2009/08/01
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(30)帰国&帰省
カレンダーに書き入れた、私から学生へのメッセージ。キンセイさんへは「結婚おめでとう。二人で力を合わせて研究してください」、エイケツさんへは「古箏の弾き方を教えてくださって、ありがとう。いつかまたいっしょに合奏しましょうね」と、ひとりひとりへの思いを込めたことばを書きいれました。
学生から家族へのメッセージには「必ず博士号をとって日本から帰るから、体に気をつけて待っていてください」とか「一家が平安でありますように」などの思いを込めたことばが中国語で書かれています。それぞれが「世界にひとつだけの手作りカレンダー」になって、よい記念品になったと思います。
学生から私への記念品は、ひとりひとりの手書きメッセージに写真を添えた記念アルバムです。授業最終日の7月16日に、班長さんが代表になってプレゼントしてくれました。
全任務を終了し、基礎日本語終了を祝うカレンダーを配りながら、来し方を振り返る。3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。
1)本務。担任クラス19名の2級レベル試験合格(受験した5クラス全員が合格し、国費留学生の資格を保持しました。さすが、中国全土から選抜された修士修了者たちです)
2)4ヶ月半の間に、文科省視察団の授業参観、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観2回、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。
3)本務に付随する仕事。教師としての実践報告。「文型教育及び読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。査読にパスして、国際日本語教育シンポジウムでの発表者に選ばれました。8月16日発表日に併せて再び中国へ行くことに決定。
4)大学院博士課程学生として。日本語言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。
5)「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。学部4年生日本語科学生(日本人講師室アシスタントを務めてくれたかわいい女子学生ふたり)の卒論を添削。都合、論文4本卒論2本の添削。皆、私のところに添削希望を持ち込んできます。気安く頼みやすいからだと思います。
6)勤務地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践報告-パワーポイントファイルの読解教育利用-その利点と欠点」について発表。
7)東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。
8)ベリーダンス習得
私としては8番目のベリーダンス習得をおおいに誇るところです。おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。娘&息子からは「ああ、あ、暑苦しいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。
<つづく>
2009/08/02
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(31)健康第一
7月31日午後は、健康診断。区の無料診断の締め切りが7月31日でした。朝から食べてはいけないというので、ダイエットになるからがんばれと、自分を励まして午前7時に目覚めてから午後5時の検診開始まで空腹に耐えました。えらいなあ、私。って、みんな検査のときはこれくらいやっているよね。普段空腹に耐えることないので、えらい大仕事した気になっています。
血液検査は、外部検査に出して結果が戻るまで5週間かかるということですが、あとの結果は、X線レントゲン、血圧、心電図、尿検査すべての数値が理想的な範囲に収まっていて、何の問題もない健康体であると、内診の若いお医者さんが保証してくれました。母と妹が患っていた糖尿病について心配していたので、今回の数値ではその心配もなかったことがわかり、ほっとしました。
無事、中国での任務を全うすることができ、元気に帰国できたのも健康であったればこそ。同僚の先生方、みな一度はおなかの調子が悪くなり「脂っこい中国料理はこれ以上食べられない」という状態になったのに、一番年寄りの私ひとり、最後まで中国料理を食べ続けました。
レストランで日本料理を食べたのは5ヶ月で6回。「古本吉田」というチェーン店の牛丼屋に1回、「888ラーメン」という北海道ラーメンのチェーン店に3回(安いから)、「プチ北国」という和食レストランで刺身定食1回。長白山ホテルの中にある「紅葉」という和食レストランで「200元で和食食べ放題」というのに1回行きました。
