2009/03/15
2009/07/20
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(18)授業参観のごほうび
授業参観は、学生たちにとってやはり緊張するものです。私としては、できる限り学生が何らかの発言したらほめてやり、発言の訂正などは、参観の場で行うのではなく、のちほど自分たちの授業の中で行えばいい、と考えました。参観者の前で「間違っている」と、なおされるより、「よい、文が作れました」とほめられたほうが、ただでさえ緊張している学生にとって、負担が少ないからです。
他のクラスでは、1度も誰からも授業参観がなかったクラスが2クラス。文科省が10分ほど覗いていったクラスが2クラス。私のクラスだけが、文科省視察団の参観のほか、日本人教師団ダンチョー先生の参観、中国人日本語教師の授業参観が2度、中国人日本語教師の総見参観1度、他の大学の先生たち4人の参観、都合6回も授業参観を行いました。
授業参観のまえに、うまく答えられるよう「予行練習」をさせる先生もいますが、私は普段のままで、間違ったら間違ってでいいや、と言う考え。縄跳びの「特別栄誉賞」の授与を参観の場で行うというのもサプライズ企画で、学生たちは知らされていなかったので、手作り賞状をもらって、とても喜んでいました。
だだし、「賞状の受け取り方」というのは、前に「卒業式」の話題でふれたことがありました。「練習と人生」読解のなかで、日本では卒業式の練習を何度も繰り返し、予行練習を行って式が滞りなく進むようにお辞儀の練習や賞状受け取り方の練習をする、と話し、日本と中国の違いについての話題が出ました。学生たち、中国ではそのような賞状受け取りの練習はしない、と言うので、賞状はこういう具合にもらうのだよ、と、実演して見せたのです。
私からの賞状授与では、班長のキンセイさんが上手に受け取りをして、拍手喝采でした。
総見授業参観が、なごやかに終了できたのも、学生たちが緊張しながらもいっしょうけんめい答えていたおかげ。私から学生にごほうびをあげることにしました。
ごほうびは「浴衣姿の写真」のプレゼント。
学内の他コースの先生が保有している浴衣を借りて、クラスの学生たちに着付けをしてやり、浴衣姿の写真撮影大会をやる、というクラスイベントを開催したのです。
私は、娘の浴衣着付けをしたとき文庫帯の結び方を練習したのですが、忘れているので、もういちどネットの「帯結び」のサイトを開いて復習。だいたい思い出しました。
着物は、女物の単衣の着物が3枚、黄八丈や花柄です。浴衣は女物が4枚、男物が1枚だけ。これは、和服を着たがるのは、女子学生が多いので、女物のほうが多く集められてきたからでしょう。
実は、「浴衣で写真撮影」は、生け花教室の次の「日本文化体験教室」として、5クラス共通のイベントとして予定されていたのですが、諸般の都合により、5クラス全体ではしないことになってしまいました。
だから、私のクラスだけ浴衣を着て写真をとったら、他のクラスから不平が出るところでした。
でも、「参観授業を何度もしたごほうび」ということにすれば、他のクラスは参観授業を実施していませんから、あきらめてもらえます。
クラスの学生には、「他のクラスが、3班だけ浴衣着付けをしてもらって、ずるい」と言い出したら、「3班は授業参観をしたから、そのごほうびなのだ、と説明しておきなさい」と、言い含めておきました。
<つづく>
2009/07/21
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(19)浴衣姿の撮影大会
我がクラスは、女性が10人、男性9人。浴衣は、女物が7枚に対して男物は1枚しかない。男性は、女物を流用したり、男物浴衣を交代で着ることにして、浴衣着付け教室を行いました。浴衣の枚数が足りないので、3回に分けて実施。
第1回目は、男性3人、女性5人が参加。私が文庫帯をふたりの女性に結び、あとは、付け帯です。一番人気は付け帯のお太鼓帯でしたが、じゃんけんで勝った人から好きな着物を選び、負けた人から帯と下駄草履を好きな順に選ぶと言う方法で、まずそれぞれの着物と帯を選びました。
第1回目のときは、私がひとりで文庫帯を結んだので男性にまで手が回らず、男物浴衣は自分で帯を締めさせたところ、心配したとおりに胸高に締めて、「ツンツルテンに胸高帯」で、見事に「天才バカボン」になっていました。
2回目3回目は、「帯はズボンのベルトの下に締めること」を徹底して、なんとか見られる姿になりました。
1回目、ひとりで着付けをしたら、大変でした。それで、他学校の先生から授業参観希望を伝えられたとき、授業参観の一環として「学生と会話しながら、浴衣の着付けを手伝う」ことを条件に参観希望に応じることにしました。2回目は、短時間に着付けが終了し、たっぷり写真をとることができました。参観の先生方ともいっしょに写真をとり、よい記念になりました。
浴衣は、本当は裸の上に直接着るのだ、湯上がりの衣装だった、という解説は事前にしてありましたが、1回ごとにクリーニングに出す予算がないので、Tシャツとズボンの上に羽織ることにしました。
浴衣はまだしも、ウール黄八丈などは、Tシャツの上に着ると、7月の気温で、かなり暑い。しかも、日頃なれない帯をぎゅっと締めた女子学生は「毎日着るならたいへんだ」と言いましたが、互いに写真を取り合って、「きれいね」「日本女性みたい」とほめ合って、大喜びでした。
男性組も、腕組みをしてポーズとるやら、恋人同士が並んでラブラブ写真を撮るやら、楽しそう。
他のクラスからのぞきに着た学生もいっしょに撮影していました。他クラスの女性陣はちょっとうらやましそうです。
3回目は、「女物でも写真にとってしまえば、男物の浴衣とたいした違いはない」ということで、残った男性たちの和服撮影大会。実際、男物の浴衣も、平均身長180センチの我がクラスの男性陣にはツンツルテンです。女物でも、着流しにすれば、膝の少し下くらいの長さには達する。ゆきが短いので、袖は肘が出るけれど、写真は、膝から上だけを撮影すれば、ツンツルテンはごまかせる。
<つづく>
2009/07/22
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(20)浴衣姿の感想
ブログのニックネームを「白ちゃん」にして、3月から「日本語ブログ」を書いてきた我がクラスの男子学生の日記を紹介します。
彼はとても穏やかなやさしい性格で、他の女子学生のスピーチコメントにも「いつもやさしいエンテイさん、大好きです」と書かれていました。
女性にもてそうですが、親友レイトウさんの短作文によると「エンテイさんはチャイなので、女性と話そうとすると、すぐ真っ赤になってしまう」そうです。うん?チャイナので?中国人はすぐ真っ赤になるのか、と思いきや、「彼はシャイなので」と表現したかったのでした。「~ようとすると」「~そうとすると」という文型の練習文としてレイトウさんが作った文。
レイトウさんとエンテイさんは、クラスのなかで、「まだ恋人がいない男性3人」のうちのふたりです。
ブログのなかでは、私のことを本名で呼ばず、春庭かHAL先生と書いておいてね、と話したので、彼のブログで、私は「春庭先生」で登場しています。
エンテイさんの日本語ブログ、誤用はありますが、私は「書き続けるうち必ず上手になるから、初期の間違った文を直さない方がいいですよ。そのうち、だんだん上手になったとき、最初はこのように間違えていた、ということがわかったほうがいいから」とアドバイスしました。
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7月8日
昨日、授業が終わった(あと)、春庭先生は六つの着物を持って来ました。着物の中で、五つのが女の着物、一つしか男の着物ではない。
着物は日本の伝統の服だ。現在、正月や成人式、結婚式など特別な時に着物を着る。私たちは初め(て)この着物を着る。男の着物を着方が簡単(だ)が、女のが複雑だ。春庭先生は優しいので、私たちを助けた。着物を着終わったとき、私たちのイメージが完全(に)変わった。また、私たちは先生と一緒に写真を撮った。この写真を見るのを楽しみにしている。
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着物を着たあとでは、鏡に映る自分の「イメージが完全に変わって」日本人のようにみえることを、かわるがわる写真を取り合って楽しんでいました。
私のブログコメント
「白ちゃんは背が高いので、着物のサイズが少し小さかったことはちょっと残念でしたが、白ちゃんの着物姿は、とてもカッコよく、男前でした。教室のコンピュータに着物の写真が入っています。USBを持ってきて、コピーしてください。」
<つづく>
2009/07/23
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(21)美人新入生
美人揃い、ハンサム揃いの我がクラスの、「美人平均値」が一段と上がったのは、7月6日に、新入生が加わったから。他のクラスの男性陣も「美人新入生」に注目。
修士課程修了後、大学の教師をしていた女性で、自己紹介スピーチとして、生まれ故郷の無錫の紹介をしてくれました。大学教師を辞めてこちらに来る前の、自分の教え子学生たちとの記念撮影では、学生に囲まれた写真のようすから、皆に慕われた先生だったことがよくわかりました。修士の専門は日本経済。同志社大学の博士過程では経済学を専攻する予定です。
