晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

睦志のこと(10) 穴虫-16 2/8

2014-02-08 | 上林地名考

2014.2.8(土)雪
 穴虫の意味-1

 穴虫、穴、虫地名をリストアップし、現地を確認してみようと思っているのだが、予想以上の降雪で当分出かけられそうにない。地図上で位置が確認出来るのはごくわずかで、現地に赴く以外に確認のしようがないが、現地に行ったところでその位置の確認は難しい。その時は市役所なり役場で教えてもらうのだが、山間部などではまるでどこか解らない。
 動きのとれない今は文献や地図上で場所の予想をしている。つまり穴虫地名の意味をいくつか考え、それにそった場所を予想するわけだ。後日その場所に行き、ぴったり合っていれば、最初に考えた意味が当を得ているという結果になる。
 そういう意味では地図ソフトの映像は役に立つ。地形図だけでは解らないその場所の植生や細かな地形、そして建造物なども見ることが出来るからだ。
 予想を立てるにしても穴虫の意味をまず考えなければならない。
 穴虫という地名が各地にいくつも存在することは、穴虫という普通名詞的な意味があると考える。
 現在までに見聞きした穴虫の意味は次の通りである。
(1)穴道説(大和の原像・小川光三氏)
 西海には大穴があり、東から出た太陽はやがてこの大穴に沈むという古代の人々の宇宙観があり、この大穴に至る道という説。P1060784

 

千代川町北ノ庄穴虫は亀岡盆地の尾根が迫った一番低いところ、その東に丹波国府推定地があり、香芝町の穴虫と同様のシチュエーションが考えられる。

(2)空無所説(西丹波秘境の旅・澤潔氏)
 虫は無所(墓所、葬地)が変化したもので、空無所(からむしょ)、つまり両墓制に言うところの詣り墓が変化して穴虫となったというもの。

 (3)穴無所説
 文献にあるわけではないが、一般的にいわれている説で、虫はやはり無所なのだが、穴は墓穴の穴でいわゆる埋め墓のことをいう。
P1060791
 

亀岡市河原林町河原尻穴虫は丹波国分寺跡の真西にあり、国分尼寺跡も存在する。穴地形ではなく河岸段丘という感じだが、古代からの墓所ではなかったか。写真は区分寺跡に集められた五輪塔、板碑、地蔵など。

(4)わたしの現在の説
 穴は穴地形、虫は無所。
Cimg9350
 

大津市の穴虫池は住居地からは南西に走っている川筋上にある。典型的な穴地形だが、墓所であるかは解らない。

 例えば今までに訪れた、あるいは人に見てきてもらった穴虫についていえば、亀岡市千代川北ノ庄穴虫は(1)~(4)まで当てはまりそうだし河原林町河原尻穴虫は(1)~(3)が候補になり、大津市北小路三丁目の穴虫池は(4)がぴったりの気がする。つづく

【今日のじょん】昨晩には黒い地肌が見えていた庭が一夜でまた真っ白になった。今回は南岸低気圧で東京などでの降雪が予想され大騒ぎである。本来ならば都知事選のニュースが主になるんだろうけど、ソチの開会式と相まって都知事のとの字も言わない。
 今朝撮った写真は白黒写真のようで臨場感がある。ところが今までの雪と違って湿気がある。これは降雪が続いてもたいしたことないなという気がする。じょんは同じように遊んでいるが、結構濡れるので困るのよね。P1020278 P1020279 P1020280

 
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(9) 穴虫-15 2/6

2014-02-06 | 上林地名考

2014.2.6(木)雪

 焼野鉱山が穴虫池の所だったというのは驚きだった。焼野鉱山はもっと山の奥と思っていたのだが、考えれば今でこそ住宅地に接しているが、かつては山の奥であったに違いない。記録に国鉄膳所駅からの距離が別保鉱山で2.7Km、焼野鉱山で2.9Kmとあるからほぼ間違いないと思う。確実な情報はないのだけれど、別保鉱山は大津市環境美化センターあたり、焼野鉱山は穴虫池右岸辺りと憶測するのだがどうだろう。前に紹介した穴虫池の写真左手に小さな穴らしきものが見えるのは一体何だろう。他に撮った写真を見るとやはり人工的な穴のようなものが写っている。桜井さんに確認するとやはり同じ思いを持っておられたようだ。焼野鉱山の坑道跡ではないかという思いである。
Cimg9349


