2011/07/06
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(1)七夕の願いごと
松尾芭蕉は、7月7日(旧暦)の七夕を前にして、「文月や六日も常の夜には似ず」という句を吟じました。「明日は、織り姫彦星が一年に一度の逢瀬を遂げる日と思えば、前の夜の六日の今晩もいつもと趣が異なって感じられる」と言うのです。芭蕉にも、「明日の逢瀬を思うと、前の晩も気持ちが高ぶってくる」という思いをした若い日々があったのかもしれません。
芭蕉の句を下敷きにして、読むと「この味がいいねと君が言ったから、七月六日はサラダ記念日」という一世を風靡した俵万智の七月六日の日付が納得される。(もともとは六月七日だったのを、七月六日に直したのだということですが)
仙台など大規模な七夕祭りは、月遅れの開催で8月7日前後に開催されるところも多いですが、東京は新暦で、7月7日に七夕まつり。震災後の今年の七夕は、復興のシンボルとして、「鎮魂と復興の思いを込めて作られている」という報道を見ました。
6月30日、娘と出かけた先の公園にも竹飾りにビニール製の短冊がたくさん下がっていました。「あんぱんまんになりたい」などの願い事がマジックペンで「覚えたての字でいっしょうけんめい書いたのだろうなあ」という筆跡で書かれていて、「かわいいね」と、娘と笑いました。
白金ブックオフの「座り読みできるカフェ」で、岸本佐知子『気になる部分』。笑いをこらえながら、半分くらい座り読みで読んだのですが、その中に「ヒトサマの欲望をおおっぴらに覗くチャンス」として、七夕の短冊を読んでいく楽しみ」があげられていました。「金持ちになりたい」とか「カレシと結婚できるように」とか、人々はそれぞれ己の欲望を全開にして願い事を書きつけています。
正月初詣の絵馬は、直接神様に願うので「合格祈願」「家内安全」とかが多いですが、七夕短冊のほうは、「天神様に字の上達を願う」ってことが一応「正統派」らしいですけれど。もともと中国から伝わった7が重なる節句行事に、日本のいろいろな民間習俗や盂蘭盆会などの仏教行事が複合してできたということですが、由来はともあれ、1年1度の逢瀬を果たす星の姫の恋成就を祈って夜空を見上げるのは楽しいものです。
留学生には「お星様に願いましょう」と言っています。神社の絵馬には「宗教行為」と感じる学生も、七夕の竹飾りは「日本の文化、習俗」として宗教的な抵抗もないので、厳格なクリスチャンもイスラム教徒も楽しく参加できます。
就学生や留学生がいる教育機関では、毎年竹飾りが用意されます。日本語の練習として、「短冊に願い事を書きましょう」と、字を書く機会を作っています。筆を持って「書道」の文化体験とし、「お習字の一日入門」にしているところもある。
学生達の願い事。「日本語をじょうずになります」そうね、じょうずになったら「日本語がじょうずになりますように」って書けるかも。「漢字テスト100てん」「せかいは平和ほしい。私は恋人ほしい」など、留学生の願いもさまざまです。
私の願い事。「平和で安全な日常生活が守られますように」これに尽きます。むろん、岸本佐知子を笑わせてやれる、あまたの欲望を持ち合わせています。「せめて電気代が払えるほどの収入がほしい」とか、「ストロンチウムとかセシウムに無縁の食べ物が食べたい」とか。俗なる願いがいっぱいです。
<つづく>
05:55 コメント(4) ページのトップへ
2011年07月08日
ぽかぽか春庭「七夕誕生日」
2011/07/08
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(2)七夕誕生日
昨夜は雨だったみたいですが、天の川は白鳥に乗って渡れるんですよね。
群馬にお住まいのnanjaiさんのご子息は、七夕を「入籍記念日」になさるとか。結婚式の日は周りの人も覚えているけれど、入籍の日は忘れてしまいがち。でも、七夕の日なら確実に思い出しますから、よい日をお選びですね。
うちの亭主は、入籍の日も結婚式の日も忘れたままの30年ですけど。
忘れられない日付。3月11日。
3月大震災のあと、私はしばらく無気力状態になりました。ひとつには、これまで何も行動せずに電気を使ってきたことへの自分自身への無力感。ひとつは「神がいるなら、なぜ無辜の東北の民を津波で押し流すのか」という怒り。クリスチャンは「何も悪いことをしていないヨブにも試練が与えられたではないか」と考えるのかもしれませんが、クリスチャンのいう神が試練を与えたいのだとしたら、なぜ彼の民ではなく、無辜の東北の人々がその試練を受けなければならないのか、と思ってしまった。東北の人たち、ほとんどが1年最初は初詣をし、お盆には墓参りをし、七夕には短冊に願い事を書くという人々と思います。
大災害のあと、哲学者でも宗教家でも大きな精神的影響が与えられたそうですから、私如き精神の弱い人間が無気力になったのも、当然なのでしょう。
1755年11月1日のリスボン地震のあと、西欧社会の精神世界は、大きな影響を受けました。ヴォルテールの『リスボンの災害についての詩』もそのひとつ。ヴォルテールは、「災害によってリスボンが破壊され、10万もの人命が奪われたのだから、神(創造主)が慈悲深いわけがない」と主張しました。ヨーロッパ社会に無神論が大きな位置を占めてくるのは、リスボン大震災が契機のひとつとなっています。
「神学上のゆるぎない硬い根拠」を大地に例えて「ground」ということばで表すことが18世紀までの比喩の代表例でしたが、もはやこれ以後は「神の意志の揺るぎなさ」に対して「ground」が使えないことが、哲学者にもはっきりわかりました。「大地は揺るぐ」からです。
イマヌエル・カントはこの地震のあと、人間の力の及ばない自然の巨大さなどへ対する感情である「崇高」という概念を哲学の重要な概念としました。
大震災のあとの影響は西欧精神世界でも顕著であったということですが、そこから新しい精神が生まれてきた。私も無気力状態脱出作戦をたてて、復活をめざそうとしました。
心弱い自分を奮い立たせるためのひとつとして、「願掛けの一種」をすることにしたのです。「3年間茶断ち」とか「お百度参り」とか、いろいろな願掛けのかたちがあります。「あることを続けて行う」という「心の中の神様との契約」は、目標としてわかりやすい。
私のお百度参りは、「三日に一度ハガキをおくる」というプロジェクトです。
青い鳥ちるちるさんは、私のウェブ友のひとり。顔を合わせたのは2度だけですが、私の心の友のひとりです。脳性マヒの改善をめざしての手術を受け、その後、首から下がまったく動かなくなる、というたいへんな事態になりました。しかし、ちるちるさんは懸命にリハビリを続け、今では「手の指が動かせた!」ということです。
3月末、ちるちるさんに「私が出す葉書を受け取るボランティアさんになってください」とお願いしました。1ヶ月に10枚のハガキを出し、3年で365枚に達したら大願成就、という願掛けをして、そのハガキの受け取り人にちるちるさんになってもらうことにしました。私の勝手な願いを引き受けて、ちるちるさんは「春庭からの乱筆乱文ハガキ」を受け取るボランティアになってくれたのです。
2011年7月7日づけでは、42枚目のハガキを送りました。相も変わらず乱筆の葉書は「ちるちるさん、誕生日おめでとうございます」という文面。7月7日は、ちるちるさんの誕生日です。
お星様にいっぱい願いをかけましたけれど、願いのひとつは、ちるちるさんのリハビリが順調に進んで、指が動かせた次には手首も、次は腕もと、動かせて、以前のように自分でパソコンの入力ができるようになるまで回復が進むこと。できるなら、ちるちるさんが手術を受ける前に望んでいたように、車椅子なしでも自分の脚で立ち動けること。
ちるちるさんが、楽しい誕生日をすごしていることをお祈りしています。
<つづく>
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2011年07月09日
ぽかぽか春庭「葛西臨海水族園」
2011/07/09
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(3)葛西臨海水族園
6月30日、仕事帰りに、娘と待ち合わせて葛西臨海水族園へ行ってきました。本当は3月の春休み中に親子3人で出かける予定でしたが、津波のあとだったので、「海に近づくのは恐い」と思って、もらってあった招待券をムダにしました。
今回、息子はいっしょに行きませんでした。大学院生にもなって母親といっしょにお出かけするってほうがフツーじゃないのですが、うちの息子22歳、彼女いない歴22年の上、絶対権力者の姉に頭が上がらないので、姉が「お前もついて来るべし」と誘うと、おとなしくついてきます。しかし、今年は、水曜日は大学事務のアルバイト、木曜日はTA(ティーチングアシスタント)として学部生の世話をするアルバイトをしており、30日木曜日はTAの日でした。
おまけに7月2日は「大学史学会」という場での発表することになっていて、史学科の先生、引退退職した教官、卒業した先輩、院生、学部生が総動員される中での「初めての発表」。発表前の1週間は食事もノドに通らないほど極度に緊張していました。
5月6月の二ヶ月間、夜遅くまで古文書の読解や資料のまとめを続け、他大学の図書館へ資料のコピーに出かけたり、都立図書館へ行ったり、卒論を書くのと同じくらいレジュメのまとめにエネルギーを注いでいました。
いつも手抜き発表をしていた私は、「学内の学会発表なのだし、修士1年の最初の発表なんて、卒論をちょっと短くして発表すればいいじゃないの」と、言ったのですが、息子は「卒論のテーマについては資料が少なくて、もうこれ以上発展させることができないので、修士の研究は時代を少し古くしたんだ」と言うのです。
織田政権下の守護職研究から足利義昭政権下の守護職研究へシフトしたのだそうです。そう言われても、私には「地頭は泣く子も黙るのだろうけど、守護は誰が黙るのやら」という程度のイメージしかないので、息子が古文書を必死で読んでいて、「母、この字はなんだと思う?」と聞いてきても、地方の古文書に出てくる漢文くずし字などはさっぱりわかりません。
娘は、学内学会の発表者に選ばれたときのことを思い出し、「私は学部生発表だったし、グループ研究のひとりとして発表したから気楽だったなあ。発表後の質疑応答の極意を教わったから、伝授します」と、弟に教えていました。どんなイジワルな揚げ足取り質問をされても「ご質問の件についていは、研究が行き届いておらず、もうしわけございませんが、即座の回答ができません。貴重なご意見をありがとうございます。今後の課題としていきたいと思います」と言えば乗り切れる、というのが「極意」でした。
娘と「どうしてあんなに真面目に研究する子がわが家に生まれてきたんだろう」と不思議がるほど、超まじめッ子の息子。真面目すぎて自分を追い込んでしまうことがないように、適度にコントロールしていく方法を身につけていけるといいのですが。
私と娘は、「手抜きが日常生活」と言えるほど、掃除も片付けも手抜き放題です。
息子のことなど話しながら、娘とふたりしてぷらぷらと水族園をめぐりました。木曜日の午後おそく、おまけに雨が降り出したので、見学者が少なくゆったり回れます。
ぐるぐる泳ぎ続けるマグロ水槽の前では「あ~、泳ぎ続けていないと死んじゃうってのも不自由だな」、鰯の群れの前では「うまそうだ」。南の海の鮮やかな魚たちの水槽では「こんな派手な模様、どうやって思いついて進化させたのか」と、水族館を見るたび同じ感想を言う。ゆらゆら揺れる海草そっくりなリーフィーシードラゴンの水槽まえでは「擬態ってすごいねぇ」と、毎回感心する。
北の海の高脚蟹の前では「あれ、この蟹、脚が10本ある。蟹は脚が6本にハサミが2本だろうが」と驚くと、娘は「あのさ、この前も同じこと説明したよね。食用のタラバガニなんかは、ハサミのほかの4対の脚があるけど、そのうち1対は鰓(えら)の中にかくされているんだよ」と、同じ説明をしてくれる。「あれ、そうなんだっけ」と私。何度きいてもすぐ忘れるから、水族館、何度来ても驚きに満ちていて、毎回「発見!」と思えて楽しい。単なるボケとも言えるが。
雨がふってきたので、建物の外にいるペンギンのところにはちょっとしかいられませんでした。雨に濡れるのはシーベルトやらがちょいと心配です。
ペンギン舎の外に広がる海は世界中とつながっているのですから、フクシマの海に放射線を含む水が漏れているのだとしたら、東京湾の水の放射線量も高くなっているでは、と心配になります。
外洋の魚たち、無事に泳いでいるといいのですが。
<つづく>
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2011年07月10日
ぽかぽか春庭「アクアマリン・フクシマのエトピリカ」
2011/07/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011/07>青い鳥を探して(4)アクアマリン・フクシマのエトピリカ
娘とふたりの水族館さんぽ。
岩の上でじっとしている魚、トビハゼの水槽の前では、「おまえら、来月来たら両生類になってるんだろうな」と言う感想も、いつもの通り。
「脳を持っていない」というミズクラゲの水槽前で、「体の95%が水分っていうのは、自分が生き物だって自覚することないんだろうね。自分は海そのものだって思えるんだろうね」「思いたくても、クラゲには脳みそがないから思えないし」なんていう毎度おなじみの会話をしながら、ぼけ~っとしているのもリラックスできる。ぼんやりすごせる日々のありがたさ。
7月2日まで、青い顔をして準備していたわが家の息子、なんとか大学史学会発表を終えて、いつもの日常生活に復帰しました。
日常生活が平穏無事におくれることのありがたさを感じること、3月の被災からしだいに人々の脳裏が「平穏無事があたりまえ」になってきている時期かも知れません。東京は節電節電とやかましいので、夏中「平穏」ではいられそうにないですが、「いつもの日常」が恙なくおくれるよう、大規模停電ブラックアウトだけは避けたい。東京中が真っ暗に停電になったときの混乱を思うとぞっとします。そして停電になったとき、水族館は水管理ができなくなって、水生動物は死んでしまいます。
アクアマリンフクシマから避難し、東京の葛西臨海水族園に移住していたエトピリカたちも、ようやく元の環境に戻れることになり、飼育員さんたちもさぞかしほっとしていることでしょう。
アクアマリンフクシマは、「環境水族館」というコンセプトで、海の生態系や海洋環境をテーマに「海を通して、人と地球の未来を考える」ことを目指してきました。しかし、3月の津波のため館内に海水が侵入し、電気系統の施設が壊滅。飼育生物の9割を失ったそうです。
20万匹もの魚や海生生物が失われたアクアマリンフクシマですが、生き残った1割は、提携関係のある水族館が分担して飼育を続けました。葛西臨海水族園ではエトピリカやアメリカカブトガニなどの生き物を受け入れ、預かってきました。
水族館の飼育員、係員、ボランティア一丸となって復旧作業をすすめ、7月15日、4ヶ月ぶりに再開する見通しとなったそうです。
もうすぐフクシマへ里帰りする海の生き物、葛西臨海水族園で「避難生活」を送っているエトピリカを見ました。エトピリカとはアイヌ語で「くちばし(etu)が美しい(pirka)」という意味です。海に潜って魚を捕る鳥で、一年の大半を海で過ごし、繁殖期だけ陸地で営巣します。北方の島では繁殖が確認されているけれど、北海道の中にあった繁殖地には、現在では姿が見られなくなっている鳥です。
エトピリカは、海ガラスといっしょのコーナーにいました。ウミガラスは、ペンギンに似ている海鳥。水深50メートル以上潜水でき、魚を捕って食べ、飛ぶこともできるけれど、歩くのはヨチヨチしていて、ペンギンと同じ。エトピリカと同じく、日本国内での繁殖地が絶滅状態で、2010年に北海道天売島で繁殖が確認されたのは19羽のみ。水族園での保護と繁殖が重要な動物のひとつです。
地球にはさまざまな自然の脅威があり、地震も津波も動物たちにとっても過酷な試練です。でも、動物にとって一番の脅威は、人間の自然破壊なのだろうと感じました。ウミガラス、かっては鳴き声から「オロロン鳥」と呼ばれて、北海道に多数生息する海鳥でした。しかし、漁網による混獲、観光による影響、エサ資源の減少などにより、しだいに減少し現在のように絶滅の危機になってしまいました。
津波に負けず、放射能にも負けぬ丈夫な体を持ち、いつも静かに笑っている。フクシマアクアマリンへ戻っていくエトピリカやウミガラスにバイバイを言いました。フクシマに帰っても元気にすごしてね。やっぱり元の自分の家がいいんでしょう。
メーテルリンクの『青い鳥』のチルチルとミチルは、青い鳥を探して遍歴し、最後にわが家に戻ると、家の中の鳥が青いことに気づきます。チルチルが「家の中にいた鳥が幸せの青い鳥だったのだ」と気づいて、籠に戻そうとすると、鳥は逃げていってしまう。
