2010/06/01
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(1)去年のジャイカニュース
検索大好きなので、用もないのにときどき知り合いの名前を検索してみます。自分の名前や家族の名前で検索すると「へぇ!こんな同姓同名の人が世の中にはいるんだ」と思うこともあるし、ときに知り合いがらみの思いがけないニュースに出会うこともあります。
従妹の名前で検索してみたら、ケニアの話がでていました。日付は去年の今頃。私は中国赴任中のころで、日本のニュースなど見る余裕もない時でした。昨年の5月にジャイカボランティアニュースの中に従妹の名前が掲載されていたのです。
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ジャイカボランティアニュース 第2号 2009年5月1日より
「去る1月28日、ミチコさん(1978~1980ケニア派遣/理数科教師)のもとに、嬉しい一報が舞い込んだ。それは、30年前のミチコさんの教え子が連絡を取りたがっているというものだった。「知らせを受けたのが私の誕生日の翌日でしたので、これは神様からのプレゼントだと思いました」と、ミチコさん。30年という長い年月を一気に飛び越え、ミチコさんと、教え子の一人であるセレム氏とのメールのやり取りは始まった。
当時、中学生だったセレム氏が、現在はケニア園芸公社の総裁となり活躍していることを知り、ミチコさんは、「自分の子どもが立派になったような気分で本当に嬉しいです」と話す。現在、ミチコさんの娘さんが25歳で、セレム氏の娘さんが14歳。これは、当時のミチコさんとセレム氏の年齢にあたる。このことに長い時の流れを感じながらも、再び繋がった絆に感謝をしつつ、いつか再会できる日を二人とも強く待ち望んでいる。」
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30年前に私がケニアに出かけていったのは、従妹のミチコがJICAの海外青年協力隊に参加して、ケニアのハイスクールで理数科教師をして1年たったころでした。
ミチコはケニアについて早々、研修で出かけた村の人からふるまわれた水を飲んで入院してしまいました。「女の人が遠くの水場まで何キロも歩いて水くみに行くような地区で、せっかく村の人が貴重な水をふるまってくれたのに、飲まなきゃ悪いと思って、思い切って飲んだ」あげくの災難。現地の人には大丈夫な水でも、生水は飲むべきでなかった。
一ヶ月の入院生活ののちにようやく任地での仕事を始めることができたのですが、入院したため、辺鄙な赴任場所は避けてもらい、水道電気のある町の学校に赴任できました。ミチコの同僚のサイトウさんは、水も電気もない村に赴任しました。サイトウさんは、明るくてかわいい女性でした。小柄で見た目は強そうではありませんでしたが、海外青年協力隊員らしいバイタリティを持って活躍していました。
ミチコやサイトウさんといっしょにトゥルカナ湖を旅行したり、ミチコが勤務するハイスクールのある町に泊まりに行ったりしました。
東海岸のモンバサやラム島へ行ったときは、ミチコ、私、タカ氏、クロさん、あと誰がいっしょだったかしら。マリンディという海辺の町で青年協力隊の隊員さんの家に泊まらせてもらって、サークル合宿のようなノリで楽しかった。ここでも、生水はぜったいに飲むな、と隊員さんから注意されました。冷蔵庫に入っている沸かし水を飲み、飲んだ分は薬缶で沸かして補充しておく、というルールを守れば、冷蔵庫の中のものを食べたり飲んだり自由にしてかまわない、という人のいい隊員さん。海岸地帯で稲作指導をしている方でした。ケニアでの思い出は、いつも赤道直下の太陽に照らされ、私の青春ハイライトです。
<つづく>
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2010年06月02日
ぽかぽか春庭「ケニアではモテ女」
2010/06/02
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(2)ケニアではモテ女
ミチコはケニアで出会ったジャイカ同僚のマサミさんと結婚しました。外務省外郭団体ジャイカの青年協力隊員から堅実な会社の正社員に戻ったマサミさんとミチコの結婚は親戚縁者に祝福され、結婚式から10ヶ月後にハネムーンベビーが生まれたときも皆に祝ってもらいました。
ミチコとマサミさんの結婚式の半月後に私とタカ氏の結婚式。タカ氏の場合、新聞記者を退職したあと「フリージャーナリスト」、別の語でいえば「プータロー」。結婚式から半年後には娘が生まれました。ちょいと早めに出産した私、非難囂々でした。「そんなふしだらな娘とは思わなかった」なんて言われました。今なら珍しくもないことで、「おめでた婚」とか、子宝を授かってのめでたい「さずかり婚」と呼ばれるようになっている「できちゃった婚」ですが、たった四半世紀前の時代は「親類の面汚し」扱いでした。
ミチコはマサミさんとの間にハネムーンベビー誕生の次の年には年子で双子を出産し、子育て主婦業を続けました。マサミさんは堅実なエンジニアとして仕事をつづけ、ときには単身赴任で海外へ。ときには一家でネパール赴任などもありました。ミチコは次男を東大に入れ、またまた親戚縁者から祝福を受けました。一家で堅実な人生を歩んで、マサミさん定年退職のあとも、優雅に年金暮らしをするのでしょう。
私は、夫が「趣味の会社経営」を続けるのを横目で見ながら働きづめです。相変わらず「祝福」なんぞには無縁の人生。同じケニアで出会った夫婦ふた組ですが、堅実な人生を歩んだミチコと、フラフラ自由ではあったけれど、貧乏暮らしを続けた私。ま、これも持って生まれた運命というものでしょう。
アヤ伯母の葬儀の席でいっしょになったミチコは、トゥルカナ湖へいっしょに旅したサイトウさんは癌になって早世したと教えてくれました。ケニアですごした青春の日々から30年。それぞれの人生がすぎていきました。
私にいいことがあったとすれば、端から見れた「ダメダメな人生」だったとしても、私自身は自分の歩んできた茨道をおもしろがってきたことだけでしょう。年金もない老後不安定な人生になってしまいましたけれど、今まで過ごしてきた日々は、私にとってはどの一日も大切な時間です。
ミチコへ届いたというケニアからのメールは30年という時を超えて、なつかしい赤道直下の太陽を思い出させてくれました。1979年と1980年のケニア。
30年前の私は、日本では「女だからといって、男に依存して暮らしたくない」と肩肘張って生きてきて「こわい女」と思われていました。太陽直射日光の下で、私はそんなツッパリもとれて、ケニアの男性達にモテモテでした。「あなたは色が白くて美しいから結婚してほしい」なんて言われ、そこらじゅうで申し込まれました。そりゃ、いくら日に焼けて真っ黒になったとはいえ、ケニアの女性よりは色が白い。
けれど、『私の夫はマサイの戦士』という本を書いた永松真紀さんのように、思い切ってマサイ族男性の第二夫人になる、っていうようなことをする勇気もなく、ナイロビで最初の日に出会った日本人と結婚するハメになって青春時代は終わりとなりました。
ケニアでの青春の日々、ますます遠くなっていきますが、なんといっても、私が唯一男性にモテモテだったひととき、永遠の輝ける日々です。
<つづく>
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2010年06月04日
ぽかぽか春庭「30年前の手紙」
2010/06/04
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(3)30年前の手紙
30年前のケニアで、生まれてはじめて「モテ女」の生活を楽しんだおかげか、今のところ私には「こういう夫と結婚したことも運命」というあきらめが身についています。
70代の女性が書いた「死ぬまでに一度でいいから、身を焼くような恋を経験したい」という投稿を新聞で見ました。それを読んで「お見合いで結婚して、生涯に一度も恋い焦がれるという思いをしたことのなかった人が、恋に焦がれてみたいと感じる、そういう気持ちも分かるなあ」と思うけれど、私は、赤道直下の太陽で顔が真っ黒に焼けて十分に焦げたせいか「身を焼く恋」に焦がれる思いを残さず、自分の青春は十分に燃焼しきった、という感覚があります。
去年2009年はケニア、ナイロビ市で夫と出会ってから30年目の年でした。むろん、夫は一言も私にはそんなこと言いませんけれど、夫にとってもケニアが青春の光に満ちた土地であったことは同じ。
いつか、ナイロビを再訪することがあるかもしれないけれど、映画『愛と悲しみの果て』(原作アイザック・ディネーセンの「アフリカの日々(OUT OF AFRICA) 』)を見ただけで涙滂沱だったので、きっと空港に着いただけで、涙で景色が見えないことでしょう。
映画でディネーセン(1885~1962、Baroness Blixen-Finecke 本名カレン・ブリクセンKaren Christence)を演じたのはメリル・ストリープ、恋人の飛行家デニス役はロバート・レッドフォード。
1979年にケニアから実家に送った手紙の束が、段ボール箱に入ったままになっていました。私が育った実家を取り壊してアパートに建て替えるときに、妹が「いるなら持っていけ、いらないなら捨てる」と通告してきたので、引き取ってきた手紙の束です。
2月末の上階からの漏水事故で紙が湿気て、読めなくなっている文字もありました。たとえ漏水がなかったとしても、ナイロビで買った質の悪い便せんを使っているので、いずれインクも紙も劣化し読めなくなる運命だろうと思います。30年たって、だいぶインクも薄れてきましたが、今ならまだ読めます。
娘も息子もたぶん読みはしないだろうけれど、30年前の、父と母が出会った頃の日々を書き残しておくのも、金土地財産を残せない私に、ただひとつ子に残せる心の宝です。娘と息子は「心の宝はいらんから、実のある宝を残すべし」と、言うのはわかってるんですが、私の心の老化防止エイジングになるだろうと思うので、書き写しておくことにしました。