 別保鉱山、焼野鉱山はマンガン鉱山として明治時代から戦後まで操業していた鉱山である。それではそれ以前、特に古代においてこの地帯がいかなるものであったのだろうか。聖武天皇が大仏造立の金を得るために祈らせたというのが石山寺の縁起にあるとおり、金属の匂いのする地域である。近隣の別所付近では鉄滓が出ているし、焼野鉱山付近で泥鉄鉱が出たという記事も見たことがある。
 とある論文から焼野鉱山の図面を見ることが出来たが、そこにある用水池と崩壊谷はまさに穴虫池の右岸と同じ形状で、写真で坑道でないかと思った部分は、旧坑坑道採掘跡と記されている。
 次項「穴地名の考察」で紹介するが、穴虫地名の所は鉱山、金属関連の地域が多い。穴地名が坑道を表すケースは必ずあるが、穴虫の穴は別のものだと今のところ考えている。
 桜井さんが撮ってくれた何気ない写真にわたしの考える”穴”が写っている。それは穴虫池から若葉台の住宅地を撮った写真だが、まさに穴の中から外を覗くような感じなのだ。つまり尾根が両サイドに迫り、その間に谷間となっている地形こそアナと呼ばれるものではないだろうか。あえてそういう地形を穴地形と呼んでみたい。つづく
Cimg9354



【今日のじょん】雪は降り続いて遂に28cmとなった。でも丹波には珍しく軽い雪で、雪かきも簡単、2時間ぐらいで終わってしまう。久々に雪の動画をアップしたので処理が終わったらお見せいたしやしょう。
P1020256
 

雪のぽんぽこぽんは歯にしみるのよね。

【ぎっくり腰情報】17日目
全快とは言えないのだが、ほぼ異常なし。長時間立っていたりするとだるくなる。当初の明らかな回復と違って遅々とした回復なので記録していないと解らない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(8) 穴虫-14 2/5

2014-02-05 | 上林地名考

2914.2.5(水)睦志のこと(7)は2014.2.2 
穴虫池(大津市)-1

 各地の穴地名、無所地名を調べ上げ、個々に訪問して探求しようと考えている。まず綾部市上杉の穴虫を訪ねるべく準備していたら、猛烈な降雪となった。車から降りただけでは何も解らないと延期することにしていたら、桜井さんが来られた。実は桜井さんの家の近所にある大津の穴虫池について、昔のことが何か解らないか調べてくれるよう頼んでいたのだ。
 写真も撮ってこられたが、昭和年代以前のことは解らないようだ。
 まず、穴虫池、中穴虫池、上穴虫池は現在では北大路三丁目という住所になるのだが、それは新しい住居表示で、元は膳所別保町と言うことだ。しかも富士見町別所を探して聞き取りをした、かつての焼野鉱山の場所らしい。ということは元々膳所別保町焼野ということになる。
 古いことを知っておられる方に聞かれたそうだが、過去に葬地であったということは聞かないということだった。また、水の事故が過去にあったそうで、完全にフェンスで仕切られているので上流には入れないそうだ。
Cimg9347 Cimg9353

 

 写真では右岸に小径があるようにも見えるのだがどうだろうか。南を走る東海道自然歩道に若葉台へ降りる道標があるそうだ。さすればその道は穴虫池、あるいは左右のどちらかの尾根を通るように思える。逆から歩いて試してみたい気はするが、大津まで行く余裕がない。つづく
Cimg9352


穴虫池、現在は水が抜かれて底が見えている。
【今日のじょん】暖かい日が続いていたので高をくくっていたら、朝は銀世界となった。それでも積雪は知れているだろうと思ったら19cmあった。今期2番目の積雪だ。じょんは何者かの侵入跡をにおぎまくり。P1020247 P1020248

 

 
P1020251P1020249 


しばし雪景色をお楽しみあれ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(7) 穴虫-13 2/2

2014-02-03 | 上林地名考

2014.2.2.(日)曇り 4月上旬の気温

 兵庫県の郷土史家、地名研究家の田中早春(さはる)さんが「姫路の地名由来由来・百一話」という本を自費出版されている。発行部数に限りがあり、手に入らないのだが、その元となる記事を「姫路の地名色模様」というブログに書いておられる。大変真摯な内容で、参考になること大である。その中に姫路市飾東町八重畑の無所ノ下という地名の記事がある。この無所ノ下の上には大規模な墓地があり、古くからの墓地で、かつては無所と呼ばれていたそうだ。地図サイトで調べてみても完全に墓地で、ムショというのが墓地であることは間違いがないようだ。
 そして埋め葬地は穴ムショと呼ばれ、虫生の字を当てられてやがて穴虫に変化したと記されている。
 この部分は確信が持てないでいる。穴は遺体を埋めた穴をさすのだろうか、無所→虫生→虫という変化はあるのだろうか。
 まず調べ上げた数多くの地名の現地に赴くことだ。地図ソフトが発達して現地の臨場感ある画像を見ることが出来る様になったが、これはあまり参考にならない。おおまかにこんな風なところだなと感じるだけで、現地を訪れないなら見ない方がましである。それは余計な思い込みが入るからだ。
 現地の方の話も聞きたいし、自分自身が過去の人になったつもりで周囲を見ることが出来る。そしてなにより今回は墓地、葬地を探さなければならない。墓地なんてどこの地域にもあるもので、それが古いものか新しいものかも見なければいけない。
 困難なことは小字の場所は地図ソフトでも見つけにくいことである。特に福知山市は小字名を公開していない。そしてそんなところに限って字配図の閲覧が有料なのである。
P1010674
 