自炊で和風料理を作ったのも、みそ汁を何度か作り、菜っぱのお浸しを作ったのやカレーライスを一度作っただけで、あとは大学職員食堂のセルフサービス中華ランチと宿舎食堂のテイクアウト中華おかずで暮らしました。中国の野菜料理、油炒めが多いので、たまには野菜をゆでただけの物に醤油だけでさっぱりと食べたくなりましたが、あとは特に、刺身が食べたいとか肉じゃがが食べたいとか思うこと無かった。東北地方料理も、湖南料理も北京料理も、何でもおいしくいただきました。健康で過ごせたのも、鉄の胃袋を持っているおかげと思います。
また、今回特に人間関係のトラブルがなく過ごせたのも、快適に過ごすために大いに役立ちました。2009チームの先生方のお人柄のよさに助けられての5ヶ月間でした。
最初に中国で仕事をした1994年のときは、いっしょに赴任した男性助教授と女性助教授の折り合いが悪く、毎日のように机をたたき合って口論していたことを思うと、今回の派遣では6人のチームワークがたいへんうまくいき、机を叩くことも意地を張り合うこともなく過ごすことができたこと、ひとえに私の人徳のおかげ、、、、ってことはまったくなくて、、、。私は、最年長なのを掲げて、いつも「私は年寄りだから」と言い訳しつつできるだけ楽をしようと考え、皆に助けてもらうばかり。
特にパソコン関係ではわからないことだらけなので、何かというと若い先生にパソコンの設定やらをお尋ねしながら仕事をしました。親切な同僚のおかげでなんとか任務全うできたのです。
私が何か役にたったとしたら、ダメだめぶりを皆に見せ続けて、あんながさつな人間でも何とかやっていけるのだ、ってことを示せたことくらいかな。年中ばたばたとあわてていて、何かと忘れ物が多く、1回の授業で教室から2度3度忘れ物を取りに講師室に戻ってくる。毎日のドタバタぶりをみせて、年取ってもあんな程度でやっていけるのだ、という安心感を与えることができたかもしれません。
また、誰一人中国語が話せなかった2007年の派遣チームと異なり、今回は中国滞在歴2年の先生や、以前中国で仕事をしたことがあり、中国語韓国語両方話せる先生もいらっしゃった、ということも、ストレスが少なかった理由だろうと思います。もっとも、日本語を教える学校の中にいる限りでは、中国語を一言も話すことができなくても仕事はやっていけます。でも、町にでると、片言でも中国語が必要になる。そんな時でも、中国語ができる先生は、一人で着々と暮らしていて日常生活がスムーズにいくので、私も安心ました。
<つづく>
2009/08/03
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(32)みなさんありがとう
今回の中国滞在中、宿舎の生活でのトラブルは、道路工事のため3日間水が出なかったことと、2日間お湯がでなかったことがあった、ということくらいです。私の部屋では風呂場のシャワータンクから漏水したこともありましたが、おおむね生活は快適でした。
漏水のときは、シャワータンクの絵を描き、水がぽたぽた垂れるようすを描いて、ただ「水、シュイ」と言いました。「明白了、ローシュイ、明天修理」と、受付の人に言われて、あれ、漏水は中国語でローシュイっていうんだ、と気づく程度の中国語力の私が何とか暮らせたのも、複雑な話になったら、同僚の中国語に助けてもらったおかげ。
前回、前々回の滞在中は、中国語の家庭教師を頼んで、少しでも中国語を覚えようとしたのですが、今回は「もう年寄りだから、これ以上中国語覚えられない」と、完全に投げていました。そんな私でも、任務完了できたのは、同僚の先生たちに恵まれたからと感謝しています。
おなかの調子をくずした人がいるといっても、病気で病院に行った人がいなかったというのも、今回のチームがなごやかにすごせたひとつの理由。
私もベリーダンスで踊ってストレス発散できたし、みなが体調よくすごせたことが、一番よかったことでしょう。中国人の同僚先生にもいろいろ助けてもらいました。
担任クラスの学生たちにも恵まれました。前回前々回の学生たちももちろん非常に優秀な人たちで、よいクラスでしたが、今回も優秀で人柄のよい学生のクラスであって、たいへん助けられました。
班長(バンチャン=クラス委員長)のキンセイさんは、皆から「シーバンチャン」と慕われ、リーダーシップを発揮しても決して強権的ではなく、なごやかにクラスをまとめていました。
学習委員のカショさんは、頭がよく親切でクラスの皆の学習に役立ってくれました。体育委員のヨーショーさんは、明るく元気に縄跳び大会やバドミントンのとき活躍していたし、学芸委員のソケツさんは、人妻らしい落ち着きを見せながら、教師歓迎の学芸会をとりまとめていました。生活委員のエンテイさんは、クラスメートの寮生活やみなでお金を集めてパーティをするときなど、きちんと配慮して対処していました。その他の学生たちも、皆なかよく、楽しくクラスの中でお互いを認め合って互いの個性とそれぞれの専門分野では優秀な人であることを尊重しあっていました。
8月の専門日本語は、今までの基礎日本語のクラスがバラバラになり、専門ごとに10クラスに分かれる編成になります。医学専攻のクラス、化学専攻のクラスなどになるので、また違う雰囲気のクラス作りとなるでしょうが、基礎日本語クラスの3班は、8月に私が再び中国に行ったときは、もう一度元のクラスでクラス会ができるかもと、期待しています。
みなさん、本当にありがとうございました。
<つづく>
2009/08/04
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(33)論文発表会
帰国してのんびりはしていられません。
8月中旬には、国際日本語教育シンポジウムで発表するために、再び中国へいくことになったし、9月には前期お休みした分の授業の集中講義。学部日本人学生向けに1週間は日本語学概論、2単位分。2週間は日本語教授法4単位分。朝から夕方まで、一日に90分4コマの授業を集中して行います。声が枯れそう。
さらに、学生としては、大学院の単位にする英文学との比較文学論のレポート執筆が2本。9月末日にはもう一度博士論文中間発表を行う。
6月にパソコン故障のため失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日に実施され、拙い発表でしたが、なんとかこなすことができました。昨年9月の第一回目の歯票に続き第二関門突破。
6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。
指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。
30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも、学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。学生たちは試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう。彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。
私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。
実は、ハカセゴーというのは、けっこう高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間で合計300万円の学費をつぎ込むことになる。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を払っただけでは買えない。
お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。海外からの迷惑メールの何割かはこの「博士号を手に入れませんか」というディグリーミルからの宣伝です。
博士課程在学の学費をつぎ込まないで、論文執筆のみで博士論文審査に提出することも可能でしたが、怠け者の私は、コツコツ論文を仕上げるより、レポートや発表、紀要論文などで尻をあおられるほうが、確実に課題をこなしていけると考えたのです。今のところ、とりこぼしは、6月の中間発表、サイバー発表の失敗だけ。
中国で、アラカン(アラウンド還暦)の記念品に、還暦祝い赤いちゃんちゃんこがわりの赤いポロシャツを25元(約400円)で買いました。これを着て近くのスーパーに買い物に行ったら、スーパーの店員がみな似たような赤いポロシャツを着ていた。スーパーのお仕着せとそっくりのシャツで、偽スーパー店員になってしまった。
私は「本物の価値ある博士」をめざして中国に単身赴任し、日夜授業を研究し論文を執筆し、がんばってきました。
7月30日には、なんとか「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。研究の不備を指摘され指導されたのは当然のこととして、次の発表9月末までにもっとよい論になるよう、まとめていかなければなりません。ファイナルステージまで、元気に持ちこたえていきたいものです。
<おわり>
2009/08/05
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(1)旧友と再会
中国滞在最後のイベントは、帰国の前の大連旅行でした。
大連には友人のハンさんが住んでいます。ハンさんは、若いながら大学で準教授に昇進して半年たったところです。たいへん優秀な人ですが、「学部によっては、私の年齢ではなかなか昇進のチャンスがなく、上の世代の人が大勢チャンスを待っているところも多いのに、私の所属する学部では、ちょうど世代の穴があったので、うまく昇進できました」と謙虚に語っていました。
昇進のためには、英語試験や論文審査のほか、学長ほかお歴々の前での口頭発表や口頭試問を繰り返し、研究学会での発表の評価など、たくさんの関門があったということです。 ご主人の理解もあり、お姑さんが、11歳の娘シンシンちゃんの世話をしてくれる、という恵まれた環境もさることながら、彼女自身が努力家であることが、若い準教授の誕生となったのだろうと思います。
2007年に大連に滞在したときは、ハンさんの受け持ちクラスで飛び入り日本語授業をしたこともありました。今回はすでに期末試験を終えて、あとは期末の教員会議のみというところにおじゃましました。
今回、私のパソコンもケータイも壊れてしまったという状況のなかで、連絡が行き届かなかったのですが、私が夜行寝台の列車を降りて出口に向かうと、ちゃんとハンさんが「センセー!」と、待っていてくれました。
今では準教授の彼女のほうこそ「センセー」なのに、15年前と同じように、「センセー」「ランリン」と呼び合う二人です。
15年前、彼女は私が勤務した大学の日本語学科学生で、私の中国語家庭教師を務めてくれたり、幼かった娘と息子のシッターとして世話をしてくれました。その後、彼女が日本に来て働いていたときは、日本の我が家にも遊びに来てくれました。2007年には、久しぶりに旧交温めることができました。
7月23日の朝、大連駅からまずは、大学本部キャンパスの近くにある彼女の住まいに向かいました。ご主人の会社から支給されている社宅と、彼女の勤務先大学から支給されている職員住宅は人に貸し、現在は娘のシンシンちゃんが通っている大学附属小学校に徒歩数分という地に家を買って住んでいます。大学の元教授たちが住んでいる古いマンションで、若い世代はハンさん一家くらいということですが、おばあちゃんおじいちゃんが孫の世話をすることが多い中国なので、小学生くらいの子どもの姿もたくさん見かけます。シンシンの世話をしているのも、すぐ近所に住んでいるハンさんのご主人のお母さん。部屋は、リビングルーム、夫妻の部屋、シンシンの部屋と台所です。
大連など大都市では、「有名進学校に近いこと」が、親の家探しの第一条件なのだそうです。進学校の区域に住民票があることが進学に有利とされているので、進学校の周囲の住宅の値段は金融危機があろうと不況だろうと、どんどん高くなっているのだそうです。
自身が準教授への昇進を果たした今、彼女の一番の関心事は一人娘の進学。現在付属小学校の生徒なので大学附属中学校への進学は難しくないけれど、歩いて数分のところにある超有名進学校への入学を狙っているので、受験はたいへんだと話していました。
<つづく>
2009/08/06
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(2)中国教育熱
シンシンちゃんやお姑さんといっしょに、朝市へでかける途中、その有名進学校の前を通りました。北京大学、清華大学など、中国のトップクラスの大学への進学率がたいへん高いという学校の門の横の掲示板に、生徒の写真付きで今年の進学者たちが張り出されていました。ずらりと並んだ大学名を見ていると、ウァア、スンゴイ!と目を見張らされます。
中国ではかっての「重点大学」という国家の重要大学の呼び方が、1995年以後は「211工程」(Project 211)と変わりました。中国でも大学の数は増えているけれど、重点大学であるかどうかによって、就職にも差がでます。
私のクラスに集まってきていた国費留学生候補者の所属大学もこの「プロジェクト221」の大学でした。日本以上に学歴社会である中国では、「211工程」の大学に進学できるかどうかは、人生を左右します。
シンシンちゃんの教育のため、ハンさんは一ヶ月2400元をつぎ込んでいると語っていました。一般の大学卒業生の月給にあたる金額です。一週間のうち、ピアノ、一回110元、英語家庭教師一回100元、卓球教室一回60元、ダンス30元。一週間に4回のお稽古事で、300元、一ヶ月ではトータル2400元になるのだということです。
中国上層社会での教育熱について聞いてはいましたが、実際目の前に「大切に育てられている一人っ子小公主(リトルプリンセス)」がいると、中国で進学するのもたいへんだなあという気持ちになります。教育にお金をかけるかわりに、衣服はお下がりですませるのが、ハンさんの子育て方針だと言っていました。
シンシンちゃんは、2年前に会ったときに比べるとだいぶ背が伸び、眼鏡をかけたことで、ちょっと大人っぽい印象に変わりました。
本が好きでよく読んでいたせいか、目が悪くなってしまったと、ハンさんの嘆き。今いちばんのお気に入りの本は『窓辺的小豆豆(窓際のトットちゃん)』だそうです。2年前はディズニーの絵本がお気に入りでしたから、読書の面でも成長ぶりが分かります。
マーマにならって、私を「センセー」と呼び甘えてきます。今回は「ジャンケンポン、あっちむいてホイ」が気に入って、何度も「センセー、アッチムイテ」と、遊びたがりました。
大連に着いた日の午前中、雨模様でしたが、星海広場という海岸を散歩しました。大連はさまざまな地層が露出していることで有名な都市で、海岸にも、黒石礁などの貴重な地層があちこちにあり、観光名所になっています。
黒石礁風景区の写真のサイトをリンク
http://people.icubetec.jp/special/mapchina/liaoning/pm/a778f01952ef4051a5ac6aa72889d426
これらの地層を見ているうち、雨がぱらついたので、星海広場に建っている自然博物館で雨宿り。私が「中を見たい」というと、ハンさんは、博物館に勤務している知り合いに電話をかけて、入館許可をもらってくれました。
この博物館は3日間以前に予約しておかなければ、すぐには入れない場所だったのですが、特別に許可されて中に入れることになりました。貴重な展示品の保護の意味もあり、3日以上前に予約をして身元確認ができてからやっと見学が許可されるということでしたが、博物館研究者の知り合いで身元は確かなハンさんですから、すぐに見学できることになり、ラッキーでした。