彼女は学部では日本語日本文学を専攻し、日本語能力試験1級に合格していますから、本来は、日本語教育の受講は免除されています。しかし、彼女は「日本語の復習をしたいから、クラスに参加したい」と自分から希望して授業に出席することになりました。
中級の2級レベルを学習しているクラスですから、彼女にとっては、すでに習ったことばかりのはず。でも、彼女は熱心に授業に参加し、クラスメートたちにはよい刺激になりました。
自己紹介のスピーチでも、1級レベルになると、このようになめらかに豊富な語彙を使って表現できる、と言うことがクラスの学生たちにわかって、よい刺激になりました。
他のクラスの「まだ恋人いない軍」の男子学生たちも、美人新入生が3班に入ったことをうらやましがっています。
2007年のときのクラスは、大学若手教師がほとんどを占めていて、21名の学生のうち、独身は5人だけでした。(そのうちの2人は日本に行ってから恋人同士になったようです)
2009年の今年のクラスは、2008年6月に修士課程修了する前に「国費留学生試験」にパスして、就職経験を持たずに日本語教育を受講している学生がほとんどなので、班長のキンセイさんと、学芸委員のソケツさんが結婚しているだけで、あとは独身。
といっても、美女美男の我がクラスですから、ほとんどの学生は、学部時代、院生時代にすでに恋人を得ています。クラスの中には、院生時代から恋人同士になったカップルがいて、ふたりが仲良く並んでいるようすは、恋人同士というより、むしろ「長年連れ添った夫婦」のような互いの信頼感と落ち着いた愛情が感じられます。
男性の「恋人いない3人組」のうち、ショウケンさんは最近「学食デート」して女性といっしょに食事している姿を見かけたのですが、交際申し込みが受け入れられたという噂はないので、まだ恋人成立には至っていないらしい。彼は84年生まれで、一番若いので、これからいくらでも恋人を得るチャンスはあるでしょう。
男子学生で一番年上のレイトウさんは、学部を卒業した後、数年会社で働いてから修士課程に進学した人です。とてもよい性格で落ち着いた優しい人柄なのに、なぜか今まで恋人はいなかった。
レイトウさんは、宿題の「習った文型を使って短い文を書いてください」という課題に、クラスメートの学習委員について、話題にすることが多かった。
レイトウさんは、女性の中で一番若くて日本語が上手な学習係が、気になってならないようすでした。たとえば、「~ばかりでなく」というフレーズをつかって文を書いてください、という宿題を出すと、「私のクラスの学習委員は、頭がいいばかりでなく、美人だ」と、書いてくる。「~はずがない」というフレーズの作文では、「カショさんは、頭がよくてきれいなので、男性は彼女が嫌いであるはずがない」と書きました。
<つづく>
2009/07/24
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(22)シングルたち
ある日の作文、「~べき」「~か、どうか」というフレーズを使って作文を書きなさい、という宿題ではレイトウさんは、「もうすぐ、中級の授業が終わりになり、クラス替えがある。残念なことにならないよう、自分の気持ちを言うべきだろうか。告白をするべきかどうか、、、、」と、書いてきました。私は、「勇気をだして告白したほうがいいですよ」と、コメントを書き込んで宿題を返しました。さて、どう進展したか。
学習委員のカショさん、修士号取得者クラスで一番若い(84年生まれ)。彼女は、とても活発で親切。歌と踊りが上手で、日本語も上手です。彼女が、文法問題や日本語類義語の微妙なニュアンスの違いなどを質問してきたときなど、私が日本語で説明し、彼女が理解した後、それを中国語でクラスの人に解説してもらう、という場面もよくあり、学習係としてクラスの日本語学習の向上に役立ってきました。
彼女には北京に恋人がいて、今は遠距離恋愛中です。中国でも最近の学生遠距離恋愛は、スカイプ利用でパソコンで会話ができ、互いの気持ちを伝えあうのでも、すれ違いはないようです。彼女に恋人がいることは皆知っていました。
コメントに触発されたのかどうか、レイトウさんは思い切って学習係に告白したみたい。結果は、、、、、、残念。「今、恋人がいるから、ごめんなさい」でした。仕方がないですね。今のカショさんの恋人もとてもすてきな人のようです。レイトウさんもとってもいい男なんですけれど、先約済みを覆すには至らなかった。
レイトウさんは、「結果は残念だったけれど、告白しないで心残りになるより、思い切って言ってよかった」と前向きにとらえて、クラスの中では「ふられてスッキリ」とふるまっています。クラスメートたちも皆それを知っていて、温かく見守っています。頭がよく、背が高くハンサムなレイトウさん、いつか必ずすてきな恋人と巡り会うことでしょう。
もうひとりの「恋人いない歴26年」のエンテイさん、彼とは、毎日学校で顔をあわせているほか、「運命の出会い」がありました。7月4日に宿舎のすぐそばのスーパー近くで、偶然会ったことがあります。エンテイさんは先輩と近くの繁華街桂林路で食事を済ませたところでした。
エンテイさんは、動物園散歩をしたおりに、私の宿舎へきたことがあるので、「宿舎はすぐそこだから、いっしょにお茶でも飲みましょう」と、部屋でおしゃべりすることにしました。先輩の四喜さんは、日本語は全くわかりませんが、エンテイさんが通訳してくれました。英語が少しはわかるというので、英語で話しかけてみても、エンテイさんが中国語に通訳するので、しばらく、英語日本語中国語のチャンポン会話を続けました。
エンテイさんの先輩、四喜さんは、近くの大学病院で働いています。二人は薬学を専攻し、先輩の四喜さんは大学病院に職を得て働くようになり、エンテイさんは、大学院へ進学しました。
エンテイさんは先輩をたて、とても優秀な人だと紹介してくれましたが、四喜さんは、東京大学に国費留学することが決まっているエンテイさんの境遇のほうが、大学病院で働くよりいいと考えているらしく、「大学病院の仕事はあまりおもしろくない」と、こぼしていました。
確かに、博士過程に進学する国費留学生は、博士号をとって帰国して中国の大学で働くとしたら、薬学部教師のポストが与えられるでしょうから、四喜さんからみると、エンテイさんはエリートコースに乗ったと見えるのでしょう。四喜さんも「まだ恋人いない」でした。
恋人いない歴○○年のレイトウさんもエンテイさんも四喜さんも、きっといつかすてきな出会いがあるだろうと思います。それまではシングル男の自由さを楽しんでください。
自分の気持ちをきちんと告白したレイトウさんを見習って、私も「運命の出会い」をしたエンテイさんにプロポーズしておきました。「あなたを私の息子にしたいです。日本に行ったら、私の娘と付き合ってね」
回答は、「お友達から始めましょう」でした。
<つづく>
2009/07/25
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(23)民族楽器音楽会
6月末の学内縄跳び大会で学内イベントは最後かと思っていたら、7月10日に校舎1階の多目的ホールで「民族楽器音楽会」という盛大なイベントがありました。大学教職員芸術団楽団の演奏による、民族楽器の紹介と演奏。6時から8時までありました。
勤務校のテイ先生の肝いりで、教職員芸術団楽団のメンバーが、学生と教職員のために、演奏会を開いてくれたのです。
テイ副校長は、皆から「書記」と呼ばれている大学の重鎮です。日本の小中学校生徒会とかPTAでは、役員の中に会長副会長の次くらいに「書記」という係があって、会議の記録などを書いていくのが書記ですが、中国で書記といったら、政治局のエリートであり、とてもエライ人。トップは総書記と呼ばれ、現在の総書記は胡錦涛(ホゥー・ジンタオ)です。
我が校の「書記」テイ先生は、政治のエリートというより、芸術家の雰囲気がする人で、中国語や中国文化を学ぶために中国に留学している外国人学生に、中国文化を教えるなどしています。私も2007年に、太極拳を教えてもらいました。テイ先生は二胡の演奏にも秀でており、大学教職員芸術団楽団のメンバーでもあります。
演奏会は、「紅楼夢選曲」から始まり、次にテイ先生による民族楽器紹介がありました。私は二胡は知っていましたが、二胡の同類の楽器に、高胡、板胡、京胡、中胡と、何種類もあることをまったく知りませんでした。これらは拉線楽器の種類。
| 吹奏楽器には、竹笛、笙などがあります。日本の篳篥(ひちりき)に似た管楽器、また、巴烏(バーウー)という雲南省の少数民族の楽器も紹介されました。巴烏は、竹の管に銅のリードをつけ、低音の含みのある音が出ます。
あとは、さまざまな種類の打楽器。京劇でなじみの打楽器が多い。
弾撥楽器の種類には、日本と同じ琵琶(中国の琵琶が日本へ伝えられたのだから、同じというのは当然だが)のほか、中阮、大阮というバンジョーに似た楽器が紹介されました。
楊琴と古箏は、以前ブログで紹介したことがある私の好きな弾撥楽器です。楊琴はピアノのように鋼線を張った上を、木琴のように棒で叩いて音を出す。私が習ってみたい楽器のひとつです。
古箏は21弦で、私はクラスの学生の持ち物である古箏を弾かせてもらい、「里の秋」が上手に弾けるようになりました。
日本にある中国伝統楽器専門店のサイトをリンク。日本では、どの伝統楽器も20万円ほどしますが、中国で買っても、よい品は5千元くらいして、中国物価からすればとても高い。初級者用は千元くらいから。
二胡の類 http://www.13do.com/product-list/11
中阮 http://www.13do.com/product-list/22
竹笛 http://www.13do.com/product-list/15
巴烏 http://www.catalog-shopping.co.jp/shop/shop14/china/bawu/
テイ先生の板胡独奏では、「東北風吹月児明」という曲の見事な演奏に聞き惚れました。司会をしていたチャンリー先生は、初級コースのときに博士コースの担任だった先生で、男子学生あこがれの美人教師。ダンスも上手だし歌もうまい。チャンリー先生は「好日子」という曲を独唱して拍手喝采を受けていました。
<つづく>
2009/07/26
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(24)里の秋
中国人学生にとって、エレキギターなどの現代風の曲を聞く機会はよくあるけれども、民族楽器オーケストラを聞く機会はそれほど多くなく、中国民族楽器音楽会は、中国の伝統文化を知る貴重な機会となりました。
二胡の演奏では日本の「荒城の月」の演奏もあり、歌や演奏はよく知られた中国の伝統曲ということで、学生たち、2時間の民族楽器演奏会をおおいに楽しんでいました。
演奏会が終わってから、日本人教師は、中国伝統楽器の試演奏をさせていただき、私はあこがれの楊琴を弾いてみました。調律がたいへん難しい楽器だというので、買って帰ることはあきらめましたが、いつか習ってみたい楽器のひとつです。
古箏、近所の楽器店で2千元という格安ものが展示されていました。日本円に換算すれば3万円くらい。でも、古箏は大きくて持って帰るのが大変そうだし、狭い家ではいったいどこに楽器を広げて弾いたらいいのかわからないから、これまた買ってかえるのはあきらめることに。
古箏は、クラス一の芸術家、エイケツさんの楽器を借りて練習しました。エイケツさんに、古箏はドレミソラの五音階であることを教わり、基本的な弾き方、糸の押さえ方をならいました。日本の十三弦の琴と同じです。あとは、さぐり弾きで「里の秋」を練習しました。「里の秋」は典型的な「ヨナ抜き」つまり、ファとシの音が出てこない曲で、しかも音が順番につながって出てくるので、たいへん弾きやすい。
クラスのカラオケパーティでも、私は「里の秋」を歌いました。スクリーンには中国語の歌詞が出るので、学生は中国語で、私は日本語で「♪し~ずかな静かな、里の秋、お背戸に木の実の落ちる夜は~」と、歌いました。
「里の秋」は、敗戦直後のラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」や「復員だより」のテーマソングであり、外地から帰る人々を待つ思いが込められている歌です。遼寧省葫蘆島市の「中国及び満州からの引き揚げ者帰国記念碑」の前で歌おうとおもっていたのですが、行くことができずかないませんでした。
「里の秋」は、中国ではテレサ・テン(麗君デン・リージュン)の持ち歌「又見炊烟」として知られ、女性が恋人のことを思う歌となっています。
(「又見炊烟」春庭拙訳)(簡体字を日本漢字に変換)
想問陣陣炊烟 你要去那里 あなたがこの里を去ってから、私は夕ごはんを炊くかまどの煙にさえ、あなたを思っています
夕陽有詩情 黄昏有画意 夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你 絵のように美しい景色を見ても、私の心の中には、ただ、あなただけがいる
又見炊烟升起 勾起我回憶 かまどの煙を見てはあなたを思い、あなたの追憶にひたる
願你変作彩霞 飛到我夢里 朝焼けの中に、あなたが飛んで私の元へ来ることをどれほど願い夢みたことだろう
夕陽有詩情 黄昏有画意 夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你 詩歌や絵画に美しい境地はあれど、私の心の中には、ただ、あなたへの思いだけがある。
詩情画意雖然美麗 我心中只有你
テレサテンの歌声はこのサイトで。
http://www.haoting.com/htmusic/21022ht.htm
私も「里の秋」を歌いながらまもなく「引き揚げ」です。
<つづく>
2009/07/27
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)肚皮舞発表
おみやげに楽器を買うことはやめましたが、自分のために、「よくお仕事がんばりました」の記念品をいくつか買い込みました。今回、買って帰ることにしたのは、ベリーダンス衣装です。コインをつなぎ合わせた腰巻き(ヒップスカーフ)と、スカート、胸を覆うコインをつなぎ合わせた上着。(上着というより、ブラジャーに近いが)
3度目の中国滞在の今回、東方肚皮舞(ベリーダンス)を3ヶ月間習って、けっこう上手に踊れるようになりました。(あくまでも主観的な意見ですが)
あ、ダンスの老師も、「このリーベンレン(日本人)は、私の説明は听不懂(聞いてもわからない)のに、うまくまねをして踊っている」と、誉めてくれたんですよ。(信じがたい人は、来年のダンスィングソレイユの発表会を見にくるように)
所属しているジャズダンスサークルへのおみやげとして、ベリーダンスの衣装を買い込みました。来年の発表会のとき、皆で「ベリーダンス風」の踊りを発表するのもいいかなって思って。
あ、私は臍だしはしませんから、大丈夫。もっとも私が臍を見せても、だれもドキリともしやしません。自慢じゃないが、まったく色気を感じさせることのない腹です。インストラクターの劉先生が踊ると、同性でもドキドキするくらいセクシーなのに、同じ動き(をしているつもり)でも、私が踊ると、オバハンの健康体操。
衣装はこんなイメージ。
http://www.tolcore.com/shopdetail/025000000022/
いっしょに肚皮舞を練習してきたリグン先生からも腰巻き(ヒップスカーフ)をプレゼントしてもらいました。私が買ったのとは違う種類のコインがじゃらじゃらついているヒップスカーフです。
こう言っちゃなんですが、リグン先生も、お人柄そのままの非常にまじめな踊りで、少しもセクシーではない。リグン先生はやせていてほっそりタイプですが、本場のベリーダンスダンサーは、丸くてふくよかであるほどよし、とされており、やせていて細ければ細いほど美しく見えるクラシックバレエやジャズダンスとは違います。私がベリーダンスを気に入った一番の点は、この「ふくよかであるほうが色っぽい」とされる点にあります。むろん、「ふくよかであるのに、少しもセクシーじゃない」って場合もあります。
ベリーダンス練習も成功しましたが、、、、もちろん、日本語教育も大成功だったんです。
我がクラスは、7月17日に実施された「中級終了最終試験」において、全員合格点で「専門日本語」への進級が決まりました。昨年10月にアイウエオから始まったクラス。私たち日本人教師が中国人の先生とペアになって日本語を教えるようになった3月には、4級レベルだった学生たちが、4ヶ月の間に急速に進歩して、2級レベルの試験に合格したのです。
<つづく>
2009/07/28
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)最終試験
7月に入るとまもなく、学生たちはカリカリピリピリしてきました。それもそのはず、2週間後に迫った中級日本語最終試験に合格しなければ、8月の専門日本語の授業が受けられず、専門日本語授業の最終日本語プレゼンテーションに合格しなければ、1年間日本語を学び続けた努力は泡と消えてしまうのです。
日本への国費留学ができるかどうか、この試験にかかっています。いわば、一生の問題が試験一つにかかっているのです。試験に合格すれば、日本で博士号をとり、中国に帰国後は「エリート」としての将来が開ける。不合格ならせっかくのチャンスをふいにして、どこかに就職口を探すことになる。中国でも修士修了者が増えている現在、おいそれと望み通りのポストはないし、一般会社の就職口もよい条件のところは限られています。
動物園散歩をしたあと、私のクラスから6人の学生が私の部屋に遊びに来たのですが、その後、私が日本語教師勉強会で発表しなければならなかったり、論文を提出しなければならなかったりで、時間がなかなかとれなくて、学生を部屋に招待することができませんでした。
「先生の部屋に行って、おしゃべりできなくて残念だった」という学生がいたので、「試験前ではありますが、もし来られるなら、週末に遊びに来てください」と、クラスの人たちに言っては見たものの、「先生の部屋に行きたいです。でも、試験はもっと大切です」と、ソッコー断られました。もっともなことです。
学生たちは放課後も週末も、ぴりぴりしながら猛勉強を続けました。私は、学生たちの不安を少しでも取り除きたいと、連日「必ず合格するから大丈夫」と言い続け、「ダンチョー先生が去年の修了生の試験平均点との比較をしたところ、3月の4級レベル試験の平均点でも5月の3級レベル試験の平均点でも、今年のほうがずっと点数が高い。そして去年、最終試験に不合格だった学生はいないのだから、今年も絶対に全員合格します」と、合格できるという暗示をかけ続けました。
むろん、心配な人もいました。私に古箏の弾き方を教えてくれた芸術家のエイケツさんは、これまでの試験すべて合格点に達したことがなく、百点満点で90点80点とるのが当たり前というクラスの中で、一人だけ日本語がなかなか上達しませんでした。さぼっているわけでもなく、授業にはまじめに出席するし、教科書にはびっしり書き込みをして、一生懸命勉強しているようすが伺えました。でも、私が中国語を覚えられないのと同じように、相性の悪い言語はあるもので、英語ドイツ語フランス語ができるのに、エイケツさんは日本語が覚えられない。