おおい町名田庄虫野、地名由来は何だろう。道からのぞき見ただけでは解らない。
今回紹介していないが、おおい町の名田庄にはいくつかの虫地名がある。
虫野、虫鹿野、虫谷などである。谷川健一氏は「日本の地名」の中で虫、イナゴ、ウンカなどと関連づけられているが、果たしてどうだろうか。武生や加悦町の大虫神社なども気になる所である。つづく

【作業日誌 2/2】
サイクルスポット看板作り

【今日のじょん】じょんのシャンプーの度にかみさんの腰が悲鳴を上げるので、シャンプー台をこしらえることになった。谷村さんにもらったシンクはじょんが入らないので土井さんにもらったシンクの端を切って使うことにした。P1020232 P1020233  



これでつくるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(6) 穴虫-12 2/1

2014-02-02 | 上林地名考

2014.2.1(土)晴れ

 塚穴、塚穴道、モガリバなど直接的な地名もある、澤氏が言うようなアシ、イヤ地名など拾うと枚挙に暇がない。このことは忌み嫌われて疎まれると思いがちな墓地地名が実は普通に、むしろ積極的につけられていると考えてもいいのではないだろうか。それは前述したように墓場の固定性にあり、古代から今日までほぼ同じ場所にあり、場所を表す地名のもっとも適したものだと考える。
 また、墓地地名の忌避性というか、嫌がられるという傾向は今日のように人々が様々なところに居住するようになったことと、それに伴って土地の売買や開発が行われるようになってきたからではないだろうか。
 近世以前のように村に一定の人々が居住し、農耕を続けている時代に、その居住地や田畑が「墓の下」などという地名になっていたとして何の不都合があろうか。その土地を売ろうか、その土地に分譲地を作ろうかというような時代になって始めて、この地名ではまずいなと考えるようになったのではないか。元々の墓地、葬地であったところが、随分おしゃれな地名になって売り出されている例を誰もが知っている。
 という風に考えると、無所という地名を嫌って虫になったというのは考えにくいこととなる。
 では綾部、福知山でムショという地名はどうなんだろう。小字で見る限り皆無なのである。これは実に意外だったのだが、調査範囲を三和町、夜久野町、大江町(いづれも現福知山市)に拡げたところムショノ本(三和町上川合)無所ヶ花(夜久野町末)の二個所が見つかった。
Img_3484


三和町上川合の我が家のお墓、かつては土葬で手前の土の部分に埋葬され土饅頭が築かれていた。石塔は山手に列んでおり、これも一種の両墓制ということである。ムショノ本という地名は調べてみないと解らない。
 
ムショが変化した可能性があるのが次の通りである。
武者ヶ谷(福知山市堀)
六畝ノ元(三和町菟原中)
無世尾山(綾部市八津合町)
ムセガ谷(舞鶴市青井)

また、虫地名の例も一部紹介しておこう。
虫田(綾部市西方町)
虫ヶ端(福知山市下野条)
虫蔵(夜久野町畑)
虫ノ倉(大江町天田内)

穴虫も岩滝町男山(現与謝野町)に発見、ほとんどが地図上で確認できないので今後の現地訪問に期待したい。つづく


【今日のじょん】昨日1月のシャンプーをした。体重は18.8Kg、昨年より400gアップだが許容範囲で合格。写真を見ればフカフカ感がおわかりだろう。P1020230_2 P1020231

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(5) 穴虫-11 1/31

2014-02-01 | 上林地名考

2014.1.31(金)晴れ

 澤先生の睦志は空無所つまり両墓制の詣り墓としているのは合点がいかない。無所→虫→睦志となったと仮定しても、無所は本来の墓、ホウリカであるはずで、両墓制でいえば埋め墓、捨て墓のはずである。先生が睦志に来られて目にされたのは屋敷墓と書いておられるが、これは両墓制における詣り墓で上林ではどこでも見かけるものである。どこにでもある物が地名としてとあるところに付くのは不自然であるし、地名として残るのならば、両墓制が発生するより以前の時代のまだ石塔や卵塔がみられない葬地ではなかろうか。現に氏は睦志についての文の終わりに次のように書いているのである。
 
 
両墓制は各地にあり、丹波にも多いが、愛知県では両墓制のことをムショ、またはラントという。死骸を埋めるところ、それは山裾であるが、そこをムショという。ムショには普通詣らない。詣るところをラントという。
 
