続いて 森銑三郎著先集からの話です。正編の大きな著作は いくつかかじっただけでこれまで過ごしてきたわけだけれど、少し前に入手していた不揃の「続編」はいわばほったらかし でありました。綺麗なので売れるかもしれないと思い直してみての発見です。「続編」なのでまとまった論考ではなくいわば雑文・随筆の集まりですが
これが なかなか! 戦中から昭和30年代くらいに発表された文なのだけれど、今小生が読んでびっくり、という物ばかり。
曰く、こんにちは出版物が多すぎる、玉石混淆どころか 石だらけで「著作」の権威がまるでない。 とは 戦後すぐの意見。
また 日本人でありながら江戸期の版本はもとより 写本・肉筆の書簡を読める人がいない、日本文学専攻と言いながらでも 読める人は殆んどいないと。これは近々に文化勲章に選ばれた中野三敏氏が このところ「リテラシー」という新語を使って盛んに警鐘を鳴らしておられることで、すでに五〇年前に提唱されていたとは知りませんでした。これは中野氏を貶めることではなく いかに今の古典研究が偏っている、あるいは直截に言えばいい加減かということを、しかも全く反省の色なく旧態依然であることを物語っている。
小生に言わせれば、明治政府・権力の「徳川憎し」の政治方針が今なお生きている証しの一つと言えると思う。 今の我々の生活文化の大方は江戸期に完成していたという場面はいくらでもある、ことに趣味の世界。演劇・本草・生花・茶道・料理・謡・囲碁将棋・金魚・虫・盆栽などきりがないし、そして堕藝と呼ばれる民間の雑多な文化は殆んど江戸期に完成され、手本帳に始まる種々の版本で「目からうろこ」であり、今に流布する本のネタは殆んどここによっていて、まずそろっているといえることを もっと知るべきであろう。
さらに、この頃の学生は脇に週刊誌をはさむのが流行で、文庫本を忘れている。というのはたぶん「朝日ジャーナル」の流行を指しているものと思える。基本的なことを忘れて「ジャーナル」的になっていることへの警鐘で、週刊誌がはやるということは週刊誌を作っている編輯・取材の連中がすでに週刊誌的教養しか持ち合わせていない、という指摘は鋭い。
大宅壮一の「一億総白痴」という提言と時をほぼ同じにしているのも興味深いではないか。
まだ 色々ある。 教養的巨魁 というべき人はまだほかにもあることと思う。
この年になって「いまさらながら」と実に思う次第。浅学菲才を実感しています。