以下、1979~1980の手紙コピーです。生まれてはじめての海外で、飛行機に乗るのも初めてだったから、最初の数通は緊張がよくわかります。アフリカにひとりで出かけたいき遅れの娘を案じている家族を安心させるための通信なので、父宛は、できる限り楽しい話題を書く努力をしていたのがわかります。
「ナイロビへ向かう飛行機の同行者はいい人ばかり」とか、老親を安心させる言葉を並べています。姉宛の便りでは、あとで銀行から引き落としたお金を送金してもらう予定なので、無駄遣いをしていないことを証明するために、細かい金額の報告をしています。中学国語教師をやめて2年たち、貯金も底をついている中でのケニア行きです。
かさばるので辞書を持って行かなかったから、書けない漢字はひらがな表記にしています。
今月は、30年前のケニアを振り返ります。
<つづく>
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2010年06月05日
ぽかぽか春庭「1979はじめての飛行機」
2010/06/05
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(1)はじめての飛行機
1979年7月28日 実家の父宛(カラチで買ったのであろうヒマラヤの雪山と木立の絵ハガキ。切手はアラブ首長国連邦United Arab Emiratesのもの。ドバイで投函)
午後4時に成田を立って午後7時にマニラにつきました。空や雲がとてもきれいでした。バンコクも通ったけど、眠っていました。7/29の午前4時にパキスタンのカラチに到着して、市内のホテルに泊まりました。いっしょにナイロビまで行く日本人グループは大学生くらいの男の子が6人とその父親一人。二人で世界中を旅している60歳くらいの夫婦。若い女性が10人。日本人の妻になって、今度はじめてケニアに里がえりするというアフリカ人のおくさん。みんないい人です。
カラチでは、午前10時から1時まで市内を歩きました。高校の先生という女の人と3人いっしょにマーケットをみてまわりました。
カラチはとても暑い町です。50度くらいあるような気がします。そして屋台のやおやとか肉屋にはハエがわんわんいました。今はまた飛行機にのって、ナイロビへ向かっています。今は日本時間の7/29午後九時です。(アフリカ通信号外)
1979年7月30日 現住所の姉宛て(姉の家の二階に住んでいた)(ドバイで買ったアラビアのロレンス風の白馬に乗るアラブ人の写真の絵はがき。切手はケニア。ナイロビで投函)
7月30日午前8時(ケニア時間午前2時)にナイロビ空港につきました。旅行社現地駐在員のセベ氏とスワヒリ語を教えてくれたブワナ・カヒンディが出迎えてくれました。とても寒かったです。
旅行社の家のDoDoハウスにとまりました。新婚旅行中という河合夫妻とケニアにきて4ヶ月目という佐々木さんがいっしょにとまりました。ナイロビの町は道が広くて、赤やピンクの花が咲いていてきれいです。車で通勤するケニア人もいれば道ばたにすわりこんでいる人もいます。今日は病院にいって、傷をみてもらって、かのうしていなければあしたから見物して歩こうと思います。同行の女の人たちはお金をたくさんもっているのでおどろきました。私はケチケチ旅行にします。たらなくなったら、カードで「ときわ」からひき出しておくってもらいます。では金のかからんようせいぜいたのしくいっぱいみてあるきます。ではまたね 7/30午前10時 アフリカ通信号外
1979年7月30日 実家宛(キリマンジャロ山を背景にして立つキリンの絵はがき、切手はケニア。ナイロビで投函)
いつもサインしているので、つい(この葉書の宛先に)自分の名前を書いてしまいました。今、7月30日午後3時(日本時間7月30日午後9時)いつも6時間の時差があります。ナイロビに無事つきました。今日は市内の繁華街に言って、ヒルトンホテルのロビーに行ったり、下町のやき肉やへ行ったりしました。DoDoハウスに泊まっていますが、郊外のとてもよい家です。今はニュースタンリーホテルの前のテラスでビールをのんでいます。日本の中瓶くらいで五シル10セント。日本円で200円くらいなんだと思います。しかし、チップをやるのかどうか、悩んだ結果あげませんでした。まったくチップというのは、世界中からボクメツすべき習慣だと思います。(1979/7/30 アフリカ通信号外)
<つづく>
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2010年06月06日
ぽかぽか春庭「マニラのトイレ、カラチの市場」
2010/06/06
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(2)マニラのトイレ、カラチの市場
1979年7月30日アフリカ通信No.1 (姉宛PIAパキスタン航空の便せん)
日本時間7/29午後9時。外はまだ明るい。現地時間では午後5時。(時差は6時間と前の手紙に書いているのに、さっそく計算を間違えている。計算に弱いのは子供の頃からだけれど、赤道惚けでますます計算できなくなっていた)
お見送りありがとうございました。ゆっくり食事などできたらよかったけど、みんなより一時間おくれて成田についたので、あわただしくなってしまいました。飛行機はタラップを登るのかと思ったら、空港ビルから直接長いローカを通って飛行機に入ってしまうしくみになってしまいました。私がどの飛行機にのったかわかりましたか。空港利用料金とかいうものを千五百円とられました。
とび立つ瞬間はとても気分がよかったです。どんどん畑や家が小さくなって、すぐ海に出てしまいました。それからはいろんな雲が窓の外にあらわれてたいくつしません。ちぎれ雲や雲海や様々な雲を、雲の上からながめていました。(席が窓側だったので)空が夕焼けになると窓をしめるようにいわれました。そして機内が暗くなるとウォルトディズニー制作の映画がはじまった。しかし字幕がないのでおもしろくとも何ともなかった。そしたらそのうちマニラに着きました。
マニラはもう夜で夜景がきれいでした。ミィが「宝石!宝石!」と叫び出しそうにきらきらしていましたよ。バンコクも光ってましたが、カラチはあまり電気がついていませんでした。日本時間で7/29午前十時ごろカラチに着きました。なんせ、空へのぼることに関しては、これが本当のおのぼりさんだからマニラからカラチまででもう失敗しました。機内のトイレで手をふく紙かと思ってひっぱり出したら、それはトイレのいすにかける紙のペーパーでした。でも同じと思って手をふきました。
それに機内食が何度も出るのですが、一番先に出た中に卵やきのように見えたのがあったのでついていたおしょうゆをかけたところ、それはお菓子でした。となりの席の人が笑っていました。それからは見なれないものはとなりの人に「これはなんちゅう食べ物ですか」とききましたよ。
マニラのトイレで中で紙もって立っているおばさんに「シャクエンシャクエン」といわれて100円とられました。カラチ空港のトイレは、ただじっとはだしでうずくまっているピンク色のサリーをきた女の人に200円とられました。トイレにうずくまっているのもいい商売になります。
カラチ市内のホテルに一泊しました。これは空港運賃に含まれているのでただです。いっしょにナイロビまで行く日本人が20人くらい泊まりました。私は高校の先生という女の人2人と同室になり、少し眠ったあと2時間ほど市内の見物をしました。シクロという小型オート三輪タクシーで三人で片道200円です。市内のマーケットを見たのですが、めちゃくちゃに暑くて、よくもまあこんな町でくらしていると思いました。屋台のやおやは小さいレモンやピーマン、しなびたきゅうりやほうれん草をならべていてハエがいっぱい。
こじきがたくさんいて、脳性小児マヒの人や片足やこどもたちが寄ってきて「バクシーシ」というのです。これは「神のためにおまえは私をたすけるべきだ」という意味でお金をやるとこじきは「私のおかげで善行ができて神にほめられるからありがたいと思え」と感じるのだそうです。
こちらはむこうをジロジロみるけれど、町中の人々が日本人の女の子をめずらしがってジロジロ見ました。きっと美人だと思ったのでしょう!
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2010/06/06
初めて飛行機に乗って、飛行機のトイレや空港のトイレも初体験でめずらしく、きょろきょろと周りを見回している姿が、今となってはかわいらしい。当時、パキスタンのカラチでも、アフリカでも日本人女性などはあまり見かけない存在だったので、日本では経験したことのない、「人様から見つめられる」という経験をしました。
また、こじきにお金を恵むとき、もらう方でなく、上げる方が「ありがとう」と言って感謝するというのも、日本からはじめて海外へ出て彼我の文化の違いを痛感した一コマです。
<つづき>
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2010年06月08日
ぽかぽか春庭「ドバイ」
2010/06/08
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(3)ドバイ
1979年7月30日アフリカ通信No.1 つづき
カラチ午後7時半発の飛行機にのりました。前の成田からの飛行機は日本人スチュワーデスもいて、設備もまあ一応そろっていたのですが、今度のはせまくなって、映画も何もなくておまけにむしぶろのような暑さ。前のは冷房がききすぎて毛布をひっかぶっていたのに、毛布どころかシャツもぬいじゃいたいくらい。暑くて汗がしみるのか、カラチで町中を歩きすぎたせいか、足の傷がいたみだしました。
かのうどめの薬はもらってありますが食後というのがしょっちゅうたべているのでいつが食後だかわからないので、てきとうにのんでいます。(気圧の関係かしらんけど急にペンのインクがどどどとにじみ出してきてぽたぽたたれたのでペンはやめます。)消毒の方がカラチのホテルで一回しただけなので心配です。みんなも心配してくれて「破傷風になって足切断したらカラチで「バクシーシ」といって商売してね」と言ってくれます!
前の飛行機はジュースが出たのに、こんどのは水なので食後の紅茶をおかわりしてます。そして前のは気圧調節がよかったのに、今度のは、ドバイ空港に立ち寄るために高度を下げたら耳がビンビン痛くなって死にそうでした。まったくひどいひこうきです。おまけにドバイではすんなりおりられなくて町の上をぐるぐるまわるのでひょっとしてハイジャックでもおきたのかと思いました。
ドバイ上空からのけしきはすごかった。カラチも緑が少なく乾いた土色の町でしたが、ドバイはもう砂だけ。はじめ荒涼とした山々がみえて次はあたり一面砂だらけ。遠くは黄色い砂ぼこりでかすんでみえません。砂はまったいらなところもあるし波もようもあるし、しまもようもあります。所々に茶色っぽい木がやっと立っています。町は灰色の四角い家、地面は白茶けて草もはえていない土だけの土地です。
ぐるぐる回って期待が右に左にかたむくので気持ち悪くなった人もいました。私はまた窓側だったので窓の外のけしきによって、あっ左にかたむな、こんどは右にいくとわかるのでだいじょうぶでした。やっとドバイにおりたら空港のアスファルトだかコンクリの上だかは、やけたフライパンの上にいるようで、熱風が吹きすさぶのです。カラチがめちゃくちゃ暑いのなら、こちらはやけくそ暑くてとても人間の町とは思えません。しかしはだかで穴ほって働いてる人もいるのです。はだかでも頭にはちゃんとターバンまいています。
空港のポスト・オフィスで日本あての絵はがき出そうとして切手いくらかときいたら「ワンダラー」という。約200円だからたかい切手だと思ったけどさすがの私もねぎれないと思ってあきらめて一ドルだしたらちゃんとおつりをくれました。しかしドバイのお金もらってもしかたないから絵はがきをかうことにしましたお金をみせたら4枚選んでいいというのでかいました。一枚20セントけんとうだというから切手も20セントだったわけで、そんなら日本の切手よりそう高くもないわけです。
パキスタンの人々はうす青やうす緑の長くてタブタブのシャツとたぶたぶのズボンをみんなきてました。女の子とはサリ姿もいるしパキスタン風シャツとズボンもいます。一般にあまり女の人はいませんでした。ドバイは白の上下にアラブ独特のかぶりもの。そして女の人はまったく出ていません。空港にいる女の人は皆インド人とか外国人です。町を空からみた時も暑さのせいか、ただのひとりも通りを歩いているようすはありませんでした。
日本からマニラまでの空は雲が何層にもわたって変化し高度がかわるたびに様々の雲がみられましたが、このへんは雲も黄色ののっぺりした砂ばくのような雲で何の変化もありません。住めば都とはいうけれど砂ばくの町だけは住みたくない気持ちです。カラチもドバイも海に面した町です。ドバイの海は濃い緑色で船がとまっているのがみえました。
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2010/06/08
30年後のドバイが、世界一高いビル(828m)はじめ高層ビルが林立する経済都市に発展するなんて、夢にも思えないドバイ・トランジットでした。第一、飛行機のトランジットで降りるまで、ドバイなんていう町があることすら知らなかった。
足の傷のことを書いていますが、これは、出発直前にタンザニア大使館にビザを取りにいったとき、道路にはみ出していたブリキの看板に足をひっかけて、切ってしまったときの傷。治っていないままの出発になったのです。(ぼうっとしながら歩くので、やたらにいろんな物にぶつかる癖は今も同じ。電信柱に頭をぶつけるなんて漫画みたいなこともあります)。姉や父が心配しないよう、ナイロビに着いたら、何より先に病院へ行くと約束してありました。家族は「嫁入り前の娘が、個人旅行でアフリカに行くなんて、しかも怪我した傷が治っていないのに」と、ケニア行きに大反対でしたが、「行かずに後悔するよりは、行って後悔したほうがいい」と思ったのです。行ってよかったと思います。
<つづく>
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2010年06月09日
ぽかぽか春庭「ナイロビへ」
2010/06/09
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(4)ナイロビへ
1979年7月30日アフリカ通信No.1つづき
同行の日本人は、マニラでもカラチでもなんとなく一人では不安だから結局団体みたいにみんなかたまっていっしょに行動しています。いっしょにスワヒリ語を習った仲間の学生が2人。女の人は教師が多いみたい。だいたい一ヶ月も休みが取れる職業はそうざらにないものね。日本人のおくさんになったアフリカ人が、里帰りでケニアに帰るそうなのですが、ケニアに7つの子がいるというのです。それから推しはかると15歳くらいでアフリカ人と結婚して子供をうんだのち20才くらいで日本人と結婚したみたいです。モリタさんというのですが、ダンナさんも子供のいるアフリカ人と結婚するのは勇気がいったでしょうね。しかしほりが深く目が大きくとても美しい顔立ちで足も長いです。
あと、60才くらいの老夫婦で世界中を旅してるという二人づれがいます。今度アフリカをまわれば世界全部に行ったことになるんですとさ。
カラチのホテルで食べた肉の煮こみもからかったけど、ひこうきで出たカレーはもっとからかった。私が「からいのはニガテ、あついのはダメ」というと、みんなに「そうあまいこと言ってはアフリカを旅できない。二本のはしでとんでるハエをひょいとつまんで食べるくらいじゃなけりゃ」とひやかされました。お米は細長くポサポサした味です。食べないと体力おちると思って必死にたべました。
カラチの町にもドバイの空港にも小銃を片手にして立っている人がいます。重いと思って登山ナイフはやめてくだものナイフにしたけど、やっぱり登山ナイフを持ってた方がよかったかなと思います。
また高度が下がり出しました。今度はサウジアラビアのジエダという所です。前は白茶けたさばくでしたが、今度は赤茶けたさばくです。しかし、町はドバイより大きくきれいです。石油でもうけた町かもしれません。
英語はなんとかつうじます。ごちゃごちゃいわないでウォーター、プリーズとか、ほしいものにプリーズをつけたらもってきてくれます。これはアフリカ通信第1号です。奇数番号は埼玉の姉宛に偶数は群馬の父宛に届くから、てきとうに交かんしてよむべし。ではまたね。(7/30午前一時半 アフリカ通信No.1おわり)
アフリカ通信第二号 7/31発行。ナイロビ・ケニアより(時間はすべてケニア時間)
ケニア第一日7/30午前8時起床。飛行機がついたのが午前2時。ベッドにもぐったのが午前5時ごろでしたから、ちょっと時差ぼけぎみ。ドゥドゥハウスはとてもよいいえです。ゆいいつの欠点は水の出が悪いことでおふろは一週間にいっぺんしかはいれないということですが、これは私にとって別だん不自由なことではありません。半月くらいはいれなくたって平気です。
9時にフェアビューホテルに泊まった同行の人々をむかえに行って皆で銀行へ行きました。ドゥドゥの駐在員がマイクロバスの運転をしてくれるほか、とてもしんせつに世話してくれます。約30円が1シルに変わります。私は、はじめ50ドルだけかえました。365シルになりました。約1万円分です。他の人は300ドルとか、せいだいにかえてます。
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2010/06/10
私は「現地までの往復オープンチケット販売。行きの飛行機のみ団体利用」というツアーを利用しました。たまたま同じ飛行機を利用したという団体だったのに、ナイロビに着くまではカラチなどで連れだって行動しました。添乗員もつかない片道ツアーですから、皆慣れない土地で不安に思い、いつも3~5人が連れだって動いていたのです。ナイロビに着いた翌日のみ旅行社の駐在員が世話をしてくれて、2日目から個人行動でした。
私は、旅行小切手を両替するにも、ちまちまと少しずつ換えていきました。小切手はサインしてない場合落としたり盗まれたりしても保障があるけれど、「おまえは子供のころから、お金を落としたりとられたりするのが得意だったから、絶対に1万円以上の現金を財布に入れておいてはいけない」というのが、姉からのアドバイスでした。1979年7月ごろのドル為替相場は1ドルが200~250円でした。1万円両替すると50ドルくらい。日本を出るときの旅行小切手も最小限におさえ、なくなったら、姉から旅行社のナイロビ駐在所あてに送金してもらうことになっていました。
<つづく>
2010/06/11
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(5)ナイロビの迷子
1979年8月1日 アフリカ通信No.2 つづき
(7月30日ケニア第一日目)次にヒルトンホテルのロビーで待ち合わせて10人ほどで下町の肉屋へおひるを食べにいくことになりました。しかしいつもドジな私、エハガキを買うに手間取っているうちに皆は先へ行ってしまいました。私も目だたない女ですから、いなくなっても気づいてもらえそうにないのであります。
しかたないからヒルトンホテルのロビーにすわっていると河合夫妻にばったり会いました。河合夫妻はおさななじみ同志の新婚夫婦です。1年間の新婚ぶらぶら旅行に出ているのです。私がまいごになったというと、ふたりはしんせつに前に行った肉屋についれていってくれました。前は車で行ったので歩いて行く道はよくわからないということで、下町をぐるぐるまわって店をさがしました。
ヒルトンの前あたりはナイロビの高級街で人々の服もきれいで店もきれいで観光客もいっぱいいますが、下町はカラチの町ほどではないにしても、ヒルトンのあたりよりはずっときたない。人々はぼろい服をきて何するわけでもなく道ばたにすわっているのです。仕事がないのだと思います。
やっと肉屋がみつかりました。肉屋というのは本当に肉をぶら下げて売っている店で、ぶたや羊がさかさまにぶら下がっている下をくぐりぬけて奥に入ると、解体した肉がゴロゴロころがっているのをほうちょうでぶった切ってそれを焼いてくれるのです。テーブルには下町の人々だけで日本人はいませんでした。それでまたヒルトンに戻ったら、皆もいました。皆は夕食に肉屋へ行くことにして、おひるは別の店で食べたのですって。それで私はスタンリーホテルで食べることにしました。
テラスにすわっていると、飛行機でいっしょだったティナ・モリタさんに会いました。彼女はウガンダの生まれで今は日本人の妻になっている美人の黒人です。ウガンダに残してきた前の結婚の時の子供と、子供を預けてある母親に会いに来たのです。だんなさんは横浜でラーメンやをしているそうです。いっしょにおひるをたべて写真をとりました。
そしたら、7月7日の便でケニアに来て一ヶ月間ナイロビのYMCAにとまっているという日本人に会いました。もとは奈良県の地方新聞記者だったという人で、仕事をやめてこちらに来たのだそうです。まったくいろんな人がいるものです。私はリュックとショルダーバックだけ持ってきて、ちょっと持ち歩くくらいのバッグがなかったので、バッグを買うのを手伝ってもらうことにしました。下町の店は安いけど、まだ一人で歩くほど慣れていないからです。
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2010/06/11
ケニアからの手紙第一報で、いきなりのタカ氏登場です。同じDoDoWorldというアフリカ専門の旅行社を利用していて、社長のクマさんや駐在員のセベさんを知っているというだけで、すっかり信用して下町ショッピングの案内をしてもらうことになりました。日本人同士というだけで全面的に信用して危険なダウンタウンをいっしょに歩いたのですけれど、当時は「日本人の女の子を信用させておいて、だましてカスバに売り飛ばすのは簡単」なんてアブナイ噂も出まわっていたので、どうして初めて出会った人を信用したのか。ちょっとヤバい状況でした。この日から30年もこの人とシガラむことになろうとは思ってもみなかったのですが。
あとで聞くと、旅行社駐在員のセベ氏が「昨日ナイロビに着いたばかりの女の人がひとり迷子になっちゃって、困ったよ。他の旅行者の世話があるから、探していられないし、タカさん探してくれないかな」と、頼まれていたのだそうです。
ナイロビに着いたばかりの人が、アブナイ人について行ったらたいへんだと思って探していたところに、日本語でしゃべりながらティナと写真をとっている私を見かけて声をかけたのです。
<つづく>
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2010年06月12日
ぽかぽか春庭「ナイロビ・ダウンタウン」
2010/06/12
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(6)ナイロビ・ダウンタウン
アフリカ通信第二号 7/31発行。つづき
(ナイロビの)インド人の店にはサムソナイトとかメーカー品がおいてあったけど高かった。アフリカ人の店では安ものがあって安かった。それでスワヒリ語でねぎったけれどたいしてまけてもらえなかった。やはり旅行者という顔をしていたのでしょう。合成皮革で千五百円だから、日本と比べてかわらないわけ。ということはケニアとしては高いわけ。でもカメラとノートと財布くらいがちょうどよくはいる大きさで役に立ちます。
DoDoハウスの運転をしている男の人はササキさんというのですが、25くらいかと思っていたらなんと19才だというのです。そして15才から4年間ヨーロッパやインドを放浪して歩っているのだそうです。親は印刷やだということですが、出てくるむすこもむすこだが、出してやる親もえらいというか、かわってるというか。いろんな人がいるもんです。今度日本に帰ったら、高校1年に復学するそうです。
夕食は昼に立ち寄った肉屋へ行って、肉をたべました。トマトの切ったのと塩といっしょに口にぶち込むのですが、肉が固くてかむのにたいへんでした。こちらの人は固い肉のほうが好きでやわらかい肉は二級品なんだそうです。日本人は金持ちと思って一級品をくれたのでしょう。肉がやける間はとなりのバーで飲みながら待っているのです。地酒というか白くてぶつぶつしたどぶろく麦酒、ほとんどアルコール分はなくてすっぱいのです。みんなはジュースと同じといってのみましたが、私はすっぱいのはニガ手なのでだめでした。このバーはアフリカ人の中下流用です。
私に話しかけた人はおまわりさんでした。最初私がおっかなびっくりの顔をしていたので身分証明書を出してみせてくれました。そしてとなりにいる女の人と赤ん坊を自分の妻と子供だと紹介しました。私は妻は美人で子供はかわいいとほめたところ、むこうもあなたのスワヒリ語はたいへんうまいとか、ほめあいました。
赤ん坊はわたしの髪をめずらしがってひっぱりました。私が学生だというと、おまわりさんは「自分ももっと高い教育を受けたいがむずかしい」といいました。こちらでは大学教育を受けられるのはほんのひとにぎりのエリートです。おまわりさんはしかしながら定職を持つ点で中流に入るわけです。職のない人に比べれば、くつみがきや新聞売りも上等です。とにかくこの店にはえたいのしれない人もたくさんいるのです。このおまわりさんと話せて楽しかったです。
そのあとは一回宿に帰ったあと夜にこの町の最も高級というナイトクラブに行きました。最も高級といっても入場料と麦酒2本で50シル(1500円)くらいです。しかし、ナイトクラブといっても部屋の周りにイスとテーブルがあって真ん中でゴーゴーというかディスコというか白人や黒人がいっしょにおどっているだけです。そこへどどどっと黄色の日本人が入っていってしばし注目を集めました。
さいしょはおどおどと様子をうかがいながめていましたが、勇敢なる女高校教師がおどりだしました。この人はちょっと私に似ているのです。みんなおどりに行ったので、私も踊った。(ディスコで踊るのは初めてだったけれど)うまく踊れました。週二回(モダンダンスの)レッスンにかよい、月に五千円はらうのもムダではなかったわけです。みんなは私に「いつもディスコにいってるのかとききましたよ。そこで私は「私は踊り子である」といいました。(しかし、元教師ということはバレているのです。)
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2010/06/12
タカ氏と下町のカバン屋などを見て歩いてナイロビの第一日目を過ごしたのですが、実は、案内してくれたときのタカ氏はまったく印象に残っていないのです。タカ氏はこのとき私に一目惚れしたはずなんですけれど。
1979年に19才だった佐々木みきおさん、帰国後一時はアフリカ旅行社道祖神の仕事を手伝っていたこともあったらしいですが、今はどうしているでしょうか。もう50才になっているはず。どんな大人になったのか会ってみたい人のひとりです。
当時はモダンバレエのレッスンを続けていましたが、日本でディスコなどに行ったことがありませんでした。ケニアに行く前、日本で中学校教師をしていたころは、ディスコなんて不良のたまり場だと思っていたようなカタブツでしたから、ナイロビで初めてディスコダンスを踊ってみて楽しかったのでうかれている気持ちが、手紙にあふれています。
<つづく>
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2010年06月13日
ぽかぽか春庭「マサイ族の踊り」
2010/06/13
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(7)マサイ族の踊り
アフリカ通信第二号 7/31発行。つづき
さてここ(2010/6/19注:ナイロビのナイトクラブ、ニューフロリダ)には白人の男客と黒人の女客がいます。女はすべて「お商売」のためにきているのです。こちらではこの種の商売を「カジ・ヤ・テンベア(散歩のおしごと)」といいます。みんな商売とは言えこざっぱりした服でメーキャップをなまめかしくほどこし酒をのみながら横目でチラリと反応をうかがっています。
中には一人太っているけど色は白いカジヤテンベア嬢がいたので、きいたら白人とのハーフなんだと。「あなたはとても美しいからきっとよい男をお客にできるだろう」といったらよろこんで酒をおごるという。そしてインド人に交渉してるから、あれ、商売成立かなとみていたら、私に「インド人は好きか」と聞くのです。私にインド人をまわしてくれるなんて、ごしんせつに。
それで「夫ときたのでだめだ」といって旅行社の駐在員をさしたところ納得してくれました。
男の人たちは皆女にせまられて四苦八苦しています。12時ごろかえりました。
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2010/06/13
ここまでで、ようやくナイロビ第一日目の報告が終わりになります。長っ!
日本に無事帰り着くまでの手紙を全部UPしたら、大長編になりそうなので、休みやすみ気長に続けることにしましょう。家族へ送った手紙はNo.30まであって、最初のうちは詳細に毎日の暮らしを報告していますが、だんだん大きなイベントだけの報告になります。
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アフリカ通信第二号 1979年7/31発行。つづき
7月31日(ケニア第2日目)は、マサイ族のおどりをみにいきました。フェアビューホテルに泊まっているソガさんという日本人旅行者がDoDoツァーを頼んだので、河合氏のランドクルーザーという草原でも砂ばくでも行ける車(ジープのワゴンカーのようなもの)で行きました。(郊外の)農場に着きました。
ケニアがイギリスの植民地だったころにできたらしい農場で、家も古いけれどイギリス風植民地風の花がいっぱいの家です。ナイロビから車で一時間くらい走るとリフトバレーという広大な谷にでます。谷といっても谷底は平らで関東平野くらいのがタンザニアからスーダン、エチオピアまで続いているのです。そのリフトバレーの中に農場が広がっていますが、牛を飼う農場だそうです。
その農場内に観光用にマサイ族を住まわしてやって踊りを見せるのです。入場料は50シル(1500円)です。ガイドの案内でマサイのまで行くと、マサイ族がぞろぞろ出てきました。まずみんなパチパチ写真をとります。ふつうマサイ族をを写真にとると、おこってヤリで攻撃してくるか「金をくれ」というかどちらかですが、ここは料金に含まれているらしくて、いくらとってもいいのです。ひととおり写真をとるとおどりになりました。歌いながら飛び上がったり歩き回ったり腰とあごをつき出すおどりです。やり投げの練習などもワンセットでみせてくれます。
しゅう長のような人が観光客にみやげをかえと手まねで言っています。ソガさんは日本にあるアメリカ大使館につとめている英語ぺらぺらの人で、アメリカ人なみに三週間の夏休みがとれるのですって。ソガさんは「彼らの中に英語しゃべっているのがいるから話かけてみるとしゃべってくれない。きっと観光客にはマサイらしくみえるよう営業上しゃべらないのだろう」といってました。しかしスワヒリ語は少し通じました。入場料をはらったんだからいいと思ってみやげ品はかいませんでした。あとできいたらマサイはお金もらってないって。
<つづく>
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2010年06月15日
ぽかぽか春庭「動物孤児院」
2010/06/15
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(8)動物孤児院
1979年7月31日アフリカ通信第二号 つづき
マサイ族のおどりがおわると農場のハウスでお茶が出ました。私はジュースを3ばいとお茶をいっぱいとクッキーをたくさん食べました。ガイドに「十分たべたか」と笑われました。西洋人はみんなきどっていっぱいでやめてます。日本人はいやしいと思われたかな。
家の奥には車椅子の老人がすわっていました。あいさつしてもいいか聞いたところ、どうぞというので「はじめまして。ごきげんいかが」とイギリス風の発音でいったのですが、耳が遠くてきこえないとのことです。きっと若い頃に植民地へ入って営々と農場を築いたのでしょう。そしてあく手してかえりました。
それから動物孤児院へ行きました。ここは傷ついたり母親にはぐれたりした動物の収容所です。「動物園ではない」と入り口に断り書きがありました。野生動物を保護するのが目的でみせものではないという意味でしょう。広さはけっこう群馬サファリワールドくらいあります。ひょうが木にのぼってのんびりひるねしていました。望遠もってきてよかった。しかしフィルムがうまく巻けなくなってしまったのでカメラをあけたのでたぶんこのフィルムはだめになったと思います。
夜はまた皆は肉屋へ行くというので、私はハウスに残りました。河合さんの奥さんがごはんと鶏とだいこんのにこみを作ってくれました。ハウスにいれば日本食は十分食べられるそうです。私はあとかたずけを手伝いました。
