晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

般若心経二冊ー3 7/9

2020-07-09 | 雨読

2020.7.9(木)曇り
 般若心経について続きが書けていないのは多忙であったためもあるが、一体何のために書かれたものだろう、一体何を伝えたいのだろうと素人なりに考えていたためである。勿論そんなことが解明できるのは何年も禅の修行を行ってはじめて出来ることなんだろうが、凡人の戯言として聞いて頂きたい。
 この間、連日唱えてなんとか憶えることが出来たが、水上さん同様悟りの境地に近づくこともできない。世の熱心な仏教徒の方も、偉いお坊さんも果たして悟りを開いておられるのだろうかといぶかしく思えてきた。空になるなんてことが生身の人間にはとても無理なことじゃないかと思っていたら、松原泰道氏の「色即是空」の教えとは何かという節の中に「空」には消極的な「空」と積極的な「空」があって、前者はあくまでゼロと考えるが後者はすべてのものは単独では存在しえない、ありえないというもので、「無我」という言葉が近いと言われる。一体どういうことか解らないと思うが、続いて「「無我」とは孤立自尊の事ではなく「他と相互に関わり合い依存し合って初めて存在できる事実を深く認識することなのです」とある。平たく言うと「空」とはゼロではなく人と人、物と物が相互に関わり合って成り立っているということらしい。自分の周囲の人や物に感謝して、相互に依存し合って生きていくというなら生きていく人々を応援する仏の教えとして充分に納得いくのだが、あくまで松原氏の解釈であって、般若心経を直訳して果たしてそのような事が書かれているとは思えないのである。
 偉いお坊さんが解釈して諭してくれるのだから、凡人のわたくしどもは黙って従っていればよいのかもしれないが、般若心経が一体何のために誰によって書かれたものなのかなどと考えると、迷宮に入り込んでしまうのだ。つづく

 【今日の”のびちゃん”】NO. 33


おりこうさんでお座りしてるように見えるでしょ。ところがこれ押しても引いても動かない困った行動なのだ。散歩の途中で頑として動かなくなる妙な行動である。自己主張するようになってきたのかな?

”うかれめのストライキ、さりとはつらいね

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雨読 般若心経二冊ー2 6/14

2020-06-14 | 雨読

2020.6.14(日)雨曇り

 ただ訳もわからず唱えるだけで憶えられる歳ではない。以前に買い求めていた本の中に般若心経の解説がある。本来のサンスクリット語を漢文に訳してあるわけだから、おぼろげながら意味が読み取れるが詳しくは解らない。
「般若心経のこころ」瀬戸内寂聴、梅原猛ほか プレジデント社 1992年7月発行 古本
 秋月龍珉氏の解説があり、なるほどそういうことが書かれているのかと解ると憶えやすい。特に仏教用語、専門用語の意味が解るとお経もストーリーがあるので憶えやすいわけだ。意味が解っても理解することは別問題である。身も心も、感覚も意識もすべて空であると悟ったとき一切の苦しみから解放されるというものらしいが、空ってなんやねんということになる。
 高校3年の夏、毎週禅寺に通って座禅をしたことがある、22歳の時も天竜寺で3日間座禅をした。実際何も考えなくて大変心地よいものだったが、無我に近いものだったのだろうか。警策(きょうさく、けいさく)を受けると身体がすっきりしたのを憶えている。今流行のマインドフルネスが同様の効果で、ストレスや悩みの解消tに繋がるという。ところが禅も終わって社会や職場、家庭に戻ると元の木阿弥であらゆる苦しみ、四苦八苦が襲ってくる。観世音菩薩が諭された空とはいったい何なのだろう。
 などと考えているときに、新聞の端に見つけた広告が、「般若心経を読む」である。

 「般若心経を読む」水上勉 PHP文庫 1991年11月発行 古本
 9歳で小僧に預けられ、17歳で僧院を飛び出した、俗人の代表格(失礼)水上氏が般若心経をどうとらえられているか、これは興味があった。正眼国史や一休禅師の言葉を借りてうまく解説されているのだが、最終章「のたうちまわって生きるしかない」に次のように書いている。
 (般若心経について)私のような凡俗人の頭を撲りつける高遠な思想である。まことに、理を以てかく説きつくされれば、自然と眼の前の雲がはれるような気分にもなるのだが、しかし、凡俗の私には、あるがままの存在ををゆるす、いや、ゆるすなどといってはまたあやまりになるわけだが、無心、無所得の境地に入ることのむずかしさが思われてならない。つづく

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雨読 般若心経二冊 6/8

2020-06-08 | 雨読

2020.6.8(月)快晴

 
 自粛期間中出来たことの一つが般若心経を憶えたことである。お経本は10年以上前から持っていたが読んだこともなく、タンスの引き出しに眠っていた。動機はお経を唱えると苦しみが減るのではと言う奇妙なものである。ウオーキングのメニューに負荷を掛けて歩くというのを足したことに始まる。丁度芝生の整備があるので、川砂を15Kgほど背負って2Kmほどを歩くのである。山岳部時代には5,60Kgの荷を一日中背負っていたのだが、この歳ではそうもいかない。この2Kmがやたらと遠い、なにか他のことを考えて歩けば少しは楽になりそうだがそれも出来ない。なんとかならないかと考えたとき、ヒマラヤのポーターが重荷を背負って危険箇所を通過するとき「オンマニペメフム」とお経を唱えて歩くというのを思い出した。日本ではナムアミダブツみたいなものらしいが、これは効果がありそうだ。「オンマニペメフム、オンマニペメフム、、、」とつぶやいて歩くが、どうも単純すぎていけない。そうだ般若心経があったなあとタンスから出してくる。
 空身で歩く前半に教本をめくりながら歩き、観自在から舎利子辺りまで憶える。帰りは荷を背負い諳んじて唱える。次の日は観自在から無眼耳鼻舌身意辺りまで憶え、その翌日もまた翌日も段々長くしていく。もちろんすぐに忘れてしまうので経本を持ち歩くのだが、すぐに見ないように思い出す訓練をする。行きつ戻りつ、飛ばしたり二度読みしたり苦労したが、その間背の荷の重さを感じることはなくあっという間に家にたどり着いたのである。将に度一切苦厄なんだが、少なくとも背中の重荷は意識を他に持つことで忘れることが出来るのである。般若心経は約二週間で憶えることが出来た。つづく

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雨読 「動物ウィルスが人間を襲う」 5/22

2020-05-22 | 雨読

2020.5.22(金)曇り

  図書館が閉鎖される前日4月17日に「当分借りられませんから、今の内に借りてください」と言われて慌てて数冊借りた内の1冊であり、まったくタイムリーな本である。
「動物ウィルスが人間を襲う!」中島捷久 澤井仁著
2006年12月 PHP研究所発行 綾部図書館借本

 2006年の発行なので新型コロナはもちろん新型インフルエンザも登場していなくて、SARS、鳥インフルエンザが最新である。しかしながらウィルスの構造もその作用も基本的には同様なので、実に新鮮な情報として読むことが出来た。それだけウィルに関して無知であったと言うことかもしれない。それはわたしだけの問題でなく、日本全体の問題ではなかろうか。ダイヤモンドプリンセス号の騒ぎの時に今日の様相を誰が予想しただろうか。「感染症には打ち勝っている」というとんだ勘違いを誰もがしていたのではないだろうか。
 ウィルスは殻の中に遺伝子があるだけで、器官を持っていない。だから自分で代謝することも、増殖することもできない。すべて寄生宿主の機能を拝借して遂には寄生した細胞を壊してしまうというなんともやっかいなものである。単純なだけに分裂速度も速く、簡単に変異してしまう。これが厄介の元なんだが、全てのウィルがそうなるわけではない。細胞の中でじっとしているウィルスもあるわけだ。今回の新型コロナウィルスだって、元の宿主のコウモリだかにいる間は何毎も起こさず、潜伏しているわけだ。
 ウィルスというのはなんとも不思議な物体で興味は尽きないが、最も興味深いのはどこから生まれたのか?ということである。わたしは生物が生まれる前の状態、つまり生命の発生した時点の状態と思っているのだが、細胞ができてから、そこから飛び出したという説と、もともと細胞の中に寄生していたものという説が主流らしい。オパーリンの「生命の起源」は大学に入って初めて読んだ本だが、海の中でタンパク質が寄り集まって波に揺れている様子を憶えている。そんな中でできあがったのが遺伝子であって、ウィルスのような形態だったのではないだろうか。細胞から飛び出した説は有望らしいが、ふる里の細胞に帰って傍若無人に振る舞うのは、受け入れがたい行為ではないか。
 もう一つ気になるのがガンウィルスである。ガンウィルス説というのが叫ばれたがウィルスそのものがガンなのではなく、細胞のがん化を促進するものと、一般のウィルス感染と同様に細胞を壊すタイプがあるという。思えばガンとウィルスはよく似ている。ガンは元々自分の細胞であり、ウィルスが寄生するのも細胞である。それ自体は毒素を出すわけではないが、猛烈に分裂を繰り返し正常細胞や宿主細胞を壊してしまうわけだ。だから体内でガン細胞やウィルスの寄生した細胞だけを攻撃するのが難しい。
 新型コロナ後の世界はウィルスとの共生と言われているが、本当の意味での相利共生は考えられない。抗体やワクチンででおとなしくしてもらうぐらいだ。人体の中で役に立っているウィルスなどきいたこともない。ただ、細菌を殺すとか害虫、害獣の駆除などの夢のような利用法もあるようだ。しかし一歩間違えればとんでもないことになりそうだ。おわり

【今日の”のびちゃん”】NO. 32

つぐらのび

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雨読 絶滅の人類史-3 5/4

2020-05-04 | 雨読

2020.5.4(月)快晴

 ホモサピエンスがネアンデルタール人より多産であったから生き残ったというのはよくわかるが、人類そのものも競合する他の動物よりも多産であったために今日まで生き残ったということでもあるだろう。それは直立二足歩行についての考察のところでも書かれている。直立二足歩行は生物界では非常に不利な立場である。最大の欠陥は走るのが遅いことである。安全な樹上から平地に下りてきて、見つかりやすく逃げるのが遅い人類は肉食動物には恰好の餌食である。
 人類は肉食動物に襲われ喰われてても喰われてもそれ以上に子どもを産んで生き残ったということだが、どうもしっくりこない。人類が多産だと言われても本当かなあと思うのが普通ではないか。その上人類は子どもが成長するまで随分時間が掛かる。これは生存競争にとっては大変不利な状況である。本来ならば肉食獣に襲われても逃げられる状態になるまで胎内に居るべきなんだろうが、そこまで居ると出産が不可能となる。早産にしなければならなくなった理由は直立二足歩行である。人類が多産であるとすれば、発情期が無いのはそのひとつの現象では無いかと思っている。妊娠期間が10ヶ月あっても、出産後すぐに妊娠することができる。そして出産時期が年中どの時期にも散らばっているというのは生存に有利であることは間違いない。発情期が無いのは人類だけかと思っていたら、ネズミなんかも無いそうだ。なるほど弱い動物ほど多産といえるようだ。
 進化(自然淘汰)を学ぶことは面白い。人間の身体の仕組みや健康、病気を考えるときに実に理解がしやすくなる。例えば現在の最大の課題である新型コロナウィルスだって、進化と言うことをベースに考えるとわかりやすい。単純な構造で猛烈に分裂を繰り返すウィルスだから、人類が何万年も掛けて行う進化を数ヶ月でやってのけてしまうわけだ。次はジョン・コーエンの「チンパンジーはなぜヒトにならなかったのか」だ、楽しみである。おわり

  【今日の”のびちゃん”】NO. 31
良い季節になり、散歩もロングコースを楽しんでいるのだが、このコースから昨年の逃走事件のルートがよく見えるのである。

見えている稜線は一山向こうになっており、真ん中のピークが⑤尾根の頭でその麓にのびが居た。その左の稜線が悲壮な思いで探し回った山々である。ここを通るたびに思い出すのだが、のびがあの稜線を歩いたかは謎である。(2020.1.26参照)  



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雨読 「絶滅の人類史」-2 4/26

2020-04-26 | 雨読

2020.4.26(日)曇り
 日本の合計特殊出生率はというと2018年のデータで1.42ということである。一人の女性が一生に生む子供の数と言うことだが、夫婦二人として二人生まれればトントンという勘定だが、実際はそうではない。病気や事故で次世代の子供が生まれる前に死んでしまう可能性もあることだから、2.07がトントンになる数字だそうだ。日本だけで見れば人類は確実に絶滅に向かって突き進んでいることになる。では世界ではどうかというと2.43だそうだ。どうやら絶滅は免れそうだが、出生率の多い国はアフリカを主とした発展途上国で、戦争や飢餓などの社会的不安要素を考えると必ずしも安心できるものでもなさそうだ。
 最終的にホモサピエンスとネアンデルタール人が生存していたが、なぜネアンデルタール人が絶滅してホモサピエンスが生き残ったかは興味深い問題である。様々な意見があるが、わたしはホモサピエンスが弱かったからだと思う。体格はネアンデルタール人の方が大きいし、力も強い、そのためだろうか脳の容量も大きいのだ。ヒトの1,350ccに対して1、550ccもあったのだが、より賢いと言うより機能的な差違があったのかもしれない。
 いずれにしてもひとりだけを見ればネアンデルタール人はホモサピエンスより強くて大きい、それなのに滅んでしまったのだ。温暖で食料に不自由もしない環境であれば強くて大きいものが生き残るだろうが、厳しい環境下では逆の現象が起こる。隕石落下後の寒冷化した環境でそれまでの王者恐竜が滅び、小さくて弱いほ乳類が生き延びたのと同様である。ネアンデルタール人の基礎代謝はホモサピエンスの1.2倍だったそうだ。単純に1.2倍のエネルギーを必要としたわけで、食料も1.2倍必要だったわけだ。エネルギーが限られた世界ではこの差は大きく影響するだろう。
 更科氏は「子孫をどれだけ残せたかの差である」と言っておられる。これは「小さくて弱いもの」が生き残ると言うことと矛盾しないと思うのだが、、、。つづく

あらゆる本の中に進化の話は出てくるが、進化そのものに関する本は余り持っていないものだ。

 

 

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雨読 「絶滅の人類史」 4/24

2020-04-24 | 雨読

2020.4.24(金)曇り

 「絶滅の人類史」なぜ「私たち」が生き延びたのか 更科功著 
  NHK出版新書 2018年1月第1刷 古本

 
「残酷な進化論」(2020.)があまりに面白かったので買ってしまった。予想どおり大変面白く、古代史に於ける森浩一先生の様な感じだ。教科書に載ってる進化論では腑に落ちないことがいくらでもあるのだが本書では想像力を駆使して納得のいく結果を導き出してくれる。
それにしても「絶滅の人類史」とはいったい何だろう。人類が絶滅するってことだろうか。そうじゃないのだ、絶滅した人類の歴史ということだろう。人類は我々ホモサピエンスだけだと思っている方が多いだろうけど、ジャワ原人や北京原人だって人類だけどホモサピエンスではないのだ。彼らは絶滅してしまったホモ・エレクトスであり、ホモサピエンスと時代の重なった人類はネアンデルタール人など4種が数えられている。人類は700万年前から現在発見されているだけでも17種もあり、16種が絶滅しているということだ。なぜホモサピエンスだけが生き残ったのかは人類史の謎なんだが、その謎にも本書は言及している。

 四足歩行から直立二足歩行に移る過程はよく教科書などに図が載っているが、中腰の不安定なもので環境に適応したものではない。瞬発力も持久力もなく、外敵に襲われたらひとたまりもないスタイルである。そんな不安定な中腰スタイルの人類の化石は一つも見つかっていないそうだ。じゃあいきなり四足から直立二足歩行に進化したのだろうか。答は本書のお楽しみ。
 直立二足歩行の不利な点として、腰痛と難産が取りあげられているがそれらに対応する対処法としての進化については記述されていない。人類の進化としてはそこまで必要ないのかも知れない。
 さてもうひとつの人類としての特徴とは、何だろう。犬歯の縮小がチンパンジーにあって人類にないものだということだ。なんで犬歯が縮小したのだろう。使わないからだ。ではなぜ使わなかったのだろう。と疑問は拡がっていくのだけど、絶妙の論理で解いていく。
 とまあ読まないと答えの出ないことばかりなのだが、先ほどの人類史の謎の答えを教えよう。地球上に最終的に残った人類はホモサピエンスとホモネアンデルターレンシスなのだが、サピエンスが残ってネアンデルタールが滅びたのかは、子孫をどれだけ残せたかの差であると結論づけている。つづく

【今日の”のびちゃん”】NO. 30
 コロナ自粛でどっこも出かけられなくなった。病院だけではかわいそうなんだが、今しばらくの辛抱か。じょんと同じでおおい町の芝生広場が好きなんだが、写真でこらえてくれ。(4月3日)


行きてえなあ、がまんがまん。

 

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雨読 続・残酷な進化論 2/11 

2020-02-11 | 雨読

2020.2.11(火)晴れ
 この本の中で面白い発見をした。年々悪くなっていく眼を何とかしようと指圧に凝っている。眼のツボが顔面にあるのは当然のことと思えるが、後頭部にも集中しているのはどういうことだろうと常ずね考えていた。
特に脳点という新しく発見されたツボはなんとなく効果がありそうだ。とまあ何の根拠もなく脳点さすりなんぞをつづけていたのだが、本書の中でえらいことを見つけてしまった。私たちの祖先の脊椎動物(遅くとも爬虫類と哺乳類が同じ生物だった頃までには)は眼を3つ持っていたというのだ。頭の横に二つ、頭の上に一つだ。もちろん第三の眼は退化して影もないが、後頭部の眼のツボこそ我々祖先の持っていた第三の眼の名残ではないだろうか。そう考えるとこの後頭部のツボがなんとも愛おしく思えてきた。
 さて前回のなんとも寂しい進化の道筋についてちょっと光明を与える方法を考えついた。生殖が終わると老化が始まって、死に向かって突き進むというなんとも侘しい人生を少しでも明るく希望に満ちたものにするためになすべきこと、それは脳を騙すことである。遺伝子のプログラムは騙しようがないけれど、おっちょこちょいの脳はわりかし簡単に騙せそうだ。つまりまだまだ生殖が必要だと思わせるわけだ。恋多き人は若々しい、例え彼らが不能であっても恋する心、憧れの心を持つ人は若々しいではないか。脳がこの人はまだまだ生殖が可能で必要なのだと勘違いさえすれば、老化も少しはスピードを緩めるんじゃないかと考えている。
 最終章では、「なぜ私たちは死ぬのか」というなんとも哲学的とも思える課題となっている。でも結論は哲学的でも何でも無く、死があるからこそ生物が誕生し、進化してきたというなんとも単純なことにおさまる。中国歴代の皇帝が探し回った不老不死の妙薬、最近のゲノム編集で永遠の命を得ようなんて試みが実は人類の滅亡につながるというパラドックスを見事に解いている。おわり
【今日の”のびちゃん”】NO.25
うっとうしい日々の合間に一日だけ好天が来た。幸い店が休みなので、おおい町のうみんぴあに行く。出かけるのは積極的ではないが、車に乗るのは積極的で、喜んでいるのかなあ。芝生の広場は好きみたいでヒコヒコと歩き回っている。海も空も青く、久々の景色だ。

