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春庭@アート散歩

工芸散歩2011年7月

2010-05-02 10:55:00 | 日記
2011/07/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(1)たばこと塩の博物館「明治の輸出工芸品」

仕事帰りの散歩、6月後半と7月は「アートさんぽ」をしています。サマータイムを導入した会社が多い今年の夏、4時には会社からひけて、バーやビヤホールは繁盛がみこまれているのだそうですが、バーにお金を落とすこともできない「もともと節約生活」の私、午後の過ごし方もこれまでと同じく、「無料!」「It's free!」「ご自由にどうぞ!」が必須です。寄り道先は、入場料100円の「たばこと塩の博物館」だったり、入場無料の「三の丸尚蔵館」だったり。

 幕末明治初期の工芸品を見て歩こうと思い立ったのは、NHK・BSプレミアムの『極上美の饗宴 シリーズいのち映す超絶工芸▽金属に刻んだ一瞬 彫金家・正阿弥勝義』という番組の再放送を見たからです。(5月28日(土)NHK BSプレミアム 午後12時00分~12時58分)

 正阿弥勝義(1832-1908)は、岡山藩お抱えの彫金・金工師でした。幕末、殿様の刀の鍔などを作って安定した暮らしを送っていたのですが、明治になって世が変わり、殿様は東京へ行ってしまうし、廃刀令が出されて刀の鍔などは需要がなくなってしまいました。
 45歳になって、勝義は金工芸を新しい方向へ向かわせます。

 おりからの19世紀末万国博覧会ブームで、日本の金工の高い技術力芸術力は海外のコレクターの目を集めました。正阿弥勝義ら金工彫金の作品が国内ではほとんど知られることなく今日まで来たのは、その作品のほとんどが海外へ輸出されてしまい、国内に残された作品は「知る人ぞ知る」ものだったからです。私はまったく正阿弥の名も彼の作品も知りませんでした。
 正阿弥勝義の彫金技術は、現代の人間国宝彫金師も再現できない複雑な技法が使われていて、空前絶後の作品なのだそうです。

 同じ江戸幕末明治期の作品でも、浮世絵は大量印刷が可能になり、茶箱を輸出する際の包み紙に使われたりしたほどの大衆品でしたが、ひとつひとつ彫金していく金工象眼などの細工は、もともとそう大量には出回っていなかった。現在、海外流出作品の買い戻しを行っているコレクターや美術館博物館によって買い戻されお里帰りした作品を見ることができるようになりました。世が世なれば私なんぞ見ることもできなかった七宝工芸、金工、象嵌などの工芸品の品々を、今回見ることができました。
 
 6月22日、たばこと塩の博物館で「明治の輸出工芸品」を見ようと思い立ったのも、正阿弥勝義の金工にびっくりしたからです。
 たばこと塩の博物館の展示は、日本輸出工芸研究会会長の金子皓彦氏が収集した幕末明治を中心とした工芸品の数々です。芝山細工、真葛焼、麦藁細工、寄せ木細工などから特にすぐれた精緻な工芸品を展示しています。芝山細工など、私ははじめて見たのですが、とても美しく見事な作品でした。

 芝山細工は象牙や貝を素材とする象嵌のついたてやタンス、宝石箱などで、現代にこれらの作品を再現しようとしたら途方もない値段になってしまうと思います。明治初期には、日本から欧米へ向けた輸出品としてせっせと海外へ送られていきました。

 作品のほとんどは無名の職人達の手になるもので、職人達は芸術家とたたえられることも誉められることもなく、ひたむきに日々の手技として己に与えられた業をなしていたのでしょう。名が残ることなど考えもせず、毎日毎日こつこつと鏨を打ち鑿をふるい、細工に精魂こめた職人達。
 無名の職人たちの作品は、こうして百年後に私たちの目の前にあります。かれらの多くが、代々受け継がれて大切にされるほどの作品を残せたことを誇りに思い、矜持を持って仕事をしていたのだろうと思います。

