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春庭1979年のケニア日記1979年8月上旬

2010-08-12 17:32:00 | 日記
2010/06/16
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(9)ケニヤッタ病院

1979年8月1日アフリカ通信第3号 つづき
 (ケニヤッタ病院の)外科のへやで黒人のおいしゃさんにみてもらって、わるくなっているかどうかきいたらそうわるくないといって消毒もしないで、薬だけ出すといいました。薬ののみ方をせつめいしてくれるのですが、いつけがをしたかとか、ケニアのどこにすんでいるのかというくらいはわかるのですが、薬ののみかたなんかよくわかりません。

 それで、スワヒリ語で「私は英語が少ししかわからない、ゆっくり言ってくれ」といったら「下流階級め」という顔でゆっくり言ってくれたのですが、やっぱりわからないので「辞書を家にかえって引くからかいてくれ」といってかいてもらいました。薬が出るまで30分くらいまちました。やっぱりみんなが注目しています。折り紙を折っていたらますますみなが見ます。そのうち病気の子どもが来たので、席をゆずってあげており紙をおってやったらみんなうれしそうでした。つるとふうせんをおりました。そこへちょうど薬が出ました。

 全部で二時間ほどで、思ったほどまちませんでした。日本の病院だって初診なら一日がかりです。しかしへんな日本人が英語とスワヒリ語と日本語とちゃんぽんでわめいて医者に会わせてくれとか薬くれとかいうので、きのどくがって先にしてくれのかもしれません。かのう止めらしいのが出ました。
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2010/06/16
 ケニヤッタ病院の診察で、いくら聞き返しても理解できなかった英語は、「tetanus」。破傷風のことでした。辞書なしに病院へ行き、宿に帰ってから医者に書いてもらった「tetanus」を日本人に聞いても、だれもこれが何か知りませんでした。医者は「この薬は破傷風予防のために飲むのだ」と説明してくれていたのですが、「破傷風」という単語を知らないために、理解できなかったのです。

 ケニア出発直前、タンザニア大使館へビザをとりにいったとき、歩道に出ていたブリキ製の看板に足がひっかかり、太ももをざっくり切ってしまったと、前に書きましたが、このときの傷、30年たってだいぶ小さくなりましたが、まだ傷痕が残っています。そのためテタナスという単語を忘れたことがありません。ケニヤッタ病院で診察を受けて、病院に来ている人たちと交流したことも楽しかった。無料病院など、一般の旅行客が行かないところにいきなり一人で出かけて、ナイロビ3日目がんばりました。
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1979年8月2日付けアフリカ通信3号
 8月1日。バスにはじめてのって町に出ました。バスはどこでも1シル30円。まず銀行へいって旅行社小切手をお金にかえようと思ったら、バンクレシートを忘れたのでかえられませんでした。ケニアはドルの出し入れにきびしくてドルをかえたら必ず申告書に記入しなければならないのです。それでもう残高はわずか。安いレストランをさがしたのだけれどみつかりません。それでヒルトンホテルの前にいきました。

 ヒルトンはどこからでも見つかりやすいビルだし、DoDoワールドのオフィスがヒルトンの前にあるのです。中へ入ったら駐在員のセベさんがいて、店につれていってくれました。セベさんはタンザニア駐在員になる予定です。今、ナイロビ駐在員のエンドさんがサファリツァーに出ているので、
私たちの世話を一手にひきうけてくれているのです。私は安いツァーだからナイロビについたらハイさようならかと思ったら、こまめにめんどうみてくれるのでおどろきました。
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2010/06/16
 私が利用したDoDoWorldという旅行社は、当時起業したばかりでしたが、現在は「道祖神」と改名してアフリカ専門旅行社として存在感を増しています。社長のクマさんの奥さんが経営しているアフリカ料理店に食べに行ったときの話は、こちら。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200808A

<つづく>
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2010年06月18日


かぽか春庭「ナイロビ博物館」
2010/06/18
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(11)ナイロビ博物館

1979年8月3日発行 アフリカ通信No.3(象の絵が描かれているエアログラム)
 8月2日(木)午前中、銀行に行ってお金をかえました。なんやかんやとけっこう使ってしまって、最初に換えた50ドル(1万円)がたちまちおわってしまいました。ナイロビの物価は一次生産品は安いけど二次生産品、ちょっとでも加工してあると高いのです。粉は安いが、パンは高く、肉は安いがハムは高いと言う具合。

 いつも頭の中で日本円にかん算しているのですが、(DoDoハウスの)皆といっしょに行動しているとついつかってしまいます。また50ドル換えました。DoDoハウスからバスで町まで行きました。道順はキリマニ警察署の前を通って、陸軍本部の角を曲がってナイロビ病院まで歩くと病院前に停留所があります。7番のバスにのると中心街にでます。
 ものの本によると黒人はくさいということですが、バスにのってくっついてすわってもぜんぜんそんなことありません。私の方がおふろに入ってないぶんだけくさいかもしれません。

 お金がケニアシルになったので、またバスにのってナイロビ博物館に行きました。日本の国立博物館に比べものになりませんが、動物や鳥のはくせいや昆虫標本がたくさんおいてあります。古い道具なんかもおいてあって、佐渡島民芸館といったふうなおもむきです。英語で喋っている声がきこえたけど、ききおぼえのある発音だと思って「こんにちは」と言ったらやっぱり日本人でした。ナイロビには日本人がわりといます。小さい町ですから歩いているとどこかで出会います。ジャパニーズ・インフォメーション・センターには六ヶ月おくれの日本の新聞や雑誌も置いてあるそうです。
 博物館の中で、黒人にさかなを食べに行かないかとさそわれたけれど、一人できているのだから、やめました。悪い人じゃなさそうだったけど。

 ところで、博物館は外国人は300円ケニア人は150円の入場料なのですが、「私はケニア人です」と切符売り場でスワヒリ語でいったら150円で入れました。しかしハウスに電話をかけようとしたら、日本の電話とシステムがちがうので50セント(1シル=100セント)そんしました。

 ひるごはんは博物館の前の売店(やたいのやおや)からバナナをかって食べました。日本で45円だというので、「たいへん高い。まけろ」といって30円にねぎったところ、黒くなったのをよこすので「これではだめ、黄色いのだ」といったら45円になってしまいました。まだねぎり方の修行がたりません。

 博物館の前にへび動物園があったのでついでだから入ったらへびが10ぴきとワニが5ひきくらいいるだけで、まったく入ってそんしました。10シル150円の入場料はまるぞんのきぶん。
 ナイロビの小学校の生徒が見学にきていて、私が芝生でバナナをかじっているのを笑ってみているので、地図をひろげて「あなたたちの学校はどこにあるの」なんてきいていたら、むこうにいた人たちが、私が道がわからないので小学生にきいているのだと思っておまわりさんを呼んできました。あわてて道は十分わかっているからだいじょうぶだといったのですが、みんな親切だと思います。

 帰りは散歩しながらナイロビ大学やYMCAの校内をみてまわりました。YMCAにはプールがあって、外部者も安く泳げるというので、もう少したったら入ってこようと思います。
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2010/06/18
 YMCA(Young Men's Christian Association)とYWCAは、世界中どこでも若者向けの宿を経営していて、バックパッカーには助かります。タカ氏はナイロビ市内では、ずっとこのYMCAに泊まっていました。私もナイロビ滞在1週間目からはYWCAに移りました。門限などの規則がありましたが、安全で清潔で安い宿として最適でした。

<つづく>
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2010年06月19日


ぽかぽか春庭「ダウンタウン・キコンバ」
2010/06/19
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(12)ダウンタウン・キコンバ

1979年8月3日発行 アフリカ通信No.3つづき
 (8月2日)サファリに出ていたDoDoハウスの主エンドさんが帰ってきました。さすが日本人離れした風ぼうで、アフリカで十分通用する迫力です。40すぎにみえましたが、33才だというのでおどろきました。
 もうひとつ驚いたのは高校教師の山田さんは独身だと思っていたら、夫と子供を日本において、一人でアフリカに旅行にきたんだって。いろんな人がいます。あと、栄養士の木村さんと獣医のタマイさんと中学校国語教師のツブラヤさんと仲良くなりました。たくましい女たちです。この人たちに比べると私も弱いオトメという気がする。

 くつみがきにお金を恵んでもらいました。コーラをかったら中身が1シルでビンが2シルだというので、のんでからビンをかえしにいったら店はもうしまっていてビンがかえせませんでした。くつみがきが「明日かえせばいいよ」というので「いや、あしたではこまる。私はお金を持っていないのでビンをかえして2シルもらったら、それでバスに乗るのだ。ビンがかえせないなら歩いてかえる」といったら、彼らは「いや、歩いてはいけないぜひお金をもっていきなさい」といってききません。いまさらいや、お金はあるんだ、冗談だよ」と言ったらおこると思って1シルもらいました。バスは1シル30円でどこにでもでもいけます。
 ハウスの皆に「ケニア人にお金をめぐんでやった人はいるがめぐんでもらったのはあなたがはじめてだ」と言われました。

 午前中は隣の家の子供につるやくす玉をつくってやってあそびました。隣の家は黒人のお医者さんで、奥さんは二年前になくなっています。ドクターと二男三女とめしつかいが4人います。いちばん末っ子のジェリーンは5歳で保育所にいっているのですが、今は目が痛いので休んでいるのだそうです。つるをおしえてあげたらへたくそながら作りました。しかしむずかしい所は「てつだって」と言います。くす玉はてまがかかりましたが、とてもよろこんでくれました。

 おひるころササキさんの運転で町に出ました。ヒルトンホテルのコーヒーが100円でおかわり自由と聞いて飲みにいったのです。日本でヒルトンホテルなんていったら、きどっちゃって、ジーパンにずた袋さげてなんて姿で入れませんが、ここはだいじょうぶ。おひるのぶんにパンを店でかってもって入って、ここでたべていいかきいたら、お皿とナプキンを出してくれました。
 
 午後は、この前肉を食べに行った下町よりもっと奥にあるキコンバというアフリカ彫刻の職人たちの作業場へ見学に行きました。このへんになると白人や日本人は一人もいないし黒人たちはハダシでぼろを着ています。
 ナイロビで旅行会社をしている清水さんという人の話では、ピーターという男が案内に出てくるはずだということでしたが、はたして「こにちわ。あいがと」なんて言いながら男が出てきました。彼に「私は自分で彫刻を作ってみたいのだ」というと、作っているところにつれていってくれました。道具をかり、はんぱ木をもらって太陽の塔のようなデザインをみほんにして作ってみました。彼らはナイフやちょうなのようなのを駆使して実に立派なキリンやゾウを作り上げていきます。私のはピーターに手伝ってもらってもできそこないになりました。
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2010/06/19
 このときおもしろがって作り上げた自作の「太陽の塔まがいの木彫り」は、自分で作ったことをすっかり忘れていて、先日の水害の後始末で「今現在使っていない物は、必要ない物だから捨てる」という方針でジャンジャン捨てていたとき、「これは安物のおみやげだろう」と思って捨ててしまった。いかにもマガイ物っぽいヘンテコリンな木彫りだったので。タンザニアの民芸彫刻「マコンデ」、本物は現地で買っても高いです。

<つづく>
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2010年06月20日


ぽかぽか春庭「ボーマス・オブ・ケニア」
2010/06/20
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(13)ボーマス・オブ・ケニア

1979年8月3日(金)ケニア通信No3つづき
 私はちょうどおりづるで作ったモビールを持っていたので、ピーターにあげたのですが、あとで清水さんにきくと、やはり現金で300円くらいチップをあげた方がよかったみたい。彼らは300円あれば一日たべていけるのですって。

 清水さんはケニアの民族舞踊の踊り手を大分にあるサファリパークのアトラクションの踊り手として連れて行ったりしたのだそうです。彼らにカサを買ってあげたらもったいながって、雨がふっても、傘がぬれたらこまると言ってささなかったんですって。
 ナイロビにはボーマス・オブ・ケニアという民族舞踊の観光地があるのですが、清水さんはそこの人を知っているそうなのでつれていってもらうことにしました。
 ではまたね。1979/8/3

1979年8月8日付けアフリカ通信第4号(象の絵があるエアログラム)
 8月4日は午前中、ずっとせんたくして、午後、ボーマスオブケニアに行きました。ボーマスというのは、観光用のショウでケニアの民族舞踊をみせる所です。ちゃんと舞台があって踊り手たちは20人くらいで、ケニア国内のいろんな部族のおどりをみせます。この前行ったマサイ族の踊りは観光用とはいっても、自分たちのでみせるのでよかったけれど、ボーマスの舞台から演出は感じられても土のかおりは感じられませんでした。まあ、しかたないことだと思います。踊り手たちは都会人であり、祭りも結婚式も成人式もかんけいなくみせるために踊るのですから。

 しかし、おもしろかったのは、こちらで貿易の仕事をしている清水氏がつれていってくれた舞台裏。ふつうの観光客にはみられないウラの方をみることができました。踊り手たちは舞台の建物の裏手にアパートをたててそこに住み込んでくらしたり練習したりしているのです。いちおう振り付け・演出の先生がいるということなので会ってみたいと思います。
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2010/06/20
 ボーマス・オブ・ケニアというのは、「ケニアの家」という意味で、47あるケニアの各部族の民家のうち、代表的な家屋を展示している「民家園」です。その中で、各部族の民族舞踊をアレンジしたダンスショウを観光客に見せる施設があります。私は、当時は「舞踊人類学」「民族芸能学」を研究したいと思っていたのですが、私がケニアにいる間にやったことは、結局ただの観光旅行でした。あれもこれも挫折自滅つづきの我が人生の中の失敗の巻のひとつです。

私としては、ボーマスオブケニアを足がかりに、以下のような研究をしてみたかったのです。私ができなかった分野ですが、誰かしら研究している人はいるのだから、私はその成果を知って楽しめばよし。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/oldarc/kiyou/08/endo.pdf

<つづく>
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2010年06月22日


ぽかぽか春庭「駅おじさんのケニア旅行」
2010/06/22
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(14)駅おじさんのケニア旅行

1979年8月8日付けアフリカ通信第4号 つづき
 8月5日は公園を散歩したりして昼間をつぶして、夜、空港へ「駅おじさん」たちをむかえに行きました。ケニア人の友人のファザル氏が運転して送り迎えしてくれたので助かりました。飛行機が着くのは真夜中なので、くうこうから町のホテルまでタクシーをたのむと一万円もふんだくるという話です。どこにもクモ助はいますね。おじさんたちは、「シックスエイティホテル680Hotel」という日本人がよく利用するホテルに泊まりました。でもみちこは海外協力隊の事務所に泊まりました。

 8月6日は朝、おじさんのホテルへ行きました。おじさんといっしょに朝食を食べました。ベーコンエッグとトーストとコーヒーとジュース。スワヒリ語で話したら、ボーイたちがまわりに寄ってきました。ホテルに泊まる日本人は英語もしゃべらないので、めずらしかったのでしょう。それからおふろに入って、シャプーして出ました。おじさんとみちこはアンボセリ国立公園という動物のサファリパークにでかけました。
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2010/06/22
 駅おじさんというのは、国鉄駅長をしていたみちこの父親。私の母の弟です。JICAの海外青年協力隊のイベントとして、隊員の家族が赴任地を訪問するツアーがあり、みちこの両親は、2週間の予定でケニアツアーにやってきました。駅叔父さんもケニアに旅行するということを聞いて、私の父も「嫁入り前の娘が一人でアフリカに行く」というのを許可したのですから、おじさんに「ナイロビで安全に健全に生活している」とアピールして、日本の父に報告してもらわなければなりません。でも、私ときたら、水不足のDoDoハウスで、シャワーだけですませていたので、680ホテルのおじの部屋で、真っ先におふろを使わせてもらったり、自分では泊まることはないであろうホテルライフを楽しみました。

 英語が通じるホテルの中でわざわざスワヒリ語をしゃべってみせたのは、「現地のことばも話せるので、しっかり生活していけるだろう」と、父に報告して欲しかったからでしょう。駅おじさんは、「ナイロビには高層ビルもたくさん建っているし、ケニアは安全な国だ」というような話を父に伝えたと思います。

 みちこと駅おじさんが出かけたアンボセリ・ナショナルパークは、高峰キリマンジャロ山を望む動物保護区です。ケニアに行ったらキリマンジャロというのは、日本旅行するなら富士山を見ておこう、みたいな、ケニア旅行の定番です。私は9月にタカ氏とアンボセリ国立公園で動物ウォッチングをしたのですが、こちらはバックパッカーの貧乏旅行ですから、駅おじさんたちが出かけたサファリツァーとは大違い。でも、日本の父にはそんな違いはわかりませんから、駅おじさんも安全に快適に旅行してきたアンボセリナショナルパークなら、娘が同じようにアンボセリに出かけたと手紙にあっても心配しない、という具合。

 ツアーで野生動物見物などをしている限りでは、車を降りてライオンのそばにいくというようなマネをしないなら、安全に旅行できます。タレントの松島トモ子が、ケニアでライオンに近づきすぎて咬まれ、大けがをしたことがありました。無謀なマネをすれば危険があるのは、どんな観光旅行も同じ。

 私のケニア滞在中、二度スリの被害にあったほかは、たいした事故事件に出会わなかったのはほんとうに幸運でした。
 今、南アフリカへサッカー応援ツアーに出かけた日本人が、さっそくひったくりや置き引きなどの被害にあったというニュースが伝えられています。手元から荷物を離しても、だれもそれを持って行かない日本に暮らしていると、安全への意識が低下してしまうのは仕方のないことですが、日本を一歩離れたら、自分の身体と手荷物は自分で安全確保する意識を持たなければ、アブナイです。

<つづく>
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2010年06月23日


ぽかぽか春庭「スラム街キコンバ」
2010/06/23
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(15)スラム街キコンバ散歩

1979年8月8日付けアフリカ通信第4号つづき
 8月7日は、キコンバに行きました。8月3日に行ったらおもしろかったので、皆に話したら、獣医さんのタマイさんがいっしょに行きたいというので、また行ったのです。途中、アフリカ人の食堂でコーラとサモサというあげぎょうざを食べていたら、ピーターが出てきました。ピーターは日本人の案内をしておこずかいをかせいで食べている男です。脇野さんという人の書いた本の中にピーターの写真とエピソードが書いてあるのでみせてやったら、喜んで町中の人に「これはおれだ、日本の本に紹介されたのだ」とじまんして歩いていました。この前はチップもやらず、土産物も買わなかったので、今度はみなで出し合って20シルピーターにあげました。

 8月8日は、DoDoハウスこと旅行社のエンドさんの家を出て、YWCAに移りました。エンドさんの家は泊まるだけなら一泊15シル450円で安いのですが、長くいると食費や電気代ガソリン代などが加算されてけっこう割高になることがわかったのです。私は結局7日間で270シル、8100円払いました。一日1200円ですからホテルよりずっと安いですが、やはり人様の家ですから、いろいろ気兼ねがあったり、水が出ないのでせんたくも遠慮したりでおもったより不便でした。

 YWCAはシングル部屋は一泊47シル1400円。部屋の中の洗面所、お湯が出るのでせんたくやシャンプーができます。町に近いので歩いてポストオフィスへ行ったり買い物ができます。エンドハウスからバスで町に出るのもおもしろかったですが、一度出てしまうとおっくうになって、いったりきたりできませんが、YWCAはちょっと気が向いたときに町へ行けます。女ばかりの宿ですが、ほとんどが黒人女性の学生です。たまに白人やアジア人(インド人)がいます。タマイさんといっしょに泊まっているので安心です。

 ナイロビには学生下宿や寮がないので、学生たちは高いのを覚悟でYWCAに泊まっているのです。安いアパートは治安が悪く、けっきょくYWCAは学校にも町にも近くて、比較的安いのです。朝食付きですが、昼食と夕食は別料金です。月極でかりると三食付きで4万5千円と、わりやすになります。
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2010/06/23
 ナイロビにいる長期滞在のバックパッカーたちは、何かと情報交換をし合い、この後の帰国まで仲良くさせてもらいました。このときキコンバ出かけた仲間たちといっしょの写真、アルバムの7ページ目に貼ってあります。一番の仲良しは獣医のタマイさん。アフリカの動物と共に暮らしたい、という希望を持っている元気な女性でした。のちにジャイカ職員になるカメヤマ君。写真にタカ氏が写っていないので、あれ?いっしょに行ったはずなのに、と思ったら、タカ氏はカメラを構えて私たちを撮影していたのでした。自分自身は撮られたがらず、「プロのカメラマンは、自分を撮影したりしないのです」とか言っていた。へぇ、そういうものかと思っていたら、その後、知り合いになったプロのカメラマンのナカノさんは、やたらに自分も写りたがる人でした。
 タカ氏といっしょに写っている写真は、アフリカアルバムの中でも3枚だけです。

 ナイロビのキコンバは、現在でもスラム街として残っているようですが、都市部の開発が進むと、いずれ取り壊される運命にあるのかもしれません。2009年にケニアへ行った日本人のリポートに、現在のキコンバの写真がありました。この日本人は、ケニア在住40年の人といっしょに行ったということですが、バックパッカー志望者に告ぐ。けっして一人ではキコンバに足を踏み入れないこと。 
http://d.hatena.ne.jp/Malie/20091206/1260108373

<つづく>
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2010年06月25日


ぽかぽか春庭「YWCA」
2010/06/25
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(16)YWCA

1979年8月8日付けアフリカ通信第4号つづき
 (引っ越ししたYWCAで)私は一日中せんたくをしていました。雨がふったので、へやの中にロープをはってほしました。乾季ときいていたので、まさか雨がふるとは思いませんでした。(雨がふると)たいへん寒くなります。
 YWCAの女性たちはなかなかおしゃれで、いろんな服を持っているし、ちぢれた髪を様々に編んでニュールックをきそっています。しかし一番のあこがれはまっすぐのびた髪なのです。

 町をぶらついているとニューモードの人からぼろぼろの服をきたこじきまで千差万別です。しかし若い女性と、仕事上いい服をきることが必要なビジネスマン以外は、皆やぶれた服を平気で着ています。エンドさんのいえのとなりの家は、黒人の医者ですが、こどもたちはやはり穴のあいたセーターをきて、学校へいく以外はハダシです。

 8月8日は、別に何もしないで、町のみやげ物をひやかしたりしてすごしました。ねぎるのは一種のゲームで、わりにおもしろいし、どうせ、いまのところ何も買わないのです。
 夕ご飯をいかに安く食べようか考えながら町を歩いていたら、ケンタッキーフライドチキンの店がありました。いくらだろう、など考えていたら、黒人のおニイさんがビールをのみにいこうというのです。しかしこちらは一人ではキケンと思うのでやめました。タダより高いものはないというから、気をつけよう甘いことばと暗い道の精神です。

 今のところ盗まれていませんが、いっしょのひこうきできた日本人でパスポートと有り金いっさい盗まれた人がいます。パスポート再請求してトラベラーズチェックの盗難届を出して再発行されるまで日本大使がお金をかしてくれるのだそうです。こちらの人は鍵がかかっていないものは所有権放棄と思うのだそうです。

しかし、私がいままで会った黒人たちは、みんな気のいい人に思えました。かたことでもスワヒリ語を話すと喜んで、すぐコーラをおごるとかビールをおごるから、と言い出します。「私は自分の分は払う」というと、いいや、ここはケニアでおまえはお客だから、おれたちがはらう、おれたちが日本に行ったら、ごちそうしてくれ、と言うのです。しかし彼らに日本へ来る機会があるとは思えないので、えんりょしています。ではまたね。
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2010/06/25
 1979年のレートでは1シル約30円。2010年のレートは1シル約1.1円。ドルは1979年で1$=約200円、2010年1$=約90円ですから、日本円が高くなった以上にケニア通貨(ケニアシリング)は大きく変動したことがわかります。

 ケニアの国情。アフリカの他の国々と同じように、一国の中にさまざまな民族が暮らしています。ケニアの最大部族は農耕民のキクユ族で、初代大統領もキクユ族出身のケニヤッタでした。1979年1980年当時は、少数部族出身のモイが第二代大統領でしたから、「民族融和」の気風が国にありました。しかし、最近では再び、優遇されているキクユ族と少数部族の間で、対立が起きるようになっています。

 1979年当時も、政府の要職はキクユ族が占めており、キクユ族以外の部族は農耕や牧畜で生活する人が大部分でした。たとえばマサイ族が現金収入を得ようとしたら、金持ちの家の警備員(アスカリ)に雇われるくらいしか仕事がなかった。ルオ族、ソマリ族、メル族など、他部族も同じようなものでした。オバマ米大統領の父親は、ケニアのルオ族でした。最大部族のキクユ族に対立する第二の部族です。優秀であったろうオバマ父は、キクユ族ではないため、ケニアに残っても将来が開ける保障はなかった。そのため、活路を求めてアメリカへ留学したのです。

ケニアの民族一覧
http://wee.kir.jp/kenya/kny_people.html

<つづく>
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2010年06月26日


ぽかぽか春庭「ホシノスクール」
2010/06/26
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(17)ホシノスクール

1979年8月11日発行 アフリカ通信5号
 8月9日は、星野学校の卒業式に出てみました。この前ちょっと星野学校へ立ち寄った時に、私が群馬の出身であるといったら、星野さんが沼田(出身)なもんで喜んで、お茶屋の石坂園はしんせきだとか、栃赤城はどうだとか、今のケニア政府についてとか、いろいろ話してくれました。