 この文からしても虫が無所ならそれは埋め墓であるべきと思うのだが。
 
 それでは墓地、葬地が地名として残るものなのか、綾部、福知山(旧福知山市)の小字を拾ってみた。
 意外に多くの地名が残っている。もっとも目に付くのが塚地名である。塚ノ下、塚ノ上、塚向いなどは墓地を示すようだが、古墳をさす場合もあるようで、古墳も墓には違いないがいわゆる死穢忌避感というものは湧いてこない。例えば上林鳥垣の古墳が残る谷を塚ヶ谷というのは明らかに昔の人が古墳を意識してつけられた地名だろう。
P1010849



鳥垣6号墳のある地域は塚ヶ谷という。

 次に多いのが墓そのものを表す地名である。墓の下、墓ノ脇のように墓からの方向や位置を示す地名がほとんどである。このことは墓地というものが固定的、保守的な場所であることを表している。墓地というのはそれが出来てから、農地になったり宅地になったりしないということがいえるのではないだろうか。だからこそ誰にも認識できる場所であり、その下だとか、その向かい等という地名をつけるとその場所も誰にでもたやすく認識できることとなる。
 サンマイ、三昧という地名も割合見かけることがある。サイマイというのは諸説在るが埋葬墓地、両墓制でいえば埋め墓、捨て墓にあたるもののようで、墓地の呼び方としてはもっとも古いものと考える。つづく

【作業日誌 1/31】
 冬野菜片付け、残っているのは大根1本とブロッコリー。一畝をジャガイモ用に準備中。

【今日のじょん】朝、いつもの散歩道に穴ぼこ発見。猪が草の根を掘ったみたい、かわいらしいもんだけどこれって本格的になると堤防が崩れるまでになるのよね。P1020227




 【ぎっくり腰情報】11日目 相変わらず、日常生活には問題ないが、重いもの、寝返りなどには違和感を感じる。


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(4)穴虫-10 1/30

2014-01-31 | 上林地名考

2014.1.30(木)雨、曇り

 穴虫について「睦志のこと」のなかで語っていく主旨は、穴虫の虫と睦志の虫が同一なのではないかという思いからである。
「西丹波秘境の旅」(澤潔著)に上林の睦志(むし 綾部市五津合町)に関する一文がある。
 睦志(虫)とは墓所のことで、呉音ではではムショ(無所)で、詣で墓を意味する空無所の意味である。
P1020172


上林には両墓制が残っており、どこにカメラを向けてもお墓が写る。この山の中にもいくつかあって、すべて詣り墓である。

 澤先生の「丹後半島の旅」「京都北山を歩く」などについては造詣が深い作品として尊敬していたが、「西丹波秘境の旅」については信頼性が低いと感じていた。また、上記の一文についてもムショを詣で墓としている点が納得がいかず、睦志(虫)のことだけに無視してきた。
 しかしムショが墓所を指す言葉であることは間違いはなさそうだ。全国方言辞典には以下の例がある。(地域は省略)
むしょ=火葬場、墓
むじょーど=死者を埋葬する人、穴掘り人。
むしょどころ=墓所
むそーば=墓所、墓
むそんごしらえ=盂蘭盆の前に墓を掃除すること

ムショ=墓所というのは理解できる。しかしそれが虫に転訛するのかどうかというのは単純には語れないと思う。少なくとも和銅6年(713年)の好字令とは無縁のもののようだ。好字令では二字佳名が基本だから無所、墓所が虫になることはあり得ない。
 ただ無所、墓所であったところに人が住むようになってくると、忌み嫌われる呼び名なので差し障りのない文字に変えてしまいたいという思いは理解できる。つづく

【今日のじょん】夕べの10時ぐらいか、異常に吠えるので外を見ると、玄関のセンサライトが点いている。ライトを持ってベランダに出ると、鹿が畑の向こうに逃げて行く。この時期一体何を食いに来るんだろう。朝になってじょんと見回ると、例の蔓の葉っぱ、龍のヒゲなどがやられている。概して厚みのある葉を狙っているみたいだ。あまりに目の前に見ると対策を考えないといけない。P1020226 P1020225



つる草ぐらいはいいんだけど、やがて植木や野菜がやられそう。 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(3) 穴虫-9 1/29

