氷川神社の「御神木銀杏」の東側に区指定天然記念物の「大銀杏」です
六本木グランドタワーから「なだれ坂」へ出ます
都道412号線を「六本木ながれ坂」信号を北西へ渡って突き当りを左(南西)へ
すぐに右(北西)へ坂道を上っていきます、右手はアメリカ大使館員の宿舎のようです、また突き当りを右(北東)へ
参道入口です
ここから参道脇の「御神木銀杏」の続きです
もう一本の大銀杏は、御神木銀杏の東側です
南側から
東側から、東京大空襲による焼損部が見えます
南西側から見ました、こちら側は綺麗ですね
説明版です
大銀杏 おおいちょう【港区天然記念物】
当社の大銀杏は推定樹齢450年、御社殿が遷座する以前よりこの地に生育していたと考えられ、江戸時の代初期から歴史の変遷を見守った当社のシンボルといえます。
昭和20年(1945年)の東京大空襲による焼損を目にすることができます。
しかし、毎年11月下旬に色鮮やかに黄葉し、生命力の強さと神秘さを感じさせます。
氷川神社にお参りしましょう
説明版です
氷川神社〈赤坂氷川神社〉
御祭神 素戔嗚尊 すさのおのみこと
奇稲田姫命 くしいなだひめのみこと
大己貴命 おおなむちのみこと
主祭神の素戔嗚尊は、勇猛果敢な神様であり、八岐の大蛇を退治されたことから、悪しきもの「厄」を祓う力がお強い神様です。また、その際に得た、神剣・天叢雲剣は、三種の神器のひとつ「草薙の剣」と伝えられております
二柱目の奇稲田姫命は、素戔嗚尊が八岐の大蛇を退治されたときに救いだされました。のちに二柱の神様はご結婚されたことから、夫婦神としてお祀りしております。
三柱目の大己貴命は、またの名を大国主命といい、あらゆる縁えお結ぶことから、古より全国で縁結びの神様として崇敬されております。
この三柱の神様をお祀りしていることから、特に厄除と良縁(縁結び)の御神徳が強い神社とされてきました。
起源
天暦5年(951年)蓮林僧正が一ッ木村(現赤坂4丁目付近)で一夜を明かすと夢中で御祭神のお告げがあり、この地に氷川明神の社殿を建てお祀りをしたことにはじまります。
創祀からおよそ百年後の治暦2年(1066年)関東で大きな旱魃があり、苦しむ村人たちが社に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りました。以来よく神事が執り行われるようになります。
江戸中期の享保元年(1716年)、旧徳川家出身の吉宗公が8代将軍職を継ぐにあたり、紀州藩の中屋敷が赤坂にあったことから、幕府の氷川明神への尊信は高まり、同14年(1729年)吉宗公は老中水野忠之を総責任者に命じて現在地に社殿を造営しました。
翼15年(1730年)4月26日に一ッ木村から現在地への遷座が行われ、28日には吉宗公直々のご参拝がありました。以後14代将軍家茂公までの歴代将軍の朱印状が下付されました。
明治元年、明治天皇より東京の鎮護と万民の安泰を祈る「准勅祭社」に定められ、現在では「東京十社」の一社に数えられております。
浅野土佐守邸跡 あさのとさのかみていあと
御社殿が建立する以前、この地には浅野内匠頭長矩の正室瑶泉院のご実家である三次藩浅野家の下屋敷がありました。
元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城内の「松之廊下」で吉良上野介義央と刃傷沙汰に及び、即日切腹を命じられると瑶泉院は生家である下屋敷に引き取られたと伝えられています。
歌舞伎「忠臣蔵」で、吉良邸討ち入り直前の大石蔵之助と瑶泉院の別れの場面を描いた「南部坂雪の別れ」の舞台でもあります。
その後、浅野家は世継ぎに恵まれず享保3年(1718年)断絶となり、領地は広島藩へ還付されました。享保15年(1730年)、現在の赤坂4丁目からこの地へ赤坂氷川神社が遷座され、今日に至ります。
社殿・境内
総欅造り銅葺朱塗にして、丹青荘重の一間社流造の現社殿は、安政の大地震、関東大震災、東京大空襲等の被災を奇跡的に免れ、建立当時ののままの姿を残し、東京都有形文化財にも指定されています。
昭和4年に遷座200年を祝し、拝殿格子天井には、長華崖による「花鳥」が、壁間には宮部衆芳による「鳳凰」は描かれています。
境内には江戸の年号が刻まれた鳥居・灯籠・狛犬が多数あり、都内では江戸の情景がそのまま残る珍し神社の一つとなっています。
また、秋には鮮やかな紅(黄)葉に染まる天然記念物の大銀杏(樹齢400年)がある他、幕末の志士勝海舟が名付けた「四郷稲荷」もお祀りされています。
狛犬・灯籠
境内には七対もの狛犬がおり、狛犬の宝庫と言われております。それらの多くが祭礼や式典に合わせて奉納されたものであり、当社が地域内の深い信仰を集めてきたことを物語っています。
中門両脇の狛犬は、御社殿が建立されるより前の延宝3年(1675年)の銘があり、都内神社に現存する「石像狛犬」の中では最も古いものとされます。
また、石燈籠も狛犬と同じく7対境内に奉納されております。明かりを灯すことで邪鬼を祓い、御祭神の加護を願うためのものです。
中門前の灯籠は、御社殿の遷座を担当した老中水野忠之は、御社殿の完成記念に奉納したもので、港区有形文化財に指定されています。
祭礼
例祭日 毎年9月15日
神幸祭は例祭に近い日曜日に行われます。
最盛期であった江戸時代には幕府の監督下のもと、宮神輿2基と江戸型山車13本のほか、さまざまな附け祭りが氏子地域を巡行し江戸で3番目に位置付けるほどの規模でした。
現在の神幸祭では、吉宗公将軍就任300年を機に、平成28年に新調した宮神輿をはじめ氏子町会の神輿や江戸から奇跡的に残存している江戸型山車が連合巡行し、都心の高層ビルを背景に江戸絵巻が繰り広げられています。
「東京十社めぐり」の案内板です
三ノ鳥居です
手水舎です
中門(楼門)です
拝殿です
本殿は拝殿の屋根の後ろに見る事が出来ました
では、次は「旧細川邸のシイ」を見に行きましょう
六本木グランドタワーから「なだれ坂」へ出ます
都道412号線を「六本木ながれ坂」信号を北西へ渡って突き当りを左(南西)へ
すぐに右(北西)へ坂道を上っていきます、右手はアメリカ大使館員の宿舎のようです、また突き当りを右(北東)へ
参道入口です
ここから参道脇の「御神木銀杏」の続きです
もう一本の大銀杏は、御神木銀杏の東側です
南側から
東側から、東京大空襲による焼損部が見えます
南西側から見ました、こちら側は綺麗ですね
説明版です
大銀杏 おおいちょう【港区天然記念物】
当社の大銀杏は推定樹齢450年、御社殿が遷座する以前よりこの地に生育していたと考えられ、江戸時の代初期から歴史の変遷を見守った当社のシンボルといえます。
昭和20年(1945年)の東京大空襲による焼損を目にすることができます。
しかし、毎年11月下旬に色鮮やかに黄葉し、生命力の強さと神秘さを感じさせます。
氷川神社にお参りしましょう
説明版です
氷川神社〈赤坂氷川神社〉
御祭神 素戔嗚尊 すさのおのみこと
奇稲田姫命 くしいなだひめのみこと
大己貴命 おおなむちのみこと
主祭神の素戔嗚尊は、勇猛果敢な神様であり、八岐の大蛇を退治されたことから、悪しきもの「厄」を祓う力がお強い神様です。また、その際に得た、神剣・天叢雲剣は、三種の神器のひとつ「草薙の剣」と伝えられております
二柱目の奇稲田姫命は、素戔嗚尊が八岐の大蛇を退治されたときに救いだされました。のちに二柱の神様はご結婚されたことから、夫婦神としてお祀りしております。
三柱目の大己貴命は、またの名を大国主命といい、あらゆる縁えお結ぶことから、古より全国で縁結びの神様として崇敬されております。
この三柱の神様をお祀りしていることから、特に厄除と良縁(縁結び)の御神徳が強い神社とされてきました。
起源
天暦5年(951年)蓮林僧正が一ッ木村(現赤坂4丁目付近)で一夜を明かすと夢中で御祭神のお告げがあり、この地に氷川明神の社殿を建てお祀りをしたことにはじまります。