私たちは、家の中にいる鳥がほんとうは青いことを知りながら、青い鳥を探さずにはいられない人間という生き物です。
青い空へ飛び立つ鳥も、青い海を泳ぐ魚も10本脚の蟹も、海に潜るエトピリカも、自分自身の日常をせいいっぱい生きている。
私も「節電せつでん」となきながらこの暑い夏をなんとか乗り切ろうと思います。
<つづく>
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2011年07月12日
ぽかぽか春庭「インドネシアフェスティバル2011」
2011/07/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(5)インドネシアフェスティバル2011
今期も7月に入ると、学生達もそろそろ期末試験のスケジュールが気になりだします。
着実に復習を重ねている留学生あり、なんとか「欠席多し」の状態をオマケしてもらおうと言い訳を考えている日本人学生あり。よい夏休みを迎えるために、まずは試験をクリアして単位がほしいと、出来る学生もできない学生もそれなりに四苦八苦する季節です。
教師のほうも、試験問題作りやら採点やらで7月いっぱいたいへん、毎日の授業に加えて、日曜日も試験問題作りをしなければならない。おまけに、来週の海の日7月18日は、授業日に設定されていて、出講しなければなりません。
7月9日は、午前中、土曜日授業があったので、午後はちょっとは楽しいことをして暑気払いをしてから帰宅しようと、寄り道をしました。
代々木公園でインドネシアフェスティバルが開かれているというニュースを見て、それならば、お昼ご飯は、出店でナシゴレンでも食べて帰ろうか、という気になったのです。
午後2時すぎの代々木公園は、木陰はいくらか涼しいけれど人がいっぱい。日が照りつける広場は、インドネシアの熱帯ジャングルに負けない暑さ。
フードコートには、スラバヤとかバリとか、いろいろな地方の屋台が出て、それぞれの味を売り込んでいます。ほとんどがイスラム教徒のインドネシアですが、ちゃんとインドネシア地ビールの缶も売ってました。
代々木公園に集まっている客は、半数以上がインドネシア人。日本人とインドネシア人のカップル、家族連れ。ほう、こんなにもインドネシア人との国際結婚組がいるのか、と思うほど。日本人グループは、旅行などでインドネシアに親しみを持っている人が多いようで、私のようにただごはん食べるために一人できている客は珍しいみたい。
私はバリ料理の屋台で、インディカ米の上にシーフードの煮込みをかけた料理を注文しました。それほど辛くはなく、おいしかったです。
あまりに暑かったので、一度渋谷へ行って、マックの冷房で頭を冷やす。そのあと、もう一度代々木公演の野外ステージに行って、インドネシアの人気歌手の歌を聞きました。ほんとうは、インドネシアの舞踊や伝統音楽の演奏を聴きたかったのですが、それらは土曜日日曜日の午前中の演目で、夕方は人気歌手の登場で盛り上がっていました。
17:30ごろからリオ・フェブリアン(Rio Febrian)という男性歌手の歌がはじまると、ステージのまわりにはインドネシアの人々がびっしり集まってすごい熱狂ぶりです。歌手はうまいこと聴衆をのせて、みなで声をあわせて合唱したり、叫んだり。リオ・フェブリアンは1981年生まれ。1999年、18才のときオーディション番組アジア・バグースで優勝して2001年にアルバムデビューしたという、インドネシア屈指の人気歌手なのだそうです。インドネシア女性はスカーフで髪を覆い、大人しいイメージを持っていたのですが、アイドル歌手に対する反応は、日本と同じ。たいへんな熱狂ぶりでした。
そんな熱狂ぶりの聴衆の中に見覚えのある顔が。あれ、このインドネシア人、私は知っているなあ、きっと留学生だなあ。でも名前も思い出さないし、ふたつの出講先国立大学のうち、どちらで教えたのかもさっぱり思い出せないので、声をかけようかどうか、迷いました。
「お久しぶりですね。私を覚えていますか。あなたに日本語を教えた先生ですよ」と言うと、びっくりして、「あ~、先生。私の顔を忘れないですね」
どうやら、まちがいなく、教え子だ。でも、まだ名前を思い出さない。「前は留学生の寮に住んでいましたね。今はどこに住んでいますか」とたずねると、「今は,駅の近くのアパートに住んでいます」という答え、駅名から、たしか、園芸学部の大学院に進学したのだということを思い出しました。
インドネシア人の連れのアフリカ系学生のほうは、ウガンダ出身だと思い出した。日本語がさっぱりできなかった彼。でも、なんとか研究は進んでいるようで、安心しました。いっしょにケータイで写真を撮りました。新入生との出会いがあり、コースが終わった修了生ともこうして思いがけない再会もある。ちるちるとみちるが探した青い鳥。幸福とはこんな人との出会いを言うのかもしれません。人と人がふれあって、ひとときいっしょにすごす。生きて行くってことは、こんな出会いの積み重ねなのでしょう。
ご飯を食べるために寄った公園でしたが、なつかしい留学生にも会えたし、寄り道もいいもんです。
夏の夜、暑さも残っていましたが、7時近くになってもまだ明るく、人々の熱狂はこれから本番、というときでしたが、インドネシア、ウガンダのふたり連れにバイバイをして帰宅しました。
暑くても例年通りエアコンは28度設定のわが家。う~ん、これじゃ、青い鳥が家の中にいたと気づいたとしても、暑くて逃げていってしまうだろうな。ま、明日は明日で、青い鳥おいかけて出かけて行きましょう。