コミュニケーションをとることが語学上達の要なのに、彼女はクラスの中で孤高を保ち、クラスメートともルームメートとも交流しないでいました。友達と教えあうことは、教える人にとっても理解を深めることになるので、ペア学習、グループ学習は語学学習を成功させる重要な方法ですが、彼女だけは誰とも話さずいっしょに勉強せず、ひとりでいました。
誰彼と無く面倒を見てきた学習係のカショさんも彼女だけはお手上げ。
エイケツさん、芸術家風で変わり者ではありますが、純粋な心根を持つ、いい子です。中国語で執筆されている彼女の「昆曲のリズムと造園法」という修士論文も、その道の人に高い評価を受けています。私の願いは、なんとか彼女が合格点をとること。いっしょうけんめい励まして、17日を迎えました。
<つづく>
2009/07/29
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(27)合格
息子の大学入試(センター試験)の時もハラハラドキドキしました。息子は高校不登校生で、16歳のとき「高校卒業認定試験」に合格して以来、家の中に引きこもり、ゲーム漬けのまま、ひとつも勉強せずにセンター試験を受けたのです。試験当日、母にできることは祈ることのみ。それでも母の祈りが通じて、息子はセンター試験利用の都内の私立大学2校に合格し、好きな日本史を学べる方を選んで3年生になっています。大学の成績はほぼ全優です。成績はいいけれど、息子もまた他者との関わりが苦手な性格なので、大学で友人ともほとんどつきあいません。
ですから、クラスの中で一人で過ごしているエイケツさんのことがいつも心にありました。息子が大学で仲間とつるむことができない性格だからといって、決して悪い子ではなく、ただ人とのつきあいが苦手なだけなのと同じく、エイケツさんも本来はとても純粋なよいひとです。音楽や芸術を愛する女性です。
なんとかエイケツさんが仲間と円満にすごして最終試験を迎えられるよう願ってきました。しかし、エイケツさんは日本語学習がうまくいかないというイライラが昂じたのか、あと授業は残すところ10日、という時点でクラスメートとトラブルを起こし、クラス全員と対立してしまいました。
担任のシャ先生や日本語教育主任のマー先生が学生との面談を繰り返して、なんとかエイケツさんとクラスの対立を宥和しようとしてくださったのですが、うまくいきませんでした。
エイケツさんが変わり者でクラスになじもうとしないとしても、それは彼女が芸術家であるからなのであって、縄跳びやカラオケに参加しようとしなくても、クラスは彼女の個性を認め、決して排除しようとしたりしなかった。しかし、最後になって、エイケツさんはクラスから完全に浮いて結果になってしまいました。
残念な結末でしたが、それでもエイケツさんも、きっと私の祈りが通じて合格するに違いないと信じて、17日の試験当日となりました。私の試験監督担当は
学生たちには、再試験もあるし、絶対に不合格にはならないから、不安なく試験を受けるように言ったのですが、小学生のときから常にトップの成績を取り続けてきた学生たち、万が一、最初の試験で合格点に達せずに再試験にでもなったら、恥ずかしくて仕方がない、と考えているのです。
恥ずかしくないよ、語学試験なんて、その時の運、不運によってうまく自分の勉強したところが出ればよくできるし、運悪く勉強していないところがでる場合だってあるんだから、それでその人の全能力が判断されるわけでもない。百メートルを10秒以内で走れる人ばかりではないし、42kmを2時間で走れる人ばかりではないのと同じく、語学が不得意だからとしても、皆、それぞれの専門に関しては優れた業績を残してきた人ばかりなのだから、落ちたら堂々と再試験を受ければいいのさ、と、学生には言いましたが、実は私のクラスで再試験を受ける可能性があるのは、エイケツさん一人。
結果。エイケツさんを含め、クラス全員、他のクラスでも全員が一発で日本語能力試験2級レベルにごうかくしました。ばんざ~い!
全員合格の知らせを、郵便局で帰国荷物送り出しの作業中に電話連絡で受けました。荷物の段ボールに宛名書きしたり、ヒモがけしたり作業をしながら、涙がぼろぼろこぼれました。2007年のときも全員合格でしたが、こんなに泣けてきたのは、やはりエイケツさんの結果が心配だったからでしょう。
クラスの皆は、トラブルがあったあとも、決してエイケツさんを排除するような態度はとらず、クラスの班長の結婚祝いビデオクリップを撮影するときも、仲良くいっしょにお祝いのビデオを撮影していました。このようなよい人柄の学生たちばかりであったことが、今回の私の赴任にとっては、最大の幸運でした。
<つづく>
2009/07/30
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(28)帰国
というわけで、「日本の博士課程に留学する中国修士修了生への日本語教育」の全任務を終了し、無事帰国いたしました。
「だだいま!」
3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。
1,言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。
2,「文型教育読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。
3,「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。都合、論文4本の添削。
4,4ヶ月半の間に、文科省視察、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。
5,当地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践」について発表
6,東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。
7,担任クラス19名の2級レベル試験合格
8,ベリーダンス習得
おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。子どもたちからは「ああ、あ、うるさいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。
しかも、帰国してしばらくのんびりしたいどころか、6月に失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日。
9月には前期お休みした分の授業の集中講義をやらねばならず、大学院の単位にするレポート執筆が2本。
休んでいられません。
じゃ、これから発表、がんばります。
<つづく>
2009/07/31
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(29)記念のメダル本物と偽物
帰国したからと言ってのんびりしていられませんでした。その第一弾は博士論文中間発表。
6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。
指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。
30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。
私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。
実は、博士号はダイヤより高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間で合計250万円の学費をつぎ込むことになる。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を出しただけでは買えない。
お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。
私は「本物の価値ある博士」をめざして中国に単身赴任し、日夜授業を研究し、論文を執筆し、がんばってきました。
7月30日には、無事「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。ラストステージまで、なんとか持ちこたえていきたいものです。
私の授業実践での課題、「文型授業・読解授業に取り入れて日本の文化歴史を紹介する、パワーポイント画像利用の可能性をさぐる授業」というテーマ、まだまだ課題は大きい。日本の歴史や文化を紹介しだすと、私はついついあれもこれも学生に伝えたくなってしまいます。
「自国の文化歴史に誇りを持ち、留学先で紹介できること」ということも、学生に課していることのひとつなので、会話授業に西安が出てくれば兵馬俑や始皇帝陵の写真をだして、「日本人は始皇帝と兵馬俑についてよく知っているから、質問されたら、中国の世界遺産として、ちゃんと説明してあげられるように、しておいてね」と、学生には言っています。
この実践報告については、勤務校の創立30周年記念論集に応募したところ、8月16日に行われる創立30周年記念日本語教育シンポジウムの発表者のひとりになってよいと許可されました。
7月末に帰国してすぐまた8月中旬には中国行き。ずっと中国にいられたら楽ですけれど、公用パスポートを受けているので、任務終了とともに帰国することが必要であり、また、自分の博士論文発表をしなければならないこともあって、いったん帰国。またすぐ中国へとんぼ返りです。