 樋口一葉の次兄虎之助は、薩摩焼の絵付け職人でした。陶器の絵付け職人とその妹を主人公にした『うもれ木』は、この兄をモデルにしたといわれています。「うもれ木」とは、長い間地層の中に埋もれていて、化石のようになった樹木のことを言います。今回見た工芸品の中にも、横浜絵付け薩摩焼という花瓶が展示されていました。
 うもれ木のように人々の目から遠ざかっていた輸出工芸品が、百年後の今、無名の職人達の魂の表現として展示されている。作り上げた無名の職人に敬意を捧げつつ、ひとつひとつの作品をゆっくりと見てまわりました。
 
<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡
訂正 (誤)塩とたばこの博物館→(正)たばこと塩の博物館

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2011年07月15日


ぽかぽか春庭「三の丸尚蔵館「美術染織の精華-織・染・繍による明治の室内装飾」 」
2011/07/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(2)三の丸尚蔵館「美術染織の精華-織・染・繍による明治の室内装飾」

 皇居大手門の中にある三の丸尚蔵館。皇室財産から国に寄贈された品々を展示しており、いつでも入場無料です。
 いつもよい企画なのですが、会場がせまいので、たいてい一期二期三期と分けての展示になり、展示品を全部見たいとなると、ひとつの企画に対して3回足を運ぶことになります。東京に住む私でもなかなか三期全部見に来る機会がないのですから、地方にお住まいの方だったら、私以上に「全部をまとめて見たい」と思うことでしょう。東御苑の中に今の三倍の広さの展示館の設立を望みます。

 「美術染織の精華ー織・染・繍による明治の室内装飾展」は第一期3月29日~4月24 日、第二期4月29日~5月22日、5月28日~6月19日の3回展示でした。私は2期と3期の展示を見ました。

 染め物織物は、大和朝廷に機織部(はたおりべ・はとりべ)がおかれたときから、皇室にとって重要な部署であり、服部(はとりべ・はっとり)という地名人名は各地に残されています。
 近代化を急ぎ、諸制度や鉄道技術などを西欧から移入した明治時代。明治宮殿を飾るタベストリーやカーテンに輸入品が使われるということも可能だったことでしょう。しかし、明治宮殿や離宮を飾ったのは、多くは日本の染め物、織物、刺繍の壁紙やタペストリーでした。

 日本には古代からの染め物織物の技術があり、各時代の新しい染め織り技術を導入しながら、技術革新を行ってきました。
 幕末から明治、京都西陣を中心に、フランスなどから新しい染め織りの技術導入に苦闘した人々がいました。万国博覧会などにも出品され、日本の染織技術のすばらしさを西洋社会に認識させて来たのです。友禅技術を改良した天鵞絨(ビロード)友禅、フランスのゴブラン織りを取り入れた綴れ錦などが、改良を重ね、すばらしい織物染め物、刺繍の作品が残されています。

 川島織物の川島甚兵衛の綴れ織壁掛け『桐牡丹に孔雀図』『楓芙蓉に鶏図』も見事でしたし、飯田新七の刺繍屏風『四季草花図』も壁掛け『孔雀図』も精緻な刺繍に目を見張りました。
 作品として残りやすい屏風や壁掛けのほか、地味ですが壁張布の織物にも美しい織りがありました。壁張裂の展示に、群馬県の三人の織師の名前が書かれていました。メモなどはとっておかなかったので、名前をおぼえていませんが、「無名の職工」として生きたのかも知れない三人の名が、「皇室御用達」の壁張を作ったことによって記録され、こうして名とともに展示されている、、、、川島甚兵衛のように事典にもその名が記録される有名人もいるし、無名のままひたむきに織機を動かし刺繍の針を動かした人々もいた。
 彼らは名を残すことを目的としたのではなく、日々の小さな針の一刺し、織り糸の一段一段の良し悪しを判断しながら己のすべきことを続けたのでしょう。仕事とはそのようなものであろうと思います。

 私の仕事も、文化に大きな足跡を残すような大家ではなく、日々の小さな日本語の上達をめざしてこつこつと職人魂を持って取り組むささやかな積み重ねです。日本語学に大きな足跡を残した本居春庭の名を借りていますけれど、小さな小さな無名の春庭です。群馬の三人の織り工が織った壁張の布、親しみを込めて見入りました。

<つづく>
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2011年07月16日


ぽかぽか春庭「シマしま工芸館」
2011/07/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(3)近代美術館工芸館「シマしま工芸館」

 駒場の日本民芸館、上野の東京博物館にも、好きな工芸品がたくさんありますが、一番よく行くのは竹橋の近代美術館工芸館です。よく立ち寄るのは、地下鉄東西線を利用しているので竹橋で降りやすいことと、工芸館の建物が私の好きなレンガ作り近代建築だということ、もうひとつは、工芸館の所蔵作品だけを見るなら、入館料は200円ということによります。(近代美術館本館常設展といっしょの料金は400円)

 旧近衛師団司令部庁舎であった工芸館のたたずまいは、激動の日本の歴史を感じさせ、また歴史の試練に耐えてきた風格を感じさせるものがあり、好きな建築のひとつです。
http://maskweb.jp/b_konoeshidan_1_0.html

 今回の展示テーマは「シマしま」。
 渦巻きや縞は、人類がものを作り出した最初の時期から、紋様として道具にほどこされていました。土器や石器の持ち手に原始の人々は願いを込めて紋様を飾ってきたのです。縞模様はもっとも単純な紋様であり、かつ江戸小紋などの染め物に見られるように精緻で複雑な縞模様もあります。「シマしま工芸館」は、陶器、染め織りなどに見られる縞模様をさまざまな角度から展示しています。(会期は8月31日まで)
http://www.momat.go.jp/CG/11summer/index.html

 「シマしま工芸館」の展示、大好きな志村ふくみの染織きものにも、すてきなシマがありました。「水瑠璃」と題された紬や、「暈し段(ぼかしだん)」という紬振り袖。ほんとうにすばらしい着物でした。
 ほかにも陶磁器やガラス工芸品、漆など、さまざまなシマ模様の表現があり、どれも見応えがありました。

 この展示を担当した学芸員の解説によると、「縞」はもともと、「渡りもの」や「島もの」、「島布」などと呼ばれ、南蛮貿易によってインドや東南アジアなどの遠方の島々からもたらされた、筋模様の織物を意味したそうです。
http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_06/series_01/series_01.html

 古語辞典(岩波)で「しま」を確認してみると、島嶼の意味のつぎに「島物の略」と出ています。「島物」とは、南蛮諸島(現在のフィリピンやインドネシアの島々)を含む東南アジア~インドなどの地域から輸入された物、という意味です。
 中世末期から近世初頭にかけて、茶入れや、絵などが盛んに輸入され、南蛮のどこであれ産地不明の物は、「島物」と総称されていました。この時代に盛んに記録された茶会記にも、「瀬戸肩付き、島物」などと、茶碗の由来が書かれています。

 今、息子がいっしょうけんめい読んでいる『多門院日記』にも、天正15年6月18日の記録として、「島物、壺二斤半入り」と書かれています。(『多門院日記』とは、1478(文明10)年から1618(元和4)年にかけて140年の間に、奈良興福寺多聞院の僧が書き継いだ記録です)。南蛮からの輸入がさかんであった戦国末期、信長も秀吉も島物を愛用したことでしょう。

