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天気 晴のち曇
今日の写真は2011年の目黒川の桜。
実は、今いちばん辛いのは右手中指のヒョウ疽の再発の痛み。去年と同じ指の爪の別の場所に出来てきた。去年のように指まで化膿して腫れることはないのに、痛みだけは前の症状に劣らない。夜、ベッドに入ると痛みが増すようで寝付けない。仕方なく鎮痛剤を飲んで寝る、という情けなさが数日続いている。パソコン入力には何とか支障はないけれど、昨日はちょっとものを書く用事があり、それでひどく痛くなってしまった。文字だけは、右手でしか書けない。つくづく、若い頃右手を怪我した時に左で文字を書く訓練をしておけば良かった、と。
一年も続くと、右手の使い方まで忘れてしまいそうだ。
書きたいことはたくさんある。でも、長く入力していると、やはり使わない中指まで響いてくる。
2011年の目黒川の桜、あの東日本大震災のあと、一ヶ月とは立っていない訳で。近いのでいつでも行ける、と思うと行かない、という場所が都内には幾つもあったが、その一つだった。もっとも、人の多い都会まで行かなくても多摩に桜の名所はたくさんあるので、あまり魅力を感じなかったのかも。
若い頃、大混雑の上野公園へ行き「桜は井の頭か小金井の方が・・」と思ったかららしい。
写真が、古いパソコンの中でなぜか劣化したみたいで・・
2011年の春、震災のあと、東京の人たちは私も同じだったが、やたら花見に出かけた。出かけた先で交通機関が動かないような地震に遭ったら、というシュミレーションが出来上がっていたので、結構、遠くまで行ったりした。家に居ても震災のあれこれをテレビで見ることになり、たまらなく心が重くなる。おまけに原発事故の放射能問題が首都を暗くしていて、幼い子供を持つ母親たちにはギスギスした日々だったようだ。ならば、家で余震に脅えるよりも桜でも見て、いつ会えなくなるかもしれない友人たちと今の不安を話し合って・・
という気分だったのかもしれない。
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目黒川の桜を見て、西郷公園へ行き、祐天寺へ出た。
西郷山からの写真。当時すでに、高層の建物に囲まれていた。今はもっと増えているのだろう。
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実は私は目黒の生まれ。戸籍上の地番はもうないので、場所を知っている両親・兄姉とも逝ってしまい正確には解らない。このあたりだろう、ということで歩き廻った。父親は外地勤務、母と兄姉と私は目黒に居たが、首都空襲が激しくなったので、房総半島の母の実家の海辺の村へ疎開した。遠縁の家の隠居所を借り、疎開者とはいえあまり惨めな暮らしでもなかったようだ。母の実家は昔、江戸へ産物を運ぶ海鮮問屋、明治以後に落ちぶれたとはいえ、戦時中も叔父が精米業を営んでいて、自家用の田畑も所有していた。だから米にはほぼ困らなかったし。
それはそうと、私は「東京生まれ」と言ったって目黒のことはほぼ覚えていない。出身地を書かされる書類には、「千葉県」と書くことにしていた。へええ、東京の出身?などと言われても気が重い。両親ともに疎開先の出身だったし、ことば遣いは未だに荒っぽい房総育ちで、高齢になっても夫に「話し方が乱暴過ぎる」と言われてきた。仕方がない、血筋は剥いても剥いても房総の人間のようだ。
東京大空襲の前年に疎開しているので、大空襲で燃える東京の空は対岸の疎開先で見たものの、目黒、というのは戸籍の出生地に残るだけ。その地番は、今は使われていないので、どこが「わが生地」なのやら。私の生まれたときのことを3歳半上の姉は覚えていると言った。だから、自宅出産だった訳で。
空襲のあったとき、家から、西郷山の西郷家のお邸の燃えるのが見えた、という。西郷邸、というのは西郷隆盛の末裔の家で。広大な土地を持っていたらしい。今は小高い公園になっていた。
そこを眺められた、というのだから、多分このあたり、という所に姉の通っていたという、名前だけは記憶にある小学校を見つけた。
このあたりで産まれたのか~ 普通の都会の住宅地から西郷山の方を眺め、感慨にふける・・ということもなく、我が「生地探し」は終わった。
東日本大震災は、被災地の端っこである東京の人たちに、生きていることの価値を考えるよう教えた気がする。
高層のビルのほとりの花すみれ KUMI
指のヒョウ疽の痛みとても長い気がしますが、現代医学でも簡単には治らないのですね。
お見舞い申し上げます。
>いつでも行ける、と思うと行かない、という場所が都内には幾つもあったが、その一つだった。
上の文章を読んだからか目黒川の桜も悲し気に感じられます。
>震災のあと、東京の人たちは私も同じだったが、やたら花見に出かけた。
そうでしたか、桜は人の気持ちを和ませる力を持っているんですかね。
>原発事故の放射能問題が首都を暗くしていて、幼い子供を持つ母親たちにはギスギスした日々だったようだ。
そうか、西洋人が日本を脱出したり、裕福な著名人が田舎に移転したなんて聞きましたね。
>家で余震に脅えるよりも桜でも見て、いつ会えなくなるかもしれない友人たちと今の不安を話し合って・・
このような文章に接したことはなかったので納得します。
>戦時中も叔父が精米業を営んでいて、自家用の田畑も所有していた。だから米にはほぼ困らなかったし。
それは良かったですね。
母から、次兄が炭を齧っていたような話を聞いたことを思い出します。
「何も食べるものがなかったんだから・・・」と言ってました。
>へええ、東京の出身?などと言われても気が重い。
長女と次女が東京から福岡の田舎に疎開した時、東京弁を話すのをみんなが珍しがったと話していましたね。
次女は今は生粋の博多弁しか話せませんが。
そうそう、母も博多弁でしたが、誰かが来た時ざーます言葉をしゃべっていたのでもの珍しく思ったものです(笑)
父が東京タワーに登って、自分が育った所はどこだろうと探していたら、「タワーの足元だった」なんて言ってましたね。
父は生涯東京訛りでした。
広島、長崎の原爆被害と比較するのは不謹慎だと思いますが、東京大空襲も同じような大被害だったようですね。
>西郷邸、というのは西郷隆盛の末裔の家で。広大な土地を持っていたらしい。
弟の西郷從道邸ですかね?
何という運命の悪戯、でも隆盛は後世に称えられ、盟友だった国を動かした大久保利通は郷里、鹿児島でも人気がないようだし・・・。
>普通の都会の住宅地から西郷山の方を眺め、感慨にふける・・ということもなく、我が「生地探し」は終わった。
私はたぶん貧乏のどん底で福岡の田舎で生まれたんでしょうが甘木病院だと聞いています。
>東日本大震災は、被災地の端っこである東京の人たちに、生きていることの価値を考えるよう教えた気がする。
なるほどですね。
このような実体験はなかなか聞いていない気がします。
有難うございました。
KUMIさんは目黒のお生まれだったのですね。
母も目黒の柿の木坂が出生地だったみたいです。
父親が転勤族だったらしいので日本中回って長崎で母は父に見初められたみたいです(笑)
指のひょうそうがお辛そうですね!
一日も早く痛みが軽くなりますように。。。
どうぞお大事に!
誤字脱字、あったら失礼を。
>現代医学でも簡単には治らないのですね。
現代医学のせいで治らないのだそうです。
免疫療法で失われた免疫力のため、このバイキン?は退治出来ないようなのです。
田にも痛みを伴わない副作用は色々あるのです。
で、肝心の「がん」だけは退治してくれているのです。ややこしいこと。
年とると「言葉に育ちが出る」ようですよ。
意識していなくても、小父さんも博多弁が出ているかもしれません。
郷里を捨てざるを得なかった福島の人たち、新しい地でどうしているか・・
戦争がなかったら、私は東京の山の手言葉のお嬢様になっていたでしょうね??
東日本大震災は、原発のことがあって、日本人の本音を揺さぶりました。
たとえば、「福島のさくらんぼ拒否の西国の人たち」の話に、涙しました。
國の責任とはいえ・・原発のない世はまだ産まれそうもありませんね。
きっと、東京のことばが生涯抜けない方だったと思います。
私も父が転勤で四国へ着いていき、関東にことばがイジメの対象になりました。
化学療法で免疫力がなくなっているので、色々な副作用が抜けないままです。
田は痛みを伴わないので我慢しているものの・・
今日は目が霞んでいて、小さな字がよく見えません。
誤字脱字、あったら失礼します。