閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

ブログを繋ぐのも一仕事です

2015-04-11 21:29:03 | 日記

ブログというのは 日常的に次々と書き連ねのていくもので いまや ツイッターほかに移行する人が多く、いわば時代遅れだそうです。

しかし吾輩にとってはこれしかないです。 書こうと思うことは日々色々あるのですが、イザ書くとなると、出展は何だ、これの根拠は

何だったっけ、というのが挟まって結局そのばでは書けずに どんどん後回しになってしまうのです。

このたび、ある本を読んでいて気付いたこと。

 西欧の庭園では芝生がきちんと角で仕切らせて整備されていますが、そこを日本人が歩くと、角を短絡して芝生を踏んで行く、これは彼等

にとっては我慢のできないことで、英国人は小さい時から芝生の手入れを手伝ってきて、芝生を踏み荒らすことはしない。日本人は不作法である

という話である。これにはいささか違うのでは、と言いたいことがあるのだが・。もちろん西洋式庭園と和式の庭園の違いは認めるけれど、芝生を踏むかどうかはちょっと別の要件がありはしないか。 今日、特に自衛隊ほかの西洋式運動の訓練を受け、あるいはそのような感覚を身につけた今の若い人には

少なくなっているのではないか、ほかのアジアの人たちは未だそうではないとおもわれる報道を見聞きするけど。少なくとも、かく言う小生は、角は角で

きちんと廻って、僅かな近道をして芝を踏むことはしない、要は決められた、あるいはその決まりを容認したらそれに従う、一方ではそんなにやかましく言わなくてもいいではないか、という 見方のせめぎあいだろう。 緑は勝手に生えてくる、水と空気と自由はタダだと思っているというのが西洋から見た日本人評

であることはずっと以前から指摘されてきた。概ね今でも変わらないのかなあ。緑がなぜ人間の生活空間に必要かということは、かなりいい加減で、実はよくわかっていない(学問的・理論的に)ということだ。学問の世界というのはどうでもいいことをあれこれひねくる物だけど、イザこのように「何で?」と改まって聞かれると返答に「困った」という場面は多い。そこがまた魅力ではある。

コメント
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