ハウスは一泊15シル(450円)。食事はたべた分だけ頭割りで材料ヒを出し、作るなりかたづけなりを手伝うというしくみです。
1979年8月1日アフリカ通信第3号
1979年8月1日は、病院に行きました。最初教えていただいた病院はナイロビホスピタルでした。ササキさんが送ってくれたのですが、そこは、ナイロビホスピタルではなくて、医学大学でした。そこで車からおりようとした黒人に道を聞くと車でつれていってくれました。医学生だそうです。ナイロビ病院は、しかしながら有料でした。それで「お金ナイ、シナペサ」というとおいかえされ、ケニヤッタ病院へ行けと言われました。道がよくわからないけど適当に歩いていたら偶然星野学校をみつけました。星野さんは沼田の出身で新聞記者をやめたあとナイロビでスワヒリ語の学校をひらいています。奥さんももと教師でした。ちょうど朝食中にたずねてしまったのですが、生徒のひとりがケニヤッタ(病院)までつれてきてくれました。
ケニヤッタは無料だがたいへん混むと教えてくれましたが、待つのは覚悟で本や折り紙を持って出たのです。しかし受付がなかなかみつからずこまりましたが、いったん受付の列にならぶとあとはスムースにいきました。おおぜいの人が待合室につめかけていましたが、いっせいに私をみて、けっこう手まねやらで並び方を教えてくれます。ナイロビ市内はたいてい英語が通じますが、さすが無料病院は話せない人の方が多かったです。しかしとなりにすわった人は大学で働いているとかで英語が通じました。大学で働くといっても無料病院にくるくらいだから下働きなのでしょう。
しんりょう券をもらうまで30分くらいまち、しんりょう券をもらってから名を呼ばれるまでまた30分くらいまちました。
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2010/06/15
ケニアは、1963年にイギリスの植民地から独立。初代大統領のケニヤッタ(最大部族のキクユ族出身)から2代目のモイ(少数部族出身)に変わったばかりで、国全体が新興の気概に溢れていました。人種差別(アパルトヘイト)を続けた南アフリカ共和国と異なり、ケニアでは、残留したイギリス人も黒人も平等の政策で、白人は権力を黒人に譲り渡し、残った白人は農場経営や大学での研究などに携わっていました。
ケニアはイギリスの社会制度をそっくり導入したので原則として公共病院は誰でも無料です。イギリスも同じですが、私立病院は設備がよいが高額料金をとられ、公共病院は医療設備は古かったりするけれど、無料。
貧富差が広がった現在では、金持ちは私立病院へ、貧乏人は公立病院へというのがさらに徹底していることでしょう。医者への給料も差が大きいので、公立病院からの人材流出がはなはだしく、病院として機能しないまでになっているという報道もあるので、ナイロビの貧しい病人たちが心配です。
<つづく>
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(1)去年のジャイカニュース
検索大好きなので、用もないのにときどき知り合いの名前を検索してみます。自分の名前や家族の名前で検索すると「へぇ!こんな同姓同名の人が世の中にはいるんだ」と思うこともあるし、ときに知り合いがらみの思いがけないニュースに出会うこともあります。
従妹の名前で検索してみたら、ケニアの話がでていました。日付は去年の今頃。私は中国赴任中のころで、日本のニュースなど見る余裕もない時でした。昨年の5月にジャイカボランティアニュースの中に従妹の名前が掲載されていたのです。
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ジャイカボランティアニュース 第2号 2009年5月1日より
「去る1月28日、ミチコさん(1978~1980ケニア派遣/理数科教師)のもとに、嬉しい一報が舞い込んだ。それは、30年前のミチコさんの教え子が連絡を取りたがっているというものだった。「知らせを受けたのが私の誕生日の翌日でしたので、これは神様からのプレゼントだと思いました」と、ミチコさん。30年という長い年月を一気に飛び越え、ミチコさんと、教え子の一人であるセレム氏とのメールのやり取りは始まった。
当時、中学生だったセレム氏が、現在はケニア園芸公社の総裁となり活躍していることを知り、ミチコさんは、「自分の子どもが立派になったような気分で本当に嬉しいです」と話す。現在、ミチコさんの娘さんが25歳で、セレム氏の娘さんが14歳。これは、当時のミチコさんとセレム氏の年齢にあたる。このことに長い時の流れを感じながらも、再び繋がった絆に感謝をしつつ、いつか再会できる日を二人とも強く待ち望んでいる。」
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30年前に私がケニアに出かけていったのは、従妹のミチコがJICAの海外青年協力隊に参加して、ケニアのハイスクールで理数科教師をして1年たったころでした。
ミチコはケニアについて早々、研修で出かけた村の人からふるまわれた水を飲んで入院してしまいました。「女の人が遠くの水場まで何キロも歩いて水くみに行くような地区で、せっかく村の人が貴重な水をふるまってくれたのに、飲まなきゃ悪いと思って、思い切って飲んだ」あげくの災難。現地の人には大丈夫な水でも、生水は飲むべきでなかった。
一ヶ月の入院生活ののちにようやく任地での仕事を始めることができたのですが、入院したため、辺鄙な赴任場所は避けてもらい、水道電気のある町の学校に赴任できました。ミチコの同僚のサイトウさんは、水も電気もない村に赴任しました。サイトウさんは、明るくてかわいい女性でした。小柄で見た目は強そうではありませんでしたが、海外青年協力隊員らしいバイタリティを持って活躍していました。
ミチコやサイトウさんといっしょにトゥルカナ湖を旅行したり、ミチコが勤務するハイスクールのある町に泊まりに行ったりしました。
東海岸のモンバサやラム島へ行ったときは、ミチコ、私、タカ氏、クロさん、あと誰がいっしょだったかしら。マリンディという海辺の町で青年協力隊の隊員さんの家に泊まらせてもらって、サークル合宿のようなノリで楽しかった。ここでも、生水はぜったいに飲むな、と隊員さんから注意されました。冷蔵庫に入っている沸かし水を飲み、飲んだ分は薬缶で沸かして補充しておく、というルールを守れば、冷蔵庫の中のものを食べたり飲んだり自由にしてかまわない、という人のいい隊員さん。海岸地帯で稲作指導をしている方でした。ケニアでの思い出は、いつも赤道直下の太陽に照らされ、私の青春ハイライトです。
<つづく>
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2010年06月02日
ぽかぽか春庭「ケニアではモテ女」
2010/06/02
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(2)ケニアではモテ女
ミチコはケニアで出会ったジャイカ同僚のマサミさんと結婚しました。外務省外郭団体ジャイカの青年協力隊員から堅実な会社の正社員に戻ったマサミさんとミチコの結婚は親戚縁者に祝福され、結婚式から10ヶ月後にハネムーンベビーが生まれたときも皆に祝ってもらいました。
ミチコとマサミさんの結婚式の半月後に私とタカ氏の結婚式。タカ氏の場合、新聞記者を退職したあと「フリージャーナリスト」、別の語でいえば「プータロー」。結婚式から半年後には娘が生まれました。ちょいと早めに出産した私、非難囂々でした。「そんなふしだらな娘とは思わなかった」なんて言われました。今なら珍しくもないことで、「おめでた婚」とか、子宝を授かってのめでたい「さずかり婚」と呼ばれるようになっている「できちゃった婚」ですが、たった四半世紀前の時代は「親類の面汚し」扱いでした。
ミチコはマサミさんとの間にハネムーンベビー誕生の次の年には年子で双子を出産し、子育て主婦業を続けました。マサミさんは堅実なエンジニアとして仕事をつづけ、ときには単身赴任で海外へ。ときには一家でネパール赴任などもありました。ミチコは次男を東大に入れ、またまた親戚縁者から祝福を受けました。一家で堅実な人生を歩んで、マサミさん定年退職のあとも、優雅に年金暮らしをするのでしょう。
私は、夫が「趣味の会社経営」を続けるのを横目で見ながら働きづめです。相変わらず「祝福」なんぞには無縁の人生。同じケニアで出会った夫婦ふた組ですが、堅実な人生を歩んだミチコと、フラフラ自由ではあったけれど、貧乏暮らしを続けた私。ま、これも持って生まれた運命というものでしょう。
アヤ伯母の葬儀の席でいっしょになったミチコは、トゥルカナ湖へいっしょに旅したサイトウさんは癌になって早世したと教えてくれました。ケニアですごした青春の日々から30年。それぞれの人生がすぎていきました。
私にいいことがあったとすれば、端から見れた「ダメダメな人生」だったとしても、私自身は自分の歩んできた茨道をおもしろがってきたことだけでしょう。年金もない老後不安定な人生になってしまいましたけれど、今まで過ごしてきた日々は、私にとってはどの一日も大切な時間です。
ミチコへ届いたというケニアからのメールは30年という時を超えて、なつかしい赤道直下の太陽を思い出させてくれました。1979年と1980年のケニア。
30年前の私は、日本では「女だからといって、男に依存して暮らしたくない」と肩肘張って生きてきて「こわい女」と思われていました。太陽直射日光の下で、私はそんなツッパリもとれて、ケニアの男性達にモテモテでした。「あなたは色が白くて美しいから結婚してほしい」なんて言われ、そこらじゅうで申し込まれました。そりゃ、いくら日に焼けて真っ黒になったとはいえ、ケニアの女性よりは色が白い。
けれど、『私の夫はマサイの戦士』という本を書いた永松真紀さんのように、思い切ってマサイ族男性の第二夫人になる、っていうようなことをする勇気もなく、ナイロビで最初の日に出会った日本人と結婚するハメになって青春時代は終わりとなりました。
ケニアでの青春の日々、ますます遠くなっていきますが、なんといっても、私が唯一男性にモテモテだったひととき、永遠の輝ける日々です。
<つづく>
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2010年06月04日
ぽかぽか春庭「30年前の手紙」
2010/06/04
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(3)30年前の手紙
30年前のケニアで、生まれてはじめて「モテ女」の生活を楽しんだおかげか、今のところ私には「こういう夫と結婚したことも運命」というあきらめが身についています。
70代の女性が書いた「死ぬまでに一度でいいから、身を焼くような恋を経験したい」という投稿を新聞で見ました。それを読んで「お見合いで結婚して、生涯に一度も恋い焦がれるという思いをしたことのなかった人が、恋に焦がれてみたいと感じる、そういう気持ちも分かるなあ」と思うけれど、私は、赤道直下の太陽で顔が真っ黒に焼けて十分に焦げたせいか「身を焼く恋」に焦がれる思いを残さず、自分の青春は十分に燃焼しきった、という感覚があります。
去年2009年はケニア、ナイロビ市で夫と出会ってから30年目の年でした。むろん、夫は一言も私にはそんなこと言いませんけれど、夫にとってもケニアが青春の光に満ちた土地であったことは同じ。
いつか、ナイロビを再訪することがあるかもしれないけれど、映画『愛と悲しみの果て』(原作アイザック・ディネーセンの「アフリカの日々(OUT OF AFRICA) 』)を見ただけで涙滂沱だったので、きっと空港に着いただけで、涙で景色が見えないことでしょう。
映画でディネーセン(1885~1962、Baroness Blixen-Finecke 本名カレン・ブリクセンKaren Christence)を演じたのはメリル・ストリープ、恋人の飛行家デニス役はロバート・レッドフォード。
1979年にケニアから実家に送った手紙の束が、段ボール箱に入ったままになっていました。私が育った実家を取り壊してアパートに建て替えるときに、妹が「いるなら持っていけ、いらないなら捨てる」と通告してきたので、引き取ってきた手紙の束です。
2月末の上階からの漏水事故で紙が湿気て、読めなくなっている文字もありました。たとえ漏水がなかったとしても、ナイロビで買った質の悪い便せんを使っているので、いずれインクも紙も劣化し読めなくなる運命だろうと思います。30年たって、だいぶインクも薄れてきましたが、今ならまだ読めます。
娘も息子もたぶん読みはしないだろうけれど、30年前の、父と母が出会った頃の日々を書き残しておくのも、金土地財産を残せない私に、ただひとつ子に残せる心の宝です。娘と息子は「心の宝はいらんから、実のある宝を残すべし」と、言うのはわかってるんですが、私の心の老化防止エイジングになるだろうと思うので、書き写しておくことにしました。
以下、1979~1980の手紙コピーです。生まれてはじめての海外で、飛行機に乗るのも初めてだったから、最初の数通は緊張がよくわかります。アフリカにひとりで出かけたいき遅れの娘を案じている家族を安心させるための通信なので、父宛は、できる限り楽しい話題を書く努力をしていたのがわかります。
「ナイロビへ向かう飛行機の同行者はいい人ばかり」とか、老親を安心させる言葉を並べています。姉宛の便りでは、あとで銀行から引き落としたお金を送金してもらう予定なので、無駄遣いをしていないことを証明するために、細かい金額の報告をしています。中学国語教師をやめて2年たち、貯金も底をついている中でのケニア行きです。
かさばるので辞書を持って行かなかったから、書けない漢字はひらがな表記にしています。
今月は、30年前のケニアを振り返ります。
<つづく>
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2010年06月05日
ぽかぽか春庭「1979はじめての飛行機」
2010/06/05
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(1)はじめての飛行機
1979年7月28日 実家の父宛(カラチで買ったのであろうヒマラヤの雪山と木立の絵ハガキ。切手はアラブ首長国連邦United Arab Emiratesのもの。ドバイで投函)
午後4時に成田を立って午後7時にマニラにつきました。空や雲がとてもきれいでした。バンコクも通ったけど、眠っていました。7/29の午前4時にパキスタンのカラチに到着して、市内のホテルに泊まりました。いっしょにナイロビまで行く日本人グループは大学生くらいの男の子が6人とその父親一人。二人で世界中を旅している60歳くらいの夫婦。若い女性が10人。日本人の妻になって、今度はじめてケニアに里がえりするというアフリカ人のおくさん。みんないい人です。
カラチでは、午前10時から1時まで市内を歩きました。高校の先生という女の人と3人いっしょにマーケットをみてまわりました。
カラチはとても暑い町です。50度くらいあるような気がします。そして屋台のやおやとか肉屋にはハエがわんわんいました。今はまた飛行機にのって、ナイロビへ向かっています。今は日本時間の7/29午後九時です。(アフリカ通信号外)
1979年7月30日 現住所の姉宛て(姉の家の二階に住んでいた)(ドバイで買ったアラビアのロレンス風の白馬に乗るアラブ人の写真の絵はがき。切手はケニア。ナイロビで投函)
7月30日午前8時(ケニア時間午前2時)にナイロビ空港につきました。旅行社現地駐在員のセベ氏とスワヒリ語を教えてくれたブワナ・カヒンディが出迎えてくれました。とても寒かったです。
旅行社の家のDoDoハウスにとまりました。新婚旅行中という河合夫妻とケニアにきて4ヶ月目という佐々木さんがいっしょにとまりました。ナイロビの町は道が広くて、赤やピンクの花が咲いていてきれいです。車で通勤するケニア人もいれば道ばたにすわりこんでいる人もいます。今日は病院にいって、傷をみてもらって、かのうしていなければあしたから見物して歩こうと思います。同行の女の人たちはお金をたくさんもっているのでおどろきました。私はケチケチ旅行にします。たらなくなったら、カードで「ときわ」からひき出しておくってもらいます。では金のかからんようせいぜいたのしくいっぱいみてあるきます。ではまたね 7/30午前10時 アフリカ通信号外
1979年7月30日 実家宛(キリマンジャロ山を背景にして立つキリンの絵はがき、切手はケニア。ナイロビで投函)
いつもサインしているので、つい(この葉書の宛先に)自分の名前を書いてしまいました。今、7月30日午後3時(日本時間7月30日午後9時)いつも6時間の時差があります。ナイロビに無事つきました。今日は市内の繁華街に言って、ヒルトンホテルのロビーに行ったり、下町のやき肉やへ行ったりしました。DoDoハウスに泊まっていますが、郊外のとてもよい家です。今はニュースタンリーホテルの前のテラスでビールをのんでいます。日本の中瓶くらいで五シル10セント。日本円で200円くらいなんだと思います。しかし、チップをやるのかどうか、悩んだ結果あげませんでした。まったくチップというのは、世界中からボクメツすべき習慣だと思います。(1979/7/30 アフリカ通信号外)
<つづく>
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2010年06月06日
ぽかぽか春庭「マニラのトイレ、カラチの市場」
2010/06/06
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(2)マニラのトイレ、カラチの市場
1979年7月30日アフリカ通信No.1 (姉宛PIAパキスタン航空の便せん)
日本時間7/29午後9時。外はまだ明るい。現地時間では午後5時。(時差は6時間と前の手紙に書いているのに、さっそく計算を間違えている。計算に弱いのは子供の頃からだけれど、赤道惚けでますます計算できなくなっていた)
お見送りありがとうございました。ゆっくり食事などできたらよかったけど、みんなより一時間おくれて成田についたので、あわただしくなってしまいました。飛行機はタラップを登るのかと思ったら、空港ビルから直接長いローカを通って飛行機に入ってしまうしくみになってしまいました。私がどの飛行機にのったかわかりましたか。空港利用料金とかいうものを千五百円とられました。
とび立つ瞬間はとても気分がよかったです。どんどん畑や家が小さくなって、すぐ海に出てしまいました。それからはいろんな雲が窓の外にあらわれてたいくつしません。ちぎれ雲や雲海や様々な雲を、雲の上からながめていました。(席が窓側だったので)空が夕焼けになると窓をしめるようにいわれました。そして機内が暗くなるとウォルトディズニー制作の映画がはじまった。しかし字幕がないのでおもしろくとも何ともなかった。そしたらそのうちマニラに着きました。
マニラはもう夜で夜景がきれいでした。ミィが「宝石!宝石!」と叫び出しそうにきらきらしていましたよ。バンコクも光ってましたが、カラチはあまり電気がついていませんでした。日本時間で7/29午前十時ごろカラチに着きました。なんせ、空へのぼることに関しては、これが本当のおのぼりさんだからマニラからカラチまででもう失敗しました。機内のトイレで手をふく紙かと思ってひっぱり出したら、それはトイレのいすにかける紙のペーパーでした。でも同じと思って手をふきました。
それに機内食が何度も出るのですが、一番先に出た中に卵やきのように見えたのがあったのでついていたおしょうゆをかけたところ、それはお菓子でした。となりの席の人が笑っていました。それからは見なれないものはとなりの人に「これはなんちゅう食べ物ですか」とききましたよ。
マニラのトイレで中で紙もって立っているおばさんに「シャクエンシャクエン」といわれて100円とられました。カラチ空港のトイレは、ただじっとはだしでうずくまっているピンク色のサリーをきた女の人に200円とられました。トイレにうずくまっているのもいい商売になります。
カラチ市内のホテルに一泊しました。これは空港運賃に含まれているのでただです。いっしょにナイロビまで行く日本人が20人くらい泊まりました。私は高校の先生という女の人2人と同室になり、少し眠ったあと2時間ほど市内の見物をしました。シクロという小型オート三輪タクシーで三人で片道200円です。市内のマーケットを見たのですが、めちゃくちゃに暑くて、よくもまあこんな町でくらしていると思いました。屋台のやおやは小さいレモンやピーマン、しなびたきゅうりやほうれん草をならべていてハエがいっぱい。
こじきがたくさんいて、脳性小児マヒの人や片足やこどもたちが寄ってきて「バクシーシ」というのです。これは「神のためにおまえは私をたすけるべきだ」という意味でお金をやるとこじきは「私のおかげで善行ができて神にほめられるからありがたいと思え」と感じるのだそうです。
こちらはむこうをジロジロみるけれど、町中の人々が日本人の女の子をめずらしがってジロジロ見ました。きっと美人だと思ったのでしょう!
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2010/06/06
初めて飛行機に乗って、飛行機のトイレや空港のトイレも初体験でめずらしく、きょろきょろと周りを見回している姿が、今となってはかわいらしい。当時、パキスタンのカラチでも、アフリカでも日本人女性などはあまり見かけない存在だったので、日本では経験したことのない、「人様から見つめられる」という経験をしました。
また、こじきにお金を恵むとき、もらう方でなく、上げる方が「ありがとう」と言って感謝するというのも、日本からはじめて海外へ出て彼我の文化の違いを痛感した一コマです。
<つづき>
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2010年06月08日
ぽかぽか春庭「ドバイ」
2010/06/08
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(3)ドバイ
1979年7月30日アフリカ通信No.1 つづき
カラチ午後7時半発の飛行機にのりました。前の成田からの飛行機は日本人スチュワーデスもいて、設備もまあ一応そろっていたのですが、今度のはせまくなって、映画も何もなくておまけにむしぶろのような暑さ。前のは冷房がききすぎて毛布をひっかぶっていたのに、毛布どころかシャツもぬいじゃいたいくらい。暑くて汗がしみるのか、カラチで町中を歩きすぎたせいか、足の傷がいたみだしました。
かのうどめの薬はもらってありますが食後というのがしょっちゅうたべているのでいつが食後だかわからないので、てきとうにのんでいます。(気圧の関係かしらんけど急にペンのインクがどどどとにじみ出してきてぽたぽたたれたのでペンはやめます。)消毒の方がカラチのホテルで一回しただけなので心配です。みんなも心配してくれて「破傷風になって足切断したらカラチで「バクシーシ」といって商売してね」と言ってくれます!
