ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県茨城町、宮崎(宮ヶ崎)城跡です!!

2015-04-13 06:38:55 | 城跡・館跡・陣屋跡
宮崎城跡は、茨城町役場の東南東約6km、涸沼の南岸にあります

紹介した、石崎城跡の涸沼対岸にあたります

県道16号のバイパスが城跡のほりの部分にできてしまっているようです


県道バイパス脇に大きな説明版が有ります、この前に駐車スペースが有ります
  宮崎城跡(宮ヶ崎城跡なのかも)
     鎌倉時代初期1220年代、鹿島郡領、鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹はこの地に土着し宮崎氏を名乗り
    領地は宮崎郷の内、五十町と当麻津(鉾田市)を支配していた。
     特に水運を押さえる水軍として活躍した初代家幹はこれより南方「きゅうでん掘」と呼ばれている15
    0メートル×100メートルの方形を呈した館に居住していた。
     その後、南北朝から室町初期には吉田郡河崎村(水戸市)から、用次、飯岡、菅谷、瀬落(小美玉市、
    鉾田市)までも領有し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持ち、茨城町一番の豪族となった、また鹿島大使役と
    して幹親(文永 年中)幹詮(建式)、(暦応から康永)が三度鹿島神社七月大祭の際使を務めている。
     南北朝期には北朝方として北畠親房方の神宮寺城、阿波崎城の攻撃戦闘に参加をしている。宮崎城は戦
    乱の時、詰めの城として使用した二本の堀と土塁で別けられた五つの曲輪から構成され、江戸氏の時代(
    1550年頃)に再整備されてものである。
     1416年(応永二十三年)十月上杉禅秀の乱に加担した宮崎氏は、烟田氏、江戸氏らに敗れ、九代2
    00年の永きに渡った茨城町一円の支配を終わる事となった。
     この地の北宮、定光院跡地は宮崎氏一族の墓地があり、多数の五輪塔、層塔、宝篋印塔と共に静かな眠
    りについている。
   平成二十六年七月             茨城町文化財保護審議委員 井坂英嗣
                        宮ヶ崎城跡保存会




説明版の脇に、二の廓への入口です

西側の段差です、下の畑と上の畑の段差は2m程でしょうか

東側です、竹藪の場所が三の廓との間の堀跡の様です

二の廓は、広い畑地に成っています

畑のビニールハウスで作業をされていた方に声をかけていただきました

   お話をうかがうと
     この城跡は、薮だらけだった所を、地区の老人たちが、自ら整備を始めています
     地権者が多くて、地元に居ない方も多く、許可を取るのに苦労なさったそうです

     遠くからも見に来ていただいて、歓びます、ゆっくり見て行ってやってください
   と、うれしい言葉を頂きました


二の廓と本丸の間の堀は、まだ整備前です

本丸側から二の丸側を振り返ります

畑の南東側には、土塁が廻っています

西側の堀跡は、畑地にするのに埋められている様ですが、窪みが確認できます

本丸の奥に石碑が見えてきます

宮ヶ崎城跡整備記念之碑です、高齢者クラブの方々にあたまが下がります



記念之碑の後ろ側にも土塁が残ります

東側には、堀の跡が確認できます

石碑北側の堀跡です、藪の中にはしっかりとした堀跡が有ります

西側の土塁です


西側にも堀が廻ります

県や市の史跡指定されて、本格的整備が待たれます

高齢者クラブの方々には地域活性化の見本となるでしょう

では、次へ行きましょう
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