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ニーハオ春庭中国日記「日本文化祭&ラストエンペラー」

2011-09-26 06:47:00 | 日記
2007/05/19 土
ニーハオ春庭中国通信>日本文化祭

 私の勤務校は、5年前に新しくできた大学新キャンパスの中に校舎があります。市内から大学への交通は、これまでバスや車だけでしたが、冬季アジア大会に合わせてオープンした軽軌高架鉄道の駅が正門の前にでき、通勤通学が便利になりました。

 宿舎からの通勤マイクロバスは北門に着き、校舎の横に車を止めるので、近くにある食堂の建物、学内スーパーや郵便局がある建物のほかに、広大なキャンパスに広がる校舎のひとつひとつを訪問したことはありませんでした。

 5月12日土曜日、正門近くにある芸術学部のホールで、日本文化祭が開かれたので、同僚の先生方と見にいきました。
 宿舎近くにある本部キャンパス内の外国語学部日本語学科と、浄月キャンパスに設置されているビジネス日本語科の共催による、日本語を学ぶ学生たちの学芸会です。
 今年は第27回。日本語学科の学生が日頃の学習成果を披露する、学科の大切な行事です。

 現在では、中国全土に日本語教育を行う高等教育機関がありますが、1972年に田中角栄、周恩来が署名して日中国交回復がなされたのち、中国政府が「日本語教育重点地」として選んだのが、この地でした。
 ここは、中国における日本語教育のメッカともいえる、日本語教育先進地です。
 
 学芸会は学部3年生が司会を担当し、劇、日本語の歌のほか、日本舞踊、合気道デモンストレーションの披露などもありました。朝8時半から延々13時半まで続き、おなかがすきましたけれど、学生たちの熱気ある上演を最後まで見ました。

 学部日本語学科の先生たちは、日本語発音、演技、脚本、演出などを総合して、各クラスを審査し、賞をだします。
 部外者の私たちは、観客として楽しむだけ。
 樋口一葉の「おおつごもり」を学生自身が脚色した劇あり、シンデレラを脚色したものあり。

 「竹取物語」を脚色した劇。学生たちは「ラスト、おじいさんとおばあさんがかわいそう」と作り替えました。
 「富士山の頂上から立ち上る煙をみて、月の神はおじいさんおばあさんのまごころを知り、かぐや姫がおじいさんとおばあさんの家にもどることを許しました。かぐや姫は地上で幸せにくらしましたとさ、めでたしめでたし」と、ハッピーエンドにして上演しました。

 作者不詳、「物語の祖」の竹取物語。
 死後50年という著作権は、もちろん切れています。千年以上も昔の物語、どのように脚色しても、「著作権」について文句言う人はなし。
 ハッピーエンドもよしとしましょう。

<日本文化祭つづく>
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2007年05月20日


ニーハオ春庭「コピークロサギ(海賊版天国について)」
2007/05/20 日
ニーハオ春庭中国通信>コピークロサギ(海賊版天国について)

 日本語を学ぶ大学生による「日本文化祭」
 「ビジネス日本語科3年生は「クロサギ」を上演しました。経済用語なども学んでいるビジネス日本語学科らしい出し物です。「融資条件」「返済期限」などの難しい単語もでてきました。

 1年前の日本のテレビドラマを「完全コピー」した脚本でした。一話分、詐欺話の部分をそっくりコピーしています。せりふをわかりやすい日本語に置き換える脚色がなく、ドラマそのままのせりふがでてくるので、日本語学習中の初級者には、いったい何が演じられたのか、理解できなかったのではないかしら。

 1年前の「クロサギ」だけでなく、こちらの学生は皆、日本のドラマをよく見ています。
 また、テレビでは繰り返し昔のドラマを放映するので、山口百恵は今でも「中国で、もっともよく知られている日本の女優」です。
 先日は「『赤い疑惑』をテレビで見ました。テレビ放映はすべて中国語吹き替え版。

 新しいドラマも中国で放映されています。4月は「白色巨塔(白い巨塔)」を見たし、5月は米倉涼子主演の「黒皮の手帖」を放映していました。現在は篠原涼子岩下志摩が嫁姑になった「花嫁は厄年!」を放映しています。

 テレビ放映は正規の著作権クリアのものでしょうが、そのほか、日本のドラマDVDは、放送を終えたばかりの最新のドラマも、1枚5~7元(75~100円)という値段で売られています。
 日本でドラマ放映された2日後には、中国語字幕をつけて売り出されるのです。もちろん海賊版。違法コピーです。
 日本のドラマを録画し、無料サイト自動翻訳利用の中国語字幕をつけて、売る。元手要らずの商売。自動翻訳なので、とんでもない訳文がつくこともある。

 海賊版を売るほうは、違法であることを意識しているのかもしれませんが、違法コピー海賊版を買うことに対しては、一般の人は「違法」だなんて、まったく思っていないのです。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式。赤信号でも歩行者が車列をくぐり抜けて悠々渡っていく中国の交通事情と変わりません。

 なかには、原作よりもパクリのほうが優先権を得た判決もありました。
 1997年、中国の企業数社がクレヨンしんちゃんの絵柄などの使用権を中国語名「蠟筆小新(ラービィシャオシン)」で商標を登録したため、原作の版権をもつ日本の双葉社は、「クレヨンしんちゃん」に関して、中国での権利が認められないという事態も起こっています。

 さらに言うなら、町中で見かける「蠟筆小新」のキャラクターグッズ、商標登録を認められた中国企業の製品というより、ほとんどは「勝手にコピー」商品でしょう。
 ドラエモン、キティちゃん、など、さまざまなキャラクターが、「勝手に闊歩」しています。

 著作権が財産権人格権のひとつであるという考え方、ほとんど知られていないし、知っている人も気にしていません。パクリやコピーが違法であり、違法コピーを買うことも罪であるという考え方が一般の人にまで浸透するのは、まだまだ時間がかかるでしょうね。

 学生たちは「日本の社会や文化を知るのに、ドラマはいちばんいい教材です」と考えています。
 私も「テレビ放映はいいけれど、海賊版DVDは違法なんですよ」と言うのがせいぜいです。「海賊版を買うな」と、言っても無駄なこと。

 日本で売られている正規DVDは一枚数千円します。中国の物価を考えれば、一枚100円のDVDをやめて、一枚5000円の正規のものを買いなさい、といっても、そうはいきません。
 学生たち、いくら日本語の勉強のためとはいっても、一ヶ月の学生生活費に相当する5000円を支払うことはできないでしょう。

 日本の物価感覚で言い換えるなら、一枚5千円のDVDを買うのはやめて、一枚25万円のほうを買いなさいと言われるようなもの。
 隣の棚に一枚5千円の同じ内容のDVDを売っているのに、「こちらが正規だから」と、25万円の方を買うかというと、う~ん、私なら「25万円出したら、今月の生活費が足りなくなってしまう」って思ってしまう。どうしても見たかったら、5千円のほうを買ってしまうかも。いけませんねぇ。

 学生たち、海賊版「クロサギ」何度もくりかえして見て、せりふを覚えたことでしょう。日本社会を知る勉強にもなったことと思います。
 山下智久が演じた黒崎役の学生、ヤマピーの「語尾を上げる独特のせりふまわし」をそっくりコピーしていました。
 「クロサギってのは、詐欺師をだますサギのことなん、だ↑」

 「中国でDVDってのは、違法コピー海賊版のことなん、だ↑」

<日本文化祭つづく>
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2007年05月21日


ニーハオ春庭「大足シンデレラ(美人の基準について)」
2007/05/21 月
ニーハオ春庭中国通信>大足シンデレラ(美人の基準について)

 学生たちによって日本語で上演された劇。
 せりふが難しくならないように脚色したり、かぐや姫が地上にもどるように設定を変えたり、自分たち流に脚色しています。

 「『灰姑娘(シンデレラ)』上演。日本だったら、ディズニー映画のイメージで上演するかも。
 でも、中国には『掃灰娘』という昔話があります。グリムが採集した『シンデレラ』の原型になった話ともいわれており、比較文学のテーマとしてはおなじみの作品。
 灰にまみれて掃除をしていた娘が王子のお妃に選ばれるお話は、古今東西、好まれてきた民間伝承なのでしょう。

 学生たち、「グリム童話シンデレラ」の設定を変えていました。
 「小さくてほかの人には履けないシンデレラの靴」という部分、学生たちの脚色では「大きすぎて、誰の足にも合わない」というふうになっていたのです。

 おそらく、纏足(てんそく)の習俗への配慮から、「より小さい足の人が王子の愛を獲得する」という内容が変えられたのではないかと思います。
 「小さい足」のほうが王子様のお妃にふさわしい、というシンデレラ、それを今一歩すすめれば纏足の習俗になります。

 富貴な家に育ったあかしとして、女の子が足をきつく縛り上げ、足のサイズ9~10センチに保った「纏足」。
 貴婦人は歩かなくても生きていくことができる。9センチの足でよろよろと、か細く動く女性が美しいとされ、より小さい足に美を感じた、往時の中国。

 「最後の纏足貴婦人」と言われた人が亡くなったというニュースを聞いたのも、もうずいぶん昔のことになりました。

 私の足のサイズは22、5センチで、ときどき子供用コーナーのつっかけサンダルなどで間に合わせたりすることもありますが、大人になっても9センチの足というのは、自然な成長ではありえません。

 9センチの小さな足に魅力を感じますか?感じない?
 じゃ、ウェスト43センチと、80センチ、どちらに魅力を感じますか。
 FカップGカップの大きな胸はどうですか?

 より細い腰、より大きな胸に魅力を感じるのが現代。
 「細いウェスト」を保つために、ダイエットに励む女性も多いし、大きな胸にしたいと、豊胸手術を行う人もいる。

 「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラは43センチの「ご近所で一番細いウェスト」を作り上げるために、コルセットを締め上げていました。
 叶姉妹は、自分たちの胸が「人工」であることを堂々発表しています。
 スカーレットの腰も叶姉妹の胸も、纏足と同じ、自然にはできない不自然な身体です。

 現代の私たちが9センチの小さな纏足に不自然さや違和感を感じるように、あと百年もすれば、シリコンでふくらませた胸の大きさに対して「なんて不自然な」と、感じるようになるのかも。

 時代によって地域によって「女性の魅力」の基準はさまざまです。
 タイ奥地に住むある民族。「より首が長い方が美人」というので、女の子は、こどものころから首に輪をはめ込み、首をどんどん長くしていきます。20センチ以上にも伸びた首を誇る「美人」を私たちから見ると、「奇習」に思えますが、、、、、

 現代日本の美の基準も、「長い首」「纏足」も、実は同じことです。
 現代日本では、より細い体に、より長い足、より細い足首。より大きな胸で、きゅっと上がったヒップラインが魅力的。より大きな目、より長いまつげが魅力的、、、、、

 「まばたきするのに重いだろう」と思うくらい、人工のまつげを目の上にのせた女性を東京の電車のなかで見かけたこともありますが、それが「美しい」と信じている女性に「不自然ですよ」と言ってみても、無駄なこと。

 纏足や首の長い美人を「奇習」と感じて、「重たいくらい長いまつげ」「Gカップの胸」に魅力を感じるのは、「現代の基準」に縛られた自己中心の美の基準でしかありません。

 現代中国の学生たちは、「小さな靴」の持ち主がお妃の座を獲得するシンデレラのお話に対し、違和感を感じたのかもしれません。
 というわけで、「シンデレラは、大足の持ち主」という設定に変えられていました。

 シンデレラ役を演じたのは男子学生でした。彼は最後の各賞発表で、「主演女優賞」を受けました。
 京劇や吉劇などの伝統劇では女形が活躍しますが、彼もなかなかの名女形でした。

<日本文化祭 つづく>

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2007年05月22日


ニーハオ春庭「七夕・天の川の橋」
2007/05/22 火
ニーハオ春庭中国通信>七夕・天の川の鳥
 
 日本文化祭、優勝は、ビジネス日本語学科2年生が上演した「七夕」でした。
 日本のおばあちゃんが、孫たちに七夕祭りの由来を語って聞かせる、という構成で、うまく日本の七夕祭りの文化と中国の織姫牽牛伝説を織り交ぜて、中日の文化交流紹介にもなっていて、役者たちも熱演でした。
 牽牛役の男子学生が、「主演男優賞」を受賞。

 七夕の舞台で日中のちがいを感じたこと。
 牽牛はいとしい織り姫に会いにいきたいけれど、目の前には天の川が横たわっていて、進めない。その時、鳥が現れて橋の代わりになってくれました。
 牽牛は鳥の翼を橋として渡っていきます。
 日本も中国もこの鳥を「鵲(チュェque)=カササギ」と、しています。

 現代日本で天の川の間にあって、織り姫牽牛の逢瀬を助ける鳥を思い浮かべるなら、白い鳥です。日本の学芸会で生徒たちに天の川の絵を描かせたら、白い鳥を描くのではないでしょうか。カササギといっても、「白鷺」のイメージ。
 
 しかし、中国の学生たちが「カササギ」が天の川にいる絵として舞台に出してきたのは、「黒い鳥」でした。
 「七夕のカササギ」のイメージが、日本と中国で違っていたこと、これは「登山」のイメージが異なっていたことにつぐ、「同じ意味だと思っていたひとつの言葉のイメージのちがい」の発見でした。

 動物学や漢詩の中に出てくる「鵲」は、確かに背中が黒くておなかが白い、カラスの仲間の鳥です。織り姫牽牛といっしょに描くなら、黒い鳥のほうが正しい。
 でも、私が子どもの頃から見てきた絵本では、ずっと白い鳥だったように思います。天の川に横たわる白鳥座のイメージです。このすり込み、思いこみの力は大きいです。

 「天の川のカササギ=白い」というイメージを私たちがもっているのは、白鳥座の印象のほか、
 「鵲(かささぎ)の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」
 という百人一首の印象があるからかもしれません。

 「冬の夜空に凍りきらめく星々 七夕の夜にはカササギが翼をうち交わして 天の川に橋をかけるというが おお、ここ地上の橋にも白く霜が下りている それを見れば夜も更けたことが思われる」(田辺聖子の現代語訳)

 冬の橋が霜で白くなっているのを見て、天の川で橋の役をはたしたカササギを連想する。これではカササギは白いという印象を持たざるを得ません。
 中納言家持も、カササギを白いと思いこんでこの一首を詠んだのでしょうか。
 家持は「霜が白い」と表現していて、カササギが白いとは言っていません。しかし、白く霜の降りた橋を見て天の川の鵲」を連想したことは確かでしょう。

 少なくとも、田辺聖子の解釈では、白い霜のおりた橋と、天の川のカササギがどちらも白い印象を受けるのですが。 

 「日本文化祭」の客席、私の隣にすわっていたのは、「七夕」に出演した2年生の男子学生。日本人と話せることがうれしいようで、幕間にさかんに話しかけてきました。四川省の出身といいます。

 彼は「七夕」では牽牛が連れている「牛」の役を演じました。「もう~~」と日本語擬声語で牛の鳴き声を出したあと、牽牛にいろいろアドバイスを授ける重要な役どころです。

 優勝が発表されると、「2ヶ月間毎日練習つづけてきました。うれしい、うれしい」と、感激のおももちでした。
 「七夕」ほんとに熱演で脚本もよくできていました。

<日本文化祭つづく>

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2007年05月23日


ニーハオ春庭「背中に座布団日本舞踊」
2007/05/23 水
ニーハオ春庭中国通信>背中に座布団日本舞踊(イメージの違いについて)

 文化祭をみて、日本と中国、そのほか、イメージのちがい、ということで言うと、「お太鼓帯」について。13年前とまったく変わっていないなあと思ったことがあります。
 日本の着物が中国の人に与えているイメージ。「着物の帯として、日本の女性は、小さな座布団を背中にくっつけている」

 「日本舞踊風の踊り」を披露した女子学生たち、和服風の衣裳を着て登場しましたが、みな背中に小さな座布団のような四角い飾りをくっつけているのです。

 ベルトのバックルを大きくしたイメージなのかもしれません。ベルトのバックルは前につけるけれど「日本女性のバックルは背中にある」という印象なのでしょう。
 日本の「お太鼓帯」は、こんなふうに「座布団のように大きいバックルをくっつけている」ように見えているんだろうなあ、と思います。

 先月テレビドラマ『鑑真東渡』を楽しんだのですが、最終回にはがっかりしました。
 鑑真が5度の難破を乗り越えて日本に到着する大団円。奈良ロケがあるだろうから、ぜひ学生にも見てもらいたい、唐招提寺が画面に出ていたらDVDを購入したいと思っていたのですが、奈良ロケはありませんでした。スタジオセットの奈良。

 玄宗皇帝に仕えた安倍仲麻呂が、完全に中国風の衣裳を着ているのは納得ですが、日本からの遣唐使は、頭にちょんまげを結い、刀をさしています。
 鑑真が接する「奈良の町の人々」も、半ば江戸時代人。

 私たちも、唐時代の衣裳と明時代の衣裳の区別が付かないのですから、中国のテレビドラマが、奈良時代と江戸時代の風俗をごちゃまぜにしていることに文句はつけられないのですが、あまりにも「奈良の町らしくない」ので、がっかりしてしまいました。

 絵巻物などを手がかりにその時代の風俗を再現できるのは平安時代くらいまでであり、奈良時代飛鳥時代になると、壁画などに残された絵などわずかな手がかりしかありません。
 
 古墳壁画などによって、貴人の服装はわかっても、実は私たちも奈良時代の一般庶民がどんな服装であったか、正しく知っているわけではありません。
 それでも奈良時代の町にちょんまげを結って刀をさした武士が歩いていたりすると、違和感が残ります。

 まだまだ、お互いの歴史や文化を詳しく知るには、さまざまな課題があります。
 日本語を学ぶ中国の学生たち、、お互いの姿をもっと知り合うためにこれからも勉強し続けることと思います。

 「背中に座布団」にはちょっと笑いましたが、日本語を学ぶ中国の学生たちの熱心な学習成果発表、8時半から13時半まではちと長かったものの、とてもいい発表だったと思います。

<日本文化祭おわり>
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2007年05月24日


ニーハオ春庭「夏の雪、柳絮」
2007/05/24 木
ニーハオ春庭中国通信>夏の雪、柳絮

 この町に赴任した3月18日から4月になるまでダウンコートを着ていて、4月中旬までウールコートを着ていたのですが、5月になるとぐんぐんと気温が上昇し、5月22日はなんと29度まで上昇。
 さすがにこれは突発的夏日だったようですが、皆、一気に夏姿になりました。 
 必要なのは冬服と夏服だけで、春秋物は要らないというのは、ほんとうです。

 今朝はたたきつけるような大雨。ベランダを打つ雨の音で目が覚めました。

 雪の季節のあとは、黄砂吹き付ける乾燥した毎日。雨は2ヶ月の間にぱらぱらと10分くらい降るだけで、すぐにやんでしまいました。
 先週やっと雨らしい雨が降ったのですが、これがなんと、雨の呼び水にするための人工雨だったのだといいます。
 飛行機で空中に雨の核になる物質を撒いて、水蒸気の中から雨を作り出す。

 ほんとうにこれが呼び水になったのか、今朝5月24日は、予報通り大雨でした。
 しかし、日本の梅雨とちがい、一日中降り続けることはありません。さしもの大雨も一時的で、午後にはやんでいました。

 さて、中国で初夏の名物「夏の雪」といえば、柳の種を運ぶフワフワの綿毛「柳絮(りゅうじょ)」のことです。
 タンポポの綿毛よりもっとふわふわの軟らかい綿毛。タンポポは綿毛の先に枝が伸びて枝の先に種がついていますが、柳絮は、綿毛の中に種が二三粒入って、ほんとうに雪のように大量に柳の木から舞い落ちてきます。

 軽いので、風に乗ってどこまでも飛び、白い「夏の雪」が舞い踊るのです。
 柳の木がたくさんある公園などでは、地面が真っ白になるくらい、綿毛が舞い落ちています。
 日曜日、ちょっと足をのばして朝陽公園に散歩にいくと、あとからあとからこの「夏の雪」が降る光景を見ることができました。

 実は、この柳絮、「口や鼻に入ってきて、息もできない、健康に悪い」と、評判が悪く、柳の木はつぎつぎと無害なポプラ(といっても、日本のポプラとはちょっとちがう種類らしい)に植え代えられているのだそう。

 タンポポの綿毛よりもっとフワフワ淡あわとした柳絮が、空いっぱいに舞い踊るようすを想像してみてください。
 日本のテレビの歌謡ショウ番組で、歌手が歌っている上から白い鳥の羽毛を降らせる演出がありますが、あれよりずっとはかなげで、それでいて健康的。
 「健康的なはかなさ」というのもおかしな言い方ですけれど。

 さんさんとした日の光のなかを白い綿毛が舞う光景、見ているだけなら、夢のようにきれい、息をのむ美しさです。
 でも、息をずっと止めていられないので、息をすると、あっ、鼻の中に綿毛が、、、、。

 旅人や短期間しか中国にいない者にとっては、夢幻的な光景に思える「夏の雪」ですが、地元の人にとっては、迷惑なばかりの、やっかいものなのでしょう。
 こちらがどうこう言える立場ではありませんが、1年中のことならともかく、初夏の一時的な自然現象なのですから、夏の雪をまったくなくしてしまったら、寂しい気がします。よそものの勝手な希望でしょうけれど。 

<夏の雪おわり>
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2007年05月26日


ニーハオ春庭「偽満皇宮」
2007/05/25 金
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮(ウェィマンファンゴン)見学・ラストエンペラー

 13年前、幼かった娘と息子を連れて、「偽満州皇宮」博物館を訪れたとき、中はあまり整備されていなくて、薄暗くて、ラストエンペラーの亡霊でも出てきそうな雰囲気でした。

 博物館の一角に「皇帝皇后の衣裳を着て写真を撮ろう」というコーナーがあり、娘と息子に衣裳を着せて写真を撮ってもらいました。
 娘の衣裳は皇后の衣裳風。4歳だった息子の衣裳は、溥儀が3歳で清朝最後の皇帝として即位したときの大礼服を模したもの。
 撮影料と郵送料を渡したのですが、写真はついに送られてこなかった。
 幻の偽満州国、幻の皇帝衣裳写真。 

 5月13日午後、13年ぶりに偽満皇宮へ行ってみました。今回はひとりで。
 観光地として客を呼ぶことに目覚めた省政府によって、きちんと整備がなされ、展示も充実していました。

 展示を目的とする博物館であると同時に、「偽満州国」時代の歴史研究センターとしても存在しています。
 溥儀の一生を、写真資料やビデオでたどる館、満州時代の陸軍海軍の衣裳を展示している館、満州高官を写真つきでひとりひとり紹介している館、など。

 また、溥儀の寝室、皇后の寝室、溥儀の書斎、仏間、など、蝋人形によって当時のようすが再現されている部屋もあり、溥儀が使用した自動車を展示した館もあります。
 これらは13年前は、なかったと思います。

 溥儀が謁見をおこなった部屋、溥儀の趣味である漢方薬を集めた部屋。溥儀の妻たちの寝室、阿片におぼれた皇后や早世した祥貴人(譚玉齢)の居間や寝室などを見ていくと、往時の満州帝室が具体的に偲ばれます。

 館内展示の若い頃の婉容の写真は、知的で溌剌として、非常に美しい。
 しかし、満州国皇后としての写真、後半生のものはありません。
 皇后婉容の寝室に展示されている蝋人形、ソファに横たわり、宦官(かんがん)の世話を受けながら阿片を吸っている姿です。

 婉容が満州国皇后として公式の場で人前に出たのは、ただ1回のみ。
 あとの10余年は皇帝との不和、宮廷内での確執などによって、軟禁状態となって一室にこもり、阿片を吸う以外なすこともなく生涯をすごした寂しい皇后でした。

 婉容についての解説として、日本語案内パネルには、「皇后は皇帝から遠ざけられ、侍従と通じた」と書かれていました。しかし、これは、婉容を嫌う皇帝側が流したスキャンダルであり、真実かどうかは、もはや歴史の闇のなかに沈んでいること。
 歴史的事実なのかどうか確かめることをしないまま、皇帝側の主張通りの婉容非難が説明パネルに載っているのは、悲運の一生をすごした皇后に対して気の毒な気がしました。

 映画『ラストエンペラー』の原作となった溥儀自伝『我的前半生』、ジョンストンの『紫禁城の黄昏』。皇帝溥儀の弟、溥潔の妃となった嵯峨浩の自伝『流転の王妃』、山口淑子(李香蘭)の自伝など、また、満鉄(南満州鉄道)や、『キメラ 満州国の肖像』など、旧満州関連の書物を、これまでさまざまに読んできました。

 今回、ラストエンプレス、皇后「婉容」を描いた『我が名はエリザベス』をこの地に持ってきました。1988年に出版されたときから読もうと思っていた入江曜子さんの最初の著作です。

 2006年に発行された同じ著者の『溥儀-清朝最後の皇帝』(岩波新書)といっしょに、溥儀婉容が十年あまりをすごしたこの地で読むのは、日本で読む以上に感慨深いものがあります。

<偽満皇宮つづく>

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2007年05月27日


ニーハオ春庭「我が名はエリザベス」
2007/05/27 日
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・我が名はエリザベス

 溥儀自伝『我的前半生』は、溥儀が口述し、ゴーストライター李文達(元人民日報記者)が共産党指導のもとに「改心した元皇帝、共産党からの思想改造を受けて、人民に奉仕する公民となった溥儀」のイメージを作り上げるために書かれた本だということが、近年明らかにされました。(李文達が著作権を主張して、溥儀の弟溥潔と対立したというのは、また別問題として)。

 第一級の近・現代史資料である『我的前半生』も、いわば、中国共産党の広告塔として溥儀を存在させるプロパガンダの役を担う著作で、自伝とはいっても、「真に正直な記述ではない」ということもわかってきました。溥儀の自己弁護と責任転嫁、中国共産党の史観が含まれています。

 『溥儀ー清朝最後の皇帝』は、溥儀死後に明らかにされてきた証言メモや新発掘資料なども駆使して、これまでとは異なる視点で溥儀が描かれています。
 溥儀が繰り返してきた「日本の軍部に強制されて、満州国皇帝の地位にいやいや就かされた」という主張も、これまで表に出されなかった満州国関連の文書などによって、そうではなかったこともわかってきました。
 新書版ですから手軽に読めるのに、内容はとても深いと思います。

 『我が名はエリザベス』は、皇后婉容の半生、廃帝溥儀と結婚してから、敗戦の混乱のなかで死ぬまでを描いています。

 エリザベスとは、婉容が天津租界で育ち、外国人とともに近代的教育を受けたとき、英語教師から与えられた呼び名です。
 婉容は英語を話し、自転車を乗り回す活発な少女でした。

 しかし、17歳のとき、婉容の運命が変わります。
 「幸せな家庭」を夢見ていた、「近代的教育を受けた女学生」だった婉容が、思いも寄らぬうちに「元清朝皇帝溥儀」の婚約者となり、顔を一度も見たことのないまま、結婚。
 結婚式を終えてみたら、自分より先に、側妃として文繍が溥儀のもとに仕えていたことを知る。

 溥儀は3歳で清朝最後の宣統帝として1909(明治42)年に即位、3年後の辛亥革命によって退位。
 12歳のとき、たった12日間だけ皇帝として復活し、その後はまた廃帝として紫禁城から一歩も外にでることのないまま、「もう一度皇帝として復活する」ことだけを使命として成長しました。

 3歳から6歳まで皇帝としてすごした日々のことは強い記憶ではなかったけれど、12歳のときたった12日間であっても、皇帝として絶大な権力者として遇され、臣民が膝下に額ずくのを見たあと、「皇帝復辟」は、溥儀の唯一の「生きる希望」となりました。

 溥儀17歳のとき、婉容を皇后に文繍を側妃に決定し、先に文繍を紫禁城へ入れました。
 婉容とは1922年12月に結婚。清朝歴代の皇帝結婚の儀礼通りに結婚式を行いました。

 結婚式は前例通りでしたが、「結婚生活」は形だけのものでした。
 宦官侍従は、幼い廃帝の癇癪をおさえるために、宦官や少年相手の快楽を教えこみ、17歳の廃帝は、皇后にも側妃にも、興味をしめしませんでした。
 17歳の皇后も13歳の側妃も、別々の宮殿で孤独な日々をおくるのみ。

 17歳までの、家族との団らんも、友達との楽しいおしゃべりも、婉容の生活から消えました。

 皇后の生活とは、「前例」を錦の御旗とする女官と、宦官(かんがん=男性器を切除して後宮に仕える人)だけに取り囲まれて、朝起きてから夜寝るまで、洗面の作法から食事排泄に至るまで、決まり事としきたりによる日々をおくること。