道中長谷坂の雪景色。青葉山をバックに、こっち向けよな~

 

 

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雨読 残酷な進化論 2/10

2020-02-10 | 雨読

2020.2.10(月)雨

 「残酷な進化論」更科功著 NHK出版新書 2019年発行
 讀賣新聞の書評で「自然は完璧で、人間は進化の頂点に立つ完成品だ、というのは非科学的な思い込みにすぎない。進化はずぼらで、ゆきあたりばったりだ。」という不思議な文に絆されて購入した。読み終えた今でこそ人間が進化の頂点に立っているなどとは思っていないが、それまではそのように考えていたのではないか。ややもすると学校でそのように教わっていないか。今読んでいる別の本の著者、村木弘昌氏(医学博士)も「人間は地球上において他の生物を引き離し、進化の頂点に立っていることはいうまでもない。」と書かれている。人間は植物連鎖の頂点には立っているが、進化の頂点に立っているわけではない。そのことは本書を読めばすぐに理解できる。窒素の処分の仕方ということで動物は尿として放出するわけだが、魚類などはアンモニア、人類などは尿素、鳥類などは尿酸として窒素を処分している。進化という意味では鳥類が最も進んでいるということだ。ただ鳥は飛ぶために多くの水分を保有することができないので、薄めなくても毒性の少ない尿酸になっているというだけのことだ。つまり進化が進んでいるということは環境に適合しているということであって、必ずしも優れているということではないわけだ。
 進化はいろんな意味で残酷なのだが、最も残酷なのは進化は将来の計画を立てたりしない、今現在如何に環境に適合するかということだけだ。それは老化についても言えることである。
 「自然淘汰という進化のメカニズムは、環境に適した形質(を持つ個体)を増やす力がある。それでだいたい正しいのだが、正確には自然淘汰が増やす形質は、子供をより多く残せる形質である。そして、これだけである。ー中略ー一将功成りて万骨枯る。進化における一将は、子供の数だ。子供の数さえ増やせればあとは万骨枯れてもかまわないのだ。いまを生きている私たちは、個体の生存こそが重要であると考えがちである。病気になったり、体が痛かったり、そして何よりも死んだりすることをいやだと思う。でも進化は、個体の生存なんて考えてくれない。いや、個体の生存が子供の数に関係すれば別だけど、そうでなければ考えてくれない。
 つまり生殖が終わればその後の身体について進化は面倒見てくれないと言うことだろう。そういえば産卵を終えた魚が力尽きて死んでいくのを思い出す。カマキリなんて交尾を終えたら雄は食われてしまうと聞く。生殖が終わっても、それまでの何倍も生きていかなければならない人間は確かに残酷である。「お肌の曲がり角」という言葉が流行ったときがあった。20代の半ばから後半というところだろうか、将に生殖が終わって老化が始まる時期なのだ。それまでは保証されていた健康や
元気といったことに進化の保証が無くなり、その後は自前で面倒見なくてはならなくなる。とまあわたしはこのように捉えたのだがいかがだろうか。つづく
【今日の”のびちゃん”】NO.24
6日、待望の積雪となった。今年初めての雪、のびは生まれて初めてかな、雪に喜ぶかななどと考えながら飛び出るが、「別に~」てんで無関心というかいつも通りというか、まあちった~喜べよなあ。

ホントは喜んでるのかもしれないが、表現のしかたがわからないのかも。 

 

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雨読 ニセ医学が危ない 1/8

2020-01-08 | 雨読

2020.1.8(水)曇り
”意識高い系”がハマる ニセ医学が危ない! 桑満おさむ著 育鵬社2019.10発行 借本
 
 ニセ医学バスターを名乗る著者が地域密着型のクリニックを開業しながら、ネットなどにはびこるニセ医学を辛辣に論破されるブログを展開し、書物にまとめられたのが本書である。
 確かに怪しげな医学情報、健康情報が世に氾濫してしている。ネット情報、健康雑誌、サプリメントの氾濫など多くの要素があるのだけど、生命の危機に関わるような罪なケースと毒にも薬にもならないようなケースがあって、それらを同一に並べて論ずるのはいかがな物かと思う。例えば本書の表紙には◎岩盤浴でデトックス、◎コラーゲンで肌プルプル、◎合成添加物入り食品は食べちゃダメ!、◎がんは放置し、治療しない!その方法ではよくなりません!と書かれている。
 前の3つはいいんじゃないの、これで金儲けてるやつには腹立つけど、消費者利用者は結構その気になってきれいになったり健康になった気がすれば(いわゆるプラセイボ効果)経済もうまく回るし、、、。
ただ4番目のはいけない、こんな医者にかかってせっかくの治療機会を失い、手遅れになったんでは堪らないからだ。がんだけでなくあらゆる分野でこういう怪しげな医者というのはいるもので、手遅れになっても責任をとるわけではない。
 先生も最悪のニセ医学「がんが治る」と指摘されておられる。最大の被害者は手遅れになった患者であるので、本当はこういう患者を救わないといけないのだが、これが大変困難なのだ。本書の目的もまだニセ医学にはまってない人が、はまらないように、またはまっている人に忠告するようにと言うものであるようだ。ニセ医学の信者がこの本を買って読むとは思えないし、人の忠告を聞くような人ならはまらないのかもしれない。とにかく難しい問題ではある。 


 

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雨読 続・パンツをはいたサル 12/6

2019-12-06 | 雨読

2019.12.6(金)雨

 パンツの話だけに下ネタになってしまうのだが、パンツはヒトの生命を維持したり、種の維持に必要なものではない。なぜヒトははく必要のないパンツをはくようになったのかという奇妙な論理に引きずり込まれる。人間の性は生殖と言うことだけを考えるとそのほとんどが無駄なものになっている。
 「ヒトがパンツをはくようになったのは、日常的な生活の中では、性をひたすら隠しておき、ある特定の非日常的な時間や空間でそれを脱ぎ去り、一気に陶酔し、興奮し、過剰を処理するためなのである。」こうなってくると下ネタも哲学的になってくるのだが、このあたりの展開は読んでいただかないとなんとも伝えようがない。
同様にお金や法律もパンツにされてしまうのだが、読んでいてなるほどという気持ちになってくるから面白い。
 栗本先生は慶大の経済学部出身のためかマル経がお嫌いのようであるが、先生のおっしゃるパンツをマルクスの付加価値に当てはめたら、結構筋が通ってくるような気がするのだけど。付加価値が資本家のところにたまりに貯まってついに戦争になって蕩尽するしかないとすれば先生のパンツ理論と同じように見えるのだがどうだろう。
 いずれにしてもわたしが確認したいのは、人類にとってパンツは必要のない無駄なものであると言うことだ。おわり

【今日の”のびちゃん”】NO.19
本日キャドックさんに行ったときの写真、診察前にびびっているところ。
笑という漢字は犬がざるをかぶっている姿ということだが、いすの下に入っているのびも笑ってしまう。
そうそう、寒いなあと思ったら初雪が降ったのだワン。(菅坂峠)

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雨読 パンツをはいたサル 12/4

2019-12-04 | 雨読

2019.12.4(水)曇り

 「パンツをはいたサル」ー人間はどういう生き物かー栗本慎一郎著 光文社昭和56年初版 府立図書館借本
「サルにパンツをはかせると一週間で死んでしまう」という奇妙な話がこの本に載っているというのを他の本で読んで、急遽取り寄せて読んでしまった。表紙、裏表紙にはパンツをはいたサルの写真が載っているのだが、サルにパンツをはかせた記事はどこだか分らなかった。それほど他の記事の内容に惹かれたのかもしれない。パンツをはいたサルが一週間で死んでしまうのなら、猿回しのサルはパンツをはいていたかなあと考えてしまう。

 著者は明治大学法学部の教授で経済人類学の旗手ということである。経済人類学というのがどういうものかわからないが、読み終えるとなるほどという感がする。サブタイトルのとおり、人間はどういう生物かということを追求しているのだが、自然界に生きるサルがパンツをはいたものが人間であるということになる。ではパンツとは何なのか?無駄なもの、余計なものと解釈して良さそうだ。
人間と人間以外の動物を分けるものをパンツに例えている訳だ。本来の人間が生きていくだけなら太陽エネルギーで十分なんだが、現在の人間は石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料エネルギーや自らを滅ぼしてしまうかもしれない原子力エネルギーまで動員してまだ足りないと言っている。生存するだけなら不要なものをせっせと蓄積して、そしてある日ため込んだものを一気に蕩尽(とうじん:使い果たすこと)するのが人間の本性であると説かれる。リオのカーニバルなど参考になるだろう。そして蕩尽の最大のものが戦争である。戦争は人間の本性に基づいているから無くならないのだと。
 戦争におけるパンツとは武器であり、お金であり、文化であり、建造物であり、あらゆる贅沢品でありそして人命でもある。あらゆるものを蕩尽するのが戦争である。動物は生存し、子孫を残すに必要なもの以外は作らないし、所有もしない。そこのところが動物と人間を分ける重要な相違点で、そのものをパンツに例えている。パンツに例えられたのは、お金、神経症、法律、道徳そしてパンツ。確かに動物たちには不必要なものばかりだ。
 なぜパンツが不必要で無駄なものか、これは興味深い課題である。この章は「なぜ、ヒトは無駄なセックスをするのか」という課題で始まる。つづく

【今日の”のびちゃん”】NO.18
11月30日、のびを置いて、京都動物愛護センターのイベントで「犬と楽しく暮らすための教室」なる講習会に行ってきた。

ドッグランも併設されていてとてもきれいな施設だ。
 同センターに収容されている動物たちの現状などの紹介がなされ、いわゆる京都方式が先進的だなあと思うのだが、それでも保護された犬猫をすべて譲渡することは困難だし、やむなく処分される犬猫もあるということで、縁あってじょんのびに来たのびちゃんを幸せにしてやらねばと心を新たにしたところである。さいわいのびの仲間15頭は当日最後の子がもらわれたと聞き、うれしく思う。ただ一緒にいた秋田犬のパールが大きさもあってか未だ収容されているというので、紹介する。老ノ坂の支所で一度会ってるだけに気にかかる。

体重23Kgで秋田犬としては小さめ。純粋種ではないかもしれないということ。立派な保護犬である。 

 

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雨読 ヒトの足 11/28

2019-11-28 | 雨読

2011.11.28(木)曇り
 ヒトの足 この謎にみちたもの  水野祥太郎著 創元社1984年発行 古書

 水野祥太郎とはどこかで聞いた名前だが、わたしの知る水野祥太郎とは別人だと思っていた。序文は今西錦司氏によって書かれ、その内容を見てわたしの知っている水野氏であることがわかり、感激している。20代30代、岩よ雪よと山登りに打ち込んでいるとき、登山雑誌や書籍で水野先生の文をよく読んだ記憶がある。その先生が整形外科のドクターで足の研究をされていたとは奇遇であり驚きである。1907年(明治40年)の生まれとあるから、随分古い研究者なのだが、コンピューターも近代的な機器も無い時代に実に科学的な研究を重ねておられる。扁平足の問題、アーチの問題など現代の医者でも誤解をしている事柄を実に見事に解明されている。

 亡くなられたのが1984年5月10日なのだが、実はその日は本書の第1版第1刷の日なのである。
 第一部第一章は「恐竜の足」という大変興味深い論文で、陸上を走り回っている恐竜たちの関節はその体重を支えられるものではないというもので、その内容は以外ではあるが納得できるものである。陸上を走り回るのではなく、水中で浮力を使って歩いていたのだろうというのである。先日科学者による最新のCGが放映され、恐竜たちの生活が放映されたが、やはり陸上を闊歩しているのである。水中にいるのは魚竜と言われるもののみで、先生の説は無視されているようだ。しかし彼らの生活域は海辺の近くであり、恐竜たちは水辺で暮らしていたということであれば、先生の説もあながちまんざらでもないようだ。
 切断足のアーチの実験も壮絶である。何が壮絶かって、行路病者(行き倒れ)や戦争で亡くなった人の実際の足を使って実験するのである。刑死の人体を解剖した杉田玄白を思わせる実験だ。
 オルドワイ谷で原人が見つかったとすれば現地に赴くという積極性で次々と斬新な新設を出しておられるのは素晴らしい。近藤四郎先生の「足の話」とともに足に関する古典として貴重な一冊である。

【今日の”のびちゃん”】NO.17
2011.10.9のブログを見ていただきたい。変人と変犬のパオパオさんとキクちゃんのコンビがお別れになるかもしれないと淋しいことを言いながら来じょんした。あの異様に元気だったキクちゃんがすっかり年いって目も耳も弱ってるんだって。当時のじょん友の生き残りもキクちゃんとゆきちゃんとメーだけになってしまった。人間も年いくけどワンコはもっときついもんね。なーんちゃって、あと3年ぐらい頑張っちゃったりして、、、

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雨読 ひ弱になる日本人の足 10/18  

2019-10-18 | 雨読

2019.10.18(金)曇り、雨

 「ひ弱になる日本人の足」近藤四郎著 草思社1993年11月第1刷発行
「日本人の起源と進化」「足の話」「足のはたらきと子どもの成長」「人間の生と性」とつづく著書を分かり易くまとめたものと思われる。
 「なぜ足が弱くなったのか」という問に、多くは歩く時間が少なくなった、歩数が減ったという答えとなっているが、近藤先生はそうは言わない。

例えば「現代の幼い子どもに扁平足が多いのは、われわれの生活が近代化するにつれ、裸足になって傾斜面や泥道などを歩く機会や木登りなどの足ゆびを使う遊びが少なくなっていることに原因があると思われる。つまり足ゆびを使って地面(床面)を踏ん張る場面がないから、足の裏やいろいろの関節にわたる筋肉、靱帯が弱くなって、足のアーチを支えきれずアーチが落ちて底平化してくるのである。」と説かれる。歩きの量よりもその質を重視しておられ、わたしの進化する「寿命延ウォーキング」の考え方にぴったりで嬉しくなってくる。ヒトのヒトたる所以は直立二足歩行であるという考え方も、昨今のウォーキング理論を語る書物には見られず近藤先生の著書が参考になる。ウォーキングの方法や効果を語るとき、進化の過程から考えないと説明しきれないのである。例えば足裏の荷重ライン(踵→土踏まずの外側→小趾球→母趾球)など当然の如くだれもがいうことだけど、なぜそうなるかは言われない。わたしにとっても悩ましい問題だったのだが、先生の言われる「ヒトは外から内にあおって歩く」ということがヒントになりそうだ。先生は街中を歩く関取からそのことに気付いた言われているが、やたらとデータをふりかざして理論立てていく最近の科学者より頼もしい。わたしはあおって歩くと聞いたとき、ガラパゴスのコモドドラゴンの歩みを思いだした。もっと遡れば魚のひれの動きも考えられ、歩行というのも生物の進化の過程の渦中にあるものだと解ってくる。
 現代人の足が弱くなっているのは「足のあおりを利かせることなく歩いているからだ」とまで書かれているが、なぜあおりが無くなっているのか、どうすればあおって歩けるのか、常にあおりを意識して歩かなければならないのかと疑問はいくつも湧いてくる。あおりについては先生が発見され、学位論文にも発表されてウォーキング理論の本などには必ず出てくる行為なのだが、前記の様な疑問がありいまひとつ納得のいかない事柄なのだ。(ちなみに昨今話題となっている自動車のあおり運転は無関係なので、念のため)
 「このように、足を外から内へあおりながら足ゆびで蹴り出すから、反対側の足がスムーズに前に振り出される。したがって、最小のエネルギーで長時間歩くことができるのである。」(P107)一部分の文なのだがこれが理解できるだろうか。わたしは前述のようには虫類があおって歩くのが人類にも残っているのかなと思っていたが、それは間違いである。あおり歩行は足アーチ同様小さな子供にはなく、立って歩くようになって7,8才の頃から出てくるというのである。つまり人類が直立二足歩行を始めてから出てきたものであって両生類、は虫類のあおり歩きとは無縁のものであるらしい。
 足裏の荷重ライン、足のアーチ、あおり歩行など一般には注目されないけれど、人間にとって重要な問題であり、近藤四郎先生が日本におけるこの分野のパイオニアであることは間違いない。おわり
【今日の”のび”】NO.6
 じょんのびに来てもうすぐ1
ヶ月になろうとする。体重も増え毛並みも良くなり、名前も憶え、お座りや待ても出来るようになったが、なぜかおびえる様子が残っている。今までの犬生によほどつらい体験があり、PTSDが残っているのだろう。

散歩も出来るが、人に会うとおびえる。

 


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雨読 BORN TO RUN 10/8  

2019-10-08 | 雨読

2019.10.8(火)雨
 BORN TO RUN(走るために生まれた)
Chrisopher McDougall著
NHK出版2010年2月25日第1刷発行 府立図書館借本

 分厚い本だが多くの人に読まれた形跡がある。
 わたしの提唱する寿命延ウォーキングは「裸足で歩くことが人類のホメオスタシスを高める」というコンセプトで、靴、靴下を捨て地下足袋とサンダルで歩いている。そんなことを言ってる者はいないだろうと思っていたら、なんとランニングの世界にとっくにいたのである。それもウルトラランニングの世界に。
 裸足で(厳密には素足の地下足袋歩行)野山やゴーロ(河原)を歩くと、膝はいつも曲がっているし、スピードを増すとつま先着地となる。これはウオーキングの原則とは正反対の行為なのだ。実践でそのことに気付いたのだが、そのことを裏付ける理論とか研究がないか探していた。本書は将にぴったりの理論で、「靴が人間の歩行を歪めてしまった」というわたしの考えと同様に、「ランニングシューズは、人間の足を襲う史上最大の破壊勢力かもしれない」と言っている。

このゴーロがわたしのランニングコース、裸足に近い形で走るのは熟練が要る。
そして人類がその進化の大部分をやってきた行為が狩りであるとして、人類は走り続けてきた(持久狩猟)としている。それがタイトルのボーンツーランなのだが、わたしは同様に狩猟採集の時代を想像したが生活の主は歩行で走行は従であると考えている。ボーンツーウオーキングである。
 
さて裸足で走る人がこれだけこき下ろす靴というものが、なぜ一般的なのか?これは大きな課題である。ローマオリンピックで裸足で走って金を獲ったアベベが東京でなぜ靴を履いたか。傾斜も凸凹も無いアスファルト道路こそが謎を解くキーかなと思っている。
 
本書について、これらの説明では何のことか解らないかもしれないが、人類の進化に興味ある方は一読されてもよろしいかと思う。

【今日の”のび”】NO.5
 「じょん」の童話の推敲に時間がかかり、ブログの更新が出来なかった。のびの記事も書けなくて申し訳ない。昨日完成し応募したので、今日から頑張って投稿しようかと思う。
 さてのびも今日で18日目、少しずつ慣れてきてはいるが、まだまだ借りてきた犬状態。時々固まっているがじょんもよく固まってたなあ。

どちらも固まり状態、左は病院だからしゃーないか。


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