 「南蛮の島からの輸入品」の意味だった「島物」が、近世後期になると、南方諸島から渡来した布の意である「島渡り物」を特に「島」と呼ぶようになり、さらこれらの輸入布地に、筋文様(すじもよう)が多かったことからこの模様を「島」と呼ぶようになりました。「縞」の文字が「しま」に当てられるようになりましたが、これはもともとは当て字なのです。中国語での「縞」は、「絹の織物」という意味であり、「縞衣」とは、白絹の衣のことです。
 以上、「しま」に関わる「日本語の歴史」でした。今まで気にも留めずに使ってきた「シマ」という「模様を表すことば」でしたが、「シマしま工芸館」を見にいったことから、ことばの由来をくわしく調べることができました。

 では、「シマ模様」という語が近世に定着するまで、この模様は何と呼ばれていたのでしょうか。
 「しま」という語や「縞」という文字は江戸時代くらいからのものであるとして、それなら、奈良時代平安時代にはこの模様はなんとよばれていたのか、という疑問がわき上がります。

 答え「筋 すぢ」です。
 細く長く一続きのものがすべて「すぢ」と言われたので、筋肉の繊維も「筋すぢ」ですし、血筋・家系も「すぢ」、芸風の継承も「すぢ」。習い事をしていて「すぢが良い」と誉められるのもここから。さらに、趣向、おもむき、因縁なども「すぢ」。「すぢ」は、いろいろな意味を持つ多義語であったゆえに、紋様を表す語として新しい表現が求められ、結果、輸入品の衣装の縞模様から「しま」が定着した、というわけです。

 江戸時代は特にシマ模様の衣装が好まれた時代でした。唐桟縞、親子縞、孝行縞、鰹縞、真田縞、乱縞、うねり縞、滝縞、吹流し縞など、江戸時代の染め物に使われたシマ模様は、数百種類にものぼるそうです。
 縞模様の紹介サイト
http://www.viva-edo.com/komon/komon_touzan.html

 縞の名前を全部知りたければ、『縞事典―日本の縞名百相』という本も出ています。縞の名前だけで辞書が一冊作れるくらいですから、いかに日本の文化に縞模様が深くなじんでいるか、ということでしょう。文庫本なら、『日本の染織 (2) 縞・格子』(青幻舎文庫)

 江戸時代から「縞張」という縞柄の見本帳が出版されていたのですが、さて、私はいくつくらい縞柄の名を言えるでしょうか。井上ひさしは、「盲縞めくらじま」という縞の模様名が、「盲」という語が「差別語」としてマスコミから追放されたことによって、作品の中にかき込むことが出来なくなった、と嘆いていました。「つんぼ桟敷」とか、差別用語忌避のために使えない言葉はたくさんありますが、伝統模様としての盲縞くらい気にせずに使えるのが、真の言語文化というものでしょう。

 シマしま工芸館を見て、久しぶりに「ことば蘊蓄」を楽しみました。語彙論という分野には、いろいろの面がありますが、ひとつの語について、いつからこの語は日本語として使われているのかという語の由来、語構成、意味、派生語、使用状況(若者ことばなのか、地方方言なのか)、文字表記の変化など、さまざまな角度から追求することができます。春庭は語彙論が専門ではありませんが、現在の「言語文化研究」というフィールドは幅広いので、どんなことも「芸のこやし」。
 「シマ」一語の探索もたのしい「ことばのさんぽ」になりました。

<おわり>

2011/07/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(4)庭園美術館「皇帝の愛したガラス」

 フランス語で「隠者の庵」「隠れ家」を意味するエルミタージュ。
 18世紀、ドイツ貴族の娘ゾフィは、又従兄にあたるロシア皇太子ピョートルに嫁ぎました。当時のロシア宮廷社会ではフランス語が公用語でしたが、夫ビョートル(のちにビョートル3世)は、ドイツ語しか話そうとしませんでした。ロシア皇帝ピョートル1世の娘アンナとスエーデンの公爵との間に生まれ、アンナの姉エリザベータ女帝の後継者に指名されたピョートルだったけれど、おもちゃの兵隊ごっこにしか興味を持たず、結婚相手にも関心を持ちませんでした。

 ゾフィは、結婚前から堪能だったフランス語に加えて、民衆のことばにすぎなかったロシア語も猛特訓で身につけ、ロシア正教に改宗して、エリザヴェータ女帝から認められ、エカチェリーナの名を与えられました。

 エカチェリーナは、不仲だった夫の死後、女帝として即位、啓蒙君主としてロシアを近代国家として発展させるべく力をふるいました。(エカチェリーナの、日本語慣用発音はエカテリーナ、ドイツ語読みではカテリナ、カザリン。英語読みではキャサリン。私は、エカチェリーナとエカテリーナ、どちらも使っています)。

 エカチェリーナ2世がドイツなどから買い取った美術品を展示する館として、そして恋人との秘密の逢瀬を遂げる隠れ家として贅を尽くして作り上げた場所が、サンクトペテルブルグにあるエルミタージュ。現在は、国立エルミタージュ美術館です。

 エカチェリーナ女帝の愛人の数は、子をなした相手が少なくとも4人。(最初の子パーベル1世は、公式には夫ピョートル3世との間の子とされてはいるが)。寵愛を与えた相手は、10人説もあり20人説もある。その中でも、女帝最盛期の相手だったのはポチョムキン公爵(映画『戦艦ポチョムキン』の軍艦名の由来となった軍人)。エカチェリーナとポチョムキンの間で20年ほどの間に交わされた手紙は、現存するだけでも1062通が発見されており、秘密の関係とは言っても、ポチョムキンの死まで二人は夫と妻として互いを認めていたことが知られています。

 5つあるエルミタージュの建物のうち、小エルミタージュにある一番ふるい展示品は「」“孔雀の時計」です。これは、ポチョムキン公からエカチェリーナ2世に贈られたからくり時計です。ポチョムキンは、36歳のとき10歳年上のエカチェリーナ女帝と結ばれました。パートナーとして女帝を支え、男女の関係でなくなったあとも、52歳で亡くなるまで生涯を女帝のために捧げました。

 エカチェリーナ女帝がポチョムキンのために建てた施設のひとつが、ガラス工場です。ヨーロッパでは、ヴェネチア、ボヘミアなど、ガラス工芸が盛んでした。ロシアでも11世紀前半から国産のガラス器が生産されるようになりましたが、大変高価で、貴族や大商人でもなければ、手にすることはできませんでした。エカチェリーナ女帝の時代、ロシアのガラス製造は円熟期を迎え、晩餐会用食器セット(セルヴィス)などが生産されました。

 18世紀末、女帝エカチェリーナ2世はガラス工場を設立し、ポチョムキンへ贈与されました。エカチェリーナ時代ののちは、ロマノフ王家による帝室ガラス工場として整備され、製造された鏡やガラス製セルヴィスは、外交的な贈答品としても活用されました。エングレーヴィング(ガラス彫刻)によって紋章やモノグラムを彫刻したセルヴィス、金を用いたルビー・ガラスなどの色ガラス、華麗で精緻なガラス製品が作られるようになったのです。

 この頃から、20世紀のアールヌーボーのガラス工芸品までを展示した「国立エルミタージュ美術館所蔵・皇帝の愛したガラス」展を、7月20日、庭園美術館で見ました。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/glass/index.html
 第3水曜日シルバーデイ(8/17、9/21)は、65歳以上の方は無料!!!

 どの展示品もたいへんに美しく、華麗豪奢。きらびやかな金と真っ赤なガラスの花器、皇妃や貴族の名を彫り込んだワイングラス、クリスタルガラスのシャンデリアなどを見ていると、美しさにうっとりし、そして、このような贅沢品を貴族のみが独占する暮らしが続いたのでは、国民の大半が農奴として過酷な生活を続けていたロシアに革命が起きても当然だったのだろう、と思えてきます。
http://www.artimpression.co.jp/exhibition-23.html

 私は、光を透す、透明なガラスになんとも言えない魅力を感じます。現在では、百均のグラスでも質のよいものがあり、お気に入りのグラスを百円で手に入れたりするとうれしいです。
 3月の震災で、食器棚の食器が落下し、大半が割れた中、去年の夏に娘と息子が箱根の「吹きガラス制作体験」で手作りしたガラスが割れなかったのは奇跡的でした。娘は皿を、息子はビアジョッキを作ったのですが、ちょっといびつな形に仕上がった、手作りらしい雰囲気のガラス、私にとっては、高価な品が並ぶ「皇帝の愛したガラス」以上に大切なもの。世界で1点だけのわが家の宝物です。女帝エカチェリーナや、ロマノフ家の人々が愛したガラス製品も貴重ですが、私は我が家の貴重な手作りジョッキでビールを飲みましょう、、、、おっと、この夏はビール節制中なのでした。29日に区民健診を受けることになっています。また「体重オーバー。肥満対策が必要です」なんていう結果が出ないようにしなければ。

<つづく>
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2011年07月29日


ぽかぽか春庭「泉屋博古館「書斎の美術」」
2011/07/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(5)泉屋博古館「書斎の美術」

 招待券をもらったので、7月27日水曜日、仕事帰りのさんぽとして、久しぶりに泉屋博古館を訪れました。泉屋博古館(せんおくはくこかん)は、住友家が蒐集した美術品を展示しています。(なんど読み方を聞いても、泉屋とみると「いずみや」と読んでしまうのですが)
 地下鉄六本木一丁目駅を出て、屋外に設置されたエスカレーターを乗り換えながら上っていきます。エスカレータはたいていビルの中にあって、屋外エスカレータは、他の場所にはあまりないので、空を見上げながら上下するのは面白いです。エレベーターのまわりの木々に、セミの鳴き声がにぎやかでした。

 今回の泉屋博古館の第2展示室は、明清時代に制作された工芸品を中心にしています。中国で、文人達は書斎の必需品として花器、文鎮、香炉などを部屋に置き、愛玩しました。「書斎の美術品」は、日本に移入され文人墨客たちの書斎や煎茶席などを飾る逸品として珍重されてきました。
http://www.sen-oku.or.jp/tokyo/program/index.html

 無名の職人たちが作り上げた、すばらしい工芸品の数々。明代、清代の職人達が、殷の時代から伝わる青銅器を模倣した作品など、名工の技術のかぎりを尽くして古代の工芸を再現しようとしている心意気が伝わりました。

 特に気に入ったのは、かぎ煙草の粉を入れる鼻煙壺(びえんこ)です。鼻煙壺とは、嗅煙草の粉を瓶の中に入れ、ふたについた小さな匙で粉をすくえるようになっている、ミニチュアの瓶です。現代で言うと香水瓶のようなかんじ。5cm~8cmくらいの小さな瓶が玉(Jade)やガラス、陶器などでできていて、その表面に精緻な模様がつけられている。コレクションがずらりと並んでいる鼻煙壺のケースは圧巻でした。

 小さく愛らしい形、華麗でさまざまな意匠を楽しめる瓶の柄、模様。今でもコレクター垂涎の品らしく、中国、香港、台湾には専門の販売店がたくさんあり、コレクターは世界中に逸品を求めて、目を光らせているそうです。ヨーロッパの香水瓶は、中国のこの鼻煙壺を応用して作られたのだとか。
 第2展示室の玉器や硝子、金工の工芸品、ほんとうに見事でした。

 第1展示室は、常設展示の青銅器コレクション。紀元前13世紀の商時代から清時代までの中国の青銅器を見ることができます。

 青銅器の紋様も興味深かったですが、一番楽しかったのは、古代青銅器の中で、楽器として用いられたという「素文鉦(そもんしょう)」です。 英語解説にはhand bellと書いてありますが、現代のハンドベルのように、手でベルを振り、舌がベルに当たって音がでるのではなく、片手に持ち、片手の槌で叩いて鳴らします。古代には、神に通ずるための音として、鳴らされたそうです。

 硝子ケースには、古代の本物がありますが、展示場の隅にレプリカがおいてありました。小さなバチが添えられていて「叩いてみて下さい。ひとつの鉦の異なる場所で違う音階の音が出ます」と解説がありました。参観者は、だいたいバチを手にとって、復元品の素文鉦をカンカンと鳴らしています。もちろん、私も何度も小さく鳴らしてみました。澄んだ音が響き、叩く場所によって異なる高さの音が出るのが、とても楽しい。
 楽器だったとはいえ、古美術品の本物を叩くわけにはいかないけれど、こうして復元品があれば、みなが叩いて音を確かめることができます。

<つづく>
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2011年07月30日


ぽかぽか春庭「鼻煙壺の美」
2011/07/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(6)鼻煙壺の美

 鼻煙壺の小さな精巧な作りを見ていて、さて、私は、このレプリカが本物といっしょにケースの中に並んでいたとして、どちらが本物でどちらがレプリカなのか、区別がつかないだろうなあと感じました。
 中国、明・清時代の青銅器や玉器の逸品を眺めながら、私が思ったことは、無名の職人技への賞賛がひとつ。もうひとつは、ガラスケースの中に、全部模造品が並べられていたとして、ここに集まったほとんどの鑑賞者は「へぇ、すごいね」と感心しながら眺めるだろうということでした。

 ロシア・ガラス展を見ながら、ヴェネチアンガラス、ボヘミアンガラス、ロシアンガラスなどの古ガラス製品、また、近代のエミール・ガレ、ルネ・ラリックらのすぐれたデザインのガラス製品、あまりにも美しく、かつガラスの持つ透明で純粋ではかなさを含む魅力に圧倒されました。と、同時に感じたこと。ガラスショップには数十万円のヴェネチアングラスやボヘミアングラスを売っている。百均店にそれを模倣した中国やアジアで作られた100円のグラスもあったとき、私の目では、即座には区別がつかず、100円と思ったら高額だったり、骨董品かと思ったら100円だったりするだろう、なにせ私は、「目利き」とは真逆なんだから、と思いました。

 陶磁器でも、復元不可能とされてきた品があります。たとえば、国宝の曜変天目茶碗は、中国でも技法の伝承者が絶えてしまい、これまでいろいろな人が復元を試みたけれど、うまくいきませんでした。2002年にようやく「オリジナルに近い」とされる作品が復元されたたのですが、まだ完全な復元品はできていないようです。
 明治時代の正阿弥勝義の彫金のように、いくら研究しても復元できなくなっている技法を用いた作品もあり、「絶対的なオリジナル」という工芸品もあります。しかし、工芸品の多くは複製が可能です。

 複製された陶磁器や織物について、「これは偽物、コピーにすぎない」と言えるとしたら、どんな根拠があるのでしょうか。たとえば、青銅器や陶磁器なら、原料の分析をして、この青銅の成分は、古代のものではなく、現代の銅を使っている、とか、この磁器の釉薬の成分がオリジナルとは違う、とか、科学的な偽物判断もできるのでしょうけれど、素人の目には、ガラスケースの中の素文鉦と、叩いてよいレプリカ素文鉦の区別がわからない。

 贋作騒動の中でも有名な「永仁の壺」事件。1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし)が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定されました。陶芸家加藤唐九郎は、1954年に自ら編集発刊した『陶器辞典』に「永仁の壺」の写真を掲載し解説を執筆して、「鎌倉時代の作品」と主張しました。しかし、「永仁の壺」実は、加藤唐九郎が作った現代の作であったということが判明し、重文指定を推薦していた文部技官が引責辞任をしました。