<おわり>
2009/07/20
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(18)授業参観のごほうび
授業参観は、学生たちにとってやはり緊張するものです。私としては、できる限り学生が何らかの発言したらほめてやり、発言の訂正などは、参観の場で行うのではなく、のちほど自分たちの授業の中で行えばいい、と考えました。参観者の前で「間違っている」と、なおされるより、「よい、文が作れました」とほめられたほうが、ただでさえ緊張している学生にとって、負担が少ないからです。
他のクラスでは、1度も誰からも授業参観がなかったクラスが2クラス。文科省が10分ほど覗いていったクラスが2クラス。私のクラスだけが、文科省視察団の参観のほか、日本人教師団ダンチョー先生の参観、中国人日本語教師の授業参観が2度、中国人日本語教師の総見参観1度、他の大学の先生たち4人の参観、都合6回も授業参観を行いました。
授業参観のまえに、うまく答えられるよう「予行練習」をさせる先生もいますが、私は普段のままで、間違ったら間違ってでいいや、と言う考え。縄跳びの「特別栄誉賞」の授与を参観の場で行うというのもサプライズ企画で、学生たちは知らされていなかったので、手作り賞状をもらって、とても喜んでいました。
だだし、「賞状の受け取り方」というのは、前に「卒業式」の話題でふれたことがありました。「練習と人生」読解のなかで、日本では卒業式の練習を何度も繰り返し、予行練習を行って式が滞りなく進むようにお辞儀の練習や賞状受け取り方の練習をする、と話し、日本と中国の違いについての話題が出ました。学生たち、中国ではそのような賞状受け取りの練習はしない、と言うので、賞状はこういう具合にもらうのだよ、と、実演して見せたのです。
私からの賞状授与では、班長のキンセイさんが上手に受け取りをして、拍手喝采でした。
総見授業参観が、なごやかに終了できたのも、学生たちが緊張しながらもいっしょうけんめい答えていたおかげ。私から学生にごほうびをあげることにしました。
ごほうびは「浴衣姿の写真」のプレゼント。
学内の他コースの先生が保有している浴衣を借りて、クラスの学生たちに着付けをしてやり、浴衣姿の写真撮影大会をやる、というクラスイベントを開催したのです。
私は、娘の浴衣着付けをしたとき文庫帯の結び方を練習したのですが、忘れているので、もういちどネットの「帯結び」のサイトを開いて復習。だいたい思い出しました。
着物は、女物の単衣の着物が3枚、黄八丈や花柄です。浴衣は女物が4枚、男物が1枚だけ。これは、和服を着たがるのは、女子学生が多いので、女物のほうが多く集められてきたからでしょう。
実は、「浴衣で写真撮影」は、生け花教室の次の「日本文化体験教室」として、5クラス共通のイベントとして予定されていたのですが、諸般の都合により、5クラス全体ではしないことになってしまいました。
だから、私のクラスだけ浴衣を着て写真をとったら、他のクラスから不平が出るところでした。
でも、「参観授業を何度もしたごほうび」ということにすれば、他のクラスは参観授業を実施していませんから、あきらめてもらえます。
クラスの学生には、「他のクラスが、3班だけ浴衣着付けをしてもらって、ずるい」と言い出したら、「3班は授業参観をしたから、そのごほうびなのだ、と説明しておきなさい」と、言い含めておきました。
<つづく>
2009/07/21
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(19)浴衣姿の撮影大会
我がクラスは、女性が10人、男性9人。浴衣は、女物が7枚に対して男物は1枚しかない。男性は、女物を流用したり、男物浴衣を交代で着ることにして、浴衣着付け教室を行いました。浴衣の枚数が足りないので、3回に分けて実施。
第1回目は、男性3人、女性5人が参加。私が文庫帯をふたりの女性に結び、あとは、付け帯です。一番人気は付け帯のお太鼓帯でしたが、じゃんけんで勝った人から好きな着物を選び、負けた人から帯と下駄草履を好きな順に選ぶと言う方法で、まずそれぞれの着物と帯を選びました。
第1回目のときは、私がひとりで文庫帯を結んだので男性にまで手が回らず、男物浴衣は自分で帯を締めさせたところ、心配したとおりに胸高に締めて、「ツンツルテンに胸高帯」で、見事に「天才バカボン」になっていました。
2回目3回目は、「帯はズボンのベルトの下に締めること」を徹底して、なんとか見られる姿になりました。
1回目、ひとりで着付けをしたら、大変でした。それで、他学校の先生から授業参観希望を伝えられたとき、授業参観の一環として「学生と会話しながら、浴衣の着付けを手伝う」ことを条件に参観希望に応じることにしました。2回目は、短時間に着付けが終了し、たっぷり写真をとることができました。参観の先生方ともいっしょに写真をとり、よい記念になりました。
浴衣は、本当は裸の上に直接着るのだ、湯上がりの衣装だった、という解説は事前にしてありましたが、1回ごとにクリーニングに出す予算がないので、Tシャツとズボンの上に羽織ることにしました。
浴衣はまだしも、ウール黄八丈などは、Tシャツの上に着ると、7月の気温で、かなり暑い。しかも、日頃なれない帯をぎゅっと締めた女子学生は「毎日着るならたいへんだ」と言いましたが、互いに写真を取り合って、「きれいね」「日本女性みたい」とほめ合って、大喜びでした。
男性組も、腕組みをしてポーズとるやら、恋人同士が並んでラブラブ写真を撮るやら、楽しそう。
他のクラスからのぞきに着た学生もいっしょに撮影していました。他クラスの女性陣はちょっとうらやましそうです。
3回目は、「女物でも写真にとってしまえば、男物の浴衣とたいした違いはない」ということで、残った男性たちの和服撮影大会。実際、男物の浴衣も、平均身長180センチの我がクラスの男性陣にはツンツルテンです。女物でも、着流しにすれば、膝の少し下くらいの長さには達する。ゆきが短いので、袖は肘が出るけれど、写真は、膝から上だけを撮影すれば、ツンツルテンはごまかせる。
<つづく>
2009/07/22
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(20)浴衣姿の感想
ブログのニックネームを「白ちゃん」にして、3月から「日本語ブログ」を書いてきた我がクラスの男子学生の日記を紹介します。
彼はとても穏やかなやさしい性格で、他の女子学生のスピーチコメントにも「いつもやさしいエンテイさん、大好きです」と書かれていました。
女性にもてそうですが、親友レイトウさんの短作文によると「エンテイさんはチャイなので、女性と話そうとすると、すぐ真っ赤になってしまう」そうです。うん?チャイナので?中国人はすぐ真っ赤になるのか、と思いきや、「彼はシャイなので」と表現したかったのでした。「~ようとすると」「~そうとすると」という文型の練習文としてレイトウさんが作った文。
レイトウさんとエンテイさんは、クラスのなかで、「まだ恋人がいない男性3人」のうちのふたりです。
ブログのなかでは、私のことを本名で呼ばず、春庭かHAL先生と書いておいてね、と話したので、彼のブログで、私は「春庭先生」で登場しています。
エンテイさんの日本語ブログ、誤用はありますが、私は「書き続けるうち必ず上手になるから、初期の間違った文を直さない方がいいですよ。そのうち、だんだん上手になったとき、最初はこのように間違えていた、ということがわかったほうがいいから」とアドバイスしました。
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7月8日
昨日、授業が終わった(あと)、春庭先生は六つの着物を持って来ました。着物の中で、五つのが女の着物、一つしか男の着物ではない。
着物は日本の伝統の服だ。現在、正月や成人式、結婚式など特別な時に着物を着る。私たちは初め(て)この着物を着る。男の着物を着方が簡単(だ)が、女のが複雑だ。春庭先生は優しいので、私たちを助けた。着物を着終わったとき、私たちのイメージが完全(に)変わった。また、私たちは先生と一緒に写真を撮った。この写真を見るのを楽しみにしている。
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着物を着たあとでは、鏡に映る自分の「イメージが完全に変わって」日本人のようにみえることを、かわるがわる写真を取り合って楽しんでいました。
私のブログコメント
「白ちゃんは背が高いので、着物のサイズが少し小さかったことはちょっと残念でしたが、白ちゃんの着物姿は、とてもカッコよく、男前でした。教室のコンピュータに着物の写真が入っています。USBを持ってきて、コピーしてください。」
<つづく>
2009/07/23
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(21)美人新入生
美人揃い、ハンサム揃いの我がクラスの、「美人平均値」が一段と上がったのは、7月6日に、新入生が加わったから。他のクラスの男性陣も「美人新入生」に注目。
修士課程修了後、大学の教師をしていた女性で、自己紹介スピーチとして、生まれ故郷の無錫の紹介をしてくれました。大学教師を辞めてこちらに来る前の、自分の教え子学生たちとの記念撮影では、学生に囲まれた写真のようすから、皆に慕われた先生だったことがよくわかりました。修士の専門は日本経済。同志社大学の博士過程では経済学を専攻する予定です。