知り合いという人は、ハンさんとは「登山の会」の仲間です。大連付近の山を歩いて植物採集を続け、つい最近、新種を発見したという女性植物研究者でした。
中国でコネを利用して得をしたのは、はじめてのことです。何のコネもない春庭だったので。
<つづく>
2009/08/07
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(3)大連自然博物館
自然博物館の内部は、東京上野の科学博物館と似たような展示でした。階ごとに岩石と地層、植物、ほ乳動物、海の生き物などのコーナーがあり、さまざまな標本が展示してあります。中国の子どもたちが自然科学の一端に触れられるようになっていますが、上野の科博に比べると、まだまだ展示に工夫の余地がありそうです。
最近の日本の博物館は、研究の機能のほか、教育の機能も充実してきていますが、中国では博物館の普及、教育の機能はこれからだろうと感じました。ただ、予約は必要なものの、博物館の入館は無料。これは日本も見習うべきでしょう。日本の国立の博物館は独立法人になったとはいえ、入館料は国民の財産として無料にすべきと思います。
岩石や地層を展示している1階、2階以上の植物、動物、海洋生物など、テーマごとにしっかりした展示でしたが、現在の上野の科博などの展示方法からみると、少し専門的な展示が多いように思えました。
専門的知識のない者にもおもしろく興味を持って見せる、という点では、上野の科博は展示方法も洗練されていて、小さな子どもでも、科学への興味を持てる館内構成になっています。
中国の博物館から日本へ研究留学する学者は少なくないだろうけれど、専門の学芸員、キュレーターの養成にも、科博や国立博物館への留学生を送り出せたらいいのになあと、思いました。展示方法ひとつで、ひとつの科学的な展示品が「へぇ」と眺めるだけのものから、無限の科学への興味をひきおこす魔法の品に変わるからです。
日本にはない展示として、海岸に打ち上げられた鯨をそのまま剥製にして展示してある階が、迫力ありました。ミンクくじら、ナガスクジラ、マッコウクジラなどが、巨大な体躯が展示されていました。鯨といっしょに写真をとりました。剥製の制作に薬品処理を行っているせいか、においがきつかった。
博物館から歩いて、ちょっと早めのランチに、人気の火鍋店へ。おいしい火鍋(シャブシャブ)ですが、昼時夕食時はいつも列を作って人々が待っているため、ウエイトレスたちは何を勘違いしたのか、非常にいばっていて、このごろ注文してもサービスが最低だと、ハンさんは怒っていました。サービス悪いけれど、中国ではサービスの質はどこも悪いから、結局おいしい店が繁盛する。それでますますサービス悪くなる。
私は、夜行寝台車を降りる前にちょこっとパンケーキやナッツを食べて朝ご飯代わりにしたので、早めのお昼がちょうどよく、おなかいっぱい食べました。薬味のおかわりやお水を頼んでもすぐには持ってきてくれなかったりしたけれど、肉も野菜もおいしくいただきました。
<つづく>
2009/08/08
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(4)少女と子犬
シンシンちゃんは、小学校の正式科目でも英語授業を受けていますが、ほかに、アメリカ人教師から、毎週英語のレッスンを受けています。英会話がとても上達していて、私とはもっぱら英語で会話しました。読むのは複文OKだけれど、会話では複文が出てこずに単文だけで話す私の英語力とちょうどいいくらいのシンシンちゃんの英語会話力なので、2年前にはジェスチャーでコミュニケーションをとっていたのに比べると、いろいろなおしゃべりができました。
かわいいシンシンちゃんに、「センセー、Do you like dog?」と質問されて「Of course, but do you mean dog as a pet or dog as a meat? In my childhood, I had a cute dog. I like dog very much. But,in the Korean restaurant I like dog meat 」と、答えたら、おばあちゃんが飼っている子犬を私に見せたいのだと言います。あはは、犬肉が好きかどうかではなく、ペットのことだったのね。シンシンは学校から帰ってくると、近所に住んでいる父方のおばあちゃんといっしょにすごしていますが、おばあちゃんは、最近犬を飼い始め、今シンシンは子犬に夢中で、「リリヤ」と呼び、かわいがっています。
おばあちゃんが夕食準備をし、マーマが大学の会議に出かけていた午後、いっしょにシンシンの小学校まで散歩に行きました。住まいは5階ですが、エレベーターがないので、ちょっと上り下りがきついですが、道路を隔てて、空き地を越えていくと、目の前が小学校です。空き地には、近所の人が思い思いの野菜を植えています。トウモロコシ、ピーマン、トマト、南瓜などが育っていました。ここもやがては整備されて何らかの建物が建つのかもしれませんが、ちょっとした空き地があれば、たいていそこは畑となるのが、東京などの空き地と違うところかも。
空き地でリリヤを放しましたが、まだよちよち歩きの子犬はあまり歩きたがらず、歩かせると行き先とは反対の方向に行きたがる。シンシンは手提げ袋の中に子犬を入れて抱えて散歩しました。
小学校はすでに夏休みになっているので、校門から中へは許可された人しか入れないというので、門の前で何枚か写真をとりました。
家に戻って、シンシンが習っているダンスの発表のビデオを何本か見ているうち眠くなったので、お昼寝。夜行寝台車でも十分に眠れたと思っていましたが、朝5時起きだったので、少し睡眠不足だったのか、2時間ほど眠りました。
シンシンと「あっちむいてホイ」をして遊んでいると、家庭教師のエリスがやってきました。エリスは大連の外国語大学のひとつで英語教師をしています。
名前は、アリスかと思ったらエリスだというので、ドイツ系のアメリカ人なのかと思いました。
私の勤務校で、アメリカ人英語教師のトムは日本語教師の2倍の給料を得ており、その金額の差を知ったとき、私たちは「うぁあ、どうしてアメリカ人教師は2倍ももらえるのよっ」と思ったものですが、中国に来たがる英語ネイティブの教師はまだまだ少ないので、希少価値分が給与に反映されているということです。中国で仕事をしていた日本人ビジネスマンが、退職後に中国で日本語教師になったりする例も多く、日本語教師はいくらでも補充がきくと思われている。
日本語教師、日本国内だけでなく大陸でも待遇は悪い。
と、愚痴はともかく、シンシンが英語レッスンを受けている間にハンさんが大学の会議をすませて帰宅し、ハンさんのご主人も帰宅しました。
ハンさんのご主人は大連開発区に本社がある化学の会社に勤務しています。お姑さんを大事にするハンさんなので、家族はとても仲良く暮らしている様子でした。
<つづく>
2009/08/09
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(5)大連海鮮料理と海辺のリゾート
ご主人が帰宅したので、シンシンが英語を終える前に食事を始めました。ハンさん、ご主人のリューさん、ご主人のお母さん、私。ビールで乾杯し、テーブルには、朝市でお母さんが品定めした大連特産品の海鮮のごちそうが並んでいます。蒸しあわびがメインディッシュ。山葵醤油でおいしくいただきました。
あわびやなまこ、わかめは、大連の海岸での養殖が盛んで、大連の漁業は近海の漁以上に養殖産業が発達しています。日本で鮑をおなかいっぱい食べるなんてできないことなので、「どうぞ、どうぞ」の声に甘えて、どんどん食べました。蝦の炒め物、魚の蒸し煮もおいしい料理でしたが、なんといっても鮑がごちそうです。
水餃子はセロリと牛挽肉。これもおいしかった。
夜は、大学本部キャンパスの中にあるホテルに泊まりましたが、大連観光シーズンのため満員で、「一泊ならあいている部屋があるけれど、二泊はできない、満員」と言われて、一泊だけ宿がとれました。
大連2日目は、海浜リゾートへのピクニックに出かけました。ご主人が会社に行ったあと、お姑さん、ハンさん、シンシンちゃん、私の3人で、新交通路線で大連郊外の金石灘リゾート地区(金石滩国家风景名胜区)へ。快軌3号線に乗って、金石灘駅まで50分ほど。
いつもは星海広場の海岸がすぐ近くにあるので、大連のある遼東半島の反対側に位置する金石灘へはあまり出かけることがなかったので、今回はシンシンちゃんにとっても、初めての海岸リゾート遊覧になるということでした。
金石灘駅で、ハンさんは「リゾート半日遊覧」のチケットを購入。一枚60元です。このチケットに、遊覧バスのほか、蝋人形館、地層公園、中国武術館などの入場券が含まれています。
最初は蝋人形館。ほんとうは、私としては蝋人形はパスしてもいいかなという気分でしたが、たぶん、シンシンちゃんやお姑さんにとっては、中国の有名人や世界の有名なお話しの主人公を見るのは楽しみなことだろうと思っていっしょに入館しました。
最初のコーナーは、北京オリンピックのメダリストたち。また、バスケットの姚明の人形と写真を撮るコーナーなどがありました。姚明、身長228cmということは新聞などで見ていたし、写真も見たことあったのですが、蝋人形の前に立ったら、あまりのデカさに、圧倒されました。蝋人形館をちょっと馬鹿にしていましたが、姚明のデカさを実感しただけでも、入ってよかった。
メダリストコーナーのあとは、毛沢東、周恩来ら偉人コーナー、歴史上の人物コーナーには、ヒットラーからビルゲイツまで。中国人はお金持ちが大好きなので、ビルゲイツはどこに行っても人気者です。
世界の有名なお話コーナーでは、ロミオとジュリエットとか、白雪姫とかの蝋人形。ここらへんは、さっさと通り過ぎました。
正式名称は「金石世界名人蝋像館」というのでした。
<つづく>
2009/08/10
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(6)金石園の巨石
次は、私には興味津々の金石園(金石縁公園)へ。大連にはさまざまな地質の標本が露出しているのですが、この金石園は、5億年前の海底の地質が海岸に隆起して、さまざまな形の石のオブジェになっています。
「岩の上に上ること禁止」と書いてありますが、見物客はどしどし登っていって、写真を撮りあっている。石が層になっているようすがよくわかるのですが、そんなに大勢の人が登っていったら、層の部分が削れてしまうではないか、と心配になったのですが、3万㎡という園内の、研究用には保存された場所があって、こちらは観光客用に公開されている場所なのだ、と思うことにしました。
北京オリンピック前には、政府はやっきとなって観光地のマナー向上キャンペーンを繰り広げましたが、どこにでもゴミを捨てる、ちょっとした暗がりでは誰かしらが立ち小便をしているという中国マナーは、どうも改善の見込みはないらしい。
金石園の写真リンク
http://japanese.dda.gov.cn/2009/06/14/1080.shtml
次は、「海の恋海岸」へ。ここは、大連で結婚式を挙げるカップルが、結婚前に婚礼前撮り写真を撮影するときの名所です。私たちが海辺で一休みしている間にも、プロによる写真をしている若いカップルがいました。私のクラスの班長さんキンセイさんも5月の休暇の際に大連で結婚写真を撮影したということでした。撮影は何カ所かを移動して行うのでとても疲れたと言っていましたが、この海の恋海岸でも撮影したかどうか、8月に再会したら聞いてみましょう。
海辺にシートを広げて、大の字になって私とハンさんが寝ている間、シンシンちゃんはおばあちゃんといっしょに膝まで海に入って大喜びです。波と戯れている少女の姿、ほんとうにほほえましく、ほのぼのとしてきました。
私もちょっとだけ海に足を浸して、波の満ち引きを味わいましたが、すぐに貝と石を拾い集めるほうに回りました。日本の地質学の先生たちへのおみやげの石。
葫蘆島市の海辺に行ったときも渤海湾の石を拾いました。大連市も渤海湾のはしっこの半島ですから、基本的にそれほど変わった石の構成ではないとは思うものの、専門家が見たら、葫蘆島の浜辺の砂と大連の浜の砂を比較したら興味深いものであるかと思います。日曜地学ハイキングでお世話になった先生方にいつかお渡ししたいと思って、石や砂を持ち帰ることにしました。
お姑さんがゆでてくれたトウモロコシやソーセージを食べ、桃をむいてお昼ご飯を潮風と共に味わいました。
<つづく>
2009/08/11
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(7)地質公園と武術館
地質公園。大連の海岸に、さまざまな地質の岩があります。
金石灘は、海岸線が20キロも続く天然の地質博物館です。金石縁公園は、5~7億年前につくられた太古の地質地層を見ることが出来ましたが、このあたりの海岸全部が、岩礁や岸壁の形や色彩など海触暗礁林と呼ばれるさまざまな奇岩があります。
数億年という年月と風雨に晒された岩は、珍獣奇獣を連想させる形や、小豆色や黄金色など鮮やかな色を見せており、岩というより天然の芸術品です。
地質学の専門家でない一般の観光客に人気なのは、見立ての岩。日本でも「烏帽子岩」とか「夫婦岩」とか、海岸の岩がいろいろな形に見える場所が観光名所になっていますが、大連でも同じ。「ベートーベンの頭」という名の岩あり、「恐竜が海を飲み込む」という岩あり。恐竜が首を伸ばして海に口をつけているように見える岩、ほんとうに海水を飲み込もうとしているように見えます。
地質公園の中でシンシンちゃんが一番喜んだのは、白鳩の群れが観光客の頭すれすれに飛んできて、ぐるぐる回っていたこと。ちょうど鳩が頭の上をかすめたところを写真にとろうとしてシャッターチャンスをねらったのですが、なかなか思い通りの写真は撮れません。シャッターを押そうとするともう鳩は通り過ぎている。
金石灘最後の観光スポットは、中華武館という場所での武術ショウ。昔の武術館を模した大きな建物。中の舞台にスモークがたかれ、武術ショウが始まりました。少林寺、カンフーなどの中国伝統武術が見た目も鮮やかに、次々に繰り広げられます。
山東省の武術大会でチャンピオンになったという若い女性武術家は、鎖鎌や棒術で華麗な技を披露していました。そのほか、剣山の上に横たわって、腹の上にまた人が乗って剣山を重ねたり、ガラスを粉々に割ってその上で武術を行ったり、これでもかってぐあいに「すんごい!」技が披露され、日々鍛錬を怠らない中国武術の伝統を見せつけました。
この武術館の隣は、「大連模得芸術学園」です。「大連モデルアートスクール」というのは、中国で有数のファッションモデル学校。校長は中国出身者で世界的に活躍したモデル出身の方で、ハンさんは、大連のタウン情報誌記者として働いていた頃にインタビューをしたことがあると話していました。とても華やかで美しい人だったそうです。
この校長の薫陶のもと、中国全土、そして世界的に活躍するモデルの多くがこの学校の卒業生なのだそうです。
ハンさんと、武術もいいけれど、このモデル学校も観光コースに入れて、ファッションショウを見せてくれればいいのにね、と話し合いました。
海辺リゾートの夕暮れを身ながら、大連中心街に戻り、夕食は近頃評判という満族料理の店へ。満州八旗の貴族だった祖先を持つ人が、最近のエスニックブームにのって、満州族の貴族料理の店を開き、大評判なのだとか。久光という日系企業のデパート(旧イトキン)内に新しくできた、「多雨褒王府」という店です。