 伝統、前例、しきたり、因習、、、、
婉容には、何一つ自由を与えられず、形式だけが重きをなす生活。
 女官も宦官も、自分を見張り、かごの中に閉じこめようとする獄吏。

 現代においてさえ。
 美智子皇后は、結婚儀式で十二単の髪型(おすべらかし)にするとき、髪をシャンプーで洗うことを「しきたり」によって許されず、女官たちが「洗髪の油」で髪をふき取ったため、油の臭いで気分が悪くなった思い出をもち、紀子妃雅子妃の結婚式のときは、「前例通りに身支度をする必要はない、髪はシャンプーで洗ってかまわない」と、伝えたそうです。

 文繍と仲良くなろうとつとめ、皇帝と共通の話題を持とうと努力する婉容でしたが、皇帝との仲はどこまでも平行線であり、文繍は皇后の接近を迷惑に思うだけ、、、。
 側妃にとり、皇后とは、直接の上司であり、越えられぬ身分の差を持つライバルであり、皇帝の寵愛を競う永遠の敵のようなもの。
 といっても、溥儀の寵愛は皇后側妃どちらも受けられそうもない、、、、。

<偽満皇宮つづく>
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2007年05月28日


ニーハオ春庭「廃后婉容」
2007/05/28 月
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・廃后婉容

 清朝復活を夢見るだけで、自主的には何一つできない溥儀。
 西大妃の指名により3歳で即位。自己中心の局地のように育てられ、しかも清朝末期の混乱で「帝王学」も身につけていない溥儀は、ただわがままで、気位だけが高い廃帝でした。

 溥儀は「皇帝がめがねをかけた前例がない」と、言う侍従や教育係の先生たちに対して、近視用めがねをあつらえて、「はっきり見えるようにしてくれた」ジョンストンを重用し、紫禁城の外へでることを望むようになっていきます。
 「紫禁城の中にとじこもっていては復辟は実現しない」という理由で。
 紫禁城をでた溥儀に、ジョンストンが望んでいたイギリスからの援助は受けられず、溥儀は天津の日本租界に滞在。

 女性に興味をもたず、自分が帝王として復活することだけを望む溥儀に絶望して、側妃文繍は離婚を申し出ます。形式的には、側妃が離婚を申し出たのではなく、溥儀自身が側妃を追放するという形で、離婚が成立。9・18事件(満州事変)の一ヶ月後のことでした。

 しかし、皇后である婉容には離婚を申し出る自由さえありません。側妃を追放した皇帝は例があるけれど、皇后と皇帝の離婚など、前例がないから。

 日本軍国主義に近づき、日本の皇室に身を寄せることで帝王としての誇りを呼び戻していた溥儀は、従順でない皇后、ひとりの人間として生きたいと願う婉容を重荷として、一室に閉じこめます。

 夫が満州帝国皇帝として担ぎだされ、傀儡皇帝となっても、婉容は皇后として人前に出ることを拒否。
 人前に出たのは、日本国天皇の名代として皇弟秩父宮が「帝政祝賀」のためにに満州来訪したとき一度のみでした。
 日本国天皇ヒロヒトからの勲章を、皇后として受けなければ「満州帝国」のメンツが立たない、という説得で人前にでたあと、婉容は一室に引きこもります。
 その後は「帝国の虜囚」としてすごすのみ。敗戦まで外にでることはありませんでした。

 皇后は阿片にのみ、安らぎをみいだすようになっていきました。
 博物館の「皇后の部屋」は、ソファに横たわり阿片を吸っている婉容の姿を展示しています。
 阿片は、中国では広く吸引されており、現代のタバコと同じくらい普及していました。タバコの中毒性と健康被害が声高に宣伝され「諸病の根元」と言われてもタバコをやめない人がいるのと同じように、阿片中毒の害が言われても、阿片をやめることのできない人は中国に数多くいました。

 日本は、当時「阿片追放」キャンペーンを張っていました。しかし、裏で阿片を売りさばき、巨額の秘密利益を上げていたと言われている組織のひとつは日本側です。
 特務機関の謀略グループは、中国での謀略資金を確保するため、極秘に阿片を栽培し売りさばいていた、と言われています。

 敗戦の混乱、逃亡と捕虜の生活のなか、婉容は阿片の禁断症状によって廃人となり、孤独のうちに亡くなります。
 過酷な運命を担った王妃后妃は歴史上数多くいるけれど、婉容の数奇な生涯もまた、人の運命として忘れがたい一生だと思います。

<偽満皇宮つづく>

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2007年05月29日


ニーハオ春庭「帝国の光と闇」
2007/05/29 火
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・帝国の光と闇

 清朝の皇帝として2度、満州国皇帝として1度、生涯に3度皇帝になり、3度その座から引きずりおろされた溥儀。

 3度目に皇帝の座から降りたあとは囚人となり、中国共産党によって思想改造を受けました。
 大赦によって出獄したあとは、毛沢東を賛美してやまない「よき人民」になり、中華人民共和国の公民として、共産党の広告塔として遇されました。

 「改心して人民への奉仕にめざめた元皇帝」を演じた溥儀に対し、皇后婉容は中国の歴史からは忘れ去られ、その生涯をたどろうとする人もいませんでした。

 私が婉容の存在を知ったのは、愛新覚羅浩の『流転の王妃』によってです。
 1959年にハードカバーが出版された頃、たぶん図書館から借りて読んだのであろう母から、嵯峨公爵家から溥儀の弟溥潔に嫁いだ浩の生涯について、聞いた気がするのですが、婉容のことはまったく知りませんでした。

 婉容の名が記憶に残ったのは、入江曜子の『我が名はエリザベス』が新田次郎賞を受賞したとき。しかし、本を読まないまま、月日がすぎました。
 1994年に最初にこの地に赴任する前に「満州関連雑学仕込み」として読んだのが愛新覚羅浩の『流転の王妃の昭和史』
 1992年発行の文庫で、婉容の最後が悲惨なものだったと知りました。

 中国では、闇のかなたに葬られていた婉容。
 その生涯を掘り起こし、小説として上梓した作者入江曜子に対し、婉容の弟・潤麒は感謝し、新たなエピソードも伝えてくれたそうです。
 帝国という名の表舞台に立ち、常に自分にスポットライトがあたるように願っていた溥儀。
 しかし、そのスポットライトは、照明係りである日本軍の意向しだいであったことにいらだちながら皇帝を演じていたのが溥儀であるなら、一方の皇后は、傀儡国家の闇の底に沈んだ女性だったといえるでしょう。

 溥儀を「満州帝国」の表の顔とするなら、もうひとつ別の「裏の顔」として知られた人物がいます。
 「闇の帝王」とおそれられたのは、満州映画協会理事長甘粕正彦。
 映画協会理事長は表向きの肩書きであり、帝国の闇の部分を仕切る謀略機関のトップであったとされています。

 映画『ラストエンペラー』で、溥儀を演じたジョン・ローン以上に、もっとも印象に残った出演者は、甘粕正彦を演じた坂本龍一でした。
 それまで私が抱いていた「大杉栄伊藤野枝虐殺」犯人、殺人者、というイメージとは大いに違い、複雑かつとても魅力的な甘粕像がインプットされました。

 映画『ラストエンペラー』を見た後、私は、旧満州地域、偽満州国の地で仕事をすることになりました。
 満州関連書をさまざまに読んだなかで、満州時代の甘粕を知っている人の証言は、みな甘粕に対して好意的でした。

 中国人の証言も日本人の証言も、そろって「甘粕理事長は、たいした人徳者」「日本人のなかで、あんないい人はほかにいない」「とても魅力のある人物」というような声がほとんどで、直接彼を知っていて彼を悪く言った証言者がいない、ということに大いに興味を引かれました。

 満州映画協会理事長甘粕正彦は、1945年、敗戦ののち「大ばくち、身ぐるみ脱いですってんてん」というひとことを残して自殺。
 この「すってんてん」という俗語を結語とする一句、辞世の句というにはあまりにも自己諧謔がすぎます。
 わざわざ自分の一生をちゃかして、笑いのめして死んだ男、甘粕正彦。

<偽満皇宮つづく>
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2007年05月30日


ニーハオ春庭「帝国の闇、身ぐるみ脱いですってんてん」
2007/05/30 水
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・帝国の闇、身ぐるみ脱いですってんてん

 天津租界から溥儀を連れだすなど、満州国設立の功労者であり、建国時には民政部警務司長、満州国参事だったにもかかわらず、帝政がしかれると、甘粕正彦は満州帝国の政府側には入ることができませんでした。
 甘粕の前歴が問題にされ、「殺人者として刑を受けたことのある人間を帝国の中枢におくことはできない」と、彼が政府幹部になることに反対する者がいたからです。

 満州国建国1932年より9年前の1923年、甘粕憲兵大尉は「無政府主義者・大杉栄伊藤野枝虐殺」の罪を一身に引き受け、裁判で陸軍との関わりを否定し続けました。
 甘粕に下った懲役は10年。

 しかしたった3年後には恩赦を受け、甘粕はフランスへ渡りました。渡航滞在費用を出したのは、陸軍です。
 この異例の扱い、その後、満州での謀略活動の中心者となったことなどを考えても、陸軍との関係、直接手を下した殺害者との関係には、複雑なものがあると思えます。

 裁判のとき、大杉伊藤とともに殺された7歳の甥について裁判長に質されると、さすがに甘粕も「子どもは自分が殺したのではない」と、否定しました。
 しかし、「では、殺した者はだれか」と追求を受けると、たちまち「すべて自分ひとりでやった、だれの指示も受けていない」と、最初の主張に戻り、自分以外の人間の関わりをすべて否定しました。 

 私は、甘粕は大杉伊藤虐殺に、直接手をくだした殺害者ではないかもしれない、と思っています。
 甘粕が直接の犯人ではないことを陸軍側が知っていること、「大杉事件と陸軍上層部との関わり」を隠し通したこと、この「負い目」が「フランス滞在資金提供」となったのだと考えます。

 甘粕が裁判で主張したように、「自分一人で考え、自分が直接手を下して大杉夫妻を殺害した」ということであるなら、なぜたった3年で大赦となったのか、フランス滞在費用を陸軍がだしたのか。

 私が「甘粕は殺人者」と思えないことの心情的な根拠のひとつは、関東大震災前に婚約した服部ミネが、甘粕出獄後に結婚していることです。

 女性の家族からみたら、婚約者が殺人者として刑を受けたとき、婚約解消しないで、出獄を待つ、というには、よほどの覚悟が必要です。
 ミネが甘粕との結婚の意思を変えなかったことを考えると、ミネに「この人となら一生そえる」と決意させる何かが正彦にあったのだと思えるのです。 

 もうひとつ、私が「甘粕は大杉伊藤虐殺真犯人ではない」と感じるのは、まったく私のミーハー心情から。

 私は、見田宗介(真木悠介)の著作が好きで、講演会も聞きにいくミーハーファンでした。社会学者、大学教授としては、毀誉褒貶ある見田先生ですが、私は好き。
 見田宗介の父親は、ヘーゲル哲学マルクス経済学の研究者見田石介です。見田石介、旧名は甘粕石介。石介の弟は甘粕春吉(宇治山田警察署長)。春吉の息子が甘粕正彦。
 見田宗介と甘粕正彦は従兄弟です。

 まったくのミーハー的考えですが、見田宗介の穏やかな静かな風貌と、正彦を直接知る人々の好意的証言とを重ね合わせると、これまでのように甘粕正彦を「大杉伊藤と7歳の甥っ子を無慈悲に虐殺した殺人犯」と、決めつけることができなくなりました。

 むろん、満映関係の人々が「甘粕さんはいい人」と、口をそろえたところで、甘粕が中国でしたことのすべてを肯定できるものではありません。
 内藤機関という謀略の部署を駆使した甘粕の行動、中国での暗躍は、偽満州国の闇の底を深く覆っています。

 『我が名はエリザベス』のなかで、甘粕は溥儀をあやつり、婉容を監視する「冷たい目の男」として登場します。
 満映のスタッフや俳優たちに見せる顔と、帝国の闇を仕切る謀略機関トップの顔の甘粕は、別人のようだったのかもしれません。

 真に「五族(日満漢朝蒙)共和」の理想をを実践しようとする人たちが集まり、新しい国作りをめざした人々も、一部にはいました。建国大学に集まった人々など。しかし、実際の国家運営はどんどん理想とはかけ離れていきました。
 満映で、中国人スタッフと日本人スタッフに平等に接した甘粕も、「満映」での理想と実際の満州社会の現実のずれは、よくわかっていたでしょう。

 甘粕は、自殺の前、中国人スタッフに「これからの中国映画は、君たちにかかっている。そのため映画機材を守り抜くように」と、指示しました。

 満州に設立されたインフラは、発電機材その他、ほとんどのものがソ連軍の手に渡り、ソ連に持ち去られて満州の地に残されませんでした。
 その中、唯一、映画機材は中国人スタッフによって確保され、戦後中国映画の発展につながったのです。

 溥儀と婉容、溥潔と嵯峨浩、甘粕正彦、川島芳子、李香蘭、、、、、
 満州帝国13年の徒花のような国家に登場した人々は、だれをとりあげても、波瀾万丈の映画が一本とれる数奇な人生を歩んだ人たち。

 私の希望のひとつは、赤川次郎によって、甘粕正彦を主人公とする評伝が書かれればいいのに、ということ。
 赤川次郎の父親赤川孝一は、甘粕正彦の自決を看取った人。満映での甘粕の側近で、戦後は東映幹部。

 赤川次郎が直接自分の父親について語った本は少ない。母以外の女性と暮らしていた父親だったから。
 『イマジネーション(今、もっとも必要なもの)』(光文社文庫は2007年2月発行)などで父親について語っているのですが。

 角田房子『甘粕大尉』などのすぐれた評伝がありますが、赤川が書いたら、また別の人物像がでてくるのではないでしょうか。

<偽満皇宮見学つづく>
06:27 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年05月31日


ニーハオ春庭「我不是台湾人」
2007/05/31 木
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・我不是台湾人

 偽満皇宮博物館見学。
 私が見学した5月13日、日曜の午後おそくだったためか、韓国人ツアー団体のほかは数えるほどしか入館者を見かけませんでした。

 私が皇帝や后妃の部屋をのぞいていると、係りの人がやってきて、一生懸命覚えたのであろう解説を朗々と始めます。私はそのたびに、「すみません、中国語わかりません」とお断りを言い、日本語の説明パネルを読みます。
 なんだか悪いことをしているような気分。

 私、四声の聴き取りは難しいし、発音は下手だし、話すのも聞くのもだめ。中国語で解説されても、わかりません。
 偽皇宮には、日本語説明が書いてあるのでありがたい。

 日本に来ている欧米人が英語で日本観光を済ませているようすを見ると、「日本観光をしようと思うなら、少しは日本語を覚えて観光したらいいのに」と思っていたのに、中国の観光地で、私は、片言の中国語のみですませており、館内の案内、解説の中国語はとんとわからない。ほんと、ちゃんと中国語を覚えて観光したら、もっといろいろ興味深いことがわかるだろうに。

 13年前、「我是日本人。私は日本人です」と言っても、よく「いや、あんたは日本人じゃないね。あんたの発音は南方出身者のなまりだよ」と言われたものでした。
 今回、偽満皇宮のおみやげ屋で『偽満州国明信片研究(満州時代の絵はがき写真集)』という本を買おうとして、値切っていたら、「あんたは台湾人だね」と言われました。

 13年前は、ほとんど見かけなかった台湾人。今は、東北にも観光にやってくるようになっているらしい。
 私と同じ時間に偽満皇宮を観光していたツアー客は、韓国人団体。この地域は、朝鮮族が多く住んでいるので、ソウルからの直行便も本数が増えています。団体客も増加しているのでしょう。
 市場で買い物をしていたとき「あんたは韓国人だろう」と言われたこともあります。

どうして私が日本人と思われないか。
 日本人観光客は値切ったりしないで、定価で買っていくから。また、この町に在住している日系企業の駐在員夫人などは、私のように服装に無頓着でなく、ちゃんとした服を着ているから。

 定価268元の『偽満州国明信片研究』という本、結局130元で買いました。
 長くこの地で日本語教育を続けてきた他大学の先生から、「80元まで値切った」という話を聞かされていたのですが、5時20分の閉館時間が迫っていたので、130元で手を打ちました。売店のおばちゃん、150元以下にはできない、と主張していたのですが、やはり閉館までにひとつでも多く売りたかったのでしょう。

 ただし、これも、家に帰ってから子細に眺めれば、正式な出版物をそっくりコピーした海賊版っぽい。絵はがき写真がボケボケの印刷です。
 海賊版だったら、定価265元なんて書いてあっても、制作側はコピー代製本代しかかかっていないのですから、元手いらず。制作費は10元20元なのかもしれません。それなら、80元で売っても130元で売っても、丸儲け。

 ほかにも買えと、おばちゃん、あれこれ勧めてきて、ずうずうしいことに、入り口近くの案内所で無料配布している「偽満州皇宮博物館案内」のガイドパンフレットを、1元で売りつけてきました。「これ、免費(無料)だよ」と、タダでもらったパンフレットを見せて退散。

<偽満皇宮つづく>
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