2011/05/13
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(1)文化人類学志望
5月11日は、東日本大震災から2ヶ月目なので、宮城県アンテナショップは平日ながら5月7日土曜日と同じくらいに混んでいました。八重洲にある福島県のアンテナショップも、今月は売上げが平年の4月の10倍に達したという記事を読みました。風評被害のニュースなどを聞くにつけ「私に応援できることはまず買うことくらい」と思って、みなが買い物をしているのでしょう。私も宮城ふるさとプラザで「しそ巻くるみ揚30コ入り」というのを買いました。
雨の中、都バスで帰宅。運転手さんは出発時に「本日雨のため道路混み合っております。ただいま予定出発時間より、3分遅れで発車しました、お急ぎのところ、申し訳ありません」と発車。途中、「ただ今、2時45分になりました。あと1分で2時46分です」と、時間のみを車内にアナウンスしました。それを聞いて、「あ、地震発生の時間だったな」と気づき、黙とうしました。
大回りのカーブでは「これよりドヨヨ~ンとカーブします」駅に近づいて駅構内に入るターンでは「ここは忙しくカーブします」。通過駅でのアナウンス「池袋駅を3分遅れで出発しましたが、ただいまは1分遅れでの発車となりました。わたくし2分間、がんばりました」と、予定発車時刻に追いついてきたことをアナウンス。愉快な運転手さんでした。
信号の手前では「悲しいお知らせです。赤信号のために止まります」と放送する運転手さんのワンマン運転、日常を取り戻そうとする人々に、笑いや歌は買い物にも増して人々を明るくするのではないかと思います。
空気のようにあたりまえだった日常生活が、とても貴重なひとりひとりに大切なものだと気づかせてくれた2時46分でもありました。
自分の身の回りに常に存在するけれど、その存在を毎日意識することもなくその中にいる。しかし、それがなければ生きて行くことは不可能なもの、それは空気。
夫婦はよく「空気のようなもの」と例えられます。あるいは「水のようなもの」。生きて行くには不可欠でしかし、特に味も匂いもない。高い水も売ってはいるが、気に留めなければ東京の水道水でも十分。(放射能の計測値がもっと高くなれば東京の水も飲めなくなるかも知れないけれど)しかし、沙漠にあってそれがなければ死ぬかも知れぬ。夫婦というのも斯くの如し。とか。
さて、そういう「毎日いっしょ」の空気や水に比べると、うちの亭主は「法事のあとのお斎きの食事についてくるお茶」くらいのものか。だいたい、姑といっしょに墓参りに行くときくらいしか、いっしょに食事していないし。
まあ、そんな縁の薄い夫であっても、法律上は夫として存在します。
妻の出稼ぎ給料から娘の奨学金まで会社の運転資金につぎ込んでも、万年赤字から脱出しない会社を「趣味」で経営し続けて、ウン十年。
辛抱一途の我慢強い妻がついていなかったら、とっくにホームレスの境涯になっているだろう夫は、「この先、会社たたむことがあったら、タイの山奥へ行ってタイの子ども達のために学校つくって暮らす。日本の年金があれば、物価の安いタイの山奥なら十分に生活していける」と、この数年間、事務所近くの大学生涯教育コースでタイ語を習い続けています。赤字赤字といい続けても、タイ語の月謝やクラスメートとのコンパに使う金はひねり出せるらしい。
「人は生涯学び続けるべし」というのが、タカ氏の自論のひとつです。であるゆえに、私が娘を産んで2年目に「もう一度大学に入る」と言ったときも、大学4年生のときに息子が生まれて「このままだと就職できそうもないから、大学院へ行く」と言ったときも、世間の夫のように「結婚後に大学行ったり、大学院へ行ったりして何の意味があるんだ」などと絶対に言わない人でした。もっとも、私が大学に2度目に入学することにしたのも、大学院へ行くことにしたのも、乳児かかえて勤め口も見つからなかったので、奨学金を申し込み、そのお金で食べていくためでした。
タカ氏が大学を卒業するとき、単位が足りず、先生との交渉でいくつかの単位をおまけで出してもらった話は聞いていました。また、教職科目のいくつかの単位が足りなかったために、別の大学の通信教育部に再入学して足りない単位を補い、教員免許をとった、という話も聞いていました。姑の兄と姉は二人とも郷里で教員をしていた人だったので、教職免許をとることは、「大学学費を出してもらう条件」だったようで、当時は教職を目指さない人も割合気軽に教員免許を取っていました。今より教員免許取得の単位数などがゆるかったと思います。私の時代、教育実習は2週間でしたが、娘は3週間だったし。
私がママさん学生生活3年目になったころ、息子が生まれる前の年、私の大学生活に対抗して、生涯教育受講のため、タカ氏は放送大学に入学しました。
地震で本棚が倒れ、どっと部屋に溢れたもろもろの本や紙類の山の中、タカ氏が放送大学に提出したレポートが数部出てきました。本人はこれを書いたこともまったく忘れているだろうと思います。
その中のひとつの科目、文化人類学。
文化人類学を学びたかった、というのが、「挫折人生」を歩んできた私とタカ氏の共通点のひとつです。
<つづく>
05:31 コメント(4) ページのトップへ
2011年05月14日
ぽかぽか春庭「モゴール族探検記を読んで」
2011/05/14
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(2)『モゴール族探検記を読んで』
「文化人類学に関連する書籍を読んで、要約と書評を書け」という放送大学レポート課題に対して、タカ氏は『モゴール族探検記』を選びました。以下、無断で行う「タカ氏35歳のレポート」書き写しです。
無断で書き写しを行うのは、著作権の問題で言えばタカ氏から非難されてもいたしかたない行為です。でもね、糟糠の妻がいなければ野垂れ死にしていたであろうタカ氏に、何の見返りも要求しなかった妻が、これくらいの著作権違反をしたところで、慰謝料のかけらにもなりはしないワ、フンッ。つうか、本人、これを書いたことなどまったく忘れているし。
タカ氏は、地震のあとの片付けに際し、「タカ氏撮影の写真ネガ以外は捨ててよい」と言ったのだから、このレポートの所有権(著作権)を放棄したものと解釈します。黙って捨ててもいいのだけれど、妻がこれを書き写しておこうというのは、一種ボランティア精神。
タカ氏35歳のころって、私は2番目の大学の3年生在学中で、娘とふたり、奨学金で細々食べていたのでした。タカ氏がこのレポートを放送大学に送付した夏1987年、私は娘を保育園に預けて夫の仕事を手伝いに通いましたが、会社は赤字続き。お金も尽き果て、私には苦しくつらい年だったけれど、夫は以下のような読書感想文を書きつつ、赤字会社を続けていました。
以下、タカ氏35歳の「読書レポート」、妻の手によって、勝手に公開。
============
(1987年夏執筆)
1)著者:梅棹忠男
表題:モゴール族探検記
出版社:岩波書店(岩波新書)
出版年:1956年
2)1955年に行われた京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊人類学班の記録。ジンギスカンの樹立したモゴール帝国は各地に勢力をのばしたが、その末裔と思われるモンゴル族(モゴール族)が、アフガニスタンの「奥地」にいるという。そのモゴール族を探し出し風習や言語を調査しようとした。浮浪の末に彼らと会うことができ、モンゴル語の古い形などを調べることができた、というもの。
これは岩波新書の1冊であり、学術報告書ではなく、たどりつくまでの苦労や試行錯誤などの様子がわかりやすい文章で書かれている。はじめてこの本を読んだのは、たしか高校生の頃だったと思う。今回、レポートを書くにあたって、十数年ぶりに読み直しをした。
3)a.まずこの調査の行われたのが、30年前の1955年だということ。わずか30年前でも、どこの国にどんな民族がいて、何語を話すかなどということがわかっていなかったというのは驚きであった。少なくともアフガニスタン政府にはわかりそうなものだが、そうでもなかったらしい。
b.人類学の調査の仕方がわかってとてもおもしろかった。当時彼は35歳、いまの私と同じである。あちこち飛び回れることがうらやましい。この本を含めて、こういう本はとにかく楽しい。知らない人と会えて、知らない文化を知って、、、、。そしてそれぞれ違うけれど、どちらかが優れていると言うことではない、という人類学の考え方は、すばらしいと思う。(続く)
=============
タカ氏、世界の「奥地」に入り込んで写真を撮る「フリージャーナリスト」を目指していたのです。地方新聞の記者を退職し、ケニア・ナイロビにいたとき、妙な女と出くわし、人生の予定表にはなかった結婚ということになったタカ氏。35歳のときは妻子を捨てて放浪の旅に出るということもできず、家庭人として落ち着くこともできず、さぞかし「あちこち飛び回れることがうらやましい」という心境だったろうと思います。
<つづく>
00:47 コメント(0) ページのトップへ
2011年05月15日
ぽかぽか春庭「ケニアのトルカナ湖で」
2011/05/15
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(3)ケニアのトルカナ湖で
タカ氏レポートつづき
============
4)a.この表題の「--探検記」というのが気にかかる。1987年という現在のみかたで30年前の本を批判するのは不適当だが、現在でも人に会うときに「探検」などというのだろうか。出かける側の人間にとってはどんなに「奥地」であっても、そこで生活している人にとっては「奥地」でもなんでもないのだから。
b. 3)b.にも関連するが、たしかにこのテの本はたいへんにおもしろい。しかしいざ自分でフィールドワークをしようとした場合、むずかしさを感じる。テキストをたくさん読んだとしても、いい読者にはなり得ても、そこまでだろうと思う。○○大学の調査隊に参加できるわけでなし。
それに「調査」される側にとっては実は迷惑かも知れないと思う。モゴール語を調べることが、人類学にとって貴重な成果だとしても、実際に住んでいる人にとっては、大事なのは今の生活であって本になったモゴール語の論文ではないのだから。
5)その他
この本を読み返しながら、数年前に旅に行ったときのことを思いだした。東アフリカ、ケニヤ共和国の北西部にトルカナ湖という湖がある。この近くに住む人々のことをトルカナ族というが、そこに3週間いたことがある。どんなとこか知らずに、たまたま行ってみたら、夕日がとてもきれいで長居をしてしまった。
そこで話されているのはトルカナ語で--結局あいさつがエジョカで、コップのことがオコップという2語しか覚えられなかったが--もちろんこちらはトルカナ語はわからない。それでも中にはケニヤの共通語であるスワヒリ語や英語を話す人もいて、首都ナイロビ市で少しだけ覚えたスワヒリ語で何とか生活もできた。
女の人はふだんは腰から足までの長い腰巻きだけで上半身ははだかの人が多かった。男の人も短パンのような感じで、ほとんどはだか。それではというので、私も海パン1枚で待ちのメインストリート--といっても店が数軒あるだけ--を歩いていて、おこられた。よその人間ははだかで歩くなという。
もう少し北にいくと、スーダンで、ここらあたりはセミ・デザートだという。低い草木は多少あるが、下は砂地。もちろん暑くてはだしでは私は歩けないが、彼らにとっては何ともない。手元の温度計ではかると、60℃にもなった。しかし家の中に入るとヒンヤリとした感じさえする。外からみると、まるで弥生時代の家のようにも見えるが--家は女性が回りから草木を集めてきて3日で作るという--都会のビルの中のクーラーなどおよびもつかない。生活の知恵を感じた。
たとえば、はだかはよくない、人は服をきるべきだ、家が粗末だ--というようにみてしまえば、トルカナもあまりよくないところに思えるが、私はそうは思わない。砂漠ではたぶん、だぶだぶの服かはだかが生活しやすいのだろうと思うし、広さを別にすれば、住みにくい家ではない。ケニヤの中でも貧しい地域であることは事実だし、どうやって生活を豊かにするかという問題はあるが、、、、。新聞や本で知ることのできないいい体験となった。(タカ氏レポートおわり)
===========
<つづく>
07:04 コメント(1) ページのトップへ
2011年05月17日
ぽかぽか春庭「トルカナ湖の夕日」
2011/05/17
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>(4)トルカナ湖の夕日
タカ氏はトルカナ湖のほとりで現地の人といっしょに生活し、撮った写真はガイドブックのページに採用されました。そのままひとりで世界を飛び回っていたら、よい写真の一枚も撮れて、「元新聞記者」から「フォトジャーナリスト」になる夢を追い続けることができたかもしれません。
しかし、このレポートを書いた頃35歳のタカ氏は、チェンマイ奥地やマニラなどへ一人で出かけて行ったあと、夢と妻子を秤にかけて、結局「海外フォトジャーナリストとして生きて行く」という生涯の夢を完全に諦めたところだったと思います。
同じ35歳なのに、梅棹忠夫は大学探検隊の一員として人類学研究に赴き、世界の秘境でフィールドワークを行う身分。タカ氏は妻子を食わせていく当てもなく、東京に閉じ込められている。家庭に落ち着くこともできず、父であり夫である自分など認める気にもならない。トルカナ湖ですごした日々を思い返し、家から逃げ出せるものなら逃げ出したいと思って、日々鬱々と過ごしていたことだろうと思います。
私はと言えば、夫の鬱々などに関わっていることはできませんでした。とにかく幼い娘を食べさせていかなければならない。生まれてくる子のおむつも用意しなければならない。明日のあてはまったくない中、今日を生き抜かなければならなかった。
細々かつかつにでも母子が暮らしていける目途がついたのは、1994年、単身赴任という条件を飲んで、娘息子を実家に預けて中国に出稼ぎに行ってから。夫は、私が必死で稼いだ出稼ぎ賃金も会社の運転資金に充ててしまったのですが、なんとか大学講師の職を確保することができました。
子どもがふたりとも成人した今になってみれば、一人で悪戦苦闘した日々も、つらいことばかりではなかったと思い返せます。子どもの成長は、人生のなによりの喜びです。
しかし、それにしてもタカ氏は、私が明日の食べ物がないことに思い悩み、残金百円しかない通帳をながめていたときに、「モゴール族探検記を読んで」というレポートを書いて送っていたのだなあ。
「たまたま行ったトルカナ湖の、夕日がきれいなので長居してしまった」と、ケニアの思い出を書いたタカ氏。この先、会社をたたんだら、タイへ行きたいというタカ氏。ええ、トルカナでもタイでも、好きなところへお行きなさい。
私には、タンザニア国境の町ナマンガでタカ氏といっしょに夕日を眺めた思い出があるから、夫がいない家庭でもなんとかやってこれた。(トルカナ湖へはいっしょに行っていません。私はミチコといっしょにトルカナ湖へ行き、タカ氏とは別旅行でした。)
これから、一人でどんな夕日を眺める日々となるのでしょう。お一人様生活を楽しむのは得意です。震災後、結婚相談所の成婚率がぐんと上がった、という記事を見ました。不安なことがあると、ひとりでいたくない、という人が増えるのですって。でも、樹木希林内田裕也夫妻を見ていても、夫婦の在り方はそれぞれで、自分たちが納得していればいいのだろうと思います。
次回からは「1979年ケニア日記by春庭」。
<おわり>
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(1)文化人類学志望
5月11日は、東日本大震災から2ヶ月目なので、宮城県アンテナショップは平日ながら5月7日土曜日と同じくらいに混んでいました。八重洲にある福島県のアンテナショップも、今月は売上げが平年の4月の10倍に達したという記事を読みました。風評被害のニュースなどを聞くにつけ「私に応援できることはまず買うことくらい」と思って、みなが買い物をしているのでしょう。私も宮城ふるさとプラザで「しそ巻くるみ揚30コ入り」というのを買いました。
雨の中、都バスで帰宅。運転手さんは出発時に「本日雨のため道路混み合っております。ただいま予定出発時間より、3分遅れで発車しました、お急ぎのところ、申し訳ありません」と発車。途中、「ただ今、2時45分になりました。あと1分で2時46分です」と、時間のみを車内にアナウンスしました。それを聞いて、「あ、地震発生の時間だったな」と気づき、黙とうしました。
大回りのカーブでは「これよりドヨヨ~ンとカーブします」駅に近づいて駅構内に入るターンでは「ここは忙しくカーブします」。通過駅でのアナウンス「池袋駅を3分遅れで出発しましたが、ただいまは1分遅れでの発車となりました。わたくし2分間、がんばりました」と、予定発車時刻に追いついてきたことをアナウンス。愉快な運転手さんでした。
信号の手前では「悲しいお知らせです。赤信号のために止まります」と放送する運転手さんのワンマン運転、日常を取り戻そうとする人々に、笑いや歌は買い物にも増して人々を明るくするのではないかと思います。
空気のようにあたりまえだった日常生活が、とても貴重なひとりひとりに大切なものだと気づかせてくれた2時46分でもありました。
自分の身の回りに常に存在するけれど、その存在を毎日意識することもなくその中にいる。しかし、それがなければ生きて行くことは不可能なもの、それは空気。
夫婦はよく「空気のようなもの」と例えられます。あるいは「水のようなもの」。生きて行くには不可欠でしかし、特に味も匂いもない。高い水も売ってはいるが、気に留めなければ東京の水道水でも十分。(放射能の計測値がもっと高くなれば東京の水も飲めなくなるかも知れないけれど)しかし、沙漠にあってそれがなければ死ぬかも知れぬ。夫婦というのも斯くの如し。とか。
さて、そういう「毎日いっしょ」の空気や水に比べると、うちの亭主は「法事のあとのお斎きの食事についてくるお茶」くらいのものか。だいたい、姑といっしょに墓参りに行くときくらいしか、いっしょに食事していないし。
まあ、そんな縁の薄い夫であっても、法律上は夫として存在します。
妻の出稼ぎ給料から娘の奨学金まで会社の運転資金につぎ込んでも、万年赤字から脱出しない会社を「趣味」で経営し続けて、ウン十年。
辛抱一途の我慢強い妻がついていなかったら、とっくにホームレスの境涯になっているだろう夫は、「この先、会社たたむことがあったら、タイの山奥へ行ってタイの子ども達のために学校つくって暮らす。日本の年金があれば、物価の安いタイの山奥なら十分に生活していける」と、この数年間、事務所近くの大学生涯教育コースでタイ語を習い続けています。赤字赤字といい続けても、タイ語の月謝やクラスメートとのコンパに使う金はひねり出せるらしい。
「人は生涯学び続けるべし」というのが、タカ氏の自論のひとつです。であるゆえに、私が娘を産んで2年目に「もう一度大学に入る」と言ったときも、大学4年生のときに息子が生まれて「このままだと就職できそうもないから、大学院へ行く」と言ったときも、世間の夫のように「結婚後に大学行ったり、大学院へ行ったりして何の意味があるんだ」などと絶対に言わない人でした。もっとも、私が大学に2度目に入学することにしたのも、大学院へ行くことにしたのも、乳児かかえて勤め口も見つからなかったので、奨学金を申し込み、そのお金で食べていくためでした。
タカ氏が大学を卒業するとき、単位が足りず、先生との交渉でいくつかの単位をおまけで出してもらった話は聞いていました。また、教職科目のいくつかの単位が足りなかったために、別の大学の通信教育部に再入学して足りない単位を補い、教員免許をとった、という話も聞いていました。姑の兄と姉は二人とも郷里で教員をしていた人だったので、教職免許をとることは、「大学学費を出してもらう条件」だったようで、当時は教職を目指さない人も割合気軽に教員免許を取っていました。今より教員免許取得の単位数などがゆるかったと思います。私の時代、教育実習は2週間でしたが、娘は3週間だったし。
私がママさん学生生活3年目になったころ、息子が生まれる前の年、私の大学生活に対抗して、生涯教育受講のため、タカ氏は放送大学に入学しました。
地震で本棚が倒れ、どっと部屋に溢れたもろもろの本や紙類の山の中、タカ氏が放送大学に提出したレポートが数部出てきました。本人はこれを書いたこともまったく忘れているだろうと思います。
その中のひとつの科目、文化人類学。
文化人類学を学びたかった、というのが、「挫折人生」を歩んできた私とタカ氏の共通点のひとつです。
<つづく>
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2011年05月14日
ぽかぽか春庭「モゴール族探検記を読んで」
2011/05/14
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(2)『モゴール族探検記を読んで』
「文化人類学に関連する書籍を読んで、要約と書評を書け」という放送大学レポート課題に対して、タカ氏は『モゴール族探検記』を選びました。以下、無断で行う「タカ氏35歳のレポート」書き写しです。
無断で書き写しを行うのは、著作権の問題で言えばタカ氏から非難されてもいたしかたない行為です。でもね、糟糠の妻がいなければ野垂れ死にしていたであろうタカ氏に、何の見返りも要求しなかった妻が、これくらいの著作権違反をしたところで、慰謝料のかけらにもなりはしないワ、フンッ。つうか、本人、これを書いたことなどまったく忘れているし。
タカ氏は、地震のあとの片付けに際し、「タカ氏撮影の写真ネガ以外は捨ててよい」と言ったのだから、このレポートの所有権(著作権)を放棄したものと解釈します。黙って捨ててもいいのだけれど、妻がこれを書き写しておこうというのは、一種ボランティア精神。
タカ氏35歳のころって、私は2番目の大学の3年生在学中で、娘とふたり、奨学金で細々食べていたのでした。タカ氏がこのレポートを放送大学に送付した夏1987年、私は娘を保育園に預けて夫の仕事を手伝いに通いましたが、会社は赤字続き。お金も尽き果て、私には苦しくつらい年だったけれど、夫は以下のような読書感想文を書きつつ、赤字会社を続けていました。
以下、タカ氏35歳の「読書レポート」、妻の手によって、勝手に公開。
============
(1987年夏執筆)
1)著者:梅棹忠男
表題:モゴール族探検記
出版社:岩波書店(岩波新書)
出版年:1956年
2)1955年に行われた京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊人類学班の記録。ジンギスカンの樹立したモゴール帝国は各地に勢力をのばしたが、その末裔と思われるモンゴル族(モゴール族)が、アフガニスタンの「奥地」にいるという。そのモゴール族を探し出し風習や言語を調査しようとした。浮浪の末に彼らと会うことができ、モンゴル語の古い形などを調べることができた、というもの。
これは岩波新書の1冊であり、学術報告書ではなく、たどりつくまでの苦労や試行錯誤などの様子がわかりやすい文章で書かれている。はじめてこの本を読んだのは、たしか高校生の頃だったと思う。今回、レポートを書くにあたって、十数年ぶりに読み直しをした。
3)a.まずこの調査の行われたのが、30年前の1955年だということ。わずか30年前でも、どこの国にどんな民族がいて、何語を話すかなどということがわかっていなかったというのは驚きであった。少なくともアフガニスタン政府にはわかりそうなものだが、そうでもなかったらしい。
b.人類学の調査の仕方がわかってとてもおもしろかった。当時彼は35歳、いまの私と同じである。あちこち飛び回れることがうらやましい。この本を含めて、こういう本はとにかく楽しい。知らない人と会えて、知らない文化を知って、、、、。そしてそれぞれ違うけれど、どちらかが優れていると言うことではない、という人類学の考え方は、すばらしいと思う。(続く)
=============
タカ氏、世界の「奥地」に入り込んで写真を撮る「フリージャーナリスト」を目指していたのです。地方新聞の記者を退職し、ケニア・ナイロビにいたとき、妙な女と出くわし、人生の予定表にはなかった結婚ということになったタカ氏。35歳のときは妻子を捨てて放浪の旅に出るということもできず、家庭人として落ち着くこともできず、さぞかし「あちこち飛び回れることがうらやましい」という心境だったろうと思います。
<つづく>
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2011年05月15日
ぽかぽか春庭「ケニアのトルカナ湖で」
2011/05/15
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(3)ケニアのトルカナ湖で
タカ氏レポートつづき
============
4)a.この表題の「--探検記」というのが気にかかる。1987年という現在のみかたで30年前の本を批判するのは不適当だが、現在でも人に会うときに「探検」などというのだろうか。出かける側の人間にとってはどんなに「奥地」であっても、そこで生活している人にとっては「奥地」でもなんでもないのだから。
b. 3)b.にも関連するが、たしかにこのテの本はたいへんにおもしろい。しかしいざ自分でフィールドワークをしようとした場合、むずかしさを感じる。テキストをたくさん読んだとしても、いい読者にはなり得ても、そこまでだろうと思う。○○大学の調査隊に参加できるわけでなし。
それに「調査」される側にとっては実は迷惑かも知れないと思う。モゴール語を調べることが、人類学にとって貴重な成果だとしても、実際に住んでいる人にとっては、大事なのは今の生活であって本になったモゴール語の論文ではないのだから。
5)その他
この本を読み返しながら、数年前に旅に行ったときのことを思いだした。東アフリカ、ケニヤ共和国の北西部にトルカナ湖という湖がある。この近くに住む人々のことをトルカナ族というが、そこに3週間いたことがある。どんなとこか知らずに、たまたま行ってみたら、夕日がとてもきれいで長居をしてしまった。
そこで話されているのはトルカナ語で--結局あいさつがエジョカで、コップのことがオコップという2語しか覚えられなかったが--もちろんこちらはトルカナ語はわからない。それでも中にはケニヤの共通語であるスワヒリ語や英語を話す人もいて、首都ナイロビ市で少しだけ覚えたスワヒリ語で何とか生活もできた。
女の人はふだんは腰から足までの長い腰巻きだけで上半身ははだかの人が多かった。男の人も短パンのような感じで、ほとんどはだか。それではというので、私も海パン1枚で待ちのメインストリート--といっても店が数軒あるだけ--を歩いていて、おこられた。よその人間ははだかで歩くなという。