<おわり>
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(1)七夕の願いごと
松尾芭蕉は、7月7日(旧暦)の七夕を前にして、「文月や六日も常の夜には似ず」という句を吟じました。「明日は、織り姫彦星が一年に一度の逢瀬を遂げる日と思えば、前の夜の六日の今晩もいつもと趣が異なって感じられる」と言うのです。芭蕉にも、「明日の逢瀬を思うと、前の晩も気持ちが高ぶってくる」という思いをした若い日々があったのかもしれません。
芭蕉の句を下敷きにして、読むと「この味がいいねと君が言ったから、七月六日はサラダ記念日」という一世を風靡した俵万智の七月六日の日付が納得される。(もともとは六月七日だったのを、七月六日に直したのだということですが)
仙台など大規模な七夕祭りは、月遅れの開催で8月7日前後に開催されるところも多いですが、東京は新暦で、7月7日に七夕まつり。震災後の今年の七夕は、復興のシンボルとして、「鎮魂と復興の思いを込めて作られている」という報道を見ました。
6月30日、娘と出かけた先の公園にも竹飾りにビニール製の短冊がたくさん下がっていました。「あんぱんまんになりたい」などの願い事がマジックペンで「覚えたての字でいっしょうけんめい書いたのだろうなあ」という筆跡で書かれていて、「かわいいね」と、娘と笑いました。
白金ブックオフの「座り読みできるカフェ」で、岸本佐知子『気になる部分』。笑いをこらえながら、半分くらい座り読みで読んだのですが、その中に「ヒトサマの欲望をおおっぴらに覗くチャンス」として、七夕の短冊を読んでいく楽しみ」があげられていました。「金持ちになりたい」とか「カレシと結婚できるように」とか、人々はそれぞれ己の欲望を全開にして願い事を書きつけています。
正月初詣の絵馬は、直接神様に願うので「合格祈願」「家内安全」とかが多いですが、七夕短冊のほうは、「天神様に字の上達を願う」ってことが一応「正統派」らしいですけれど。もともと中国から伝わった7が重なる節句行事に、日本のいろいろな民間習俗や盂蘭盆会などの仏教行事が複合してできたということですが、由来はともあれ、1年1度の逢瀬を果たす星の姫の恋成就を祈って夜空を見上げるのは楽しいものです。
留学生には「お星様に願いましょう」と言っています。神社の絵馬には「宗教行為」と感じる学生も、七夕の竹飾りは「日本の文化、習俗」として宗教的な抵抗もないので、厳格なクリスチャンもイスラム教徒も楽しく参加できます。
就学生や留学生がいる教育機関では、毎年竹飾りが用意されます。日本語の練習として、「短冊に願い事を書きましょう」と、字を書く機会を作っています。筆を持って「書道」の文化体験とし、「お習字の一日入門」にしているところもある。
学生達の願い事。「日本語をじょうずになります」そうね、じょうずになったら「日本語がじょうずになりますように」って書けるかも。「漢字テスト100てん」「せかいは平和ほしい。私は恋人ほしい」など、留学生の願いもさまざまです。
私の願い事。「平和で安全な日常生活が守られますように」これに尽きます。むろん、岸本佐知子を笑わせてやれる、あまたの欲望を持ち合わせています。「せめて電気代が払えるほどの収入がほしい」とか、「ストロンチウムとかセシウムに無縁の食べ物が食べたい」とか。俗なる願いがいっぱいです。
<つづく>
05:55 コメント(4) ページのトップへ
2011年07月08日
ぽかぽか春庭「七夕誕生日」
2011/07/08
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(2)七夕誕生日
昨夜は雨だったみたいですが、天の川は白鳥に乗って渡れるんですよね。
群馬にお住まいのnanjaiさんのご子息は、七夕を「入籍記念日」になさるとか。結婚式の日は周りの人も覚えているけれど、入籍の日は忘れてしまいがち。でも、七夕の日なら確実に思い出しますから、よい日をお選びですね。
うちの亭主は、入籍の日も結婚式の日も忘れたままの30年ですけど。
忘れられない日付。3月11日。
3月大震災のあと、私はしばらく無気力状態になりました。ひとつには、これまで何も行動せずに電気を使ってきたことへの自分自身への無力感。ひとつは「神がいるなら、なぜ無辜の東北の民を津波で押し流すのか」という怒り。クリスチャンは「何も悪いことをしていないヨブにも試練が与えられたではないか」と考えるのかもしれませんが、クリスチャンのいう神が試練を与えたいのだとしたら、なぜ彼の民ではなく、無辜の東北の人々がその試練を受けなければならないのか、と思ってしまった。東北の人たち、ほとんどが1年最初は初詣をし、お盆には墓参りをし、七夕には短冊に願い事を書くという人々と思います。
大災害のあと、哲学者でも宗教家でも大きな精神的影響が与えられたそうですから、私如き精神の弱い人間が無気力になったのも、当然なのでしょう。
1755年11月1日のリスボン地震のあと、西欧社会の精神世界は、大きな影響を受けました。ヴォルテールの『リスボンの災害についての詩』もそのひとつ。ヴォルテールは、「災害によってリスボンが破壊され、10万もの人命が奪われたのだから、神(創造主)が慈悲深いわけがない」と主張しました。ヨーロッパ社会に無神論が大きな位置を占めてくるのは、リスボン大震災が契機のひとつとなっています。
「神学上のゆるぎない硬い根拠」を大地に例えて「ground」ということばで表すことが18世紀までの比喩の代表例でしたが、もはやこれ以後は「神の意志の揺るぎなさ」に対して「ground」が使えないことが、哲学者にもはっきりわかりました。「大地は揺るぐ」からです。