前の飛行機はジュースが出たのに、こんどのは水なので食後の紅茶をおかわりしてます。そして前のは気圧調節がよかったのに、今度のは、ドバイ空港に立ち寄るために高度を下げたら耳がビンビン痛くなって死にそうでした。まったくひどいひこうきです。おまけにドバイではすんなりおりられなくて町の上をぐるぐるまわるのでひょっとしてハイジャックでもおきたのかと思いました。
ドバイ上空からのけしきはすごかった。カラチも緑が少なく乾いた土色の町でしたが、ドバイはもう砂だけ。はじめ荒涼とした山々がみえて次はあたり一面砂だらけ。遠くは黄色い砂ぼこりでかすんでみえません。砂はまったいらなところもあるし波もようもあるし、しまもようもあります。所々に茶色っぽい木がやっと立っています。町は灰色の四角い家、地面は白茶けて草もはえていない土だけの土地です。
ぐるぐる回って期待が右に左にかたむくので気持ち悪くなった人もいました。私はまた窓側だったので窓の外のけしきによって、あっ左にかたむな、こんどは右にいくとわかるのでだいじょうぶでした。やっとドバイにおりたら空港のアスファルトだかコンクリの上だかは、やけたフライパンの上にいるようで、熱風が吹きすさぶのです。カラチがめちゃくちゃ暑いのなら、こちらはやけくそ暑くてとても人間の町とは思えません。しかしはだかで穴ほって働いてる人もいるのです。はだかでも頭にはちゃんとターバンまいています。
空港のポスト・オフィスで日本あての絵はがき出そうとして切手いくらかときいたら「ワンダラー」という。約200円だからたかい切手だと思ったけどさすがの私もねぎれないと思ってあきらめて一ドルだしたらちゃんとおつりをくれました。しかしドバイのお金もらってもしかたないから絵はがきをかうことにしましたお金をみせたら4枚選んでいいというのでかいました。一枚20セントけんとうだというから切手も20セントだったわけで、そんなら日本の切手よりそう高くもないわけです。
パキスタンの人々はうす青やうす緑の長くてタブタブのシャツとたぶたぶのズボンをみんなきてました。女の子とはサリ姿もいるしパキスタン風シャツとズボンもいます。一般にあまり女の人はいませんでした。ドバイは白の上下にアラブ独特のかぶりもの。そして女の人はまったく出ていません。空港にいる女の人は皆インド人とか外国人です。町を空からみた時も暑さのせいか、ただのひとりも通りを歩いているようすはありませんでした。
日本からマニラまでの空は雲が何層にもわたって変化し高度がかわるたびに様々の雲がみられましたが、このへんは雲も黄色ののっぺりした砂ばくのような雲で何の変化もありません。住めば都とはいうけれど砂ばくの町だけは住みたくない気持ちです。カラチもドバイも海に面した町です。ドバイの海は濃い緑色で船がとまっているのがみえました。
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2010/06/08
30年後のドバイが、世界一高いビル(828m)はじめ高層ビルが林立する経済都市に発展するなんて、夢にも思えないドバイ・トランジットでした。第一、飛行機のトランジットで降りるまで、ドバイなんていう町があることすら知らなかった。
足の傷のことを書いていますが、これは、出発直前にタンザニア大使館にビザを取りにいったとき、道路にはみ出していたブリキの看板に足をひっかけて、切ってしまったときの傷。治っていないままの出発になったのです。(ぼうっとしながら歩くので、やたらにいろんな物にぶつかる癖は今も同じ。電信柱に頭をぶつけるなんて漫画みたいなこともあります)。姉や父が心配しないよう、ナイロビに着いたら、何より先に病院へ行くと約束してありました。家族は「嫁入り前の娘が、個人旅行でアフリカに行くなんて、しかも怪我した傷が治っていないのに」と、ケニア行きに大反対でしたが、「行かずに後悔するよりは、行って後悔したほうがいい」と思ったのです。行ってよかったと思います。
<つづく>
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2010年06月09日
ぽかぽか春庭「ナイロビへ」
2010/06/09
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(4)ナイロビへ
1979年7月30日アフリカ通信No.1つづき
同行の日本人は、マニラでもカラチでもなんとなく一人では不安だから結局団体みたいにみんなかたまっていっしょに行動しています。いっしょにスワヒリ語を習った仲間の学生が2人。女の人は教師が多いみたい。だいたい一ヶ月も休みが取れる職業はそうざらにないものね。日本人のおくさんになったアフリカ人が、里帰りでケニアに帰るそうなのですが、ケニアに7つの子がいるというのです。それから推しはかると15歳くらいでアフリカ人と結婚して子供をうんだのち20才くらいで日本人と結婚したみたいです。モリタさんというのですが、ダンナさんも子供のいるアフリカ人と結婚するのは勇気がいったでしょうね。しかしほりが深く目が大きくとても美しい顔立ちで足も長いです。
あと、60才くらいの老夫婦で世界中を旅してるという二人づれがいます。今度アフリカをまわれば世界全部に行ったことになるんですとさ。
カラチのホテルで食べた肉の煮こみもからかったけど、ひこうきで出たカレーはもっとからかった。私が「からいのはニガテ、あついのはダメ」というと、みんなに「そうあまいこと言ってはアフリカを旅できない。二本のはしでとんでるハエをひょいとつまんで食べるくらいじゃなけりゃ」とひやかされました。お米は細長くポサポサした味です。食べないと体力おちると思って必死にたべました。
カラチの町にもドバイの空港にも小銃を片手にして立っている人がいます。重いと思って登山ナイフはやめてくだものナイフにしたけど、やっぱり登山ナイフを持ってた方がよかったかなと思います。
また高度が下がり出しました。今度はサウジアラビアのジエダという所です。前は白茶けたさばくでしたが、今度は赤茶けたさばくです。しかし、町はドバイより大きくきれいです。石油でもうけた町かもしれません。
英語はなんとかつうじます。ごちゃごちゃいわないでウォーター、プリーズとか、ほしいものにプリーズをつけたらもってきてくれます。これはアフリカ通信第1号です。奇数番号は埼玉の姉宛に偶数は群馬の父宛に届くから、てきとうに交かんしてよむべし。ではまたね。(7/30午前一時半 アフリカ通信No.1おわり)
アフリカ通信第二号 7/31発行。ナイロビ・ケニアより(時間はすべてケニア時間)
ケニア第一日7/30午前8時起床。飛行機がついたのが午前2時。ベッドにもぐったのが午前5時ごろでしたから、ちょっと時差ぼけぎみ。ドゥドゥハウスはとてもよいいえです。ゆいいつの欠点は水の出が悪いことでおふろは一週間にいっぺんしかはいれないということですが、これは私にとって別だん不自由なことではありません。半月くらいはいれなくたって平気です。
9時にフェアビューホテルに泊まった同行の人々をむかえに行って皆で銀行へ行きました。ドゥドゥの駐在員がマイクロバスの運転をしてくれるほか、とてもしんせつに世話してくれます。約30円が1シルに変わります。私は、はじめ50ドルだけかえました。365シルになりました。約1万円分です。他の人は300ドルとか、せいだいにかえてます。
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2010/06/10
私は「現地までの往復オープンチケット販売。行きの飛行機のみ団体利用」というツアーを利用しました。たまたま同じ飛行機を利用したという団体だったのに、ナイロビに着くまではカラチなどで連れだって行動しました。添乗員もつかない片道ツアーですから、皆慣れない土地で不安に思い、いつも3~5人が連れだって動いていたのです。ナイロビに着いた翌日のみ旅行社の駐在員が世話をしてくれて、2日目から個人行動でした。
私は、旅行小切手を両替するにも、ちまちまと少しずつ換えていきました。小切手はサインしてない場合落としたり盗まれたりしても保障があるけれど、「おまえは子供のころから、お金を落としたりとられたりするのが得意だったから、絶対に1万円以上の現金を財布に入れておいてはいけない」というのが、姉からのアドバイスでした。1979年7月ごろのドル為替相場は1ドルが200~250円でした。1万円両替すると50ドルくらい。日本を出るときの旅行小切手も最小限におさえ、なくなったら、姉から旅行社のナイロビ駐在所あてに送金してもらうことになっていました。
<つづく>
2010/06/11
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(5)ナイロビの迷子
1979年8月1日 アフリカ通信No.2 つづき
(7月30日ケニア第一日目)次にヒルトンホテルのロビーで待ち合わせて10人ほどで下町の肉屋へおひるを食べにいくことになりました。しかしいつもドジな私、エハガキを買うに手間取っているうちに皆は先へ行ってしまいました。私も目だたない女ですから、いなくなっても気づいてもらえそうにないのであります。
しかたないからヒルトンホテルのロビーにすわっていると河合夫妻にばったり会いました。河合夫妻はおさななじみ同志の新婚夫婦です。1年間の新婚ぶらぶら旅行に出ているのです。私がまいごになったというと、ふたりはしんせつに前に行った肉屋についれていってくれました。前は車で行ったので歩いて行く道はよくわからないということで、下町をぐるぐるまわって店をさがしました。
ヒルトンの前あたりはナイロビの高級街で人々の服もきれいで店もきれいで観光客もいっぱいいますが、下町はカラチの町ほどではないにしても、ヒルトンのあたりよりはずっときたない。人々はぼろい服をきて何するわけでもなく道ばたにすわっているのです。仕事がないのだと思います。
やっと肉屋がみつかりました。肉屋というのは本当に肉をぶら下げて売っている店で、ぶたや羊がさかさまにぶら下がっている下をくぐりぬけて奥に入ると、解体した肉がゴロゴロころがっているのをほうちょうでぶった切ってそれを焼いてくれるのです。テーブルには下町の人々だけで日本人はいませんでした。それでまたヒルトンに戻ったら、皆もいました。皆は夕食に肉屋へ行くことにして、おひるは別の店で食べたのですって。それで私はスタンリーホテルで食べることにしました。
テラスにすわっていると、飛行機でいっしょだったティナ・モリタさんに会いました。彼女はウガンダの生まれで今は日本人の妻になっている美人の黒人です。ウガンダに残してきた前の結婚の時の子供と、子供を預けてある母親に会いに来たのです。だんなさんは横浜でラーメンやをしているそうです。いっしょにおひるをたべて写真をとりました。
そしたら、7月7日の便でケニアに来て一ヶ月間ナイロビのYMCAにとまっているという日本人に会いました。もとは奈良県の地方新聞記者だったという人で、仕事をやめてこちらに来たのだそうです。まったくいろんな人がいるものです。私はリュックとショルダーバックだけ持ってきて、ちょっと持ち歩くくらいのバッグがなかったので、バッグを買うのを手伝ってもらうことにしました。下町の店は安いけど、まだ一人で歩くほど慣れていないからです。
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2010/06/11
ケニアからの手紙第一報で、いきなりのタカ氏登場です。同じDoDoWorldというアフリカ専門の旅行社を利用していて、社長のクマさんや駐在員のセベさんを知っているというだけで、すっかり信用して下町ショッピングの案内をしてもらうことになりました。日本人同士というだけで全面的に信用して危険なダウンタウンをいっしょに歩いたのですけれど、当時は「日本人の女の子を信用させておいて、だましてカスバに売り飛ばすのは簡単」なんてアブナイ噂も出まわっていたので、どうして初めて出会った人を信用したのか。ちょっとヤバい状況でした。この日から30年もこの人とシガラむことになろうとは思ってもみなかったのですが。
あとで聞くと、旅行社駐在員のセベ氏が「昨日ナイロビに着いたばかりの女の人がひとり迷子になっちゃって、困ったよ。他の旅行者の世話があるから、探していられないし、タカさん探してくれないかな」と、頼まれていたのだそうです。
ナイロビに着いたばかりの人が、アブナイ人について行ったらたいへんだと思って探していたところに、日本語でしゃべりながらティナと写真をとっている私を見かけて声をかけたのです。
<つづく>
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2010年06月12日
ぽかぽか春庭「ナイロビ・ダウンタウン」
2010/06/12
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(6)ナイロビ・ダウンタウン
アフリカ通信第二号 7/31発行。つづき
(ナイロビの)インド人の店にはサムソナイトとかメーカー品がおいてあったけど高かった。アフリカ人の店では安ものがあって安かった。それでスワヒリ語でねぎったけれどたいしてまけてもらえなかった。やはり旅行者という顔をしていたのでしょう。合成皮革で千五百円だから、日本と比べてかわらないわけ。ということはケニアとしては高いわけ。でもカメラとノートと財布くらいがちょうどよくはいる大きさで役に立ちます。
DoDoハウスの運転をしている男の人はササキさんというのですが、25くらいかと思っていたらなんと19才だというのです。そして15才から4年間ヨーロッパやインドを放浪して歩っているのだそうです。親は印刷やだということですが、出てくるむすこもむすこだが、出してやる親もえらいというか、かわってるというか。いろんな人がいるもんです。今度日本に帰ったら、高校1年に復学するそうです。
夕食は昼に立ち寄った肉屋へ行って、肉をたべました。トマトの切ったのと塩といっしょに口にぶち込むのですが、肉が固くてかむのにたいへんでした。こちらの人は固い肉のほうが好きでやわらかい肉は二級品なんだそうです。日本人は金持ちと思って一級品をくれたのでしょう。肉がやける間はとなりのバーで飲みながら待っているのです。地酒というか白くてぶつぶつしたどぶろく麦酒、ほとんどアルコール分はなくてすっぱいのです。みんなはジュースと同じといってのみましたが、私はすっぱいのはニガ手なのでだめでした。このバーはアフリカ人の中下流用です。
私に話しかけた人はおまわりさんでした。最初私がおっかなびっくりの顔をしていたので身分証明書を出してみせてくれました。そしてとなりにいる女の人と赤ん坊を自分の妻と子供だと紹介しました。私は妻は美人で子供はかわいいとほめたところ、むこうもあなたのスワヒリ語はたいへんうまいとか、ほめあいました。
赤ん坊はわたしの髪をめずらしがってひっぱりました。私が学生だというと、おまわりさんは「自分ももっと高い教育を受けたいがむずかしい」といいました。こちらでは大学教育を受けられるのはほんのひとにぎりのエリートです。おまわりさんはしかしながら定職を持つ点で中流に入るわけです。職のない人に比べれば、くつみがきや新聞売りも上等です。とにかくこの店にはえたいのしれない人もたくさんいるのです。このおまわりさんと話せて楽しかったです。
そのあとは一回宿に帰ったあと夜にこの町の最も高級というナイトクラブに行きました。最も高級といっても入場料と麦酒2本で50シル(1500円)くらいです。しかし、ナイトクラブといっても部屋の周りにイスとテーブルがあって真ん中でゴーゴーというかディスコというか白人や黒人がいっしょにおどっているだけです。そこへどどどっと黄色の日本人が入っていってしばし注目を集めました。
さいしょはおどおどと様子をうかがいながめていましたが、勇敢なる女高校教師がおどりだしました。この人はちょっと私に似ているのです。みんなおどりに行ったので、私も踊った。(ディスコで踊るのは初めてだったけれど)うまく踊れました。週二回(モダンダンスの)レッスンにかよい、月に五千円はらうのもムダではなかったわけです。みんなは私に「いつもディスコにいってるのかとききましたよ。そこで私は「私は踊り子である」といいました。(しかし、元教師ということはバレているのです。)
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2010/06/12
タカ氏と下町のカバン屋などを見て歩いてナイロビの第一日目を過ごしたのですが、実は、案内してくれたときのタカ氏はまったく印象に残っていないのです。タカ氏はこのとき私に一目惚れしたはずなんですけれど。
1979年に19才だった佐々木みきおさん、帰国後一時はアフリカ旅行社道祖神の仕事を手伝っていたこともあったらしいですが、今はどうしているでしょうか。もう50才になっているはず。どんな大人になったのか会ってみたい人のひとりです。
当時はモダンバレエのレッスンを続けていましたが、日本でディスコなどに行ったことがありませんでした。ケニアに行く前、日本で中学校教師をしていたころは、ディスコなんて不良のたまり場だと思っていたようなカタブツでしたから、ナイロビで初めてディスコダンスを踊ってみて楽しかったのでうかれている気持ちが、手紙にあふれています。
<つづく>
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2010年06月13日
ぽかぽか春庭「マサイ族の踊り」
2010/06/13
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(7)マサイ族の踊り
アフリカ通信第二号 7/31発行。つづき
さてここ(2010/6/19注:ナイロビのナイトクラブ、ニューフロリダ)には白人の男客と黒人の女客がいます。女はすべて「お商売」のためにきているのです。こちらではこの種の商売を「カジ・ヤ・テンベア(散歩のおしごと)」といいます。みんな商売とは言えこざっぱりした服でメーキャップをなまめかしくほどこし酒をのみながら横目でチラリと反応をうかがっています。
中には一人太っているけど色は白いカジヤテンベア嬢がいたので、きいたら白人とのハーフなんだと。「あなたはとても美しいからきっとよい男をお客にできるだろう」といったらよろこんで酒をおごるという。そしてインド人に交渉してるから、あれ、商売成立かなとみていたら、私に「インド人は好きか」と聞くのです。私にインド人をまわしてくれるなんて、ごしんせつに。
それで「夫ときたのでだめだ」といって旅行社の駐在員をさしたところ納得してくれました。
男の人たちは皆女にせまられて四苦八苦しています。12時ごろかえりました。
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2010/06/13
ここまでで、ようやくナイロビ第一日目の報告が終わりになります。長っ!
日本に無事帰り着くまでの手紙を全部UPしたら、大長編になりそうなので、休みやすみ気長に続けることにしましょう。家族へ送った手紙はNo.30まであって、最初のうちは詳細に毎日の暮らしを報告していますが、だんだん大きなイベントだけの報告になります。
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アフリカ通信第二号 1979年7/31発行。つづき
7月31日(ケニア第2日目)は、マサイ族のおどりをみにいきました。フェアビューホテルに泊まっているソガさんという日本人旅行者がDoDoツァーを頼んだので、河合氏のランドクルーザーという草原でも砂ばくでも行ける車(ジープのワゴンカーのようなもの)で行きました。(郊外の)農場に着きました。
ケニアがイギリスの植民地だったころにできたらしい農場で、家も古いけれどイギリス風植民地風の花がいっぱいの家です。ナイロビから車で一時間くらい走るとリフトバレーという広大な谷にでます。谷といっても谷底は平らで関東平野くらいのがタンザニアからスーダン、エチオピアまで続いているのです。そのリフトバレーの中に農場が広がっていますが、牛を飼う農場だそうです。
その農場内に観光用にマサイ族を住まわしてやって踊りを見せるのです。入場料は50シル(1500円)です。ガイドの案内でマサイのまで行くと、マサイ族がぞろぞろ出てきました。まずみんなパチパチ写真をとります。ふつうマサイ族をを写真にとると、おこってヤリで攻撃してくるか「金をくれ」というかどちらかですが、ここは料金に含まれているらしくて、いくらとってもいいのです。ひととおり写真をとるとおどりになりました。歌いながら飛び上がったり歩き回ったり腰とあごをつき出すおどりです。やり投げの練習などもワンセットでみせてくれます。
しゅう長のような人が観光客にみやげをかえと手まねで言っています。ソガさんは日本にあるアメリカ大使館につとめている英語ぺらぺらの人で、アメリカ人なみに三週間の夏休みがとれるのですって。ソガさんは「彼らの中に英語しゃべっているのがいるから話かけてみるとしゃべってくれない。きっと観光客にはマサイらしくみえるよう営業上しゃべらないのだろう」といってました。しかしスワヒリ語は少し通じました。入場料をはらったんだからいいと思ってみやげ品はかいませんでした。あとできいたらマサイはお金もらってないって。
<つづく>
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2010年06月15日
ぽかぽか春庭「動物孤児院」
2010/06/15
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(8)動物孤児院
1979年7月31日アフリカ通信第二号 つづき
マサイ族のおどりがおわると農場のハウスでお茶が出ました。私はジュースを3ばいとお茶をいっぱいとクッキーをたくさん食べました。ガイドに「十分たべたか」と笑われました。西洋人はみんなきどっていっぱいでやめてます。日本人はいやしいと思われたかな。
家の奥には車椅子の老人がすわっていました。あいさつしてもいいか聞いたところ、どうぞというので「はじめまして。ごきげんいかが」とイギリス風の発音でいったのですが、耳が遠くてきこえないとのことです。きっと若い頃に植民地へ入って営々と農場を築いたのでしょう。そしてあく手してかえりました。
それから動物孤児院へ行きました。ここは傷ついたり母親にはぐれたりした動物の収容所です。「動物園ではない」と入り口に断り書きがありました。野生動物を保護するのが目的でみせものではないという意味でしょう。広さはけっこう群馬サファリワールドくらいあります。ひょうが木にのぼってのんびりひるねしていました。望遠もってきてよかった。しかしフィルムがうまく巻けなくなってしまったのでカメラをあけたのでたぶんこのフィルムはだめになったと思います。
夜はまた皆は肉屋へ行くというので、私はハウスに残りました。河合さんの奥さんがごはんと鶏とだいこんのにこみを作ってくれました。ハウスにいれば日本食は十分食べられるそうです。私はあとかたずけを手伝いました。
ハウスは一泊15シル(450円)。食事はたべた分だけ頭割りで材料ヒを出し、作るなりかたづけなりを手伝うというしくみです。
1979年8月1日アフリカ通信第3号
1979年8月1日は、病院に行きました。最初教えていただいた病院はナイロビホスピタルでした。ササキさんが送ってくれたのですが、そこは、ナイロビホスピタルではなくて、医学大学でした。そこで車からおりようとした黒人に道を聞くと車でつれていってくれました。医学生だそうです。ナイロビ病院は、しかしながら有料でした。それで「お金ナイ、シナペサ」というとおいかえされ、ケニヤッタ病院へ行けと言われました。道がよくわからないけど適当に歩いていたら偶然星野学校をみつけました。星野さんは沼田の出身で新聞記者をやめたあとナイロビでスワヒリ語の学校をひらいています。奥さんももと教師でした。ちょうど朝食中にたずねてしまったのですが、生徒のひとりがケニヤッタ(病院)までつれてきてくれました。
ケニヤッタは無料だがたいへん混むと教えてくれましたが、待つのは覚悟で本や折り紙を持って出たのです。しかし受付がなかなかみつからずこまりましたが、いったん受付の列にならぶとあとはスムースにいきました。おおぜいの人が待合室につめかけていましたが、いっせいに私をみて、けっこう手まねやらで並び方を教えてくれます。ナイロビ市内はたいてい英語が通じますが、さすが無料病院は話せない人の方が多かったです。しかしとなりにすわった人は大学で働いているとかで英語が通じました。大学で働くといっても無料病院にくるくらいだから下働きなのでしょう。
しんりょう券をもらうまで30分くらいまち、しんりょう券をもらってから名を呼ばれるまでまた30分くらいまちました。
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2010/06/15
ケニアは、1963年にイギリスの植民地から独立。初代大統領のケニヤッタ(最大部族のキクユ族出身)から2代目のモイ(少数部族出身)に変わったばかりで、国全体が新興の気概に溢れていました。人種差別(アパルトヘイト)を続けた南アフリカ共和国と異なり、ケニアでは、残留したイギリス人も黒人も平等の政策で、白人は権力を黒人に譲り渡し、残った白人は農場経営や大学での研究などに携わっていました。
ケニアはイギリスの社会制度をそっくり導入したので原則として公共病院は誰でも無料です。イギリスも同じですが、私立病院は設備がよいが高額料金をとられ、公共病院は医療設備は古かったりするけれど、無料。
貧富差が広がった現在では、金持ちは私立病院へ、貧乏人は公立病院へというのがさらに徹底していることでしょう。医者への給料も差が大きいので、公立病院からの人材流出がはなはだしく、病院として機能しないまでになっているという報道もあるので、ナイロビの貧しい病人たちが心配です。
<つづく>