ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県茨木町、宮ヶ崎館跡です!!

2015-04-14 06:06:43 | 城跡・館跡・陣屋跡
宮ヶ崎館跡は、宮崎城跡の直ぐ南側にあります

県道16号線バイパスを挟んで南側に鹿嶋神社が有り

その南側の畑地の中に遺構が残っています

宮崎城跡から500m程南です

宮崎城が詰の城で、宮ヶ崎館が居館部分と言うこともできそうです


東西に延びる道路の南側に堀跡があります、堀の中は薮に成っています

堀の切れ目は虎口の趾でしょうか

堀の内側には大きな土塁が残っています、北側道路からは薮が濃くてわかりませんでした

虎口状の部分を入った内側です、北側から東側に大きな土塁が廻っています

南側へ延びる堀と土塁の北西隅の部分です、ここから南の一部が農地に成ってしまって消えています


土塁と堀跡が、消えてしまった部分から繋がって南に延びています

南側は農地化されてしまって、土塁も低く成ってしまっています

東西110m南北150mほどの方形の居館跡でした

では、次へ行きましょう




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茨城県茨城町、宮崎(宮ヶ崎)城跡です!!

2015-04-13 06:38:55 | 城跡・館跡・陣屋跡
宮崎城跡は、茨城町役場の東南東約6km、涸沼の南岸にあります

紹介した、石崎城跡の涸沼対岸にあたります

県道16号のバイパスが城跡のほりの部分にできてしまっているようです


県道バイパス脇に大きな説明版が有ります、この前に駐車スペースが有ります
  宮崎城跡(宮ヶ崎城跡なのかも)
     鎌倉時代初期1220年代、鹿島郡領、鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹はこの地に土着し宮崎氏を名乗り
    領地は宮崎郷の内、五十町と当麻津(鉾田市)を支配していた。
     特に水運を押さえる水軍として活躍した初代家幹はこれより南方「きゅうでん掘」と呼ばれている15
    0メートル×100メートルの方形を呈した館に居住していた。
     その後、南北朝から室町初期には吉田郡河崎村(水戸市)から、用次、飯岡、菅谷、瀬落(小美玉市、
    鉾田市)までも領有し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持ち、茨城町一番の豪族となった、また鹿島大使役と
    して幹親(文永 年中)幹詮(建式)、(暦応から康永)が三度鹿島神社七月大祭の際使を務めている。
     南北朝期には北朝方として北畠親房方の神宮寺城、阿波崎城の攻撃戦闘に参加をしている。宮崎城は戦
    乱の時、詰めの城として使用した二本の堀と土塁で別けられた五つの曲輪から構成され、江戸氏の時代(
    1550年頃)に再整備されてものである。
     1416年(応永二十三年)十月上杉禅秀の乱に加担した宮崎氏は、烟田氏、江戸氏らに敗れ、九代2
    00年の永きに渡った茨城町一円の支配を終わる事となった。
     この地の北宮、定光院跡地は宮崎氏一族の墓地があり、多数の五輪塔、層塔、宝篋印塔と共に静かな眠
    りについている。
   平成二十六年七月             茨城町文化財保護審議委員 井坂英嗣
                        宮ヶ崎城跡保存会




説明版の脇に、二の廓への入口です

西側の段差です、下の畑と上の畑の段差は2m程でしょうか

東側です、竹藪の場所が三の廓との間の堀跡の様です

二の廓は、広い畑地に成っています

畑のビニールハウスで作業をされていた方に声をかけていただきました

   お話をうかがうと
     この城跡は、薮だらけだった所を、地区の老人たちが、自ら整備を始めています
     地権者が多くて、地元に居ない方も多く、許可を取るのに苦労なさったそうです

     遠くからも見に来ていただいて、歓びます、ゆっくり見て行ってやってください
   と、うれしい言葉を頂きました


二の廓と本丸の間の堀は、まだ整備前です

本丸側から二の丸側を振り返ります

畑の南東側には、土塁が廻っています

西側の堀跡は、畑地にするのに埋められている様ですが、窪みが確認できます

本丸の奥に石碑が見えてきます

宮ヶ崎城跡整備記念之碑です、高齢者クラブの方々にあたまが下がります



記念之碑の後ろ側にも土塁が残ります

東側には、堀の跡が確認できます

石碑北側の堀跡です、藪の中にはしっかりとした堀跡が有ります

西側の土塁です


西側にも堀が廻ります

県や市の史跡指定されて、本格的整備が待たれます

高齢者クラブの方々には地域活性化の見本となるでしょう

では、次へ行きましょう
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埼玉県所沢市、滝の城(再々訪)です!!

2015-04-12 06:23:13 | 城跡・館跡・陣屋跡
滝の城は、関越自動車道所沢インターチェンジの南側

柳瀬川に面した高地の先端部に有るのは、すでに紹介済みですね

今回は、外廓の推定大手より本丸へ向かってみましょう


案内図を確認していきます

県道179号線の城跡の東側を流れる川は大外堀ですのでその西側を南へ

この下に滝があったようです、滝の城の呼び名の元ですね

推定大手の土塁が左に有ります

石碑には「物見櫓址」となっています


土塁には「カタクリ」が咲いています

三の廓への入口です

右へ行くと三の郭です

左側の物見櫓趾へいきます

細い土塁が伸びています

埼玉県の史跡境界です

広く成った先端部です

物見櫓趾の石碑です、戻りましょう

正面の土塁にも

物見櫓趾の石碑が立っています、すでに三か所目です

二の郭と外廓の間の堀です

三の郭入口です

三の郭には茶室が有ったとか

井戸の跡です

堀の向こうに本丸です

小さな馬出が有ります

馬出と本丸の間には橋が架かっていたようです

二の丸と外廓のあいだの堀です

二の郭です土塁が廻ります

南半分は、社務所に成っています

社務所前、本丸との間の堀です


本丸へ行きましょう

城山神社です

本殿です

本殿の裏側に発掘調査で見つかった四脚門の説明版が有ります

埼玉県指定史跡の碑です

瀧之城本丸之趾の碑です

説明版が有ります

二の丸西側の堀です

東側の二重掘りです

外側から二の丸入口に城山神社の鳥居が有ります



西側の二重掘りです

西側入口に案内図が有ります

案内板乱立です

城山神社の石碑です

サクラがまだ残っていました

では、次へ行きましょう
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埼玉県所沢市、柳瀬荘・黄林閣(国指定重要文化財)です!!

2015-04-11 07:22:39 | 文化財・寺社
黄林閣は、所沢インターチェンジの東、坂の下信号の直ぐ北側にあります

国道463号線で、所沢インターから、さいたま市方向へ進み

坂道を下り切った信号の先左側に

駐車場の案内板が有ります

直ぐ脇にあるのが長屋門です

長屋門の裏側に駐車場が有ります(公開日・毎週木曜日)

駐車場に説明版が有ります
   柳瀬荘案内
    この柳瀬荘はもと故松永安エ門氏(耳庵)の別荘でいたが、昭和23年3月に東京国立博物館へ寄贈されました。
   敷地は17235平方メートル、建物は重要文化財の「黄林閣」のほか書院造りの「斜月亭」と茶室の「久木庵」な
   どがあります。
  黄林閣
       この建物は、東京都東村山市に、天保15年(1844)大庄屋であった村野家の住宅として建てられたも
      ので、昭和5年に故松永安左エ門氏(明治8年~昭和46年、電力事業に生涯を捧げ「電力の鬼」といわれた
      実業家、茶道・美術に造詣が深かった。)が譲り受けてここに移築し、別荘として使っていたものです、江戸
      時代・天保期の特色をよく示すものとして重要文化財に指定されています。
     木造平屋建、入母屋造茅葺、建築面積381平方メートル、桁行13間、梁間6間半、昭和53年国指定重要文化財
  斜月亭
       この建物は昭和13年頃に東大寺や当麻寺などの古材をもって建てられたと伝えられており、その造りは近代数
      奇者といわれた故松永氏の個性あふれる趣に満ちています。
     木造平屋建、瓦葺、数寄屋風書院、建築面積151平方メートル、8畳の上の間、6畳次の間、縁座敷の表5畳
  久木庵
       この茶室はもと江戸初期の武士土岐二三が建てたもので、解体されていた旧材料をもって昭和13年頃に建て替
      えられたものです。
     木造平屋建て、鉄板葺、真壁造、建築面積17平方メートル、2畳台目の茶室及び4畳水屋  


駐車場の脇に階段が有ります、ここを上がって行きます

サクラの花びらが通に舞い降りています

登り切ると門があります

黄林閣です





重要文化財です

説明版が有ります

黄林閣入口には松永氏の説明が有ります


斜月亭です


久木庵です

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埼玉県さいたま市、見沼田んぼです!!

2015-04-10 17:21:09 | Weblog
さいたま市の見沼区の見沼田んぼは

さいたま新都心から東へ、そして南へと続く低地です

見沼代用水によって、田圃が営まれています

見沼代用水は、利根川の利根大堰から約60kmを流れて来ます

春のこの時期、桜が満開を過ぎていましたが行って来ました

??野田のサギ山は、ここだったんだ


見沼田んぼの見どころ安内です

さぎ山記念公園マップです


ヤマブキです


ユキヤナギです

モクレンでしょうか


梅がまだ満開でっした



見沼代用水の側道は、サクラの名所です

散り始めの花びらがあちこちに見られます

見沼代用水の中は、サクラの花筏です

見沼桜並木周辺案内図ですが、わかりずらいですね~

見沼田んぼ周辺文化財案内です、文化財周りはまたにしましょう




見沼田んぼの干拓に功績のあった井澤弥惣兵衛為承の銅像です

まだまだ桜は見ごろです

では、次へ行きましょう
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埼玉県北本市、石戸蒲サクラ(国指定天然記念物)です!!

2015-04-09 07:17:08 | 
昨日は、四月というのに雪の降る寒い日でしたが、花見の話題です

石戸蒲桜は、日本五大桜の一つですが、余り知られていないのが残念ですが

花見の時期を過ぎてしまいましたが行って来ました

北本市市役所の南西約3km、北里研究所メディカルセンターの南側東光寺に有ります

駐車場が有ります

日本五大桜石戸蒲サクラの幟がにぎやかに掲げられています

東光寺です

東光寺入口にも大きな桜の保護樹木が有ります

六地蔵さまです

階段を上がりましょう

階段上に国指定天然記念物 蒲サクラの標柱です

蒲サクラです

余り大きく感じないのは、根元から幹が分かれているせいでしょうか

大枝は支柱で支えられています

根本には五輪塔が有ります

散り始めた花びらが地面を覆います

東光寺本堂です

説明版が有ります、今は2本しかない幹も、嘗ては4本有って、今の二倍以上の巨木だったようです
  大正十一年十月十二日指定
  「石戸蒲ザクラ」は。福島県三春の滝桜・山梨県山高の神代桜・静岡県狩宿の下馬桜・岐阜県根尾谷の淡墨桜と共に
 日本五大桜に数えられる名木である。
  「蒲ザクラ」の名称は、鎌倉幕府を開いた、源頼朝の弟蒲冠者源範頼の伝説による。一説には、範頼が石戸に来た時
 についてきた枝が根づいた」のがこの桜で、蒲冠者の名にちなんで「蒲ザクラ」と名付けられたという。
  天然記念物に指定された当時は四本の大きな幹に分かれ、根元の周囲は十一メートルもあったと記録されている。現
 在開花する幹は老木の株分けで、いわば二代目「蒲ザクラ」である、品種はエドヒガンザクラとヤマザクラの交配種と
 され、四月上旬に開花する。                              埼玉県教育委員会
                                            北本市教育委員会  

https://blog.goo.ne.jp/admin/showprofile/?key=6543558975525b404e57a6
天然記念物石戸蒲櫻の古い石碑が根元に有ります

駐車場脇に観光案内図が有ります、石戸城址や一夜堤が直ぐ近くです

では、次へ行きましょう

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埼玉県志木市、長勝院旗桜です!!

2015-04-08 06:55:46 | 
茨城県の城跡巡りを中止して、花見の話題です

旗桜は、埼玉県志木市の柏の城城址にある珍しい桜です

志木市第三小学校の西側の駐車場の真ん中にあります

(昨年2014・4・13にもブログに投稿していますので、合わせてご覧ください)


長勝院旗桜です、樹齢400年の古木です
   目通り樹周り(目の高さ位の所の樹に周囲)3.05m、高さ11.20m推定樹齢400年以上のハタザクラ
   花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁(1~2枚)を生ずるヤマザクラ(バラ科)
  の一型で開花時の花付きは極めてにぎやかです。
   県内各地の桜と比較しても巨木のなかにはいるもので、樹齢等の点からみても大変貴重なサクラです。
   またかつてこの地にあったともいわれる柏の城の歴史を語る生き証人としても大変貴重な桜で、今後大切に保護
  保存していくべき桜です。
    平成六年二月二十五日                            志木市教育委員会



志木市文化財に指定されています


雄しべの一部が花弁に変化した花が確認できました


雨模様の日だったので、観光客も無く静かに見ることが出来ました

柏の城西の曲輪跡の案内板です
   柏の城は、関東管領山内上杉家の重臣大石氏一族の戦国初期からの居館といわれていますがその築城年代などは
  一切不明です。
   江戸時代の享保十二年(1727)から同十四年にかけて舘村(現在の志木市柏町・幸町・館地区付近)の名主
  宮ヶ原仲衛門仲恒により執筆された「舘村旧記」によると、志木第三小学校地に本城が、その東側に二の曲輪、市
  道をはさんだ南側に三の曲輪が、そしてこのあたりには西の曲輪があったとされています。
   このあたりはかつて亭の台ともよばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であるという伝説も伝わってお
  り、古来よりこの地域を統括するような有力な人物に関係するなんらかの施設があったらしいことが推測できます
   また、館村八景の一つに「亭の下の有照」とあるように、この付近は、秩父連山から富士山まで眺望できる景勝
  の地としても有名な所でした。
         平成六年二月二十五日                      志木市教育委員会

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茨城県茨城町、石崎城跡です!!

2015-04-07 03:50:50 | 城跡・館跡・陣屋跡
石崎城跡は茨城町役場の東約5kmの所

涸沼北岸の親沢鼻に有ります

親沢公園の駐車場が利用できました

駐車場から見上げた城跡です

「茨城百景 涸沼」の石碑です

涸沼へのボートハウスが有ります、城跡はこの北側です

笹に覆われた階段を上ります

堀の部分に出ます

大きな堀跡ですが、藪で見通しが利きません

東側に一の郭が有ります

虎口です

廓内からの虎口です

広い郭です

周りは大きな土塁が巡っています

廓の東寄りに櫓台でしょうか

櫓台状の上から、虎口方向を見ます

北側土塁上です

堀の中は薮です

こちらの土塁の上は歩けませんね

三角点が虎口近くの土塁上に有りました



二の郭は、藪がひどくて見通しが利きません、残念です

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茨城県水戸市、史跡千束原追鳥狩本陣跡(水戸市指定文化財)です!!

2015-04-06 07:15:19 | 遺跡・史跡
千束原追鳥遺跡は、水戸市役所の南南東約4kmの所に有ります

国道51号線が、水戸南インターチェンジを越えて直ぐ

細い田圃道を西に入ると


神社の鳥居が有ります

鳥居の脇に説明版が有ります
   水戸市指定文化財
   史蹟 千束原追鳥狩本陣跡
      管 理 者  常  盤  神  社
      指定年月日  昭和五十四年八月三日
   この本陣跡は、天保十一年(1840)三月に、水戸九代藩主徳川斉昭卿(烈公)が追鳥狩を催した時の遺跡で
  121平方メートル、その中に高さ1.8メートルのが築かれている。このは、元治元年(1864)に村民
  が斉昭卿を祀る小祀として建て、「烈公の社」と称していたが、明治になって常盤神社と社名を改め神社として登
  録された。
   追鳥狩とは武士が軍装をして、山野で鳥獣を狩り練武をすることで、付近の住民が勢子として参加するのが通例
  で、ここでも村民が協力活躍した。その後斉昭卿は、千波原で大規模の追鳥狩を行ったが、その遺跡はすでに失わ
  てしまい、この地が往時を偲ぶよすがとなっている。
                               水戸市教育委員会



本陣石碑です

常盤神社の社です

神社の裏側にはが有ります

神社北側には三角点が有りました

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茨城県水戸市、薬王院(国指定重要文化財)です!!

2015-04-05 06:00:18 | 文化財・寺社
薬王院は、水戸市役所の南西約2kmのところにあります。

県道180号線側から、参道を西に進むと


薬王院仁王門前に出ます、駐車場は北側に廻った所に有ります

薬王院の案内図です

綺麗な装飾で飾られています、仁王門は県指定重要文化財です

重要文化財薬王院本堂の石碑です

薬王院の文化財一覧です

三戸初代藩主頼房公の二男松平亀千代丸の五輪塔です


本堂です、国指定重要文化財です






説明版です




保存樹の、樹齢約500年のイチョウです


こちらも保存樹です

四脚門です

回向堂です

六角堂です

手水舎です

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茨城県水戸市、六地蔵尊です!!

2015-04-04 15:57:29 | 文化財・寺社
六地蔵尊は、水戸市役所の東南東約6kmの、国道51号線の直ぐ南側に有ります

入口は、南に回り込んだ所に、駐車場が有ります





茨城百景 六反田六地蔵尊の石碑です

六地蔵寺案内図です

六地蔵寺縁起です

四脚門です


水戸光圀公建立の法宝蔵です

手水舎です

大場堂でしょうか

六地蔵です



地蔵堂です

本堂です

弘法大師です


水戸市保存樹、六地蔵寺のイチョウです、樹齢800年だそうです



樹齢1100年の六地蔵寺のスギです


大きいですね

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茨城県水戸市、佛性寺(国指定重要文化財)です!!

2015-04-01 07:58:46 | 文化財・寺社
佛性寺は、水戸市役所の南東約6kmのところに有ります

国道51号線の南側の丘の上です





天台宗 涌石山大日院佛性寺です

山門です



山門前には石像金剛力士立像(水戸市指定文化財)です

鐘楼です

本堂が見えてきます


説明版です(復元工事前)
   国指定重要文化財
     佛性寺本堂
       天台宗 涌石山大日院
    佛性寺の開山は古く、淳和天皇の代、天長年間(824~834)に慈覚大師円仁によって創建されたと
   伝えられる。
    往時はかなりの巨刹で、国家鎮護の勅願所にもなり、江戸時代には、天台宗水戸十か寺の一つに数えられ
   た寺である。しかし、南北朝時代の貞和五年(1349)から、江戸時代の寛文三年(1663)までの間
   に四度の火災に遭って、惜しくも、文書・什宝などことごとく烏有に帰した。
    この八角円堂は、全国でも数少ないもので、梁にのこる墨書などから、天正十三年(1585)の建造と
   推定されるが、様式的には100年以上も前の室町時代の雰囲気をもっている。
    面積五十六平方メートル、高さ十一メートル、周りと内側をそれぞれ八本の円柱で支え、内柱には素朴な
   彫物が施されており、木鼻や拳鼻などに刻まれた模様に本件の地域柱が見られる
    屋根は茅葺であるが保護のため、銅版で覆ってある、
    水戸藩の「開基帳」(寛文三年)には、当時、天台宗世良田長楽寺(群馬県)の末寺で、高、十一石六升
   二合、門徒九か寺、百姓旦那160人とある。
    また、貞和五年(1349)に比叡山から山王を勧進している。
    本尊大日如来、三十一仏は文安五年(1448)の鋳造と刻されている。この大日如来坐像(銅造鍍金、
   像高四十五センチメートル市指定文化財)は、度々の火災にもかかわらず焼失をまぬがれて、この本堂に安
   置されていたものである。
       平成三年三月                            水戸市教育委員会
                                         佛   性  寺




.
佛性寺本堂八角堂修復記念碑です(平成二十六年三月吉日)

六地蔵です


現在の本堂です


こちらは、もともとの六地蔵です

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