 私が敬語を駆使し「御著書の『アフリカの指導者』を感銘深く拝読させていただきました」なんてぺらぺら調子よくしゃべるので、いっしょに行った獣医のタマイ女史もびっくりしていました。私も三年間、中学校のガキどもに敬語の用い方なんてシンキくさいことをやってムダではなかった。今日はタマイさんは用事があるので一人でいきました。

 三時に(ホシノ・スクールに)ついたら、はじまるのが五時からだというので、すぐ近くにあるフェアビューホテルでヒマつぶしをしました。ここのトイレと680ホテルはただなのです。ヒルトンホテルは25セント(10円)ほどとります。10円はらうのがおしいわけじゃないけれど、タダのほうが日本人にむいているから、つい遠回りしても680ホテルに行ったりします。

 コーラは2シル60円、ビールは5シル150円です。60円でファンタを買って、庭のテーブルで休もうと思っていたら入り口近くのテーブルにすわっていたポーターが話しかけてきました。旅行客の荷物を運ぶ仕事です。英語とスワヒリ語チャンポンでくらしむきの話やら家族の話やらしました。こどもにはいい教育をうけさせたいそうです。「彼らはニュージェネレーションだ」という表現で、ポーターまでが次代のケニアに期待を寄せているようです。

 5時から卒業式がはじまって、ケニアのだれかえらそうな人が生徒に修了証みたいのを渡しました。ケニア人や日本人が、わりにたくさんあつまりました。メイドが飲みものは何がいいかきくのでビールにしました。それからスワヒリ語で日本の劇をやりました。ことばは半分くらいしかわかりませんでしたけど、わりとおもしろかったし、ビールの2本めを飲んで、オードブルやサモサをおなかいっぱい食べて、夕食代をうかせることができてとてもよかった?

 帰りは7時で、もう暗いので、バスはちょっと恐いなと思っていたら、(星野学校を出ようとする)白人女性がいたから、乗せてくれとたのみました。いいというのでYWCAまでおくってもらいました。彼女はカジノで働いていて、イギリス系だが、おじいさんは中国人だそうです。
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2010/06/26
 星野学校は、ナイロビにあるスワヒリ語学校です。設立者は星野芳樹(1909~1992)。星野さんは私と話したとき、「うちの出身は群馬の沼田」と言っていたので、同郷人と思っていたら、実は本人は横浜生まれで、静岡で暮らした人でした。祖父が沼田の豪農出身で、横浜に出て生糸商で成功を収めた。父親の星野光多の妹星野あいは、津田塾が大学に昇格したあとの初代学長。芳樹の兄は、満州国総裁をつとめた星野直樹。祖父星野宗七の妹の子の生方敏郎が東京朝日などで記者をしたジャーナリストだったこともあって、星野芳樹は、兄のような官僚、政治家、実業家という人生ではなく、ジャーナリストとして前半生をすごしました。静岡新聞主幹を辞めたあとアフリカへ渡り、日本ケニア文化交流協会を設立しました。スワヒリ語を学びたい若者のための学校を建て、アフリカ日本との友好のために尽くした後半生でした。

 ナイロビ市内にあるスワヒリ語学校(通称ホシノ・スクール)は1975年設立。ケニアでは上流階級の多くはイギリスに留学し、クイーンズ・イングリッシュを話します。スワヒリ語と英語が公用語といっても、スワヒリ語は日常生活には必要ですが、中学校以上の教育を受けたり、政府の仕事や貿易をするには英語が必要。日本の若者がスワヒリ語を習う、という場合、特別な関心や心意気を持った人が多く、面白い人たちが留学していました。

 いくら英語が通じるといっても、日本で仕事をするジャーナリストやビジネスマンには、日本語を習って欲しいし、ケニアで仕事をしようというなら、英語のほかにスワヒリ語も覚えて欲しい、というのが、私の願いです。

 ぺらぺらになることはなくとも、ある地域に深くかかわろうとするなら、相手のことばを理解しようという姿勢をもっていたいです。私のスワヒリ語は観光客の片言程度で終わってしまいましたが、英語の通じない村に滞在したときなど、キクユ族の村ならキクユ語を、ソマリ族の村ならソマリ語を少しでも話そうとする姿勢を見せることができたから、楽しい日々をすごせたのだと信じています。

<つづく>
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2010/06/27
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>ケニアからの便り(18)ホームヴィジット

1979年8月11日発行 アフリカ通信5号つづき
 8月10日は、タマイさんにつきあって、町のあちこちへ行きました。
 YWCAは、三日間運良く予約もしないのにシングル部屋がとれて幸運でしたが、今夜はもうシングルはないと言われて、ドミトリィという6人の相部屋になってしまいました。シングルは47シル1400円で、相部屋は35シル1000円ほどです。町の高級ホテルのようなぐあいにはいきませんが、海外協力隊の人の話ではユースホステルは安いけれど町から遠いし、男も女も泊まれるからよくない、YWCAは、女だけしか泊まれないし町に近いから一番安全だ、というのです。おふろとトイレは共同です。

 タマイさんのあとをついて、下町のグローブホテルというのにも行って見ました。下町は一人ではぜったいに行ってはいけない、と言われているので、同行者があるときは、用事があろうとなかろうと見に行くことにしています。

 今日は金曜で、イスラム教の聖日なので、モスクにたくさんの人々があつまっていました。ナイロビはキリスト教とイスラム教とシーク教があって、ヒンズー教は印度系の人が信じているし、いろんな宗派があります。仏教寺院はありません。
 それから、イクバルホテルという日本人のヒッピーが利用するホテルでおひるを食べました。ハンドバックを必死にかかえこんでサモサとチャパティ(うどん粉のジリ焼き)とファンタで90円のおひるごはん。タマイさんと「貧しいなあ」と言って笑いあいました。

 夜はタマイさんと二人で、私たちに日本でスワヒリ語を教えてくれたカヒンディさんの家へ行きました。カヒンディさんは、電話局の教育担当官。奥さんは郵便局につとめているパートです。ケニアとしてはいい暮らしの方ですが、それでも家に行ってみると日本の水準からは考えられない質素なくらしです。子供たちは医者のうちと同じく、やぶれセーターにハダシでとび回っているし、部屋もわりにせまいほうです。

 おみやげに子供たち4人に一枚ずつハンカチと、作ったくす玉をあげて、花火で遊びました。花火を見る機会なんてないらしくて、たいへん喜び、寄ってきた近所の子に自まんしていました。しかし、中国のちょうちんが出る花火では火をつける方向とひもをつるす方向をまちがえて失敗しました。歌をうたったりしてすごして、ライスとじゃがいもと肉と豆の煮物で夕ご飯をたべて、写真をとっておわりにしました。車で送ってもらいました。

 車といえば、交通の方法が日本と同じで左側通行のせいか、町をゆく車の半分はダットサンやトヨタなど日本車です。しかし、修理代が高いのか、事故が多いのかまともな車は少なく、必ずどこかをぶっつけてへこましたままサビらかせて走っています。ナイロビの道は広くて並木なんかあっていいのですが、10分も走ると穴だらけのデコボコ道になって、私には運転できそうにありません。
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2010/06/27
 電話局の教育担当官だったカヒンディさん、お世話になったのに、今は文通も途絶えてしまいました。ハダシで飛び回っていた子供たちも40代30代になって、ケニアを支える人材になっていると思います。

 私は国際運転免許証を持っていったのですが、結局ケニアで一度も運転をしたことはありませんでした。
 6月に放映されたNHKの『プレミアム8アフリカ紀行「第1回 東アフリカ トラック街道を行く」』という番組を見ました。東アフリカの運輸を担っている大動脈「トラック街道」をケニアからルワンダまで1500キロ旅する記録です。トラック運転手53歳のサリム・サイード・アリさんが、鉄のコイル30トンを積んでケニアのモンバサからウガンダのカンパラまで5日間かけて運ぶのですが、幹線道路でも穴ぼこだらけのなのは、30年前と変わっていませんでした。
 東アフリカの景色、なつかしかったです。

 グローブホテルは、タマイさんのスワヒリ語の師匠である西江雅之さんの当時の定宿。タマイさんは三鷹にあるアジアアフリカ学院で西江さんの教え子でした。このとき、西江さんは奥地にフィールドワークに行っていて、会えませんでした。このときから数年後、娘が2歳になったとき入学した大学で、学部で2年、大学院で2年、合計4年間西江さんの授業を履修しました。言語人類学者・文化人類学者として西江さんの研究は多岐にわたっており、退官後もお元気なようすをうれしく思っています。

<つづく>
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2010年06月28日


ぽかぽか春庭「ナイバシャ湖」
2010/06/28
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>ケニアからの便り(19)ナイバシャ湖

1979年8月11日発行 アフリカ通信5号つづき
 8月11日は、ナイバシャ湖にドライブに行きました。リフトバレーを通ってナイロビから二時間くらいの所です。ナクル湖はフラミンゴの大群で有名ですが、今は鳥があまりいない季節で、フラミンゴもちらばっているとのことです。ナイバシャ湖もあまり鳥が多くなくて、それでもペリカンが空をとんだり魚をとったり、名もしれないツルのような鳥が立っているのがみえました。写真をとったけど、逆光だったのでうまくとれたかどうかわかりません。魚をとっている漁師がいたので写真をとってもいいか聞いてシャッターを押したらら、5シル150円取られました。

 夕方6時ごろナイロビにもどりました。YWCAは、土曜日のこととて、いっぱいなので、ついにホテルへいきました。町からちょっとはなれた博物館の近くにある、サファリランドホテルに部屋がとれました。庭をあるいているとけっこう日本人に会いました。町の中心部のヒルトンや680ホテルに比べ、ビジネスや研究できている長期滞在者が多いようです。「もう一人(日本人の)女の人が泊まっていますよ」と、教えてもらったけど、東大の学生とかいうので、おそれおおいから会いに行きませんでした。

 サファリランドホテルは、朝食付きで110シル3300円です。朝食がYWCAよりずっといいというのがとりえで、私にとってはとにかくやすいことがありがたい。ずいぶんけちって生活してるつもりですが、7月31日~8月11日の12日間で、千シル三万円がおわってしまいました。

 今、滞在させてくれそうな村をさがしているのです。村に入れば、一週間で砂糖10キロくらいのお礼で暮らせるそうです。そのかわりとうもろこしばかりの食事と水なし紙なし、蚊ありということになるでしょう。
 10日の晩訪問したカヒンディ氏が自分の母親とおじ夫婦の写真を見せてくれましたけど、そこにでもたのんでみようかと思います。

 私も何をすきこのんで文明から遠い村に入りたいのかわかりませんけど、大きな事いえば、文化の原点を知るために、一度都会の文化からはなれてみるのもいいことだと思うのです。

 ナイロビには文化人類学を志す学生がたくさん来ています。YMCAでも、オランダから女性グループできているという人類学の学生に会いました。社会組織と経済構造を知りたいそうですが、スワヒリ語もぜんぜん知らないのです。それでスワヒリ語の学校を教えてやりました。日本人ならまずことばの問題でこまるから、少しは準備できているのに、なまじ英語がしゃべれると、英語は世界共通のような気になっちゃうのですね。

 オランダの学生たちに、「私はアフリカ伝統芸能の研究者である」と自己紹介しました。本当は今のところ研究らしいことなんて一つもしてなくて、普通の観光客と同じなんですけれど。最初から観光と思って来た人たちはサファリに行ったり海岸に行ったり楽しく過ごしているのですが、獣医のタマイさんと私は、自分の目的に合った場所が見つかるまで、お金をつかうまいとして必死です。
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2010/06/28
 家族には、「文化人類学、芸能人類学のフィールドワークとしてケニア舞踊を研究に行く」という名目でケニア行きを許可してもらったので、気持ちとしては「観光ではなく研究」をしたいという意識はあったのです。しかし、研究というほどのことは何もできず、ボーマスオブケニアというアフリカダンスショウを見せている施設でダンス練習をしたくらいで、結局は観光旅行で終わりました。タマイさんは、動物孤児院やサファリパークで獣医研修をしたいと望み、アプローチしていました。自分のやりたいことを探し、身を置く場所を探し続ける、まさに青春の彷徨の時代でした。

<つづく>
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2010年06月29日


ぽかぽか春庭「赤道の日々」
2010/06/29
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>ケニアからの便り(20)赤道の日々

1979年8月11日発行 アフリカ通信5号つづき
 同封の写真はナイロビ動物孤児院でとったものです。私のフィルムはだめになってしまったのですが、車の運転をしてくれた河合夫妻のカメラに入っていた分はたすかりました。花がきれいでしょう。もちろん私もきれいですが。ハハハ。

 明日の夜、山崎さんが(日本からケニアへ)来ると思うので相談がまとまれば、モンバサ海岸へ行ってみようかと思います。おまつりがあっておどりがみられると聞いたのですが、いつだかまだ確認していません。
 駅おじさんたちはたぶん今日か明日帰るのだと思います。今はカプサベットにみちこと行っているので、会っていません。ではまたね。
8月11日、ナイロビ サファリランドホテルにて 1979年8月11日
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2010/6/29
 これでアフリカ通信第5号までおわり。最初の10日間を夢中ですごして、そろそろ自分がケニアに来た目的をはっきりさせるべきだ、とあせってきたことがわかります。
 このあと、8月14日付け第6号には、2週間のケニア旅行を終えて日本へ帰国する叔父夫妻を空港へ見送りに行ったことや、みちこの家へ泊まりにいくことにしたことなどが綴られています。

 このときナイロビから日本へ帰国した叔父夫妻のうち、みちこの母親が亡くなったと連絡があり、6月28日に通夜、今日29日は葬儀でした。今お焼香から帰ってきたところ。叔父夫妻のケニアの日々、短くはあったけれど娘みちこがアフリカの大地で活躍する様子を見たことは、一生の思い出になったことと思います。

 以下、第30号までのアフリカ通信、一生に一度の「ロングバケーション」が書き続けられています。
 7~30号まで、タカ氏とタンザニア国境やアンボセリへ行ったこと、大晦日と新年を、ケニア東海岸のラム島で、タカ氏、みちこといっしょに過ごしたことなどが綴られています。1980年には、熱中時代スペシャル篇のケニアロケに遭遇してエキストラ出演(浅野ゆう子の留学生仲間という設定)したり、ボイという地方で日食を見たり、アフリカ通信全部書き写すと膨大な量なので、今回は第5号まで、30号まで断続的に記録していこうと思います。

 結局最初の意気込みとは異なって、何の「研究」もできずに私のロングバケーションは、ただの観光旅行で終わりましたが、この1年があったから、失敗と挫折と不遇つづきの私の人生でも、いじけずに過ごせたのだろうと思います。おっと、いじけずに過ごしたというのはウソ。いつもいじけて、ひがみねたみそねみの毎日であったことは事実ですが、悲惨な貧乏暮らしでもくじけずにいられたのは、水道も電気もないケニアの村で、笑って生きる人々の中に混じって暮らした日々があったからこそ。
 赤道直下のサバンナでのロングバケーション。アウトオブアフリカ、アフリカを出てからもあの太陽の光に照らされた日々を思い出すと、生きる元気が出てきます。

<アフリカ通信第一部おわり>

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