2014-01-30 | 上林地名考

2014.1.29(水)晴れ 睦志のこと(2)は2014.1.27

 穴虫のアナが方角の西ではないと思い始めたのは、柳田國男の「方位考」を読んだからだけではない。実際の穴虫をいくつか調べて、必ずしも西を表すものではないと思ったからだ。
 確かに香芝市の穴虫は磯城の宮はじめ大和王権の重要な地域の真西に存在し、始めて現地を調べた亀岡市北ノ庄の穴虫も丹波国府推定地の真西に存在し、亀岡市河原林の穴虫も丹波国国分寺の真西に存在した。これがアナが西を表すという風に考えた発端なのだが、その後いくつかの穴虫を発見し、地形を見る限り、何か重要な施設の西に存在するとばかりいえないのではと思うようになったわけだ。
 現在認識している穴虫地名は以下の通りである。
 奈良県香芝市穴虫 (未訪、穴虫峠、大坂山口神社)
 亀岡市千代川町北ノ庄穴虫(岩城神社)
 亀岡市河原林町河原尻穴虫(丹波国分寺跡西)
 宮津市小田宿野穴虫、穴虫ヶ谷(訪問するも位置確認できず)
   姫路市大塩町、穴虫池(未訪、山陽電鉄大塩駅北東、馬坂峠下北側の池)
 大津市北大路3丁目、穴虫、穴虫中、穴虫上池(未訪、若葉台奥)
 三重県亀山市辺法寺町、穴虫の郷(未訪、元字穴虫、辺法寺処理場横)
 綾部市上杉町穴虫(未訪、府道74号線伊佐津川手前)
P1060791
 
 
丹波国分寺跡に集められた無数の五輪塔、板碑、宝篋印塔、地蔵の群れ。
すぐ西の穴虫からのものもあるのではないだろうか。


 少し調べただけでこれほどの穴虫地名が見つかるということは、穴虫という妙な地名がその地域に特別なものではなく、普通名詞的に使われる意味の言葉ではないかと思われる。そうであれば、これらの穴虫を訪ねてそこがどういう地形か、歴史的にどのような共通点があるか等を調べていけば穴虫の意味が見えてくると考える。つづく

【今日のじょん】春のような暖かい朝がきた。霧ではなく湯気がたって妙な感じである。雪解けで水かさは増し、ふきのとうはどんどん出てきて、春が来たかとだまされてしまう。P1020224
 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(2) 穴虫-8 1/27

2014-01-27 | 上林地名考

2014.1.27(月)晴れ

 穴虫の語源についての小川光三氏やわたしの説について疑問が出てきたのでその内容を述べて新たな語源探索を行いたい。
 <あなぜは西風か?>
 柳田國男の論文の中に「風位考」というのがある。本人は試論のつもりだが立派な本になって本論になってしまったという風なことを書いておられる。昨年亡くなられた谷川健一氏の「日和山とアイの風」(日本の地名)という一文も風に関する論文として秀逸なものと思うが、柳田氏の「風位考」は群を抜いている。そのなかでアナゼ、アナジは方向を示しているものではないといわれたらいたしかたない。現実に各地のアナゼの方向は様々なのだ。
 ここまでは納得するのだが、アナが感嘆詞のアナ、驚きのアナというのはわたしは納得いかないのだが、これも通説となっているようだ。要するにアナゼとは、初冬から冬に吹くびっくりするような悪い風ということになるようだ。
季節的にみてこの風が北西の風になるのは一般的と思われるが、わたしのいうアナ=西というのは無理があるようだ。

<虫は道か?>
 小川光三氏が、穴虫の虫は実は道で穴道ではないかと考えられたのは万葉集巻七柿本人麿の次の箇所である。
 
大穴道 少御神の 作らしし 妹勢の山を 見らくもよしも
 妹勢の山は二上山のことで、大穴道、少御神はそれぞれ大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなみこと)のことである。
 大己貴は大穴牟遅、大穴持などとも書かれ、人麿が穴道と書いたのは元々がアナムチ、アナモチは穴道だったのではないかということだ。
 そしてアナミチがアナムチとなり、アナムシと変化したのではないかという説である。
 大己貴命と少彦名命が作ったと言われる二上山の北隣に穴虫があり、その西に穴虫峠があるわけで大己貴=大穴道=(大)穴虫というのも解らないでもないが、一時は支持した説であるが今では疑問を持っている。
 小川氏の説に出会う以前にも、穴虫と大己貴は関連があるのではと考えており、穴虫に存在する神社の祭神が大己貴命ではないかと期待した。亀岡市千代川町北ノ庄穴虫の岩城神社の祭神は市杵島比売命であり、奈良県香芝市穴虫の大坂山口神社は大山祇神であった。
P1060784P1060769 
 

穴虫(亀岡市千代川町)遠望、一番谷の所。穴虫にある岩城神社。

そんなところで穴虫の語源は振り出しに戻って考えることになった。つづく
【作業日誌 1/27】
サイクルスポット看板ペンキ塗り

 【今日のじょん】じょんの食事は飯台に真っ直ぐ向かわず、約45度傾いている。理由は分からないが、斜めがきらいのかみさんはこれが気に入らないらしい。「真っ直ぐに食べなさい」なんて言いながらおしりを直角に動かしている。でもまたすぐに元に戻って食べてるので、なにか都合があるのだろう。P1020219  
 



【ぎっくり腰情報】8日目、前日に同じ、手当無し。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

睦志のこと(1) 穴虫-7 1/26

2014-01-26 | 上林地名考

2014.1.26(日)雪 穴虫-6は2013.9.10
 
 地名穴虫(あなむし)は前回まで「日置のこと」の中で書いてきた。日置氏について言及する「知られざる古代」(水谷慶一著)、その根源ともなる「大和の原像」(小川光三著)に檜原神社、箸墓、穴虫峠につらなる東西のレイライン、いわゆる太陽の道が存在するという風にあったからだ。
 丹後の日置を訪ねたときも丹波の日置を訪ねたときにも穴虫は見つかった。しかし穴虫について考察を重ねる度に、日置と穴虫は無関係では無かろうかと思うようになった。その経緯についてはおいおい書いていくことにして、現在では穴虫の虫は睦志(むし 綾部市五津合町)の語源を探るに有効なのではと思うようになった。結果どのようになるかは解らないが、「睦志のこと」という記事の中で穴虫を追求していくことにする。
 睦志は綾部市五津合町睦志(むし)で近世には虫村と呼ばれていた。鎌倉権五郎景政を祭神とする若宮神社があり、虫にちなんだ伝説も伝わっている。
Img_1212
 

睦志、若宮神社
 この虫(害虫)についての伝説が虫地名の由来となっているのは付会と考えており、穴虫の虫にそのヒントがあるのではと考えている。そういう意味でまず穴虫の探究をすすめたい。
 山本光三氏のいう穴虫は、「太陽の沈んでゆく道」と解かれた。わたしはこれまでの探究の結果「西の道」と解いた。どちらも結果的には同様の意味かと思われるが、あちこちに穴虫地名を見つける毎にいずれの説も正しくはないような気がしてきた。というより、もっと妥当な説が考えられるのではないかと思うようになったということである。つづく

【作業日誌 1/26】
サイクルスポット看板字彫り

【今日のじょん】やっと白い部分より黒い部分が多くなり、春は近いかなと期待感を持たせる。でも考えてみればまだ1月、過去の写真を見たらまだ大雪の季節だ。ご多分に漏れず夕方から吹雪いてきた。P1020218
 

これ今日のじょん、ゆきちゃんのあと嗅いでばっかし。
P1000887   

これ2年前の今日、ラッセルラッセル。

 【ぎっくり腰情報】6日目、状況は昨日に同じ。ただ、曲げたときの痛みがピリッとくるのは不安要素。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日置のこと(73) 国府と日置-8 1/16

2014-01-16 | 上林地名考

2014.1.16(木)曇り 日置のこと(72)は2014.1.13
 本記事は1月14日掲載予定でしたが、多忙のため14日の記事をお休み頂きます。悪しからず。

 岐阜県の国府は飛騨国と美濃国の二カ所がある。飛騨国府は旧高山市街、その北の国府町と候補が挙がっているが不明の状態である。美濃国府は不破郡垂井町で遺跡が確認されている。そんなわけで美濃国府を調査することにする。不破郡垂井町は中山道関ヶ原宿の東、垂井宿のあった宿場町である。中山道と美濃路の分岐となる交通の要所と言える。
 ここまで国府のことを調べてきて思うことは、国庁の位置は現在の都市ではなく、その周辺にあると言うことと、近隣は金属の産地一画と思われるところが多いことである。まだ調査数が少ないので結論的には言えないが、今回の垂井もまさにそういう位置である。
 広大な濃尾平野の西北の端にあり、伊吹ねう地帯の一画であり、揖斐川に沿った鉄、水銀の産地の一画でもある。産鉄の地を思わせる別所地名も大野町松山、池田町片山にある。(別所地名事典、池田町片山は存疑となっている)
すぐ南の養老町、象鼻山の麓の別庄はどうだろう。いずれにしても美濃一宮の金山彦命を祀る南宮神社がその地にあることは、産鉄の地であることは間違いない。
 近隣に日置の地名は見当たらないが、国府跡の南西すぐのところに垂井一里塚という史跡があり、そこの地名が日守(ひもり)なのである。日置、あるいは飯盛に関連する地名かも知れないというので、そのまま東にたどることにした。荒尾町、福田町、笠木町、笠縫町、揖斐川、宝江、犀川、祖父江、長良川を渡ったところが岐阜市日置江なのである。国庁跡から日置江神社まで直線で16Kmあまりである。
 地名は金属に関係あるかのものと気になる地名を参考までに選んだものである。ただ、長良川に臨んだ日置江の地は大河の側であるだけに古代に居住出来たものか現状の地図で見る限りでは判断できない。また、国府との間には揖斐川、長良川の大きな川があり、国府と直接関係があったとは予想しにくい。つづく

【今日のじょん】夕べはよく吠えた。あんまり吠えるのと、ちょっといつもと違うので階下に降りて様子を見る。浄化槽のブロワの音に反応しているのかと思い、外に出てみる。そのとたん、西の端の所から黒い影がサッと山に逃げてゆく。鹿か猪だ、朝になってじょんと確かめに行く。どうやら鹿のようだが、家の中でよくぞ解ったものだ。番犬としても立派なものである。P1020169

P1020171P1020168


植え替えたコニファーのあたりにいた。芝生広場を通り、被害は玉龍か。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日置のこと(72) 国府と日置ー8 1/13

2014-01-14 | 上林地名考

2014.1.13(月・祝)雪

 国府周辺に日置地名がないか探しているが、一向にそれらしいものが出てこない。逆に日置地名があるところの国府を調べてみようと日置地名の載っているサイトを検索する。すると日置姓の分布について、府県別のデータが見つかった。姓というのはその多くが地名から来ているということだから、日置姓が多いところには日置が在ると考えられる。
 サイトの情報は怪しげなものが多いが、2000年の電話帳から抽出したデータということだから間違いは無いと思われる。ただ、人口が大きく移動している時代だから、日置姓イコール日置地名という訳にもいかない。特に都市部の扱いは難しい。一応参考ということで、府県別人口比でベストテンを挙げてみよう。
岐阜 20.41(%)
三重 15.38
鳥取  6.89
愛知  6.62
鹿児島 5.52
熊本  4.13
滋賀  3.85
京都  3.42
和歌山 2.78
静岡  2.66

Img_0228


岐阜県の国府は飛騨国府(高山市周辺で未定)、美濃国府(不破郡垂井町府中)である。前者は2006年に通過したが、何の変哲も無いところで、宮川の風景だけ印象に残っていた。

何となく妥当な数字と思えるのだが、岐阜の20%越えには驚く、5人に一人は日置さんなわけだ。日置が東国や陸奥に少ないと言われるが日置姓もやはり少ない。ところが北海道が12位で2.53%となっている。九州も鹿児島、熊本、宮崎の南九州は高率なのだが、北九州は1%に満たない状況で、四国と広島、山口も低率である。
 まず岐阜県を調べてみようという気になる。つづく

【今日のじょん】早朝から雪が降り始めて、一日中降ったのだけど、昼間の雪はたいしたことはない。朝の積雪は10cmってところだけど昼間は気温が上がるからそう積もらない。問題は夜の雪だ、夕方になっても降り続いている。P1020151

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日置のこと(71) 国府と日置-7 1/12

2014-01-12 | 上林地名考

2014.1.12(日)曇り

  青谷町は因幡国の領域になるのだが、青谷上寺地遺跡が有名でその東を流れているのが日置川で周囲がかつての日置郷である。因幡、伯耆両国で日置地名が見つけられたのは実はここだけなのである。この日置郷が日置部に関連するとしても、国府の建設、造営に関わったとは思えない。
Img_5680Img_5681   
 

青谷では弥生時代の優れた土木工事の跡が残っている。(青谷上寺地遺跡展示館)
 昨年青谷横木遺跡で大量の木簡や祭祀具が発見され、出挙(すいこ 注1)の返納に関する内容などが書かれており、これらは郡の役所の仕事なので、日置郷に気多郡の役所が存在したと推定されている。古代の気多郡は全国に2カ所存在し、そのいずれにも日置郷が存在するのは単なる偶然だろうか。今一つの気多郡は兵庫県豊岡市日高町の但馬国府の位置である。
 日置郷には日置氏、日置部が集住したと想像できるが、郡の役人として存在していたのかも知れないが、因幡国の場合は金属関連の活躍があるような気がしてならない。
 さて、伯耆国府の周辺に日置の地名を見つける事は出来なかったが、国府(こう)周辺には服部(はっとり)、弓削(ゆげ)などの部による地名と思われるものが存在する。特に倉吉市志津には倭文(しどり)神社、湯梨浜町には伯耆国一宮倭文神社が存在する。因幡国府の近隣にも鳥取市倭文(しとり)があり、この地方に倭文部が活躍していたと考えられる。
Img_5647
 

羽合温泉に向かう県道、このむこうに東郷池があり、その先に伯耆一宮倭文神社がある。かつてはここ辺りは海だったのだろう。(’07.5.15)
 倭文部はシズオリ(倭文織り)を専門とする品部だが、日置部同様五十瓊敷命の大刀一千口に関わった十の品部に入っており、機織りだけでなく多方面の技術を持っていたと考えられる。つづく

注1)出挙とは一般に利子付き貸借の制度だが、この場合は農民に種籾を貸し50%もの高利で収穫時に返済させていたものである。

【作業日誌 1/12】バリアフリー化

【今日のじょん】屋根の雪も大方落ちてしまったが、どうもこのドドドッという音が苦手のようだ。夕べも妙におびえてゴミ箱からゴミ一杯出していた。P1020147  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日置のこと(70) 国府と日置-6 1/11

2014-01-12 | 上林地名考

2014.1.11(土)曇り

 読売新聞の1月8日文化欄、日本史を歩くという小さな記事に鳥取県倉吉市の不入岡(ふにおか)遺跡というのが載っていた。「山上憶良赴任の国庁」というタイトルである。岩見国の柿本人麿、越中国の大友家持など有名な歌人が国司として地方に赴いているのは意外な感がする。
P1020150
 

 倉吉市の国庁といえば伯耆国庁である。倉吉市の西、国府川左岸の国分寺、国府あたりに伯耆国府跡国庁跡、伯耆国分寺跡、伯耆国府跡法華寺畑遺跡などの表示が見られる。そしてその北、国府川が東に流れを変えようというあたりに、伯耆国府跡不入岡遺跡というのがある。つまり、この辺りで国庁は何度も建て替えられているということだ。不入岡の国庁こそが8世紀前半のもので、山上憶良赴任の国庁であるというのが記事の主旨であるが、伯耆国はかつての出雲勢力の東端ということで、日置氏の形跡が残されてはいないかと興味を持ったわけである。
Img_5621
 

小鴨橋の大イチョウを東にゆくと倉吉市街、西にゆくと国府(こう)方面にゆく。(2007.5.15)
 期待は見事に裏切られ、日置の地名どころか疋、曳などのヒキ地名も見当たらない。しかし随所に金属関連地名が見られ、倉吉市、北栄町、湯梨浜町に別所地名はいくつも見られる。西伯も金属地名は多く別所地名も各所に見られるが日置地名は見つけられなかった。倉吉市街地から南に3Kmほど関金温泉に向かう方向に弓削という集落がある。少し気になる地名だ。
 引地地名の調査の際に湯梨浜町東郷池の南に引地があったことを思い出し、近隣を調べると、その東北、青谷町絹見に入ったところに引地がある。これらの引地は日置には無関係だと思っているのだが、では何を意味するのか一向に解らない不思議な地名である。つづく

【今日のじょん】朝の気温が今冬最低記録となった。-3℃なんだがじょんのび最低気温は-8℃なのでメじゃねえってところ。
P1020143 久々にモモ姉さんが来て「歳はとっても雪が好きなんやねえ」なーんて言われていた。

P1020144P1020145 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日置のこと(69) 国府と日置-5 1/10

2014-01-10 | 上林地名考

2014.1.10(金)雪

 「地名の語源」(鏡味完二)の中に気になる文がある。
 
~フクロ 袋形の小地形。関東~奥羽に多いが、海岸には例が少ない。一説に、ヒキダ(引田、疋田、曳田)と関係がある。「低所」(ヒクド)で、低湿地の意か<山中襄太>

 というもので、山中氏の説を読んでいないので判断がつかない。一体どう関係があるのか知りたいところだ。袋地名が河川の流域に多いのははっきりしているが、引田、曳田、疋田などはどうだろう。フクロ地名とヒキ地名がセットで存在するようでも無い。ただ引地(ひきじ)地名を調べると、「水流により平地の土砂が一部削られているような地形」という説があった。最上川の引地、上林の引地、今回の曳田もそれらしい地形と言えないでも無い。川の蛇行により袋状になった堆積部分が一部削られているのがヒキ地名だとするのが山中氏の説だとしたら、納得のいくものである。
Img_0551
 


最上川右岸の山々が平地となるあたりに引地はある。川の浸食で土地が削られた地形という説がある。(2006.9.8)

 これらのことがあって、曳田は地形地名のような気がしてならない。
 太陽の道北緯34度32分にも多くのヒキ地名が挙げられている。その中で日置以外の蟇浦、曳野、疋田、疋相(ひきそ)等について日置部との関連をいぶかしく思っている。例えば地形地名で低湿地などをフケというが、泓、不毛、浮気、婦気、富下などといくつにも表示される。ところが日置部という固有名詞が地名由来となった場合、他の漢字に転化するだろうかと思うのである。
難しいが倭文(しどり)は倭文であり、弓削(ゆげ)は弓削で表示されているではないか。
「知られざる古代」(水谷慶一著)をもう一度読み返してみたいが、緯度の近くにヒキ地名が存在するからといって日置氏に関連づけるのは早計ではあるまいか。

【作業日誌 1/10】雪かきくけこ。
【今日のじょん】今冬二度目の積雪が来た。昨日夕方から降り始めたので大量積雪を予測していたが、意外と少なく18cmだった。
 じょんは昔ほど楽しそうじゃないが、ボール探し遊びは好きみたいで一人で何時までもやっている。P1020134
P1020138

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする