下ノ原地区は、檜枝岐村役場のある地区です
檜枝岐村役場の無料駐車場に車を止めさせて頂いて、国道沿いの各所を廻りました
駐車場入り口の案内板(南側から)です
檜枝岐村役場です
駐車場の観光案内板です
国道352号線に出て南へ100m程で国道右手に、桂の樹冠が見えて来ました
星立庵前です
六地蔵様です
由来の石碑です
六地蔵由来
此の地は昔から冷害年は餓死年と言い多くの餓死者を出したことがあった。
働ける者のみが生きるため「間引き」と言う悲惨な行為があったとか…その霊を慰めるために建てられた六体の稚児像である。
あはれきに 旅衣の袖も ぬれにけり
桧枝岐なる稚児の像見て・・・川上㐂久子作
*川上 喜久子(かわかみ きくこ、明治37年(1904)~ 昭和60年-(1985)は、第11回文學界賞受賞の小説家です。
*㐂の字は、常用漢字にも人名漢字にも指定されていないため、喜久子で表記されるようです。
星立庵です
説明版です
星立庵
昔、星家において建立したので、この名がある。延徳(1489~1492)の頃、星家が最も隆盛を極めた時代に建立されたと伝えられる。
一時は住職が存在したこともあるという。また、小学校の校舎として明治44年(1911)まで使われた。
現在は、御堂と言って村民共有の庵として仏教信仰の中心をなしている。
檜枝岐村
境内の大木は黒檜?でしょうか
境内北側の殉難碑です
笠井少佐以下七士 殉難之碑
昭和13年2月18日、旧陸軍熊谷飛行学校において、冬季雲中及び雪中におけえる気象状況研究調査目的で飛行中、不幸にも当村片貝沢山中に墜落し、各種方法手段を盡し捜索するも発見できず、3月16日に至り、当村在住猟師かが発見す。
遭難者中笠井大尉の一週間、飢えと寒気に耐へ乍ら書綴られた遺書は、その頃多くの国民の熱涙をさそい、実に悲痛な殉職の姿であった。
この碑は、当時福島県南会津支廳長が発起人となり、昭和14年8月現地片貝沢出口に建立、昭和33年8月電源開発(株)奥只見ダム建設により、大津也岐平に移し、昭和57年9月現在本村星立庵の地に移し、永く慰霊するものなり。
昭和57年9月 福島県檜枝岐村建立
*埼玉県にあった熊谷飛行学校から飛び立った陸軍機が 厳冬期の銀山平に墜落した。
対ソ連戦に備えての耐寒訓練がったが、 大寒波のため操縦レバーが凍結し操縦不能に陥ったためだった。
乗組員7人は全員死亡したが、特に笠井少佐は猛吹雪の中で7日間生存し、 機内壁面、地図、カメラのケースの裏にまで家族等に遺書を残していたという。
*魚沼市大沢の天満宮にも慰霊碑があり、慰霊祭が行なわれているそうです。
国道沿いに点在する場所を「歴史文化財めぐりMAP」で確認しましょう、六地蔵様は⓶ですね
大きな切り株が有ります
説明版です
開拓者の墓印
明治中頃まで、これより北に住家はなく、この付近は倉や墓石が並ぶ、村外れであった。
本村集落の北側道脇に、唐松(枯死)、桂、黒檜の三本が等間隔にあり、古老の話によると村を開いた人で、南より治部右エ門、勘右エ門、勘左エ門の墓印だと云う。
承和(834~848)の昔、越後の国より藤原常衡、大友師門、熊谷勘解由が来たと伝えられる所から、或いはこの人達ではと思われる点もある。
檜枝岐村
南側から見ました、これが勘左エ門の黒檜の切株ということなのでしょうか
すぐ南側にカツラです
東側から、勘右エ門の墓印なのでしょうか
南東側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
南側から見ました
さらに南側には「虫歯様」です
説明版です
星家先祖の墓(虫歯様)
星家第4代越後守吉邦(1633没)の墓であるが、村人からは「虫歯様」と呼ばれている。
この墓の下手にある桂の木に「奥州仙台安保原地蔵、口中一切ノ病」と神の表に書き、裏には願主の年齢と性別を書いた札を下げると、口中の一切の病気にならず、虫歯の痛みも治るという信仰があった。
今でもお盆になると多くの線香があげられ、頭を垂れている村人の姿が見られる。
檜枝岐村
このへんで、続きにします
檜枝岐村役場の無料駐車場に車を止めさせて頂いて、国道沿いの各所を廻りました
駐車場入り口の案内板(南側から)です
檜枝岐村役場です
駐車場の観光案内板です
国道352号線に出て南へ100m程で国道右手に、桂の樹冠が見えて来ました
星立庵前です
六地蔵様です
由来の石碑です
六地蔵由来
此の地は昔から冷害年は餓死年と言い多くの餓死者を出したことがあった。
働ける者のみが生きるため「間引き」と言う悲惨な行為があったとか…その霊を慰めるために建てられた六体の稚児像である。
あはれきに 旅衣の袖も ぬれにけり
桧枝岐なる稚児の像見て・・・川上㐂久子作
*川上 喜久子(かわかみ きくこ、明治37年(1904)~ 昭和60年-(1985)は、第11回文學界賞受賞の小説家です。
*㐂の字は、常用漢字にも人名漢字にも指定されていないため、喜久子で表記されるようです。
星立庵です
説明版です
星立庵
昔、星家において建立したので、この名がある。延徳(1489~1492)の頃、星家が最も隆盛を極めた時代に建立されたと伝えられる。
一時は住職が存在したこともあるという。また、小学校の校舎として明治44年(1911)まで使われた。
現在は、御堂と言って村民共有の庵として仏教信仰の中心をなしている。
檜枝岐村
境内の大木は黒檜?でしょうか
境内北側の殉難碑です
笠井少佐以下七士 殉難之碑
昭和13年2月18日、旧陸軍熊谷飛行学校において、冬季雲中及び雪中におけえる気象状況研究調査目的で飛行中、不幸にも当村片貝沢山中に墜落し、各種方法手段を盡し捜索するも発見できず、3月16日に至り、当村在住猟師かが発見す。
遭難者中笠井大尉の一週間、飢えと寒気に耐へ乍ら書綴られた遺書は、その頃多くの国民の熱涙をさそい、実に悲痛な殉職の姿であった。
この碑は、当時福島県南会津支廳長が発起人となり、昭和14年8月現地片貝沢出口に建立、昭和33年8月電源開発(株)奥只見ダム建設により、大津也岐平に移し、昭和57年9月現在本村星立庵の地に移し、永く慰霊するものなり。
昭和57年9月 福島県檜枝岐村建立
*埼玉県にあった熊谷飛行学校から飛び立った陸軍機が 厳冬期の銀山平に墜落した。
対ソ連戦に備えての耐寒訓練がったが、 大寒波のため操縦レバーが凍結し操縦不能に陥ったためだった。
乗組員7人は全員死亡したが、特に笠井少佐は猛吹雪の中で7日間生存し、 機内壁面、地図、カメラのケースの裏にまで家族等に遺書を残していたという。
*魚沼市大沢の天満宮にも慰霊碑があり、慰霊祭が行なわれているそうです。
国道沿いに点在する場所を「歴史文化財めぐりMAP」で確認しましょう、六地蔵様は⓶ですね
大きな切り株が有ります
説明版です
開拓者の墓印
明治中頃まで、これより北に住家はなく、この付近は倉や墓石が並ぶ、村外れであった。
本村集落の北側道脇に、唐松(枯死)、桂、黒檜の三本が等間隔にあり、古老の話によると村を開いた人で、南より治部右エ門、勘右エ門、勘左エ門の墓印だと云う。
承和(834~848)の昔、越後の国より藤原常衡、大友師門、熊谷勘解由が来たと伝えられる所から、或いはこの人達ではと思われる点もある。
檜枝岐村
南側から見ました、これが勘左エ門の黒檜の切株ということなのでしょうか
すぐ南側にカツラです
東側から、勘右エ門の墓印なのでしょうか
南東側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
南側から見ました
さらに南側には「虫歯様」です
説明版です
星家先祖の墓(虫歯様)
星家第4代越後守吉邦(1633没)の墓であるが、村人からは「虫歯様」と呼ばれている。
この墓の下手にある桂の木に「奥州仙台安保原地蔵、口中一切ノ病」と神の表に書き、裏には願主の年齢と性別を書いた札を下げると、口中の一切の病気にならず、虫歯の痛みも治るという信仰があった。
今でもお盆になると多くの線香があげられ、頭を垂れている村人の姿が見られる。
檜枝岐村
このへんで、続きにします
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます