大谷南2丁目は、海老名市役所の南東約1kmのところ
海老名市役所東側の道路を南へ進みます、約700mの「大谷水門」信号を左(東)へ
約300mで「大谷八幡宮入口」信号を右(南)へ、県道407号線です

間も無く左手に「大谷観音」が西向きにあります
前の広場に
車を止めさせて頂きました

大谷観音堂です


境内右手(南側)に目的のカヤが見えます

歌碑です・・・㋧根を張った 相生の榧に 観音堂

説明版です
大谷(おおや)如意輪観世音の由来
今より800年前、治承4年(1180年)1月19日、吉岡太郎光重の妻麻子が霊夢に感じて、この地に観世音を祀り、その信仰によって授かった6人の男子は成人して、いずれも智勇兼備の武将となった。
一族の知恵袋といわれた四男重茂は、大谷四郎と名乗り現在の大谷中学校所在地に舘を構え、深く如意輪観世音を信仰して朝夕礼拝を怠らなかった。また、攻守の備えを万全に施し、自ら大谷城と称した。
麻子は後に尼となって堂宇を守り、当観音堂の山号を麻尼山と称した。
光重は、宝治2年(1248年)重直のみ渋谷の庄に残し、5人の男子と一族を引き連れて薩摩の新領地に移ったが、麻尼山如意輪観世音はその後も渋谷一族の尊信厚く、代々一族の女子が住職となった。
元亀天正の頃、このお堂は小田原の北條を攻めるため相模に兵を進めた武田信玄の兵火にかかり焼け落ち、慶長年間に再建されたという。
本尊如意輪観世音は、奈良時代の僧行基の作と言い伝えられ、古くより安産と子育ての守り本尊として信仰され、毎月19日の縁日には近郷近在は無論、遠く甲州、武州方面からの参詣者も多かった。
正面虹梁上の竜は、彫匠入神の作といわれ、夜毎に池の水を飲みに下りるので、眼に釘を打って虹梁上に止めたという。
隣の十王堂の前の疣取り地蔵尊は、その足元の石で疣をこすると知らぬ間に疣がなくなるというので祈願する人が多い。疣が取れたら新しい清浄な石を添えてお礼のお参りをすると言い伝えられている。
左手の藪の中には、別に当時、清願寺があったが、明治の初期に廃寺となり、その建物は、中河内の吉祥寺に移されて現存している。
昭和55年11月 当所 小島直司 記
平成20年8月5日 大泉松夫 書

手水舎です



北側からカヤを見ました

かながわの名木100選の標柱です
神奈川県 かながわの名木100選 昭和59年12月選定
大谷観音堂のカヤ
和名:カヤ(イチイ科)
幹が2本に分かれた珍しい巨木で、樹林の中にあってひときわ堂々とそびえている。
「相生のカヤ」とも言われて親しまれている。
樹高 20m、胸高周囲 7.0m、樹齢 約400年(推定)
カヤは、宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。
樹高35m、胸高幹囲8m、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。



北東側から



東側から



南東側から



南側から

観音堂です、堂の前面には謹言等の詩や教訓が書かれた額が並びます

説明版に有った竜の彫刻ですが、目に釘が打たれているのかどうか分かりませんでした

北側の「閻魔堂」です

笑う閻魔様の話が記されていました
では、次へ行きましょう
海老名市役所東側の道路を南へ進みます、約700mの「大谷水門」信号を左(東)へ
約300mで「大谷八幡宮入口」信号を右(南)へ、県道407号線です

間も無く左手に「大谷観音」が西向きにあります

前の広場に


大谷観音堂です



境内右手(南側)に目的のカヤが見えます


歌碑です・・・㋧根を張った 相生の榧に 観音堂


説明版です
大谷(おおや)如意輪観世音の由来
今より800年前、治承4年(1180年)1月19日、吉岡太郎光重の妻麻子が霊夢に感じて、この地に観世音を祀り、その信仰によって授かった6人の男子は成人して、いずれも智勇兼備の武将となった。
一族の知恵袋といわれた四男重茂は、大谷四郎と名乗り現在の大谷中学校所在地に舘を構え、深く如意輪観世音を信仰して朝夕礼拝を怠らなかった。また、攻守の備えを万全に施し、自ら大谷城と称した。
麻子は後に尼となって堂宇を守り、当観音堂の山号を麻尼山と称した。
光重は、宝治2年(1248年)重直のみ渋谷の庄に残し、5人の男子と一族を引き連れて薩摩の新領地に移ったが、麻尼山如意輪観世音はその後も渋谷一族の尊信厚く、代々一族の女子が住職となった。
元亀天正の頃、このお堂は小田原の北條を攻めるため相模に兵を進めた武田信玄の兵火にかかり焼け落ち、慶長年間に再建されたという。
本尊如意輪観世音は、奈良時代の僧行基の作と言い伝えられ、古くより安産と子育ての守り本尊として信仰され、毎月19日の縁日には近郷近在は無論、遠く甲州、武州方面からの参詣者も多かった。
正面虹梁上の竜は、彫匠入神の作といわれ、夜毎に池の水を飲みに下りるので、眼に釘を打って虹梁上に止めたという。
隣の十王堂の前の疣取り地蔵尊は、その足元の石で疣をこすると知らぬ間に疣がなくなるというので祈願する人が多い。疣が取れたら新しい清浄な石を添えてお礼のお参りをすると言い伝えられている。
左手の藪の中には、別に当時、清願寺があったが、明治の初期に廃寺となり、その建物は、中河内の吉祥寺に移されて現存している。
昭和55年11月 当所 小島直司 記
平成20年8月5日 大泉松夫 書

手水舎です




北側からカヤを見ました


かながわの名木100選の標柱です
神奈川県 かながわの名木100選 昭和59年12月選定
大谷観音堂のカヤ
和名:カヤ(イチイ科)
幹が2本に分かれた珍しい巨木で、樹林の中にあってひときわ堂々とそびえている。
「相生のカヤ」とも言われて親しまれている。
樹高 20m、胸高周囲 7.0m、樹齢 約400年(推定)
カヤは、宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。
樹高35m、胸高幹囲8m、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。



北東側から




東側から




南東側から




南側から


観音堂です、堂の前面には謹言等の詩や教訓が書かれた額が並びます


説明版に有った竜の彫刻ですが、目に釘が打たれているのかどうか分かりませんでした


北側の「閻魔堂」です


笑う閻魔様の話が記されていました
では、次へ行きましょう