彼女は学部では日本語日本文学を専攻し、日本語能力試験1級に合格していますから、本来は、日本語教育の受講は免除されています。しかし、彼女は「日本語の復習をしたいから、クラスに参加したい」と自分から希望して授業に出席することになりました。
中級の2級レベルを学習しているクラスですから、彼女にとっては、すでに習ったことばかりのはず。でも、彼女は熱心に授業に参加し、クラスメートたちにはよい刺激になりました。
自己紹介のスピーチでも、1級レベルになると、このようになめらかに豊富な語彙を使って表現できる、と言うことがクラスの学生たちにわかって、よい刺激になりました。
他のクラスの「まだ恋人いない軍」の男子学生たちも、美人新入生が3班に入ったことをうらやましがっています。
2007年のときのクラスは、大学若手教師がほとんどを占めていて、21名の学生のうち、独身は5人だけでした。(そのうちの2人は日本に行ってから恋人同士になったようです)
2009年の今年のクラスは、2008年6月に修士課程修了する前に「国費留学生試験」にパスして、就職経験を持たずに日本語教育を受講している学生がほとんどなので、班長のキンセイさんと、学芸委員のソケツさんが結婚しているだけで、あとは独身。
といっても、美女美男の我がクラスですから、ほとんどの学生は、学部時代、院生時代にすでに恋人を得ています。クラスの中には、院生時代から恋人同士になったカップルがいて、ふたりが仲良く並んでいるようすは、恋人同士というより、むしろ「長年連れ添った夫婦」のような互いの信頼感と落ち着いた愛情が感じられます。
男性の「恋人いない3人組」のうち、ショウケンさんは最近「学食デート」して女性といっしょに食事している姿を見かけたのですが、交際申し込みが受け入れられたという噂はないので、まだ恋人成立には至っていないらしい。彼は84年生まれで、一番若いので、これからいくらでも恋人を得るチャンスはあるでしょう。
男子学生で一番年上のレイトウさんは、学部を卒業した後、数年会社で働いてから修士課程に進学した人です。とてもよい性格で落ち着いた優しい人柄なのに、なぜか今まで恋人はいなかった。
レイトウさんは、宿題の「習った文型を使って短い文を書いてください」という課題に、クラスメートの学習委員について、話題にすることが多かった。
レイトウさんは、女性の中で一番若くて日本語が上手な学習係が、気になってならないようすでした。たとえば、「~ばかりでなく」というフレーズをつかって文を書いてください、という宿題を出すと、「私のクラスの学習委員は、頭がいいばかりでなく、美人だ」と、書いてくる。「~はずがない」というフレーズの作文では、「カショさんは、頭がよくてきれいなので、男性は彼女が嫌いであるはずがない」と書きました。
<つづく>
2009/07/24
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(22)シングルたち
ある日の作文、「~べき」「~か、どうか」というフレーズを使って作文を書きなさい、という宿題ではレイトウさんは、「もうすぐ、中級の授業が終わりになり、クラス替えがある。残念なことにならないよう、自分の気持ちを言うべきだろうか。告白をするべきかどうか、、、、」と、書いてきました。私は、「勇気をだして告白したほうがいいですよ」と、コメントを書き込んで宿題を返しました。さて、どう進展したか。
学習委員のカショさん、修士号取得者クラスで一番若い(84年生まれ)。彼女は、とても活発で親切。歌と踊りが上手で、日本語も上手です。彼女が、文法問題や日本語類義語の微妙なニュアンスの違いなどを質問してきたときなど、私が日本語で説明し、彼女が理解した後、それを中国語でクラスの人に解説してもらう、という場面もよくあり、学習係としてクラスの日本語学習の向上に役立ってきました。
彼女には北京に恋人がいて、今は遠距離恋愛中です。中国でも最近の学生遠距離恋愛は、スカイプ利用でパソコンで会話ができ、互いの気持ちを伝えあうのでも、すれ違いはないようです。彼女に恋人がいることは皆知っていました。
コメントに触発されたのかどうか、レイトウさんは思い切って学習係に告白したみたい。結果は、、、、、、残念。「今、恋人がいるから、ごめんなさい」でした。仕方がないですね。今のカショさんの恋人もとてもすてきな人のようです。レイトウさんもとってもいい男なんですけれど、先約済みを覆すには至らなかった。
レイトウさんは、「結果は残念だったけれど、告白しないで心残りになるより、思い切って言ってよかった」と前向きにとらえて、クラスの中では「ふられてスッキリ」とふるまっています。クラスメートたちも皆それを知っていて、温かく見守っています。頭がよく、背が高くハンサムなレイトウさん、いつか必ずすてきな恋人と巡り会うことでしょう。
もうひとりの「恋人いない歴26年」のエンテイさん、彼とは、毎日学校で顔をあわせているほか、「運命の出会い」がありました。7月4日に宿舎のすぐそばのスーパー近くで、偶然会ったことがあります。エンテイさんは先輩と近くの繁華街桂林路で食事を済ませたところでした。
エンテイさんは、動物園散歩をしたおりに、私の宿舎へきたことがあるので、「宿舎はすぐそこだから、いっしょにお茶でも飲みましょう」と、部屋でおしゃべりすることにしました。先輩の四喜さんは、日本語は全くわかりませんが、エンテイさんが通訳してくれました。英語が少しはわかるというので、英語で話しかけてみても、エンテイさんが中国語に通訳するので、しばらく、英語日本語中国語のチャンポン会話を続けました。
エンテイさんの先輩、四喜さんは、近くの大学病院で働いています。二人は薬学を専攻し、先輩の四喜さんは大学病院に職を得て働くようになり、エンテイさんは、大学院へ進学しました。
エンテイさんは先輩をたて、とても優秀な人だと紹介してくれましたが、四喜さんは、東京大学に国費留学することが決まっているエンテイさんの境遇のほうが、大学病院で働くよりいいと考えているらしく、「大学病院の仕事はあまりおもしろくない」と、こぼしていました。
確かに、博士過程に進学する国費留学生は、博士号をとって帰国して中国の大学で働くとしたら、薬学部教師のポストが与えられるでしょうから、四喜さんからみると、エンテイさんはエリートコースに乗ったと見えるのでしょう。四喜さんも「まだ恋人いない」でした。
恋人いない歴○○年のレイトウさんもエンテイさんも四喜さんも、きっといつかすてきな出会いがあるだろうと思います。それまではシングル男の自由さを楽しんでください。
自分の気持ちをきちんと告白したレイトウさんを見習って、私も「運命の出会い」をしたエンテイさんにプロポーズしておきました。「あなたを私の息子にしたいです。日本に行ったら、私の娘と付き合ってね」
回答は、「お友達から始めましょう」でした。
<つづく>
2009/07/25
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(23)民族楽器音楽会
6月末の学内縄跳び大会で学内イベントは最後かと思っていたら、7月10日に校舎1階の多目的ホールで「民族楽器音楽会」という盛大なイベントがありました。大学教職員芸術団楽団の演奏による、民族楽器の紹介と演奏。6時から8時までありました。
勤務校のテイ先生の肝いりで、教職員芸術団楽団のメンバーが、学生と教職員のために、演奏会を開いてくれたのです。
テイ副校長は、皆から「書記」と呼ばれている大学の重鎮です。日本の小中学校生徒会とかPTAでは、役員の中に会長副会長の次くらいに「書記」という係があって、会議の記録などを書いていくのが書記ですが、中国で書記といったら、政治局のエリートであり、とてもエライ人。トップは総書記と呼ばれ、現在の総書記は胡錦涛(ホゥー・ジンタオ)です。
我が校の「書記」テイ先生は、政治のエリートというより、芸術家の雰囲気がする人で、中国語や中国文化を学ぶために中国に留学している外国人学生に、中国文化を教えるなどしています。私も2007年に、太極拳を教えてもらいました。テイ先生は二胡の演奏にも秀でており、大学教職員芸術団楽団のメンバーでもあります。
演奏会は、「紅楼夢選曲」から始まり、次にテイ先生による民族楽器紹介がありました。私は二胡は知っていましたが、二胡の同類の楽器に、高胡、板胡、京胡、中胡と、何種類もあることをまったく知りませんでした。これらは拉線楽器の種類。
| 吹奏楽器には、竹笛、笙などがあります。日本の篳篥(ひちりき)に似た管楽器、また、巴烏(バーウー)という雲南省の少数民族の楽器も紹介されました。巴烏は、竹の管に銅のリードをつけ、低音の含みのある音が出ます。
あとは、さまざまな種類の打楽器。京劇でなじみの打楽器が多い。
弾撥楽器の種類には、日本と同じ琵琶(中国の琵琶が日本へ伝えられたのだから、同じというのは当然だが)のほか、中阮、大阮というバンジョーに似た楽器が紹介されました。
楊琴と古箏は、以前ブログで紹介したことがある私の好きな弾撥楽器です。楊琴はピアノのように鋼線を張った上を、木琴のように棒で叩いて音を出す。私が習ってみたい楽器のひとつです。
古箏は21弦で、私はクラスの学生の持ち物である古箏を弾かせてもらい、「里の秋」が上手に弾けるようになりました。
日本にある中国伝統楽器専門店のサイトをリンク。日本では、どの伝統楽器も20万円ほどしますが、中国で買っても、よい品は5千元くらいして、中国物価からすればとても高い。初級者用は千元くらいから。
二胡の類 http://www.13do.com/product-list/11
中阮 http://www.13do.com/product-list/22
竹笛 http://www.13do.com/product-list/15
巴烏 http://www.catalog-shopping.co.jp/shop/shop14/china/bawu/
テイ先生の板胡独奏では、「東北風吹月児明」という曲の見事な演奏に聞き惚れました。司会をしていたチャンリー先生は、初級コースのときに博士コースの担任だった先生で、男子学生あこがれの美人教師。ダンスも上手だし歌もうまい。チャンリー先生は「好日子」という曲を独唱して拍手喝采を受けていました。
<つづく>
2009/07/26
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(24)里の秋
中国人学生にとって、エレキギターなどの現代風の曲を聞く機会はよくあるけれども、民族楽器オーケストラを聞く機会はそれほど多くなく、中国民族楽器音楽会は、中国の伝統文化を知る貴重な機会となりました。
二胡の演奏では日本の「荒城の月」の演奏もあり、歌や演奏はよく知られた中国の伝統曲ということで、学生たち、2時間の民族楽器演奏会をおおいに楽しんでいました。
演奏会が終わってから、日本人教師は、中国伝統楽器の試演奏をさせていただき、私はあこがれの楊琴を弾いてみました。調律がたいへん難しい楽器だというので、買って帰ることはあきらめましたが、いつか習ってみたい楽器のひとつです。
古箏、近所の楽器店で2千元という格安ものが展示されていました。日本円に換算すれば3万円くらい。でも、古箏は大きくて持って帰るのが大変そうだし、狭い家ではいったいどこに楽器を広げて弾いたらいいのかわからないから、これまた買ってかえるのはあきらめることに。
古箏は、クラス一の芸術家、エイケツさんの楽器を借りて練習しました。エイケツさんに、古箏はドレミソラの五音階であることを教わり、基本的な弾き方、糸の押さえ方をならいました。日本の十三弦の琴と同じです。あとは、さぐり弾きで「里の秋」を練習しました。「里の秋」は典型的な「ヨナ抜き」つまり、ファとシの音が出てこない曲で、しかも音が順番につながって出てくるので、たいへん弾きやすい。
クラスのカラオケパーティでも、私は「里の秋」を歌いました。スクリーンには中国語の歌詞が出るので、学生は中国語で、私は日本語で「♪し~ずかな静かな、里の秋、お背戸に木の実の落ちる夜は~」と、歌いました。
「里の秋」は、敗戦直後のラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」や「復員だより」のテーマソングであり、外地から帰る人々を待つ思いが込められている歌です。遼寧省葫蘆島市の「中国及び満州からの引き揚げ者帰国記念碑」の前で歌おうとおもっていたのですが、行くことができずかないませんでした。
「里の秋」は、中国ではテレサ・テン(麗君デン・リージュン)の持ち歌「又見炊烟」として知られ、女性が恋人のことを思う歌となっています。
(「又見炊烟」春庭拙訳)(簡体字を日本漢字に変換)
想問陣陣炊烟 你要去那里 あなたがこの里を去ってから、私は夕ごはんを炊くかまどの煙にさえ、あなたを思っています
夕陽有詩情 黄昏有画意 夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你 絵のように美しい景色を見ても、私の心の中には、ただ、あなただけがいる
又見炊烟升起 勾起我回憶 かまどの煙を見てはあなたを思い、あなたの追憶にひたる
願你変作彩霞 飛到我夢里 朝焼けの中に、あなたが飛んで私の元へ来ることをどれほど願い夢みたことだろう
夕陽有詩情 黄昏有画意 夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你 詩歌や絵画に美しい境地はあれど、私の心の中には、ただ、あなたへの思いだけがある。
詩情画意雖然美麗 我心中只有你
テレサテンの歌声はこのサイトで。
http://www.haoting.com/htmusic/21022ht.htm
私も「里の秋」を歌いながらまもなく「引き揚げ」です。
<つづく>
2009/07/27
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)肚皮舞発表
おみやげに楽器を買うことはやめましたが、自分のために、「よくお仕事がんばりました」の記念品をいくつか買い込みました。今回、買って帰ることにしたのは、ベリーダンス衣装です。コインをつなぎ合わせた腰巻き(ヒップスカーフ)と、スカート、胸を覆うコインをつなぎ合わせた上着。(上着というより、ブラジャーに近いが)
3度目の中国滞在の今回、東方肚皮舞(ベリーダンス)を3ヶ月間習って、けっこう上手に踊れるようになりました。(あくまでも主観的な意見ですが)
あ、ダンスの老師も、「このリーベンレン(日本人)は、私の説明は听不懂(聞いてもわからない)のに、うまくまねをして踊っている」と、誉めてくれたんですよ。(信じがたい人は、来年のダンスィングソレイユの発表会を見にくるように)
所属しているジャズダンスサークルへのおみやげとして、ベリーダンスの衣装を買い込みました。来年の発表会のとき、皆で「ベリーダンス風」の踊りを発表するのもいいかなって思って。
あ、私は臍だしはしませんから、大丈夫。もっとも私が臍を見せても、だれもドキリともしやしません。自慢じゃないが、まったく色気を感じさせることのない腹です。インストラクターの劉先生が踊ると、同性でもドキドキするくらいセクシーなのに、同じ動き(をしているつもり)でも、私が踊ると、オバハンの健康体操。
衣装はこんなイメージ。
http://www.tolcore.com/shopdetail/025000000022/
いっしょに肚皮舞を練習してきたリグン先生からも腰巻き(ヒップスカーフ)をプレゼントしてもらいました。私が買ったのとは違う種類のコインがじゃらじゃらついているヒップスカーフです。
こう言っちゃなんですが、リグン先生も、お人柄そのままの非常にまじめな踊りで、少しもセクシーではない。リグン先生はやせていてほっそりタイプですが、本場のベリーダンスダンサーは、丸くてふくよかであるほどよし、とされており、やせていて細ければ細いほど美しく見えるクラシックバレエやジャズダンスとは違います。私がベリーダンスを気に入った一番の点は、この「ふくよかであるほうが色っぽい」とされる点にあります。むろん、「ふくよかであるのに、少しもセクシーじゃない」って場合もあります。
ベリーダンス練習も成功しましたが、、、、もちろん、日本語教育も大成功だったんです。
我がクラスは、7月17日に実施された「中級終了最終試験」において、全員合格点で「専門日本語」への進級が決まりました。昨年10月にアイウエオから始まったクラス。私たち日本人教師が中国人の先生とペアになって日本語を教えるようになった3月には、4級レベルだった学生たちが、4ヶ月の間に急速に進歩して、2級レベルの試験に合格したのです。
<つづく>
2009/07/28
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)最終試験
7月に入るとまもなく、学生たちはカリカリピリピリしてきました。それもそのはず、2週間後に迫った中級日本語最終試験に合格しなければ、8月の専門日本語の授業が受けられず、専門日本語授業の最終日本語プレゼンテーションに合格しなければ、1年間日本語を学び続けた努力は泡と消えてしまうのです。
日本への国費留学ができるかどうか、この試験にかかっています。いわば、一生の問題が試験一つにかかっているのです。試験に合格すれば、日本で博士号をとり、中国に帰国後は「エリート」としての将来が開ける。不合格ならせっかくのチャンスをふいにして、どこかに就職口を探すことになる。中国でも修士修了者が増えている現在、おいそれと望み通りのポストはないし、一般会社の就職口もよい条件のところは限られています。
動物園散歩をしたあと、私のクラスから6人の学生が私の部屋に遊びに来たのですが、その後、私が日本語教師勉強会で発表しなければならなかったり、論文を提出しなければならなかったりで、時間がなかなかとれなくて、学生を部屋に招待することができませんでした。
「先生の部屋に行って、おしゃべりできなくて残念だった」という学生がいたので、「試験前ではありますが、もし来られるなら、週末に遊びに来てください」と、クラスの人たちに言っては見たものの、「先生の部屋に行きたいです。でも、試験はもっと大切です」と、ソッコー断られました。もっともなことです。
学生たちは放課後も週末も、ぴりぴりしながら猛勉強を続けました。私は、学生たちの不安を少しでも取り除きたいと、連日「必ず合格するから大丈夫」と言い続け、「ダンチョー先生が去年の修了生の試験平均点との比較をしたところ、3月の4級レベル試験の平均点でも5月の3級レベル試験の平均点でも、今年のほうがずっと点数が高い。そして去年、最終試験に不合格だった学生はいないのだから、今年も絶対に全員合格します」と、合格できるという暗示をかけ続けました。
むろん、心配な人もいました。私に古箏の弾き方を教えてくれた芸術家のエイケツさんは、これまでの試験すべて合格点に達したことがなく、百点満点で90点80点とるのが当たり前というクラスの中で、一人だけ日本語がなかなか上達しませんでした。さぼっているわけでもなく、授業にはまじめに出席するし、教科書にはびっしり書き込みをして、一生懸命勉強しているようすが伺えました。でも、私が中国語を覚えられないのと同じように、相性の悪い言語はあるもので、英語ドイツ語フランス語ができるのに、エイケツさんは日本語が覚えられない。
コミュニケーションをとることが語学上達の要なのに、彼女はクラスの中で孤高を保ち、クラスメートともルームメートとも交流しないでいました。友達と教えあうことは、教える人にとっても理解を深めることになるので、ペア学習、グループ学習は語学学習を成功させる重要な方法ですが、彼女だけは誰とも話さずいっしょに勉強せず、ひとりでいました。
誰彼と無く面倒を見てきた学習係のカショさんも彼女だけはお手上げ。
エイケツさん、芸術家風で変わり者ではありますが、純粋な心根を持つ、いい子です。中国語で執筆されている彼女の「昆曲のリズムと造園法」という修士論文も、その道の人に高い評価を受けています。私の願いは、なんとか彼女が合格点をとること。いっしょうけんめい励まして、17日を迎えました。
<つづく>
2009/07/29
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(27)合格
息子の大学入試(センター試験)の時もハラハラドキドキしました。息子は高校不登校生で、16歳のとき「高校卒業認定試験」に合格して以来、家の中に引きこもり、ゲーム漬けのまま、ひとつも勉強せずにセンター試験を受けたのです。試験当日、母にできることは祈ることのみ。それでも母の祈りが通じて、息子はセンター試験利用の都内の私立大学2校に合格し、好きな日本史を学べる方を選んで3年生になっています。大学の成績はほぼ全優です。成績はいいけれど、息子もまた他者との関わりが苦手な性格なので、大学で友人ともほとんどつきあいません。
ですから、クラスの中で一人で過ごしているエイケツさんのことがいつも心にありました。息子が大学で仲間とつるむことができない性格だからといって、決して悪い子ではなく、ただ人とのつきあいが苦手なだけなのと同じく、エイケツさんも本来はとても純粋なよいひとです。音楽や芸術を愛する女性です。
なんとかエイケツさんが仲間と円満にすごして最終試験を迎えられるよう願ってきました。しかし、エイケツさんは日本語学習がうまくいかないというイライラが昂じたのか、あと授業は残すところ10日、という時点でクラスメートとトラブルを起こし、クラス全員と対立してしまいました。
担任のシャ先生や日本語教育主任のマー先生が学生との面談を繰り返して、なんとかエイケツさんとクラスの対立を宥和しようとしてくださったのですが、うまくいきませんでした。
エイケツさんが変わり者でクラスになじもうとしないとしても、それは彼女が芸術家であるからなのであって、縄跳びやカラオケに参加しようとしなくても、クラスは彼女の個性を認め、決して排除しようとしたりしなかった。しかし、最後になって、エイケツさんはクラスから完全に浮いて結果になってしまいました。
残念な結末でしたが、それでもエイケツさんも、きっと私の祈りが通じて合格するに違いないと信じて、17日の試験当日となりました。私の試験監督担当は
学生たちには、再試験もあるし、絶対に不合格にはならないから、不安なく試験を受けるように言ったのですが、小学生のときから常にトップの成績を取り続けてきた学生たち、万が一、最初の試験で合格点に達せずに再試験にでもなったら、恥ずかしくて仕方がない、と考えているのです。
恥ずかしくないよ、語学試験なんて、その時の運、不運によってうまく自分の勉強したところが出ればよくできるし、運悪く勉強していないところがでる場合だってあるんだから、それでその人の全能力が判断されるわけでもない。百メートルを10秒以内で走れる人ばかりではないし、42kmを2時間で走れる人ばかりではないのと同じく、語学が不得意だからとしても、皆、それぞれの専門に関しては優れた業績を残してきた人ばかりなのだから、落ちたら堂々と再試験を受ければいいのさ、と、学生には言いましたが、実は私のクラスで再試験を受ける可能性があるのは、エイケツさん一人。
結果。エイケツさんを含め、クラス全員、他のクラスでも全員が一発で日本語能力試験2級レベルにごうかくしました。ばんざ~い!
全員合格の知らせを、郵便局で帰国荷物送り出しの作業中に電話連絡で受けました。荷物の段ボールに宛名書きしたり、ヒモがけしたり作業をしながら、涙がぼろぼろこぼれました。2007年のときも全員合格でしたが、こんなに泣けてきたのは、やはりエイケツさんの結果が心配だったからでしょう。
クラスの皆は、トラブルがあったあとも、決してエイケツさんを排除するような態度はとらず、クラスの班長の結婚祝いビデオクリップを撮影するときも、仲良くいっしょにお祝いのビデオを撮影していました。このようなよい人柄の学生たちばかりであったことが、今回の私の赴任にとっては、最大の幸運でした。
<つづく>
2009/07/30
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(28)帰国
というわけで、「日本の博士課程に留学する中国修士修了生への日本語教育」の全任務を終了し、無事帰国いたしました。
「だだいま!」
3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。
1,言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。
2,「文型教育読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。
3,「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。都合、論文4本の添削。
4,4ヶ月半の間に、文科省視察、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。
5,当地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践」について発表
6,東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。
7,担任クラス19名の2級レベル試験合格
8,ベリーダンス習得
おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。子どもたちからは「ああ、あ、うるさいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。
しかも、帰国してしばらくのんびりしたいどころか、6月に失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日。
9月には前期お休みした分の授業の集中講義をやらねばならず、大学院の単位にするレポート執筆が2本。
休んでいられません。
じゃ、これから発表、がんばります。
<つづく>
2009/07/31
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(29)記念のメダル本物と偽物
帰国したからと言ってのんびりしていられませんでした。その第一弾は博士論文中間発表。
6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。
指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。
30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。
私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。
実は、博士号はダイヤより高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間で合計250万円の学費をつぎ込むことになる。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を出しただけでは買えない。
お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。
私は「本物の価値ある博士」をめざして中国に単身赴任し、日夜授業を研究し、論文を執筆し、がんばってきました。
7月30日には、無事「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。ラストステージまで、なんとか持ちこたえていきたいものです。
私の授業実践での課題、「文型授業・読解授業に取り入れて日本の文化歴史を紹介する、パワーポイント画像利用の可能性をさぐる授業」というテーマ、まだまだ課題は大きい。日本の歴史や文化を紹介しだすと、私はついついあれもこれも学生に伝えたくなってしまいます。
「自国の文化歴史に誇りを持ち、留学先で紹介できること」ということも、学生に課していることのひとつなので、会話授業に西安が出てくれば兵馬俑や始皇帝陵の写真をだして、「日本人は始皇帝と兵馬俑についてよく知っているから、質問されたら、中国の世界遺産として、ちゃんと説明してあげられるように、しておいてね」と、学生には言っています。
この実践報告については、勤務校の創立30周年記念論集に応募したところ、8月16日に行われる創立30周年記念日本語教育シンポジウムの発表者のひとりになってよいと許可されました。
7月末に帰国してすぐまた8月中旬には中国行き。ずっと中国にいられたら楽ですけれど、公用パスポートを受けているので、任務終了とともに帰国することが必要であり、また、自分の博士論文発表をしなければならないこともあって、いったん帰国。またすぐ中国へとんぼ返りです。
<おわり>