼門の抑えとして建立。
伊達家の祈願所となりました。


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西方向の宇和島城を見る。

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この寺は宇和島城の出城と言ってもいいと思います。


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時間が来たので駅前から8時54分発のバスに乗りました。
しばらく走った後、この辺かな?
と思い窓から北の方向を見ました。


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あの山の向こうに祖父の生家がありました。

現在は鬼北町ですが、合併前は広見町でした。
生家も墓も別の町に移ったそうで、もう広見町には何も残ってません。
なんか、寂しいですね。



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祖父はこのバス停から、もしくは予土線の近永駅から宇和島駅に向かい、近畿へ来たのかもね。


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9時40分、松丸駅前バス停で降りました。


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駅舎の中には河後森城の模型があります。


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パンフレットを貰っていざ城跡へ出陣!


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その2に続く


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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