創祀からおよそ百年後の治暦2年(1066年)関東で大きな旱魃があり、苦しむ村人たちが社に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りました。以来よく神事が執り行われるようになります。
江戸中期の享保元年(1716年)、旧徳川家出身の吉宗公が8代将軍職を継ぐにあたり、紀州藩の中屋敷が赤坂にあったことから、幕府の氷川明神への尊信は高まり、同14年(1729年)吉宗公は老中水野忠之を総責任者に命じて現在地に社殿を造営しました。
翼15年(1730年)4月26日に一ッ木村から現在地への遷座が行われ、28日には吉宗公直々のご参拝がありました。以後14代将軍家茂公までの歴代将軍の朱印状が下付されました。
明治元年、明治天皇より東京の鎮護と万民の安泰を祈る「准勅祭社」に定められ、現在では「東京十社」の一社に数えられております。
浅野土佐守邸跡 あさのとさのかみていあと
御社殿が建立する以前、この地には浅野内匠頭長矩の正室瑶泉院のご実家である三次藩浅野家の下屋敷がありました。
元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城内の「松之廊下」で吉良上野介義央と刃傷沙汰に及び、即日切腹を命じられると瑶泉院は生家である下屋敷に引き取られたと伝えられています。
歌舞伎「忠臣蔵」で、吉良邸討ち入り直前の大石蔵之助と瑶泉院の別れの場面を描いた「南部坂雪の別れ」の舞台でもあります。
その後、浅野家は世継ぎに恵まれず享保3年(1718年)断絶となり、領地は広島藩へ還付されました。享保15年(1730年)、現在の赤坂4丁目からこの地へ赤坂氷川神社が遷座され、今日に至ります。
社殿・境内
総欅造り銅葺朱塗にして、丹青荘重の一間社流造の現社殿は、安政の大地震、関東大震災、東京大空襲等の被災を奇跡的に免れ、建立当時ののままの姿を残し、東京都有形文化財にも指定されています。
昭和4年に遷座200年を祝し、拝殿格子天井には、長華崖による「花鳥」が、壁間には宮部衆芳による「鳳凰」は描かれています。
境内には江戸の年号が刻まれた鳥居・灯籠・狛犬が多数あり、都内では江戸の情景がそのまま残る珍し神社の一つとなっています。
また、秋には鮮やかな紅(黄)葉に染まる天然記念物の大銀杏(樹齢400年)がある他、幕末の志士勝海舟が名付けた「四郷稲荷」もお祀りされています。
狛犬・灯籠
境内には七対もの狛犬がおり、狛犬の宝庫と言われております。それらの多くが祭礼や式典に合わせて奉納されたものであり、当社が地域内の深い信仰を集めてきたことを物語っています。
中門両脇の狛犬は、御社殿が建立されるより前の延宝3年(1675年)の銘があり、都内神社に現存する「石像狛犬」の中では最も古いものとされます。
また、石燈籠も狛犬と同じく7対境内に奉納されております。明かりを灯すことで邪鬼を祓い、御祭神の加護を願うためのものです。
中門前の灯籠は、御社殿の遷座を担当した老中水野忠之は、御社殿の完成記念に奉納したもので、港区有形文化財に指定されています。
祭礼
例祭日 毎年9月15日
神幸祭は例祭に近い日曜日に行われます。
最盛期であった江戸時代には幕府の監督下のもと、宮神輿2基と江戸型山車13本のほか、さまざまな附け祭りが氏子地域を巡行し江戸で3番目に位置付けるほどの規模でした。
現在の神幸祭では、吉宗公将軍就任300年を機に、平成28年に新調した宮神輿をはじめ氏子町会の神輿や江戸から奇跡的に残存している江戸型山車が連合巡行し、都心の高層ビルを背景に江戸絵巻が繰り広げられています。
「東京十社めぐり」の案内板です
三ノ鳥居です
手水舎です
中門(楼門)です
拝殿です
本殿は拝殿の屋根の後ろに見る事が出来ました
では、次は「旧細川邸のシイ」を見に行きましょう
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