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2009/03/20 2010年3月

2009-03-20 20:51:00 | 日記
2010年3月

ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(1)女とホウキ

 私と同世代と思われる月曜日の講師室でごいっしょするA先生が、留学生の漢字クラスの話をしていて「私、婦人の婦って漢字、大嫌いなのよ。左側が女偏で、右側はホウキって意味なわけでしょ。なんで女とホウキをくっつけると婦なのかしらって、腹が立つじゃないの。留学生に教えるとき、私はこの字は大嫌い、って言ってから教えるの。女だからってホウキ持って掃除していなさいとか、家事は女がするものって、決めつけるの古いじゃないの。女を掃除婦と思わないでほしいわ」と憤慨口調でおっしゃった。
 あ、それって違うんじゃないの、と思ったけれど、講師室ではいつも黙っている私が急に口を挟んでもよろしくなかろうと思って黙っていました。

 家事は女がするもの、なんて確かに古すぎます。宇宙飛行士山崎直子さんのご主人は、高収入の勤務先を退職して、妻を支えて子育てと家事を引き受ける主夫になりました。(専業主夫じゃなくて、ベンチャー企業を立ち上げた兼業主夫なんですけれど)
 イマドキ、「家事は女がするもの」なんて発言したら、セクハラ・パワハラで総攻撃を受けます。

 私が「違うんじゃないの」と思ったのは、「家事=女がする」の部分ではなくて、「女と掃除を結びつけた語が婦人の婦」という部分です。「帚」は、掃除のホウキの意味だけではないのです。
 帚は、箒(ほうき)の異体字であるのはその通りですが、ほうき=掃除ではありません。よしんば帚が掃除と同じ意味だとして、掃除を「大学の教師として働いているアタクシにはそんなつまらない家事を押しつけないでほしい」とでも言いたそうな、「アタクシの夫は十分な収入を得ている男ですが、アタクシ自身の生き甲斐のために講師をしているんザマス」風な奥様先生に、チト言われなき反発を感じてしまったのです。この反発は、奥様A先生にとってはお小遣い稼ぎになる程度の薄給で、ふたりの子を育ててきた非常勤講師のヒガミにすぎません。

 掃除は「つまらない女の仕事=家事」で、大学で教えることは「つまらなくない女の高級な仕事」というように聞こえてしまったこと、「大学で言葉を教えることは、大学の教室を掃除する仕事より上等」というように言われたと感じて、私の考え方とは相容れない、と感じてしまいました。ちょいと過剰反応だったのかもしれませんが、これは、母が私に厳しく躾たことのひとつに関係しています。

 「屑拾い」という不要物を集めて回る人が我が家に「くず~い、おはらい」と言ってときどき回ってきた。あるとき幼い私は「屑拾いになりたくない、きたないもん」と言ってしまった。母は「屑拾いも便所の汲み取り屋も、世の中をきれいにしてくれる尊い仕事なのに、おまえのように人を見下す者の心が一番汚い」と怒った。「百姓家のもんが会社員の妻になって、成り上がりだね」と農家出身の母を見下す人もいた町の暮らしの中で、「仕事に貴賤はない、百姓生まれで何が悪かろう」と心に繰り返して、なにくそと思っていたころのことだったのでしょう。
(今の生活で、私自身は掃除が大の苦手ですが、掃除を「つまらない家事」と思って嫌いな訳じゃないのです。洗濯とお茶碗洗いはちゃんとやってます。掃除好きな人がうらやましいですし、松井棒などを考案したりする掃除名人を尊敬しています)。

 ホウキとは、「掃除の道具」の意味だけではないだろうと私が感じていたのは、子供のころのおマジナイに関係しています。
 母は世話好きで人好きな性格で、いつもよそ様の相談に乗ったり、愚痴を聞いてやったり、午後のひとときは、近所の人と「お茶のみ」をして話し込むか、知り合いの相談に乗って就職を世話したりもめ事を解決したり、子供のころ私が育った家には来客が絶えませんでした。いつまでも帰ろうとしない「長っ尻」の客がいると、私と姉は客座敷の裏手に座敷ホウキを逆さまに立てかけておきました。姉が「こうしておけば、お客さんすぐ帰る」というのです。姉は、母方の実家の祖母やアヤ伯母に教わったにちがいありません。
 今ではすっかり廃れてしまったこのマジナイ、群馬の田舎の風習というだけでなく、全国的なものだったようです。東京山の手暮らしのサザエさん一家もやってました。

 なぜホウキなのかさっぱりわかりませんでしたが、バケツでもなく、ぞうきんでもなく、ホウキってことがミソのようでした。姉は「客を掃き出すため」と言っていましたが、だったら、掃き出す形にして置いたほうが効果がありそうなのに、なぜ逆さまに置くのかがわかりませんでした。

 さて、帚はなぜ女偏と結びついて「婦」になったのか、次回解説で「逆さ帚」の謎を解決。

<つづく>
 

2010/03/02
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(2)女とホウキ

 箒は古くから神聖なものとして考えられ、箒神〔ははきがみ〕という神様が宿ると思われていました。ホウキの古語ハハキが「母木」と見なされたり、「掃き出し清める」ことが「母から子を出す」こととつながるとして、箒神は、産神(うぶがみ=出産に関する神)の一つと考えられていました。出産と結びつき、妊婦のおなかを新しい箒でなでると安産になると言われたり、ホウキをまたぐと罰が当たるという言い伝えもありました。

 茶道では、蕨の茎葉や棕櫚の葉を束ねて作る葉箒を露地にかけておくそうです。実際の掃除には用いられないこの葉箒は、「箒神」に通じるものがあるのかどうか。茶道の奥義を極めた人なら、葉箒の故事来歴をご存じなのかもしれません。教えてください。

 日本最古の箒は、2004年2月に出土した奈良県橿原市の西新堂遺跡の出土品。5世紀後半の河川跡から小枝を束ねたほうきが見つかりました。発掘を行った橿原市教育委員会の発表によると、霊魂を運ぶ鳥形木製品や雨ごいのため殺した馬の歯など祭祀具と一緒に出土していることから、掃除用ではなく、祭祀用と見られています。

 奈良時代の御物が保存されている正倉院には、孝謙天皇が758年正月、神事で蚕室を掃くため使ったと万葉集の歌に詠まれる箒2本があります。奈良市の平城宮跡からも3本の箒が出土しています。これは8世紀中ごろのもの。
 文献で「ハハキ」の語が出てくるのは上記の万葉集のほか、古事記の「帚持ハハキモチ」「玉箒タマハハキ」があります。「玉」とは人間の魂(霊魂タマ)のことを指し、「帚持」とは、葬列を組む際に祭具の箒を持って加わった人を呼び、その役目を指しました。

 奈良時代における箒は、祭祀用の道具として用いられるなど宗教的な意味があったものが、平安時代には掃除の道具としての記録も出てきて、室町の文献では「箒売り」が職業として成り立っています。ホウキが日常的な生活用品になったあとも、ホウキに宿る神への民俗意識は残り、長居の客にホウキを立てかけるような習俗も、私が子供のころまで実際に行っていました。今では電気掃除機やモップはあっても、ホウキで座敷を掃く家が少なくなってきたから、ホウキの民俗も忘れられていく運命にあるでしょう。

 漢字が作られた古代中国では、棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けて箒状にしたものを「帚(そう)」といい、酒をふりかけるなどして、廟(びょう)の中を祓い清めるのに使用していました。この箒の形を竹で作れば「箒」、「草」で作れば「菷」。「帚」を「手」にとって廟の中を祓い清めることを「掃」という。掃き清めて汚れを除くことが「掃除」。この「帚」の仕事を行うのが巫女などであることから、「帚」を付帯した「婦」の字ができ、女性全般を表すことになった。

 今では「婦人」という表現が、古くさい女性のイメージを持ってしまい、「婦人○○」と呼ばれていた言葉のほとんどは「女性○○」に代わりました。
1994(平成6)年に国連「世界婦人会議」の名称が「世界女性会議」に変わり、近年では雑誌などで「婦人」よりも「女性」という表現が目立つようになりました。労働省は1996年度に「婦人局」の名称を「女性局」に変え、1949年から続けられてきた4月10日からの一週間を「婦人週間」から「女性週間」と変えました。1994(平成10)年には「女性週間」もその意義を終えたとして廃止。

 というわけで、「女だからって、掃除婦と思われてこの漢字ができた」とA先生が憤慨するは、少々事情が異なるようです。A先生の怒りを聞いていて、昔のウーマンリブの主張を思い出しました。
 ウーマンリブの人たちは、「社内掃除を女だけが当番として早出してまでするのは差別だ」とかミスコンテストは女性を顔やスタイルだけで見ようとするから反対」と主張していたころのこと。

 確かに「女性だけが○○しなければならない」ということはないと思います。でも、ミスコンテストがあるなら、ミスターコンテストもしたらいいだけのことであって、ミスコンテストを批判してもミスコンがなくなりはしなかった。需要があれば供給がある。

<つづく>
 

2010/03/03
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(3)ひな祭り男女論

 ひな祭りの起源や伝承については
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200703A
に書いたので、興味があったら読んでください。

 婦人週間を女性週間と名称変更したものの、「女性週間があるなら、男性週間があってしかるべき」という意見が出されたのかどうか、女性週間は廃止されました。今や家事ができない男など結婚相手として見向きもされない、、、といわれていますが、現実の女性の地位は、果たしてどれほど男性に追いついたのでしょうか。
 現実はともかく、理念たてまえとしては男女差別をしている企業があったら批判されてしまうし、同一の仕事をしていて女性だけが給料が低いレベルや昇進に不利だったら、法律違反です。でも、現実にはシングルマザーの家庭の収入や生活水準はGNP上位国のなかで最貧ですし、女性の国会議員数や会社役員数でもまだまだ「後進国」です。

 春庭は「ウーマンリブ世代」です。いまやウーマンリブってのも死語の世界に行ってしまいましたが、昨今の論壇界ではフェミニズムバッシングも一段落したらしいので、「婦人」以外にも女が関わる文字やことばについて、一回り散歩してみようかと思います。

 ウーマンリブというのは、女性解放運動Women's Liberationの省略外来語。1970年11月14日に第一回ウーマンリブ大会が東京都渋谷区で開催され、アメリカなど世界各地での女性解放運動は、1979年に国連総会で女子差別撤廃条約が採択されるなどの成果をあげました。日本での運動は、男女雇用機会均等法の制定など、一定の役割を果たしましたが、ウーマンリブという言葉そのものは、1980年代に入ると急速に廃れて揶揄の対象になってしまいました。ミスコンテストに反対して各地のミスコンを中止させようとしたり、ウーマンリブの活動家としてマスコミで名前を売っていた榎美沙子(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合、略称「中ピ連」代表)が日本女性党という政党党首として選挙活動を始めるなどして、心あるフェミニストたちが「ウーマンリブ」という言葉に拒否反応を示したためと思います。

 最近の男女問題に関して、2010年1月に放送されたNHK「ためしてガッテン」の中で放送された「男女の脳構造の違い」ということが、講師室で話題になったことがあります。男性と女性では脳の構造に違いがあり、個人差はあるものの、女性の多くが脳梁が男性より大きい。女性の脳は「コミュニケーション言語野」「模倣あそび」「他者への共感能力」などの脳部位が発達していて「井戸端会議おしゃべり」「ままごと」などが女性に好まれることがわかった、という内容でした。男性は「空間認識」「理論構築」などが女性より発達することがわかっているそうです。

 この「ためしてガッテン」は、2009年1月に放送されたNHKスペシャル女と男シリーズの内容を焼き直しながら「女性に不得意なダイエット方法」と「女性にもできるダイエット」として放送していました。私も「ダイエット」というキャッチコピーに惹かれて見たのです。
 
 女性ホルモンや男性ホルモン、そして脳の発達部位の違いから、平均的な男女の間の平均的な差というのがあることはわかる。しかし、個人差というのはどうしても残るから、男性的女性がいても女性的男性がいても、男性になりたい女性がいても女性になりたい男性がいてもいっこうにかまわない。
 姉の最初の夫の従妹は、前は従妹であったけれど、性同一障害の診断と手術を受けて男性として戸籍も作り直し、人生を生きなおすことにしました。

 留学生に日本語ディベートの話題として「次に生まれるなら女性がいいか男性がいいか」というのを出すことがあります。最近の傾向として「女性がいい」という留学生が男女を問わず増えているので、日本以外でも昔とは男女問題の質が違っているのだろうと思います。私?もう一度女性がいいのだけれど、次は「甲斐性のある男性と結婚できる女性」に生まれたい。

<つづく>
 


2010/03/04
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(4)去年のジャイカニュース

 検索大好きなので、用もないのにときどき知り合いの名前を検索してみます。自分の名前や家族の名前で検索すると「へぇ!こんな同姓同名の人が世の中にはいるんだ」と思うこともあるし、ときに知り合いがらみの思いがけないニュースに出会うこともあります。
 従妹の名前で検索してみたら、ケニアの話がでていました。
 従妹の名前が出ていたニュースは、中国赴任中の2009年の5月のことだったので、まったく気づかなかった。ジャイカボランティアニュースを読んだのは、2010年1月のこと。
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 ジャイカボランティアニュース 第2号 2009年5月1日より
 「去る1月28日、ミチコさん(ケニア派遣/理数科教師))のもとに、嬉しい一報が舞い込んだ。それは、30年前のミチコさんの教え子が連絡を取りたがっているというものだった。「知らせを受けたのが私の誕生日の翌日でしたので、これは神様からのプレゼントだと思いました」と、ミチコさん。30年という長い年月を一気に飛び越え、ミチコさんと、教え子の一人であるセレム氏とのメールのやり取りは始まった。
 当時、中学生だったセレム氏が、現在はケニア園芸公社の総裁となり活躍していることを知り、ミチコさんは、「自分の子どもが立派になったような気分で本当に嬉しいです」と話す。現在、ミチコさんの娘さんが25歳で、セレム氏の娘さんが14歳。これは、当時のミチコさんとセレム氏の年齢にあたる。このことに長い時の流れを感じながらも、再び繋がった絆に感謝をしつつ、いつか再会できる日を二人とも強く待ち望んでいる。」
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 30年前に私がケニアに出かけていったのは、従妹のミチコがJICAの海外青年協力隊に参加して、ケニアのハイスクールで理数科教師をして1年たったころでした。

 ミチコはケニアについて早々、研修で出かけた村の人からふるまわれた水を飲んで入院してしまいました。「女の人が遠くの水場まで何キロも歩いて水くみに行くような地区で、せっかく村の人が貴重な水をふるまってくれたのに、飲まなきゃ悪いと思って、思い切って飲んだ」あげくの災難。現地の人には大丈夫な水でも、生水は飲むべきでなかった。

 一ヶ月の入院生活ののちにようやく任地での仕事を始めることができたのですが、入院したため、辺鄙な赴任場所は避けてもらい、水道電気のある町の学校に赴任できました。ミチコの同僚のサイトウさんは、水も電気もない村に赴任しました。サイトウさんは、明るくてかわいい女性でした。小柄で見た目は強うそうではありませんでしたが、海外協力隊員らしいバイタリティを持って活躍していました。

 ミチコやサイトウさんといっしょにトゥルカナ湖を旅行したり、ミチコが勤務するハイスクールのある町に泊まりに行ったりしました。
 東海岸のモンバサやラム島へ行ったときは、ミチコ、私、タカ氏、クロさん、あと誰がいっしょだったかしら。マリンディという海辺の町で青年協力隊の隊員さんの家に泊まらせてもらって、サークル合宿のようなノリで楽しかった。ここでも、生水はぜったいに飲むな、と隊員さんから注意されました。冷蔵庫に入っている沸かし水を飲み、飲んだ分は薬缶で沸かして補充しておく、というルールを守れば、冷蔵庫の中のものを食べたり飲んだり自由にしてかまわない、という人のいい隊員さん。海岸地帯で稲作指導をしている方でした。

<つづく>


2010/03/05
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(5)ケニアではモテ女

 ミチコはケニアで出会ったジャイカ同僚のマサミさんと結婚し、ミチコとマサミさんの結婚式の半月後に私とタカ氏の結婚式。ミチコの結婚は親戚縁者に祝福され、結婚式から10ヶ月後にハネムーンベビーが生まれたときも皆に祝ってもらいました。私とタカ氏、結婚式から半年後には娘が生まれました。ちょいと早めに出産した私、非難囂々でした。「そんなふしだらな娘とは思わなかった」なんて言われました。
 今なら珍しくもないことで、「おめでた婚」とか、子宝を授かってのめでたい「さずかり婚」と呼ばれるようになっているいうようになっている「できちゃった婚」ですが、たった四半世紀前の時代は「親類の面汚し」扱いでした。

 アヤ伯母の葬儀の席でいっしょになったミチコは、トゥルカナ湖にいっしょに行ったサイトウさんは癌になって早世したと教えてくれました。ケニアですごした青春の日々から30年。それぞれの人生がすぎていきました。

 ミチコはマサミさんとの間にハネムーンベビー誕生の次の年には年子で双子を出産し、子育主婦業を続けました。マサミさんは堅実なエンジニアとして仕事をつづけ、ときには単身赴任で海外へ。ときには一家でネパール赴任などもありました。ミチコは次男を東大に入れ、またまた親戚縁者から祝福を受けました。一家で堅実な人生を歩んで、マサミさん定年退職のあとも、優雅に年金暮らしをするのでしょう。

 私は、夫が「趣味の会社経営」を続けるのを横目で見ながら働きづめです。相変わらず「祝福」なんぞには無縁の人生。同じケニアで出会った夫婦ふた組ですが、堅実で幸福な人生を歩んだミチコと、フラフラ自由ではあったけれど、貧乏暮らしを続けた私。ま、これも持って生まれた運命というものでしょう。
 まあ、私にいいことがあったとすれば、端から見れた「ダメダメ」な人生だったとしても、私自身は自分の歩んできた茨道をおもしろがってきたことだけでしょう。年金もない老後不安定な人生になってしまいましたけれど、今まで過ごしてきた日々は、私にとってはどの一日も大切な時間です。

 ミチコへ届いたというケニアからのメールは30年という時を超えて、なつかしい赤道直下の太陽を思い出させてくれました。1979年と1980年のケニア。
 私は、日本では「女だからといって、男に負けてなるものか」と肩肘張って生きてきて「こわい女」と思われていました。太陽直射日光の下で、私はそんなツッパリもとれて、ケニアの男性達にモテモテでした。「あなたは色が白くて美しいから結婚してほしい」なんて申し込まれたのだけれど、『私の夫はマサイの戦士』という本を書いた永松真紀さんのように、思い切ってマサイ族男性の第二夫人になる、っていうような大胆なことをする勇気もなく、ナイロビで出会った日本人と結婚するハメになって青春時代は終わりとなりました。
 ケニアでの青春の日々、ますます遠くなっていきますが、なんといっても、私が唯一男性にモテモテだった日々の重いでは、永遠の輝ける日々です。

 生まれてはじめて「モテ女」の生活を楽しんだおかげか、「女偏」の漢字、嫁も姑も、妹や姉と同じ感覚で受け入れることができるようになりました。女が古びたのが「姑」ですって?と眉つり上げずに、「古」には、女性が長い間身につけた経験への尊敬が込められている、と解釈すればいいのです。年老いた女性の子育てや家事の経験が生かせたから、人類は類人猿よりちょっと脳が発達した、という話は2009年
2月5日~11日に連載しました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200902A

 「婦」も、別段「女に掃除を押しつけるな」というように肩肘はらずとも、ホウキの持つ呪力を支配して家庭内を納めることのできる人が「婦人」というふうに解釈しておけばいいんじゃないかと思います。


<つづく>


2010/03/06
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>おんな偏(6)かかあ天下

 故郷群馬県は、「上州名物、嬶天下(かかあでんか)と空っ風」と言われています。「群馬で強いもん、3雷(ライ)2風1かかあ」とか。夏の雷冬の空っ風は、ともにたいへん強い自然現象で、夏は赤城山と榛名山の間に毎夕雷が走るし、冬は谷川武尊から強い北風が吹いてきます。でも、それ以上に強かったのは、上州のカカアたち。
 女偏に鼻をつけて嬶(かかあ)。嫁とか姑とか姉妹とか、女偏をつけた家族関係語は多々あるものの、「嬶」は国字だったということを、今頃知りました。
 これまたなぜ故に「かかあ」または「かか」は、女の横に「鼻」がくるのやら、かかあともなるといびきでもかくのかと、由来がわかりません。

 一家のなか、嬶座(かかざ)と言えば、家内を取り仕切る「主婦権」を持つ者の座るところを意味し、いろりに面した横座(主人の座席)のわきで、台所に近い席が主婦の座席として定められていました。「北の方」とか「北の政所」に倣って北座と呼ぶ地域もあったし、食べ物を分配する鍋の前に位置することから鍋座(なべざ)鍋代(なべしろ)と呼ぶ地方もありました。

 主婦権の象徴として、「しゃもじ」を受け渡す地方もあり、姑が嫁に家政をまかせることにしたときを、しゃもじ渡し、へら渡し、飯匙渡(いがいわたし)などと呼び慣わしてきました。一家の家長である主(あるじ)の法的な権限は、明治民法で法文化されましたが、一家の家政を取り仕切り、食べ物の分配を司る主婦権は、民俗研究の対象になり柳田国男などが調査したのですが、法的な権限とはなっていませんでした。家庭内のことを取り決める裁量権が主婦にあり、家庭内の事は妻が全ての決定権を持ち、夫は妻に従わなければならない、ということを「嬶天下」の語で表してきたのです。

 群馬県が伝統的にこの権利を強く保持してきたのは、江戸時代から養蚕業、織物業が盛んとなり、家庭内手工業を女性が取り仕切り、現金収入を女性の手で得てきたことが大きいと言われています。上州の女性は、家庭社会において家長に従属的な位置に甘んじることなく、養蚕織物業による自立をはたしていた、ということ。

 私の母の実家も、私が子供のころは桑畑持ち、屋敷内に蚕棚を作っていました。私は蚕たちがシャワシャワと桑をはむ音を聞いて育った最後の世代にあたるでしょう。また、家の中で、出荷した繭の残り、祖母たちが屑繭を煮て家族の衣装のための絹糸を紡ぐのを見ていた最後の世代。蚕が育つ時期、「おこさま」というのは「お子様」ではなく、「お蚕さま」を指すことばです。

 現代は女性も現金収入を持ち、家政を取り仕切るのは当然になっています。父は会社のから給料をもらうと月給袋を未開封で母に渡すのを「男の甲斐性」と思っていたようです。母は、その中から父の小遣いを渡していました。母の世代は「主婦は自分の思い通りにならなくてつまらない」という一方、「嬶座」「主婦権」がきちんと残っていた世代だったとも言えます。

 私?家に寄りつかない瘋癲夫を持ったために、最初から天下もへったくれもなく、自分で稼いで食べ物の采配をするほかなかったのだけれど、自分の人生、自分で決定してきました。愚痴は言うけれど、それは誰のせいでもなく、自分で決めた人生だからしょうがない、という「上州女の嬶天下」の覚悟があったからかなと思います。
 幸福な人生を送るためには、ひたすらナヨナヨと「あなただけが頼りなの」と、しなだれかかる風情を見せながら、結局はしっかりと夫を支配している女性のほうが有利だ、と諭されたこともあったけれど、まあ私にはできない芸当だったので、私は私で、空っ風に立ち向かっていくしかありません。

 空っ風がいつ春風に替わるのか、天気は春の気配が近づいていますが、私の懐具合はいまだ寒風のなか。

<つづく>


2010/03/07
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(1)よい一墻を

 自分では使ったことのない熟語がメール中にあったりするとびっくりします。
 育児休暇をとるというお知らせのメールに「なにかとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかご海容ください」という結語があり、「海容」が実際に手紙の中で用いられているのを初めて見ました。私自身は使ったことはなくとも、海容なら、意味も読み方もわかる。
 同期生からメールをもらい、その結語に「ではどうぞよい一墻を」とあったので、目を丸くしました。「一墻」というのは、読み方も意味もわかりませんでした。
 
 辞書を見ても意味が出ていないので、発信者へ返信のついでに、意味を尋ねました。日本語教師、知らないことを恥とせず、わからないことをそのままにすることを恥とせよ、の精神です。
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メール末尾のご挨拶に「ではどうぞよい一墻を」と書いてありました。「一墻」なんていう語をはじめて見て、どうも浅学非才の身、吝嗇のショクに土偏で「墻」、「いっしょく」と音読みするのか「ひとがき」と訓読みするのかも知らず、意味もわからず、辞書ひいちゃいました。角川漢和辞典、大修館現代漢和、三省堂漢辞海には「墻」が搭載されておらず、小学館現代漢語辞典にのみ「牆」の異体字として搭載されておりました。
発音は漢音ではショウ、意味は垣根とわかりましたが、「一牆」となると、どのような意味になるのか、私手持ちの辞書には載っておりません。お教えいただければ、今後の学習の励みにもいたしますので、よろしくお願いいたします。
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 メール返事によると、「ただの誤変換!」
 「ではどうぞよい一週間を」のつもりで書いたら、なぜか「一墻を」となったのですって。
 字引辞典を引くのが好きだから、あれこれ探ってついにわからず、けっきょくは誤変換とわかった、という検索の結果でした。「牆」などという漢字が存在することだけでもわかって、「日本語教師、なんでも調べて損はない」と思うことにいたしましょう。

 哲学者の廣松渉の本を読んでいるとやたらに見たこともない熟語が出てきます。「旧来の発想法の地平そのものを剔扶(てっけつ)し」とか「形而学上悖理(けいじがくじょうはいり)」とか。悖理は背理とどう違うのかと思ったら同じだったし、内容自体もなんだか小難しくてさっぱり理解できない。
 「廣松の本、むずかしくてわかりません」と嘆いたら、退官を迎えた教授「ああ、あの人は衒学趣味で、やさしく書けば誰でもわかるようなことをやたらにわかりにくく難しく書くのが趣味なんだから、わからなくてもよろしい。ああいう文体読まされて難しそうで高級そうなこと書いていると思いこむのは愚の骨頂」とおっしゃる。それを聞いて「なあんだ、やっぱりそれでいいんだ」と安心しました。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」を廣松式にいうと「世界の共同主観的存在構造における現象的世界の四肢的存在構造」ってなるんです。あ、ちょっと違うか。もう、私には牆、墻、かきね、、、、の世界です。

 私は、難しいことをより難しく書くのより、難しいことも中学生にもわかるように書く人が好きです。とは言うものの、私が「中学生にもわかるように書いた」授業レジュメの中の熟語、漢字検定2級に出てくる熟語より難しいのは使わないと決めているのに、昨今の南瓜頭大学生たち、まあ、読めないこと。「南瓜」だって読めないんだから。きっと彼らは私が廣松の熟語使いに頭を悩ませたように、「読めネー、イミ、ワカンネー」と思っているのだろう。ただし、私は読めない漢字があれば辞書を引くけれど、彼らは「ワカンネー」で終わり。

 では、みなさまにおかれましても、どうぞよい一墻を。

<つづく>


2010/03/08
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(3)ぐいち

 ネット散歩、日本中どこにでも飛んでいけます。散歩をしていると、関東で生まれ育った私にはお初のいろいろな地方のことばを知ることができます。昔は方言研究者が家々を回って集めた地方のことばを、東京に居ながらにして読むことができ、楽しみも大いに広がりました。
 「彼岸の入り」に対して彼岸のおわりの日を「はしりくち」と呼ぶ地方もあると知ったのも、ネット散歩中のどなたかの日記によってなのですが、2005年3月25日に、「はしりくち」という言葉を新しく知ったと書いているのに、どなたの日記で知ったのか書いてありません。5年前のことですが、誰の日記に書いてあった言葉だったかもうすっかり忘れてしまいました。

 今回は、忘れないように書いておきましょう。「ぐいち」ということばをmomosuke2seiさんの2010年2月20日のカフェ日記で知りました。モモスケママさんが、子供の頃につかっていた「ぐいち」と言う言葉を広辞苑でひいてみたら、ちゃんと載っていた、という日記です。
 私にとっては、初めて見る言葉なので、私も広辞苑を引きました。「手元にあった広辞苑」と書きたいところですが、正確には「足下にある広辞苑」です。重たい辞書なので、本箱の下のほうに置いといたら、どんどん増える駄本が本箱の前に積み上がっていって、広辞苑が取り出せなくなってしまったので、本箱に戻さずに重たい辞書を椅子の下に置いておくことになった、それで足下にある広辞苑。

 広辞苑「ぐいち【五一】ばくちで采の目の五と一がでること。たがいちがい」
 大辞林には用例まで載っていました。「(1)博打(ばくち)で、さいころの五の目と一の目。(2)〔さいころの目は五と一が向かい合っていないことから〕食い違っていること。ちぐはぐなこと。「ぐいちに生えたが歯違ふの歯の見所/浄瑠璃・菅原」

 関西では、ものごとがぴったり合わずにくいちがいが起こることを「ぐいちやワァ」などと表現するようです。関西弁のコーナーでの解説。「ぐいち」は「位置がずれてはまっている様子。掛け違え。「釦(ぼたん)がぐいち」、「歯がぐいち」などと使う。
 金型を扱う業界での専門用語としては、成形品に段差ができ、製品が食い違うことを言うのだそうです。ゴム金型で食いきりがずれてしまうなど。
 
 「ぐいち」の語源をいくつかの辞書はさいころの目の「五一」だとしているのですが、金型業界の用語解説では「くいちがい」の略語が「ぐいち」だとしています。
 広辞苑といえども、語源に関してはまちがいが多いことを、ことばの達人柳瀬尚紀『広辞苑を読む』で知りました。「ぐいち」のような方言や職人言葉などだと、広辞苑だとてあてにはならず、「五一」という語源が正しいかどうかは、わかりません。

 『広辞苑を読む』は、百円本コーナーにあったので、買いました。私も辞書愛好派のひとりで、ときどき各種辞書類の「辞書全読」という「あ」から「ん」まで全搭載単語を読んで知らない語があるかどうかチェックする、ということを職業訓練としてきたのですが、ここ最近、辞書全読をしていませんでした。かわりに『広辞苑を読む』を読みましたが、ほんとに辞書を読むのは楽しいと、再確認。

 柳瀬さんは英語の達人にしてだじゃれや新語造語満載のジョイスの『ユリシーズ』を見事な日本語に翻訳したことで知られています。広辞苑も英語辞書もすり切れるまで引き倒す、といいます。私の辞書など手あかにまみれてしまっているものの、まだページがすり切れてはいない。本箱の下に並べてあった本は、以前部屋飼いしていたウサギが囓ってぼろぼろになっているけれど。
 柳瀬さん、広辞苑の語釈や語源説明にあれこれ注文をつけています。英語の語源説明や和製英語の説明にも難があると。

 さて、「ぐいち」の語を調べて、これから先にどんな知らない日本語に出会えるやら、老い先短いとはいえ、まだまだ私の辞書に新語は増える。脳内土蔵には、まだまだ本棚があります。

<つづく>


2010/03/09
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>土偏(2)幸い

 「ハッピィ」という外来語もずいぶんと日本社会に定着したので、新年の賀状に「ハッピィニューイヤー」とあるのも、祝日のお祝いに「ハッピィホリディ」と挨拶するというのも、ずいぶんと耳慣れてきました。私のお気に入りの留学生ブログ「I am a happy song私は幸福な歌」は、苗字のピンインがsongになるところから名付けられたブログタイトルです。毎日サイトを訪問して、彼が日々日本の生活を記すのを楽しんで読んでいます。彼の「幸福な歌」は、私にたくさんのハッピィを与えてくれます。

 もうひとつのお気に入りに入れてあるブログ「my happy talkingしあわせなおしゃべり」は、私の最初のウェブ友ちよさんのブログですが、2009年の年末から更新されていません。カフェコラムも年末から更新されていないのですが、1月に予定されていた娘さんの結婚式のことで忙しいだろうし、いろいろたいへんなのだろうと推察して更新をまっています。

 娘の結婚式と言えば、母親にとっては、一生で一番の幸福と寂しさを味わうときでしょう。娘の幸いを願うひとときでもあり、手元から飛び立たせる寂しさのひととき。ちよさんにとってはひとり娘ですから、寂しさもひときわでしょう。結婚式が予定されていた日から一ヶ月を過ぎても更新がないので、ちょっと心配になってきました。子供は、女性にとって人生の手枷足枷のようなものだと言う人もいますが、その手枷が取れてみると、ぽっかりと心に大きな穴があく感じがするのではないかと想像しています。手枷がとれる状態を「幸い」と、漢字ではいうのですけれど。

 「幸」という文字、私は長い間「土」と「羊から横線を一本とった字」の形成文字と思いこんでいました。漢和辞書をひいてみると、今は「幸」の部首は「土」になっていますが、元の部首は「干」だったとあります。

 「幸」の漢字のかたち、実は「手枷の形を表した象形文字」なのです。びっくり。 「幸」は、甲骨文字の時代にすでに骨の上に刻まれていた文字で、罪人にはめる手枷の形を表しています。手枷をはめられてしまえば「執」ですが、幸いにも罪を逃れて、手枷が手にない状態が「幸」であり、「幸い」なのだと知りました。
 幸を偏にしている「執」は、人が捉えられて手枷をはめられてしまった、という形成文字です。手枷の絵文字「幸」と、人が崖の下で背を丸めて手を前に出してかがんでいるようすを表した文字である「丸」を合わせています。「執」の部首も「土」です。

 はたして手枷は、手のうちにあるほうが幸いなのか、ないほうが幸いなのか。姑は、舅がホスピスに入院していた六ヶ月は、手枷足かせの中の半年だったことでしょう。その手枷がとれた状態が「幸い」で、お習字の会だ童謡の会だ詩吟だと、生き生きと未亡人生活をおくって8年になります。

 ご主人の介護を続けておられる方の日記。介護者のほうが病気になるくらい、介護はたいへんな毎日なのだと日記から推察されますが、ご本人は、こうして介護ができなくなる日のことを思うと今からつらくなり、今、介護という手枷をはめられた状態こそが自分にとっては幸福なのだ、と書いていらっしゃる。

 私は、子育ての間20年近く、夕方以後は外にでることもなく、子供中心の生活でしたが、それを手枷と感じることもなくすごしてしまいました。今、夜おそく帰っても夕ご飯は勝手に作って食べているし、「母がいないほうが気楽」と思っているくらいでなんの心配もなくなりました。手枷はなくなったものの、まだこのスネには需要があるので、足かせはとれていないのですが、こちらの枷は、一生とれそうにありません。稼ぎのない亭主は家に寄りつきませんが、稼ごうとしない子供が臑に齧り付いたまま。まあ、働けるうちは食い扶持稼ぎに励まなければなりません。これが私にとっての幸いなのでしょう。

<おわり>






2010/03/10
ぽかぽか春庭十年一日日記3月>

 今シーズン娘息子と見ている連続ドラマのひとつ「コードブルー・ドクターヘリ」。看護師の恋人の元医師が、ALS筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう、amyotrophic lateral sclerosis)の患者となったというエピソードが登場していた。自分自身、筋肉がしだいに動かなくなっていく病であるのに、隣のベッドの患者を励まし生きる気力を与え、医師として自分の寿命を冷静に受け止めている。ドラマだからあんなふうに立派にできるのか、と思うのだけれど、現実の患者さんの中にも、病気と向き合って生きている人はいる。

 テレビニュースで報道された篠沢秀夫学習院大学名誉教授の闘病。ALSのため、介護保険の手当では足りず、新宿区に身体障害者として介護の申し込みをしようとしたら、65歳以上の人に障害者介護を認めないと断られてしまった。篠沢名誉教授はテレビ番組の人気者だった有名人だから、報道も動き、新宿区は謝罪したのだけれど、現実には介護利用を断られている一般の人は大勢いるのでしょう。  

 首から下が動かなくなってベッドで寝たきりになっているウェブ友。ご主人の介護を続け、デイサービスも「万が一の事故を考えて受け入れられない」と断られたと疲れ切っている友。それぞれのつらい立場を思うと、胸がつまります。
 この国では、老いることも病むことも受け入れてもらえず、これまでどれほど一生懸命働いてきたとしても、病気になれば「早く死ね」と国家から言われてしまう。

コメント
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