イマヌエル・カントはこの地震のあと、人間の力の及ばない自然の巨大さなどへ対する感情である「崇高」という概念を哲学の重要な概念としました。
大震災のあとの影響は西欧精神世界でも顕著であったということですが、そこから新しい精神が生まれてきた。私も無気力状態脱出作戦をたてて、復活をめざそうとしました。
心弱い自分を奮い立たせるためのひとつとして、「願掛けの一種」をすることにしたのです。「3年間茶断ち」とか「お百度参り」とか、いろいろな願掛けのかたちがあります。「あることを続けて行う」という「心の中の神様との契約」は、目標としてわかりやすい。
私のお百度参りは、「三日に一度ハガキをおくる」というプロジェクトです。
青い鳥ちるちるさんは、私のウェブ友のひとり。顔を合わせたのは2度だけですが、私の心の友のひとりです。脳性マヒの改善をめざしての手術を受け、その後、首から下がまったく動かなくなる、というたいへんな事態になりました。しかし、ちるちるさんは懸命にリハビリを続け、今では「手の指が動かせた!」ということです。
3月末、ちるちるさんに「私が出す葉書を受け取るボランティアさんになってください」とお願いしました。1ヶ月に10枚のハガキを出し、3年で365枚に達したら大願成就、という願掛けをして、そのハガキの受け取り人にちるちるさんになってもらうことにしました。私の勝手な願いを引き受けて、ちるちるさんは「春庭からの乱筆乱文ハガキ」を受け取るボランティアになってくれたのです。
2011年7月7日づけでは、42枚目のハガキを送りました。相も変わらず乱筆の葉書は「ちるちるさん、誕生日おめでとうございます」という文面。7月7日は、ちるちるさんの誕生日です。
お星様にいっぱい願いをかけましたけれど、願いのひとつは、ちるちるさんのリハビリが順調に進んで、指が動かせた次には手首も、次は腕もと、動かせて、以前のように自分でパソコンの入力ができるようになるまで回復が進むこと。できるなら、ちるちるさんが手術を受ける前に望んでいたように、車椅子なしでも自分の脚で立ち動けること。
ちるちるさんが、楽しい誕生日をすごしていることをお祈りしています。
<つづく>
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2011年07月09日
ぽかぽか春庭「葛西臨海水族園」
2011/07/09
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(3)葛西臨海水族園
6月30日、仕事帰りに、娘と待ち合わせて葛西臨海水族園へ行ってきました。本当は3月の春休み中に親子3人で出かける予定でしたが、津波のあとだったので、「海に近づくのは恐い」と思って、もらってあった招待券をムダにしました。
今回、息子はいっしょに行きませんでした。大学院生にもなって母親といっしょにお出かけするってほうがフツーじゃないのですが、うちの息子22歳、彼女いない歴22年の上、絶対権力者の姉に頭が上がらないので、姉が「お前もついて来るべし」と誘うと、おとなしくついてきます。しかし、今年は、水曜日は大学事務のアルバイト、木曜日はTA(ティーチングアシスタント)として学部生の世話をするアルバイトをしており、30日木曜日はTAの日でした。
おまけに7月2日は「大学史学会」という場での発表することになっていて、史学科の先生、引退退職した教官、卒業した先輩、院生、学部生が総動員される中での「初めての発表」。発表前の1週間は食事もノドに通らないほど極度に緊張していました。
5月6月の二ヶ月間、夜遅くまで古文書の読解や資料のまとめを続け、他大学の図書館へ資料のコピーに出かけたり、都立図書館へ行ったり、卒論を書くのと同じくらいレジュメのまとめにエネルギーを注いでいました。
いつも手抜き発表をしていた私は、「学内の学会発表なのだし、修士1年の最初の発表なんて、卒論をちょっと短くして発表すればいいじゃないの」と、言ったのですが、息子は「卒論のテーマについては資料が少なくて、もうこれ以上発展させることができないので、修士の研究は時代を少し古くしたんだ」と言うのです。
織田政権下の守護職研究から足利義昭政権下の守護職研究へシフトしたのだそうです。そう言われても、私には「地頭は泣く子も黙るのだろうけど、守護は誰が黙るのやら」という程度のイメージしかないので、息子が古文書を必死で読んでいて、「母、この字はなんだと思う?」と聞いてきても、地方の古文書に出てくる漢文くずし字などはさっぱりわかりません。
娘は、学内学会の発表者に選ばれたときのことを思い出し、「私は学部生発表だったし、グループ研究のひとりとして発表したから気楽だったなあ。発表後の質疑応答の極意を教わったから、伝授します」と、弟に教えていました。どんなイジワルな揚げ足取り質問をされても「ご質問の件についていは、研究が行き届いておらず、もうしわけございませんが、即座の回答ができません。貴重なご意見をありがとうございます。今後の課題としていきたいと思います」と言えば乗り切れる、というのが「極意」でした。
娘と「どうしてあんなに真面目に研究する子がわが家に生まれてきたんだろう」と不思議がるほど、超まじめッ子の息子。真面目すぎて自分を追い込んでしまうことがないように、適度にコントロールしていく方法を身につけていけるといいのですが。
私と娘は、「手抜きが日常生活」と言えるほど、掃除も片付けも手抜き放題です。
息子のことなど話しながら、娘とふたりしてぷらぷらと水族園をめぐりました。木曜日の午後おそく、おまけに雨が降り出したので、見学者が少なくゆったり回れます。