 重要文化財指定を取り消された後、この壺は価値を失ったのでしょうか。山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作れる男として加藤唐九郎の名声はかえって高くなった」と書いています。(山田風太郎『人間臨終図巻』)しかし、加藤は、1961年(昭和36) 国の無形文化財有資格者(人間国宝)の認定取り消されたました。順調にいけば、文化勲章ほかさまざまな芸術の賞を受賞することもできたはずの唐九郎が、1965年(昭和40)毎日芸術賞を受賞したものの、あとは無冠であったのは、贋作騒動が響いたとしか思えません。

<つづく>
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2011年07月31日


ぽかぽか春庭「レプリカと百均もの」
2011/07/31
ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(7)レプリカと百均もの

 ある作品を「工業工芸製品」と呼ぶのか「美術品」として扱うのか。作家の個的な作品としていわば「一点もの」であるなら美術品、大量生産によって製造され、商品として売ることができるなら工業工芸品という分け方でよいのか、素人の私にはわかりません。
 近代美術館工芸館にある着物や花瓶などは、着物として身にまとうことをせずに、展示してその染めと織りの美しさを愛でる、花を生けることをせずに、花瓶そのものの形や色を眺める、そういう「美術品」です。一方、百円ショップに売っている茶碗や花瓶は、大量生産品として「使い捨て」にされている。

 テレビのバラエティ『はねるのトびら』の中の名物コーナー「ほぼ百円ショップthe ダイタイソー」は、「だいたい、そう」いう値段(ほぼ100円)の商品20点ほどの中に、骨董品、レア商品などの高額商品が混じって並べられ、出演者が高額商品を選んだ場合は、自腹で買い取らなければならない、という番組です。

 我が家、娘と息子のお気に入り番組で、放映されると全部じゃないけれど、私もだいたい見ています。だいたいそう。7月27日水曜日も、大笑いしながらいっしょに見ました。
 高額そうに見えて、100円で買えるものだったり、100円かと思うと数万円ときには数十万円の品だったりする、出演者のやりとりや、がっかりしたりする顔が面白いし、何より、意外な値段に「へぇ、これが100円で買えるの」と思ったり、「世の中、こういうもんに何万も出すレアもの好きもいるんだなあ」と思ったり。

 27日の出品では、古いレアもののスニーカーや、映画で使われた小道具が高額商品でした。ヴィンテージ・スニーカーは7万円。映画『オーシャンズ11』で使用された車の「吊り下げ芳香剤」が、9万5千円。俳優の佐藤隆太が、百円ショップの品と思って選んだ手鏡も高額商品。御蔵島や三宅島の伊豆諸島でとれる桑の木「島桑」で作った手鏡は、桑の木肌の模様が美しく、4万5千円という値段も納得。調べてみたら、ネットオークションでもだいたいそういう値段していました。約100年前にガーナの王族が着用していたという民族衣装も5万円。お金があれば、民族衣装コレクションをしたい私、欲しかった。
 北大路魯山人の作っぽく見せかけて「北」と銘が入っている古そうな壺は、骨董市で百円の品。

 テレビの「なんでも鑑定団」もときどき見ることがあります。自信たっぷりに「先祖伝来の○○」として持ち込まれたものが、たちどころに「贋作」と鑑定されて二束三文だと言われたり、古いがらくたおもちゃと見えたものに意外な高値がついたり。「ものの価値」について、考えさせられます。

 私の結論では、自分が見て気に入り、いいなと思ったら、100円のものでも、それは自分にとって価値があるものであり、いくら高い値段がついていても、気に入らなければ100万円のものでもいらない。あ、いらないっていうのはウソです。100万のものなら何でも喜んでいただきますから、ください。あとでネットで転売しますから。

 というわけで、結局のところ、私の、このさもしくいじましい精神が美術工芸品鑑賞の眼力を狂わせ、目利きなどとてもできないのだとわかります。そういう自分をさておいて、鑑定者がつけた値段に驚いたり喜んだりするのも娯楽のうち。

 紀元前1300年の青銅器の職人も、清時代の鼻煙壺の職人も、ヴェネチアやロシアの硝子職人も、いやあ、いい仕事していました。

<おわり>
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