もう少し北にいくと、スーダンで、ここらあたりはセミ・デザートだという。低い草木は多少あるが、下は砂地。もちろん暑くてはだしでは私は歩けないが、彼らにとっては何ともない。手元の温度計ではかると、60℃にもなった。しかし家の中に入るとヒンヤリとした感じさえする。外からみると、まるで弥生時代の家のようにも見えるが--家は女性が回りから草木を集めてきて3日で作るという--都会のビルの中のクーラーなどおよびもつかない。生活の知恵を感じた。
たとえば、はだかはよくない、人は服をきるべきだ、家が粗末だ--というようにみてしまえば、トルカナもあまりよくないところに思えるが、私はそうは思わない。砂漠ではたぶん、だぶだぶの服かはだかが生活しやすいのだろうと思うし、広さを別にすれば、住みにくい家ではない。ケニヤの中でも貧しい地域であることは事実だし、どうやって生活を豊かにするかという問題はあるが、、、、。新聞や本で知ることのできないいい体験となった。(タカ氏レポートおわり)
===========
<つづく>
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2011年05月17日
ぽかぽか春庭「トルカナ湖の夕日」
2011/05/17
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>(4)トルカナ湖の夕日
タカ氏はトルカナ湖のほとりで現地の人といっしょに生活し、撮った写真はガイドブックのページに採用されました。そのままひとりで世界を飛び回っていたら、よい写真の一枚も撮れて、「元新聞記者」から「フォトジャーナリスト」になる夢を追い続けることができたかもしれません。
しかし、このレポートを書いた頃35歳のタカ氏は、チェンマイ奥地やマニラなどへ一人で出かけて行ったあと、夢と妻子を秤にかけて、結局「海外フォトジャーナリストとして生きて行く」という生涯の夢を完全に諦めたところだったと思います。
同じ35歳なのに、梅棹忠夫は大学探検隊の一員として人類学研究に赴き、世界の秘境でフィールドワークを行う身分。タカ氏は妻子を食わせていく当てもなく、東京に閉じ込められている。家庭に落ち着くこともできず、父であり夫である自分など認める気にもならない。トルカナ湖ですごした日々を思い返し、家から逃げ出せるものなら逃げ出したいと思って、日々鬱々と過ごしていたことだろうと思います。
私はと言えば、夫の鬱々などに関わっていることはできませんでした。とにかく幼い娘を食べさせていかなければならない。生まれてくる子のおむつも用意しなければならない。明日のあてはまったくない中、今日を生き抜かなければならなかった。
細々かつかつにでも母子が暮らしていける目途がついたのは、1994年、単身赴任という条件を飲んで、娘息子を実家に預けて中国に出稼ぎに行ってから。夫は、私が必死で稼いだ出稼ぎ賃金も会社の運転資金に充ててしまったのですが、なんとか大学講師の職を確保することができました。
子どもがふたりとも成人した今になってみれば、一人で悪戦苦闘した日々も、つらいことばかりではなかったと思い返せます。子どもの成長は、人生のなによりの喜びです。
しかし、それにしてもタカ氏は、私が明日の食べ物がないことに思い悩み、残金百円しかない通帳をながめていたときに、「モゴール族探検記を読んで」というレポートを書いて送っていたのだなあ。
「たまたま行ったトルカナ湖の、夕日がきれいなので長居してしまった」と、ケニアの思い出を書いたタカ氏。この先、会社をたたんだら、タイへ行きたいというタカ氏。ええ、トルカナでもタイでも、好きなところへお行きなさい。
私には、タンザニア国境の町ナマンガでタカ氏といっしょに夕日を眺めた思い出があるから、夫がいない家庭でもなんとかやってこれた。(トルカナ湖へはいっしょに行っていません。私はミチコといっしょにトルカナ湖へ行き、タカ氏とは別旅行でした。)
これから、一人でどんな夕日を眺める日々となるのでしょう。お一人様生活を楽しむのは得意です。震災後、結婚相談所の成婚率がぐんと上がった、という記事を見ました。不安なことがあると、ひとりでいたくない、という人が増えるのですって。でも、樹木希林内田裕也夫妻を見ていても、夫婦の在り方はそれぞれで、自分たちが納得していればいいのだろうと思います。
次回からは「1979年ケニア日記by春庭」。
<おわり>