ぐるぐる泳ぎ続けるマグロ水槽の前では「あ~、泳ぎ続けていないと死んじゃうってのも不自由だな」、鰯の群れの前では「うまそうだ」。南の海の鮮やかな魚たちの水槽では「こんな派手な模様、どうやって思いついて進化させたのか」と、水族館を見るたび同じ感想を言う。ゆらゆら揺れる海草そっくりなリーフィーシードラゴンの水槽まえでは「擬態ってすごいねぇ」と、毎回感心する。
北の海の高脚蟹の前では「あれ、この蟹、脚が10本ある。蟹は脚が6本にハサミが2本だろうが」と驚くと、娘は「あのさ、この前も同じこと説明したよね。食用のタラバガニなんかは、ハサミのほかの4対の脚があるけど、そのうち1対は鰓(えら)の中にかくされているんだよ」と、同じ説明をしてくれる。「あれ、そうなんだっけ」と私。何度きいてもすぐ忘れるから、水族館、何度来ても驚きに満ちていて、毎回「発見!」と思えて楽しい。単なるボケとも言えるが。
雨がふってきたので、建物の外にいるペンギンのところにはちょっとしかいられませんでした。雨に濡れるのはシーベルトやらがちょいと心配です。
ペンギン舎の外に広がる海は世界中とつながっているのですから、フクシマの海に放射線を含む水が漏れているのだとしたら、東京湾の水の放射線量も高くなっているでは、と心配になります。
外洋の魚たち、無事に泳いでいるといいのですが。
<つづく>
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2011年07月10日
ぽかぽか春庭「アクアマリン・フクシマのエトピリカ」
2011/07/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011/07>青い鳥を探して(4)アクアマリン・フクシマのエトピリカ
娘とふたりの水族館さんぽ。
岩の上でじっとしている魚、トビハゼの水槽の前では、「おまえら、来月来たら両生類になってるんだろうな」と言う感想も、いつもの通り。
「脳を持っていない」というミズクラゲの水槽前で、「体の95%が水分っていうのは、自分が生き物だって自覚することないんだろうね。自分は海そのものだって思えるんだろうね」「思いたくても、クラゲには脳みそがないから思えないし」なんていう毎度おなじみの会話をしながら、ぼけ~っとしているのもリラックスできる。ぼんやりすごせる日々のありがたさ。
7月2日まで、青い顔をして準備していたわが家の息子、なんとか大学史学会発表を終えて、いつもの日常生活に復帰しました。
日常生活が平穏無事におくれることのありがたさを感じること、3月の被災からしだいに人々の脳裏が「平穏無事があたりまえ」になってきている時期かも知れません。東京は節電節電とやかましいので、夏中「平穏」ではいられそうにないですが、「いつもの日常」が恙なくおくれるよう、大規模停電ブラックアウトだけは避けたい。東京中が真っ暗に停電になったときの混乱を思うとぞっとします。そして停電になったとき、水族館は水管理ができなくなって、水生動物は死んでしまいます。
アクアマリンフクシマから避難し、東京の葛西臨海水族園に移住していたエトピリカたちも、ようやく元の環境に戻れることになり、飼育員さんたちもさぞかしほっとしていることでしょう。
アクアマリンフクシマは、「環境水族館」というコンセプトで、海の生態系や海洋環境をテーマに「海を通して、人と地球の未来を考える」ことを目指してきました。しかし、3月の津波のため館内に海水が侵入し、電気系統の施設が壊滅。飼育生物の9割を失ったそうです。
20万匹もの魚や海生生物が失われたアクアマリンフクシマですが、生き残った1割は、提携関係のある水族館が分担して飼育を続けました。葛西臨海水族園ではエトピリカやアメリカカブトガニなどの生き物を受け入れ、預かってきました。
水族館の飼育員、係員、ボランティア一丸となって復旧作業をすすめ、7月15日、4ヶ月ぶりに再開する見通しとなったそうです。
もうすぐフクシマへ里帰りする海の生き物、葛西臨海水族園で「避難生活」を送っているエトピリカを見ました。エトピリカとはアイヌ語で「くちばし(etu)が美しい(pirka)」という意味です。海に潜って魚を捕る鳥で、一年の大半を海で過ごし、繁殖期だけ陸地で営巣します。北方の島では繁殖が確認されているけれど、北海道の中にあった繁殖地には、現在では姿が見られなくなっている鳥です。
エトピリカは、海ガラスといっしょのコーナーにいました。ウミガラスは、ペンギンに似ている海鳥。水深50メートル以上潜水でき、魚を捕って食べ、飛ぶこともできるけれど、歩くのはヨチヨチしていて、ペンギンと同じ。エトピリカと同じく、日本国内での繁殖地が絶滅状態で、2010年に北海道天売島で繁殖が確認されたのは19羽のみ。水族園での保護と繁殖が重要な動物のひとつです。
地球にはさまざまな自然の脅威があり、地震も津波も動物たちにとっても過酷な試練です。でも、動物にとって一番の脅威は、人間の自然破壊なのだろうと感じました。ウミガラス、かっては鳴き声から「オロロン鳥」と呼ばれて、北海道に多数生息する海鳥でした。しかし、漁網による混獲、観光による影響、エサ資源の減少などにより、しだいに減少し現在のように絶滅の危機になってしまいました。
津波に負けず、放射能にも負けぬ丈夫な体を持ち、いつも静かに笑っている。フクシマアクアマリンへ戻っていくエトピリカやウミガラスにバイバイを言いました。フクシマに帰っても元気にすごしてね。やっぱり元の自分の家がいいんでしょう。
メーテルリンクの『青い鳥』のチルチルとミチルは、青い鳥を探して遍歴し、最後にわが家に戻ると、家の中の鳥が青いことに気づきます。チルチルが「家の中にいた鳥が幸せの青い鳥だったのだ」と気づいて、籠に戻そうとすると、鳥は逃げていってしまう。
私たちは、家の中にいる鳥がほんとうは青いことを知りながら、青い鳥を探さずにはいられない人間という生き物です。
青い空へ飛び立つ鳥も、青い海を泳ぐ魚も10本脚の蟹も、海に潜るエトピリカも、自分自身の日常をせいいっぱい生きている。
私も「節電せつでん」となきながらこの暑い夏をなんとか乗り切ろうと思います。
<つづく>
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2011年07月12日
ぽかぽか春庭「インドネシアフェスティバル2011」
2011/07/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(5)インドネシアフェスティバル2011
今期も7月に入ると、学生達もそろそろ期末試験のスケジュールが気になりだします。
着実に復習を重ねている留学生あり、なんとか「欠席多し」の状態をオマケしてもらおうと言い訳を考えている日本人学生あり。よい夏休みを迎えるために、まずは試験をクリアして単位がほしいと、出来る学生もできない学生もそれなりに四苦八苦する季節です。
教師のほうも、試験問題作りやら採点やらで7月いっぱいたいへん、毎日の授業に加えて、日曜日も試験問題作りをしなければならない。おまけに、来週の海の日7月18日は、授業日に設定されていて、出講しなければなりません。
7月9日は、午前中、土曜日授業があったので、午後はちょっとは楽しいことをして暑気払いをしてから帰宅しようと、寄り道をしました。
代々木公園でインドネシアフェスティバルが開かれているというニュースを見て、それならば、お昼ご飯は、出店でナシゴレンでも食べて帰ろうか、という気になったのです。
午後2時すぎの代々木公園は、木陰はいくらか涼しいけれど人がいっぱい。日が照りつける広場は、インドネシアの熱帯ジャングルに負けない暑さ。
フードコートには、スラバヤとかバリとか、いろいろな地方の屋台が出て、それぞれの味を売り込んでいます。ほとんどがイスラム教徒のインドネシアですが、ちゃんとインドネシア地ビールの缶も売ってました。
代々木公園に集まっている客は、半数以上がインドネシア人。日本人とインドネシア人のカップル、家族連れ。ほう、こんなにもインドネシア人との国際結婚組がいるのか、と思うほど。日本人グループは、旅行などでインドネシアに親しみを持っている人が多いようで、私のようにただごはん食べるために一人できている客は珍しいみたい。
私はバリ料理の屋台で、インディカ米の上にシーフードの煮込みをかけた料理を注文しました。それほど辛くはなく、おいしかったです。
あまりに暑かったので、一度渋谷へ行って、マックの冷房で頭を冷やす。そのあと、もう一度代々木公演の野外ステージに行って、インドネシアの人気歌手の歌を聞きました。ほんとうは、インドネシアの舞踊や伝統音楽の演奏を聴きたかったのですが、それらは土曜日日曜日の午前中の演目で、夕方は人気歌手の登場で盛り上がっていました。
17:30ごろからリオ・フェブリアン(Rio Febrian)という男性歌手の歌がはじまると、ステージのまわりにはインドネシアの人々がびっしり集まってすごい熱狂ぶりです。歌手はうまいこと聴衆をのせて、みなで声をあわせて合唱したり、叫んだり。リオ・フェブリアンは1981年生まれ。1999年、18才のときオーディション番組アジア・バグースで優勝して2001年にアルバムデビューしたという、インドネシア屈指の人気歌手なのだそうです。インドネシア女性はスカーフで髪を覆い、大人しいイメージを持っていたのですが、アイドル歌手に対する反応は、日本と同じ。たいへんな熱狂ぶりでした。
そんな熱狂ぶりの聴衆の中に見覚えのある顔が。あれ、このインドネシア人、私は知っているなあ、きっと留学生だなあ。でも名前も思い出さないし、ふたつの出講先国立大学のうち、どちらで教えたのかもさっぱり思い出せないので、声をかけようかどうか、迷いました。
「お久しぶりですね。私を覚えていますか。あなたに日本語を教えた先生ですよ」と言うと、びっくりして、「あ~、先生。私の顔を忘れないですね」
どうやら、まちがいなく、教え子だ。でも、まだ名前を思い出さない。「前は留学生の寮に住んでいましたね。今はどこに住んでいますか」とたずねると、「今は,駅の近くのアパートに住んでいます」という答え、駅名から、たしか、園芸学部の大学院に進学したのだということを思い出しました。
インドネシア人の連れのアフリカ系学生のほうは、ウガンダ出身だと思い出した。日本語がさっぱりできなかった彼。でも、なんとか研究は進んでいるようで、安心しました。いっしょにケータイで写真を撮りました。新入生との出会いがあり、コースが終わった修了生ともこうして思いがけない再会もある。ちるちるとみちるが探した青い鳥。幸福とはこんな人との出会いを言うのかもしれません。人と人がふれあって、ひとときいっしょにすごす。生きて行くってことは、こんな出会いの積み重ねなのでしょう。
ご飯を食べるために寄った公園でしたが、なつかしい留学生にも会えたし、寄り道もいいもんです。
夏の夜、暑さも残っていましたが、7時近くになってもまだ明るく、人々の熱狂はこれから本番、というときでしたが、インドネシア、ウガンダのふたり連れにバイバイをして帰宅しました。
暑くても例年通りエアコンは28度設定のわが家。う~ん、これじゃ、青い鳥が家の中にいたと気づいたとしても、暑くて逃げていってしまうだろうな。ま、明日は明日で、青い鳥おいかけて出かけて行きましょう。
<おわり>