の
入り口には満州貴族の衣装をつけたウエイトレスが迎えてくれて、席につきました。ハンさんは、「ここも人気店になるにつれ、サービスが悪くなった」と言います。電話予約をし、少し遅れるという連絡をしてあったにもかかわらず、「時間に客が来なかったから」と言う理由で予約席がなくなっており、別の席が用意されるまでちょっと待たされました。
料理は、一般の中華料理とはひと味変わったメニューもあり、おいしかったです。
「多雨褒王府」を紹介しているブログをリンク
料理の写真など
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuaki930jp/18373706.html
店の内装とウエイトレスの衣装
http://www.dalian2.cn/1/viewspace-323#xspace-tracks
おいしい満族料理を堪能し、夜10時発の夜行寝台車に乗車しました。ハンさんには、8月の再会を約束し、今回の中国滞在最後の楽しい旅を締めくくりました。
<つづく>
2009/08/12
ニーハオ春庭・九年母日記0908>(7)再見中国
8月25日には、4ヶ月半を過ごした宿舎の荷物整理。半分は8月に再訪したときのために夏服や日用品を残しておくことにして、一番重い本と書類は段ボールにつめて、郵便局へ。SAL便で380元で送り出しました。あとは、適当にスーツケースにつめて、25kgの飛行機荷物制限内になるだけにしました。あとは手荷物。手荷物はパソコン2台。おみやげのうち壊れ物と、石は手荷物。重たいものは、スーツケースに入れると超過料金を取られるから、手荷物のカートに入れます。
25日夜は、同僚と最後の晩餐。桂林路のちょっとこじゃれたレストランバーで、4ヶ月半の思い出を語りながら中国最後の夕食をいただきました。
雪も降った3月から、過ぎてしまえばあっという間の4ヶ月半でした。それぞれクラスや町のなかで、いろいろな思い出があったのをふりかえり、しみじみビールやカクテルを飲みました。
一番楽しかった思い出は?いつばんたいへんだったことは?など、お互いに披露し合い、それぞれ別々に出かけた旅行の写真を見せ合いました。
一番若いバンブー先生は、最初私が企画した「内モンゴル出身の学生といっしょに、帰省する村へ着いていく」という旅行を実施しました。私の希望は「伝統的なゲル(包・パオ)」に住んでいる人がいたら、そこにホームステイしたい」というものでしたが、相談した内モンゴル出身のボタンさんは、「モンゴル共和国(外モンゴル)にはまだ包で暮らしている人もいるけれど、内モンゴルでは中国政府の定住政策があるので、遊牧生活している人はほとんどおらず、皆、定住の住宅に住んでいる。包(パオ)は、ホテルしかない」ということでした。
バンブー先生はボタンさんとともに内モンゴルへ行き、彼女の家や、羊牧場を経営しているおじさんの家にホームステイをしたと、写真を見せてくれました。モンゴル族伝統の衣装を着て白馬に乗って写真をとっているバンブー先生、カッコいい。
一家は羊を一頭解体して、ごちそうしてくださったということです。
「やはり、日本人だから、羊をしめるのを逐一見ているのはつらかったけれど、せっかくの好意で羊をごちそうしてくれるのだから、見ているのが礼儀かと思って、最初から最後まで見ていた。血も腸につめてソーセージにして、これは日本では絶対に作らない料理だから、貴重なシーンと思って見ていた」と話していました。
若くて優秀なバンブー先生、4ヶ月半の授業でもさまざまなアイディアを出して、工夫しており、パワーポイントファイルの作成でもがんばってよいものを作っていました。
「~できるように」という可能形と意志形の組み合わせ文の練習のときに、私も彼のアイディアの「絵馬に願い事を書き入れてみよう」という教室活動をいっしょにやらせてもらいました。
絵馬の形を印刷して、「学生の日本語が上手になりますように」「家族が健康に暮らせるように」という見本を見せ、学生たちに、絵馬に願い事を書かせたのです。書き上げた絵馬は、教室に張り出し、最後は学生に「願い事が叶えられたら、お炊きあげといって、燃やすんですよ」と、解説して持ち帰らせました。
そんなこんな思い出をよみがえらせながら、中国最後の夜はふけ、26日の便で成田へ。
4ヶ月半ぶりの我が家は、洗濯物の山に埋もれていました。「下着は着替えがいるから洗濯したけれど、シーツとかタオルとかは、替えがまだあるから、ためておいた」という息子。帰宅した1時間後から洗濯を始め、洗濯し続けました。次は茶碗の山と格闘。洗い続けました。
「ハハウエ、帰国した日くらい、休んだらいいよ」と、殊勝げな言葉をかけてくれる娘と息子。働き者のハハは、26日も27日も空き缶空き瓶の始末とか、4ヶ月半の留守の間にたまったゴミと格闘し、28日にようやく持ち帰ったスーツケースを開けることができました。29日は、銀行まわり、30日は博士論文中間発表会、31日は健康診断。
そんなこんなで、中国帰りの後始末をしているうちに、早、もう一度中国へ向かう日が近づきました。