平沢地区は、秦野市役所の西南西約1kmのところ
秦野市役所南側の「水無川通り」を西北西へ進み、約600mの「本町中学校前」信号を左(南西)へ、水無川を緑風橋で渡ります
約800mで一時停止の丁字路を右(北西)へ、約200mで「出雲大社相模分祠」の参道南側の第二駐車場に車を止めました
御嶽神社は、出雲大社相模分祠の参道の直ぐ西側に並んでいます
南側の道路から御嶽神社の境内を見ました
御嶽神社社號標です
境内に入ると右手に手水舎です
説明版です
御嶽神社
祭神 倭建之命(やまとたけるのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこ)・少名彦命(すくなひこのみこと)・櫛真知命(くしまちのみこと)
境内社 金毘羅八幡社・山王稲荷天神山之神合祀社
由緒沿革 創立年代は不詳だが、建久3年(1192)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し(その先を北条と言う。大化班田条理の名を今も残す)平沢村の鎮守であった。
境内には樹齢800年余の大欅2本(秦野市文化財指定木)があり、明徳3年(1392)46貫500文の当社家領が寄進されている。
慶長13年(1608)踊宮鈴張の地に家康公鷹狩の節当社に参拝、社殿の改修を命じた。翼慶長14年(1609)に改修、棟札に「奉修御嶽権現社檀事本願神主草山兵庫守、寺家分草山藤左ヱ門慶長14年酉年11月吉日・・・」とある。
現在の本殿はその時のもので、神職は白川家の配下であった。
宝永8年(1711)2月23日宗源宣旨により正一位御岳蔵王権現と称えられ(当社古文書)明治6年7月3日上地し、御嶽神社と改称、昭和9年幣帛料共進指定神社となる。昭和51年5月3日本殿を除き全社殿を新築木造銅版葺とした。
神社庁指定結婚式場は、明治13年出雲大社国造千家尊福宮司と後の報徳二宮神社初代祠宮草山貞胤翁によって勧請され、大国主之命を祭神とする大社造り神殿を式殿としている。
この式殿は、貞胤翁より草山文之助翁に引き続き、草山智義翁に引き継がれ智義翁は、片岡の信徒を始め多くの崇敬者の再建願望を自分の心とし再建に努力他界に際し、長男貞胤にその遺志を引き継がせた。
昭和47年御嶽神社の隣接地に本殿を再建、昭和54年8月幣殿・拝殿・参集殿の竣工式を執行、結婚式場は神奈川県神社庁の指定を受け現在に至る。
八坂神社
祭神 須佐之男命・大国主之命
境内社 道祖神社
由緒沿革 創立年代は不祥であるが、別名金毘宮と称し、境内には樹齢800年を超える大欅2本があり市の指定木である。
昭和8年の台風時に倒木した杉樹の年輪は985輪あった。
寛政元年(1459)酉年4月の社号額「金毘羅大権現は神祇宮資延王謹書」とあり、文政2年(1819)作の手水鉢及び同年の石燈籠一対がある。
神輿は寛政2年(1461)の作で、西光寺遷宮師時代、寺社の往復に奉仕した。
明治2年西開戸鎮座牛頭天王社(往古天王畑にあり)明治6年西光寺持八坂社を合祀し八坂神社と改称して独立したが、氏子民は八坂様とも金毘羅様とも称し親しんでいる。
昭和51年御嶽神社の社殿を移築改造して現神社となる。
笑顔の「厄除けえびす」様です
説明版です
厄除けえびす
平成23年9月21日関東地方に襲来した戦後最大級の台風15号は、神奈川県に大きな災害をもたらしました。
御嶽神社に於いても南側に立つ樹齢300年の欅が倒され神輿蔵・拝殿・えびす様を直撃し多大な被害を受けました。
しかし不思議なことに木をどかすと、えびす様の姿は何処にもありません、皆で周囲を探すと5m先の琴毘羅神社の横でいつもと変わらぬ笑顔で座っておられました。
左手に神楽殿のようです
目的の「千年の大ケヤキ」です
拝殿です
本殿覆い屋です
千年の大ケヤキを南側から
南東側から
西側から
説明版です
保存樹木(指定第1号) ・ ケヤキ(二レ科)
目通り周囲 4.8m ・ 指定昭和49年9月30日
八坂神社
御祭神 須佐之男命・大国主命
八坂神社の創立年月日は不祥。
当社の社殿は昭和42年、御嶽神社新築の際、古い社を移築したもので、昭和60年、屋根は銅版葺きとした。
疫病除けの御利益をもつとされる。
御神木 千年の大けやき
御嶽神社の境内には秦野市文化財指定木である樹齢千年余と500年余の御神木の大けやきが二本ある。
千年大けやきの腰の位置には大きなコブが生えており日照りの際、御神木のコブを引っ張ると伊勢原の大山より恵みの雨が降るとの伝承がある。平成になり老朽の為、取り除かれた。
千年の大ケヤキの北側には八坂神社です
八坂神社社殿です、社殿の裏側にもう一本のケヤキがあるようです
御嶽神社と八坂神社の間に「ヤブツバキ」です
平成22年開催の第61回全国植樹祭で皇后(現上皇后)陛下がお手播きになった、ヤブツバキの種の母樹ですね
もう一本のケヤキです
保存樹標柱です、こちらの方が目通り幹囲5.0mで太いですね
北側から見ました
こちら側の駐車場は、出雲大社相模分祠第三駐車場でした、東側への通路には露店が並んで賑やかでした
では、次へ行きましょう
秦野市役所南側の「水無川通り」を西北西へ進み、約600mの「本町中学校前」信号を左(南西)へ、水無川を緑風橋で渡ります
約800mで一時停止の丁字路を右(北西)へ、約200mで「出雲大社相模分祠」の参道南側の第二駐車場に車を止めました
御嶽神社は、出雲大社相模分祠の参道の直ぐ西側に並んでいます
南側の道路から御嶽神社の境内を見ました
御嶽神社社號標です
境内に入ると右手に手水舎です
説明版です
御嶽神社
祭神 倭建之命(やまとたけるのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこ)・少名彦命(すくなひこのみこと)・櫛真知命(くしまちのみこと)
境内社 金毘羅八幡社・山王稲荷天神山之神合祀社
由緒沿革 創立年代は不詳だが、建久3年(1192)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し(その先を北条と言う。大化班田条理の名を今も残す)平沢村の鎮守であった。
境内には樹齢800年余の大欅2本(秦野市文化財指定木)があり、明徳3年(1392)46貫500文の当社家領が寄進されている。
慶長13年(1608)踊宮鈴張の地に家康公鷹狩の節当社に参拝、社殿の改修を命じた。翼慶長14年(1609)に改修、棟札に「奉修御嶽権現社檀事本願神主草山兵庫守、寺家分草山藤左ヱ門慶長14年酉年11月吉日・・・」とある。
現在の本殿はその時のもので、神職は白川家の配下であった。
宝永8年(1711)2月23日宗源宣旨により正一位御岳蔵王権現と称えられ(当社古文書)明治6年7月3日上地し、御嶽神社と改称、昭和9年幣帛料共進指定神社となる。昭和51年5月3日本殿を除き全社殿を新築木造銅版葺とした。
神社庁指定結婚式場は、明治13年出雲大社国造千家尊福宮司と後の報徳二宮神社初代祠宮草山貞胤翁によって勧請され、大国主之命を祭神とする大社造り神殿を式殿としている。
この式殿は、貞胤翁より草山文之助翁に引き続き、草山智義翁に引き継がれ智義翁は、片岡の信徒を始め多くの崇敬者の再建願望を自分の心とし再建に努力他界に際し、長男貞胤にその遺志を引き継がせた。
昭和47年御嶽神社の隣接地に本殿を再建、昭和54年8月幣殿・拝殿・参集殿の竣工式を執行、結婚式場は神奈川県神社庁の指定を受け現在に至る。
八坂神社
祭神 須佐之男命・大国主之命
境内社 道祖神社
由緒沿革 創立年代は不祥であるが、別名金毘宮と称し、境内には樹齢800年を超える大欅2本があり市の指定木である。
昭和8年の台風時に倒木した杉樹の年輪は985輪あった。
寛政元年(1459)酉年4月の社号額「金毘羅大権現は神祇宮資延王謹書」とあり、文政2年(1819)作の手水鉢及び同年の石燈籠一対がある。
神輿は寛政2年(1461)の作で、西光寺遷宮師時代、寺社の往復に奉仕した。
明治2年西開戸鎮座牛頭天王社(往古天王畑にあり)明治6年西光寺持八坂社を合祀し八坂神社と改称して独立したが、氏子民は八坂様とも金毘羅様とも称し親しんでいる。
昭和51年御嶽神社の社殿を移築改造して現神社となる。
笑顔の「厄除けえびす」様です
説明版です
厄除けえびす
平成23年9月21日関東地方に襲来した戦後最大級の台風15号は、神奈川県に大きな災害をもたらしました。
御嶽神社に於いても南側に立つ樹齢300年の欅が倒され神輿蔵・拝殿・えびす様を直撃し多大な被害を受けました。
しかし不思議なことに木をどかすと、えびす様の姿は何処にもありません、皆で周囲を探すと5m先の琴毘羅神社の横でいつもと変わらぬ笑顔で座っておられました。
左手に神楽殿のようです
目的の「千年の大ケヤキ」です
拝殿です
本殿覆い屋です
千年の大ケヤキを南側から
南東側から
西側から
説明版です
保存樹木(指定第1号) ・ ケヤキ(二レ科)
目通り周囲 4.8m ・ 指定昭和49年9月30日
八坂神社
御祭神 須佐之男命・大国主命
八坂神社の創立年月日は不祥。
当社の社殿は昭和42年、御嶽神社新築の際、古い社を移築したもので、昭和60年、屋根は銅版葺きとした。
疫病除けの御利益をもつとされる。
御神木 千年の大けやき
御嶽神社の境内には秦野市文化財指定木である樹齢千年余と500年余の御神木の大けやきが二本ある。
千年大けやきの腰の位置には大きなコブが生えており日照りの際、御神木のコブを引っ張ると伊勢原の大山より恵みの雨が降るとの伝承がある。平成になり老朽の為、取り除かれた。
千年の大ケヤキの北側には八坂神社です
八坂神社社殿です、社殿の裏側にもう一本のケヤキがあるようです
御嶽神社と八坂神社の間に「ヤブツバキ」です
平成22年開催の第61回全国植樹祭で皇后(現上皇后)陛下がお手播きになった、ヤブツバキの種の母樹ですね
もう一本のケヤキです
保存樹標柱です、こちらの方が目通り幹囲5.0mで太いですね
北側から見ました
こちら側の駐車場は、出雲大社相模分祠第三駐車場でした、東側への通路には露店が並んで賑やかでした
では、次へ行きましょう
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます