晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

井根訪問 10/7

2011-10-08 | 上林界隈(AKB)

2011.10.7(金)晴

 近くて遠い井根でした。我が家の裏山を越えれば井根の谷なのに行ったことが無かったのです。
 あまりに好天なので、久々に日吉五箇荘を訪ねました。帰って時間がまだ残っていたので井根を訪れました。
 上林の村々は上林川本流の幹上林、支流の枝上林ともに入口部分が峠であったり、環流丘陵によって塞がれていたりしていて閉塞的な感がします。ところがそのゲート部分を越えて中に入ると意外に広く明るく、別世界に来たような感じがするのです。何鹿郡誌に桃源郷と言わしめているのは将にその感じがあるからではないでしょうか。井根も将にそういった谷であります。井根口から少し入ったところに売り家を探して入ったことがあります。上林の狭い道に慣れていない時、這々の体でUターンして逃げ帰りました。
 そのイメージがきつく、ずっと狭くて陰気なところという思いを抱いていました。ところがその井根口の喉のところを過ぎると、ぽかっと空が開き、正面に蓮ヶ峯(544m)がでんと座っています。道は谷沿いに登って行く一本道で、右手の山から幾本もの清水が流れ出ていて、その全てに樋を設け、樽や桶が清水を満たしています。井根の語源は間違いなくこの湧き出る清水だと思いました。Img_3928Img_3927
 
喉もと過ぎれば景色が広がる。
あちこちに清水が出ているが、猪の獣道もセットにあるのがつらい。

  スクールバスの転回場所があって、本道は左の尾根を急登します。登り切って少し行くと左手に高野山真言宗日圓寺の石柱が見えてきます。案内板によると747年行基の開創というから随分な古刹です。Img_3926

ジグザクの急登を登る、左のピークが蓮ヶ峯。


 蓮ヶ峯をめぐる寺院は十数カ所あったそうですが、今では施福寺とこの日圓寺に痕跡を残すのみということです。廃寺跡を見つけ出して修験者道を再開したらとても素晴らしいことだと思うのですが、、。
 本尊は十一面観音ということです。その本堂の前に池があって、ここも豊に水が湧いています。もっと蓮ヶ峯の尾根を登っていっても水があるということですから、凄いことです。Img_3911 Img_3910
 
本堂とその前の池。



 お寺を後にして先程の転回場所に行くと、川沿いに細い道が付いています。まさかと思いつつ遡って行くと三軒の家があり、二股のところは常駐されているMさんのお宅でした。田舎暮らしの神髄のようなたたずまいです。Img_3924

右の道を行くと三軒の家があります。



 今日のじょん:補助金が出るそうでどの村でもワイヤメッシュのラッシュです(シャレ)。右の田んぼに入れなくなったら、左の畑に入るんじゃないかな?じょんも納得いかないようです。Img_3884

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古屋再訪 10/4

2011-10-05 | 上林界隈(AKB)

2011.10.4(火)快晴

 10月16日(日)に第14回の洞峠の風にふれあう交流会が行われます。是非参加したいと思っているのですが、なにしろ営業日なので13時ぐらいまでに帰ってこれるか微妙なところです。軽トラを手放したので自転車で行けばどのくらいかかるか実験も兼ねて行ってみました。というより、あまりにも良い天気なのでとにかく自転車に乗ってみたかったのです。里山サイクリングをドタキャンしたわけですが、日本一周ツーリングを達成してからどうも目的地に用が無くて自転車に乗るのが嫌になって来ています。つまり体力をつけるために走るなんてことはあまり魅力を感じないのです。Img_3863_2 Img_3864
 
集落に向かう手前の峠から郡境尾根、洞峠はもう少し右手かな。


 こういう言い方をすると、上林川本流に住む人間の言い分、故郷を捨てて都会に出た人間の言い分ということになるのでしょうが、たとえ古屋に綾部美山線の舗装道路が開通したとして、若者が還ってくるでしょうか、私はそうは思えません。
 古屋に生まれたひとが何かを感じて還ってくる、あるいは古屋の価値を感じた人が移住する以外にないのでしょうか。Img_3870

古屋はぽっかり開いた空間といった感じ。


 この日の古屋でも誰一人出合うことはありませんでした。公民館には灯りがついており、名産になった栃餅製品を作っておられるようです。昨年訪れたときは犬の鳴き声もしたし年配の男の方にも出合いました。せせらぎの音以外にはペダルの軋む音しか聞こえないのは何ともやるせない想いです。そうでなくとも両岸に迫る山影に押しつぶされそうな思いがしているのです。
 先程モータリゼーションの発展云々と言いましたが、モータリゼーション出現以前はこの地は京に向かう京街道の一つとして随分賑わっていたとのことです。大岩の集落も街道あっての集落だったのではないでしょうか。大岩にも古屋にも道路沿いに能舞台のような建物が残っています。これはある意味では旅人のための簡易宿泊所的な役目があったのではないでしょうか。Img_3098
 
大岩のお堂、古屋のものは上の写真の左下に写っています。



 ともあれ、当時は多くの往来がある風通しの良い集落であったわけです。それがモータリゼーションという文明の親玉のようなのが発達した結果、どん詰まりの集落となり、あわや廃村の憂き目にあおうかという心配も出てきたわけです。これは随分矛盾した話ではありませんか。そもそも文明とは、人間のためにあり、人間の生活の発展向上に寄与すべきものであります。その文明が生活の場である村の存続を脅かし、人々の生活を破壊していたとしたら、やはり矛盾といえるでしょう。
 全国各地の廃村も同様の状況だと思います。福島県の原発周辺だって、文明の最たるものに村を破壊されている訳ですから。
 なお、古屋までは14Km、1時間というところでした。

【作業日誌 10/4】
第三木小屋完成、経費1,340円(桟木1,000円、1×4340円)

今日のじょん:じょんがおしっこしたがるので早く起きて外に出てみました。なかなかの丹波霧で、こういう日は良い天気になります。Img_3852 Img_3854

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元伊勢内宮(3) 9/22

2011-09-22 | 上林界隈(AKB)

2011.9.22(木)曇、雨

 内宮から天岩戸神社へ直接行けるルートもあるのだろうが、足下が悪いので参道を降り、宮川沿いの鋪装道を行く。車でも行けるということだが、土砂崩れや倒木でもあった日には抜き差しならないので、歩いてゆく。右の崖は水を含んで今にも崩れそうだし、左の谷は濁流が渦巻いている。ガスも出てきて何とも心細い。Img_3774

ガスに霞む岩戸山。


  しばらく行くと谷の下方に発電所があり、関電の車が止まっている。人工のものがあると何となく安心感が沸くのはどういう心境なのだろうか。どんどん進むと右上に登る道があり、「~参道」と書いてあるので登って行く。谷の轟音はおどろおどろしく、ガスはますます濃くなってくる。大雨洪水警報の出ている日にこんなとこ来るもんじゃない、傘はさしているけれどすっかり濡れている。土砂崩れのあった現場に出る。Img_3775 Img_3778

谷は濁流、山はガス。


 もう引き返そうかと思ったときに道を間違ったことに気づく。この道は内宮に行く参道らしい。なんのことはない元来た道に戻るとすぐそこに岩戸神社に降りる階段があった。轟音轟き、濁流逆巻く社務所に降りていくのも風情がある、自転車旅行の際は随分気味の悪いところへも行ったなあと思いだす出す。
 谷のあちこちに色々と名前が付いており、それぞれ謂われがあるようだが、この増水では何が何だか解らない。 Img_3785 Img_3780 Img_3788Img_3781_2
 
本殿は木の合間に見え、参道は濁流に呑まれていた。


 いやあ、迫力あったなあと思いつつ、内宮の下部に当たる林道に崩れ落ちた岩を拾って帰る。周りに赤色チャートも多く落ちている。拾ってきた二個の内一個は強力に磁石に反応した、さすがに鉱山地帯である。
 次は外宮と、鉱石を求めて河守鉱山跡へ鉄滓を求めて北原遺跡へ行ってみたい。Img_3789_2 Img_3814

林道のガレ場にはチャートも多い。
磁性の強い石は鉄を含むものだろう。



 今日のじょん:じょんは虫にも鳥にも反応するがやはり猿に対する反応は一番である。遠くから気づくことも凄いが近くでは吠え方も追い方も凄いものがある。かみさんは放したら帰ってこないと言って放さないが、私は必ず帰ってくると信じている。放して猿を追い払ったら、これほど素晴らしい仕事は無いと思うのだ。この中に猿が居る、さてどこだろう。Img_3815 、、、、、、、、、、私も解らない。

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元伊勢内宮(2) 9/21

2011-09-21 | 上林界隈(AKB)

2011.9.21(水)雨、台風15号

 神殿手前の右の山手にへそ塚と和泉式部の歌塚というのがある。へそ塚というのが如何なるものか案内もないので解らない。和泉式部歌塚というのは石垣に囲まれた小さな宝篋印塔のことを言うのだろうが、誰かの供養塔であった宝篋印塔を丹後に住まいしていた和泉式部にかけて歌塚としたものかもしれない。娘の小式部内侍が、「大江山いくのの道の遠ければ~」と詠んだことに因んだものかもしれない。Img_3767 Img_3768
 
和泉式部歌塚とへそ塚。



 参道の脇に御門神社(みかどじんじゃ)というのがあり、石室ともとれる横穴がある。穴の中にはかわらけの欠片があり、かわらけ割り神事が行われているという。厄除けの神さまといわれているが、この横穴はなんらかの遺跡という感じがする。Img_3770 Img_3771
御門神社と横穴、その内部。



 その隣に「カネのなる石」という1m程の平たい石がある。長椅子のように下に台石があり、置いてあるこぶし大の石で叩くとカンカンと乾いた音がする。Img_3769




  三流の観光地にあるようななんとも俗っぽい呼び方だが、実はこの類の石は自転車旅行中にも佐賀県、島根県で見かけた。石を鳴らすことが呪術的宗教的な意味を持っていたのかもしれないが、見たものは神社や古墳といった場所ではなく、なんでもない場所であった。佐賀県杵島郡江北町の国道34号線沿いの丘にあり、扁平ではなくかなりどっしりしている。音は驚くほど澄んだ音でカーンカーンと感激ものであった。今ひとつは松江市の松江大橋南詰めには「大庭の音のする石」というのがある。これは細長くて大きなものだが、人身御供の悲しい伝説なども伝わっている。Img_3916Img_4629 

カンカン石と大庭の音のする石。



 なぜ大庭なのか不明なのだが、大橋から南に5,6Km国道432号線沿いに大庭町という町がある。この石そのものが、あるいは人身御供の源助が大庭に関係するのか調べても解らないのだが、大庭は古墳が多くあり、その石室の一部の石なのではないかと想像する。Img_4634
 
大庭鶏塚、周辺にも大規模な古墳が多く存在する。


 話がそれてしまったが音のする石はいずれも讃岐岩、いわゆるサヌカイトと言われるものであり、石器の原材料となった石である。
 元伊勢内宮の「カネのなる石」がサヌカイトであるか否かは判断できないのだが、音はなかなか美しい音がする。もしこの扁平な石が他所から持ち込まれたものでなければ、古墳の石室などに使われていた可能性はあるのでは無かろうか。つづく

今日のじょん:雨で運動不足になっているせいかレインコート着ているにもかかわらず、散歩に行こうと言う。(言葉で言うのではなくアイコンタクトするのだ)増水が気になっていたのでカメラを持って上林川念道橋下に行く。Img_3810_2 Img_3805Img_3803
 

 

 夏前の増水時ほどではない。河川敷には降りられない。

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元伊勢内宮(1) 9/21

2011-09-21 | 上林界隈(AKB)

2011.9.21(火)雨(台風15号)

 大江町の元伊勢観光センター(KTR内宮駅前)で「秋の花々と鉱石展」をやっているので見学に行く。大江山旧河守鉱山(こうもりこうざん)の鉱石は以前鬼の博物館の展示でも見たのだが、鉱石そのものにあまり興味が無くてよく見ていなかった。今回は図鑑も持ってしっかり見てこようと出かける。台風の大雨で大雲橋からの由良川の風景も凄みがある。大雲橋を渡って左折国道175号線を福知山方面に少し行ったところ左側に過去の洪水の水位を示す表示がある。Img_3794

ここまで水が来るのだから怖ろしい。バスが孤立して記憶に新しい23号台風が上から二番目。


写真に撮ったら何が書いてあるか読めなくなったので調べて記入しておこう。
 下から、昭和40年 24号台風 11m
      昭和47年 20号台風 11m40
      平成16年 23号台風 12m98 昭和34年伊勢湾台風 12m90
      昭和28年 13号台風 14m40
と書かれているそうだ。m表示は由良川水面からの高さだろうか。
 最上段の13号台風とは上林で28水と言われている台風である。上林の被害も甚大であったが、下流の綾部、福知山、大江といった地域も相当の被害があったようだ。とにかく昭和に入ってからの水害では丹波、丹後にとって最大のものだろう。
 金屋といういかにもというトンネルを越え宮川を遡る。何度この道を通ったことだろう、しかし鉱山という意識を持って来たのは3回目である。それ以前は自転車のトレーニングコースとして来ていただけである。この谷に入っただけで、ヘルメットを被った鉱夫やたたらを吹く鉄穴師、修験者や山師の姿が浮かんできてワクワクするのである。
 元伊勢観光センターは内宮駅の下にある小さな案内所である。食事もとりたかったのだが土曜日曜のみの食堂営業ということだった。大江山周辺でとれる鉱石を展示していたが、専門家が居るわけでなく、説明用のパンフレットが置いてあるのが精一杯かとも思われる。Img_3748 Img_3754 Img_3753
 




 これだけで帰るのはもったいないので内宮と天の岩戸神社を訪ねることとする。
元伊勢内宮皇大神社は広大な境内に立派な神殿、数多くの末社、伊勢神宮と同様の施設などを備えた神社である。由緒によると今から2072年前倭の笠縫邑から当地に移り、四年後に倭に還り、諸々を経て54年後に現在の伊勢神宮の地に落ち着かれたというようなことが書いてある。
Img_3760Img_3761
本殿とさざれ石



 これが元伊勢という謂われだが先日紹介した「謎の丹波路」春木一夫氏は(2011.9.20 雨読参照)様々な説を紹介しながらも、伊勢詣でが出来ない遠隔の地に参詣しやすいようにできたものではないかと言っている。元伊勢に内宮があり、五十鈴川や天の岩戸、真名井の池などが出来ているのは、記紀による知識からで、あまりにも整いすぎている点で、イミテーションの匂いが強過ぎるとまで書いている。Img_2103 神社側や地元にとってみればとんでもない説となるのだろうが、冷静に歴史を観るならば、その方が理にかなっているのかもしれない。

伊勢二見浦のさざれ石、どちらがイミテーションか。

 

 しかしながら、どちらにしても内宮外宮とも元々の祭祀はあったと思うし、外宮など周辺に弥生後期からの土器等が発見されているそうだし、神社のある船岡山自体が古墳ではないかという説もあるそうだ。
 そういう意味で内宮も主神殿はともかく、周辺の山に何か遺跡らしいものがあるやもと思い歩いてみる。つづく

今日のじょん:じょんがお座敷犬になってから掃除の回数が増えている。ところが彼は掃除機が大嫌い、段々追いつめられて尻尾下げて情けない顔をしている。「きれいにしたってんのやないかい」Img_3741

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仁和寺の法師 玉岩地蔵(4) 9/12

2011-09-13 | 上林界隈(AKB)

2011.9.12(月)快晴

 さて、なんで仁和寺の法師なのかというと肝心なものを見てこなかったからだ。玉岩地蔵まで行けるとは思っていなかったし、満足して帰ってきたのだが帰宅後玉岩地蔵のことを調べているといろんなことが分かった。
 もともとなんで玉岩なのか不思議には思っていたが、八百比丘尼の伝説以外の予備知識は無かった。現地にあった二つの案内看板にも玉岩のことは書いてなかった。実はこの地蔵堂の建っているところに巨大な流紋岩の岩塊が横たわっているということだ。というより岩塊の一部に地蔵堂が乗っているという方が解りやすい。この岩塊が玉岩である。左手の末社の辺りを観察すべく回り込んでいたら、お堂の裏にその岩塊が見えたかもしれない。地蔵仏はその岩塊をくり抜いて安置されているそうだ。本堂の覗き窓から見えたのかも知れない。なんとも仁和寺の法師である。Img_3719
 
法師ふりかえると杉木立の中に地蔵堂が見える。



 また海老坂に242cmもの宝篋印塔があることも後日知った。峠までは行くつもりが無かったのでこれはいいのだが、いずれ訪れてみたい。それにしても由良川と大堰川をつなぐ小さな峠というイメージだったのだが、実は大変重要な峠であったのだろう。Img_3712

地蔵堂から海老坂(峠)にむかう道。


 それは案内板にあるように炭や薪が越えたというだけでなく、大堰川の水運につながる物資が越えた峠であろう。海老谷は”えびたん”または”えびだん”と発音するそうで、これは将に上林同様若狭の影響である。八百比丘尼伝説や笛吹神社など若狭の海人族の影響が感じられる。金工は近代のマンガン鉱だけでなく、古代の金工がなされていた地帯だったのではないだろうか。海老谷とは一般的に海老のように曲がった谷を表すそうだ。しかし特別に曲がっているとも思えないし、曲がっていると云えばそのあたりの谷はみんな曲がっている。しかも美山町側板橋に下りる谷も海老谷というそうだ。私はこれはもともとイビ谷だったのではと想像しているImg_3721
Img_3722  
海老谷は稲刈り真っ最中、路傍には地蔵や石碑があり若狭街道の面影を偲ばせる。


 地名については別に機会を設けるとして、今回の玉岩地蔵訪問は仁和寺の法師ではあったが、他に得るものが多かった。おわり

【作業日誌 9/12】
白菜苗植えつけ、サーキさんに頂いたよく育った苗を9本植えつける。同時に防虫ネットも設置、これもサーキさんにお借りする。

今日のじょん:問題はボールが見えているかどうかということである。私は見えていて、分からない振りをしていると思っている。そうだとするとなかなかの役者だということだ。Img_3671

ボールは杉丸太の向こうにある、でも必ずこちらから行けるのではという感じで探しに来る、なんとなく白々しい。

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仁和寺の法師 玉岩地蔵(3) 9/11 

2011-09-12 | 上林界隈(AKB)

2011.9.11(日)快晴

 さてこの玉岩地蔵の謂われはというと、なんと若狭の伝説八百比丘尼(やおびくに)なのだ。人魚の肉を食したがた めに永遠の若さと生命を得て、800年もこの世にあり、後世は地蔵尊を背負って国内を行脚したという。その地蔵尊が「もうこの辺で降ろしてくれ」と言ったかどうか知らないが、動かなくなりこの地に祀ったというのが玉岩地蔵なのだ。不老長寿の八百比丘尼とは何とも不思議な伝説であるが、澤潔氏は「北山を歩く」の中で、「古代江南を原卿とするわが国の海女(倭人)との関連を示唆しているようである。」と述べている。また、朝鮮半島高句麗、百済などにも同様の伝説があると聞く。いずれにしてもこの地蔵堂の巨大な建物を見る限り、地蔵信仰が如何に強かったかと思わせるものがある。Img_3710 Img_3711
 
本堂というか拝殿というか神仏混淆なのでどちらでも通じるようだ。末社が二つ見える。


 誰もいない山の中の巨大な人工物というのは異様な不気味さがある。本来なら拝殿や末社の一つひとつまで見て行くのだが、なぜか恐怖感を憶えてその場を去ってしまった。地蔵堂のすぐ下に古い墓標がある。宝篋印塔を含む十基ほどの墓標があり、これもいつもなら年代など調べるのだが、カメラにおさめるだけですぐにその場を去った。Img_3716
 



 目標とした玉岩鉱山は一体どこにあるのだろう。まさかこの道沿いには無いだろうが、岩壁があると探ってしまう。傍らの谷筋の石にも注意を払う。黒っぽいそれらしい石があったので持って帰る。軽トラに戻って来た道を下って行くときも周囲に目を凝らして行く。Img_3714Img_3720
切り口の赤い妙な岩。ズリらしき岩塊が散らばっているが、単なる崩壊かもしれない。  



 
 何ヶ所かズリが押し出しているような地形があり、真っ黒な岩塊が散らばっている。この上に玉岩鉱山があるのだろうか。とりあえず数個の岩塊を拾って帰る。
 海老谷の人家が見え出すとほっこりする。稲刈りに勤しんでいる人たちは結構若者である。鉱山のことを聞いても解らないだろうと勝手に決め込んで帰路を急ぐ。
つづく

今日のじょん:ちょー難関コース。ぽんぽこぽんには普通、ちょー難関コース、ラストんの三種類がある。ちょー難関コースは見つけにくいというより、じょんの嫌がるところにボールが行った場合である。例えば材木の間のおが屑や草の生えたところは最大の難関である。そんなところに行ったとき、果たしてじょん君どのような態度を示すか、連続で御紹介しよう。ボールは右手の材木の奥に転がっている。その手前まですっ飛んでいくのだが、やばいなと思ったら全然違うところを臭いを嗅いで探しまわるのだ。Img_3669

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仁和寺の法師 玉岩地蔵(2) 9/10

2011-09-11 | 上林界隈(AKB)

2011.9.10(土)晴れ

  木住川流域になぜ興味を持ったのか、それは上林の遊里(ゆり)から舞鶴の岸谷に越える峠が木住峠(きずみとうげ)であり、木住という小字もある。この峠舞鶴側では鬼住峠と呼ぶそうだが、鬼伝説があるようではない。舞鶴側はかつて舞鶴鉱山が操業しており、上林側も古代の金工地帯と睨んでいるのだが、いずれにしても上林の木住と関連がありそうで木住川を訪れたわけである。日吉は木住と書いて「こうずみ」と読む。
 この流域で気になる地名が多いので現地を確認すべく訪れたのだが、軽トラで走ってもどこがどの地名か確認できない、やはり自転車で廻るのが一番だ。そうこうしているうちに日吉山の家に着いてしまった。河原に降りて川石の採集をする。チャートはごく希で、軽石のように気泡らしき穴の開いた石が多い。最もこの石、軽くはないし色も黒褐色である。このあたりもマンガン坑地帯と思われるので、それらしい石が無いかと探ったが、無さそうというのが結論であった。Img_3699 Img_3700

日吉山の家とその前の河原



 山の家手前400m南丹市営バス生畑(きはた)停留所の三叉路に京北・美山の道路標示がある。車でも行けそうなので入ってみると、谷沿いに集落が続く。上林の支流の村を思わせる風景がつづくが、心なしかこちらの方がしっかり耕作されている様に思えるのは不思議な感覚だ。道標に従って林道を登って行くと柏木トンネルというトンネルに出合う。トンネル入口にスズメバチの巣がぶら下がっているのが気になるが、二車線の立派なトンネルで、これも日吉ダムの周辺整備ということだろうか。植林の林道を下ると四ッ谷の柏木と言うところに出る。四ッ谷郵便局の前を通り海老谷(えびだん)に入る。Img_3701 Img_3702
 
生畑の分岐と谷間の茅葺き家。
このあたり茅葺きが多くあり、美山のようにわざとらしくなくて、値打ちがある。


 海老谷は日吉マンガン坑の中でも主要な鉱山で、田んぼの中でもマンガンの花(鉱脈の露頭)が咲いていたという。最も大きな鉱山は玉岩鉱山と云われているが、海老坂(四ッ谷から板橋に向かう峠)の下に玉岩地蔵があり、その近くだろうと車を進める。周囲は稲刈りの真っ最中で、鉱山のことを聞くのも気が引ける。
 下調べをしていないので道がよく解らないのだが、人家が途切れてから二箇所ほど分岐があり、林道が分かれている。とにかく真っ直ぐ進んだら、軽トラでも辛いような急坂となり、心細くなった頃に看板と駐車スペースが出てきた。まだ行けそうだが欲をかいてUターン出来なくなったら困るので、ここに車を置く。Img_3706 Img_3708
 暗くて気味悪い道を真っ直ぐのぼって行くと、眼前に石垣の上に建てられた社と庫裡の大きな建物が現れる。これが玉岩地蔵だ。普通小さな地蔵堂を想像するが、この建物には驚いた。よくぞこの地にこれだけのものを建てたことだろう。単に信仰だけでなく、経済的なバックボーンを感じさせる。つづく

今日のじょん:今月は忘れないようにじょんカレを紹介しておこう。昨年吉ちゃんが初めて米作りをしたので、稲木干しの際に撮ったものである。上林のお米は美味しいが、天日干しのものはもっと美味しい。じょんもお米が大好きなんだな。Img_3728

 

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仁和寺の法師 玉岩地蔵(1) 9/9

2011-09-10 | 上林界隈(AKB)

2011.9.9(金)曇

 タイトルは仁和寺だが内容は日吉町訪問のことである。日吉の郷土資料館で「写真でふりかえる南丹市」展をやっており、19日が最終なので行ってみる。本当はマンガン鉱についての写真が見たいのだが、展示内容の予告ではそれらしいものはない。それでも街角写真の片隅にそれらしいものが写ってないか目を皿のようにして見るがそれもなかった。実は今日の目的は日吉町内69箇所のマンガン坑跡の住所を知りたいことだ。Img_3726 Img_3686
随分立派な資料館なんだけど、、、。


 資料館の展示の中には産業関連では筏流しや山林伐採、鮎漁やかきの出荷などばかりで、マンガンのマの字も出てこない。資料館販売の図書など見ても何もなく、やむなく職員さんに尋ねることとした。
「マンガン坑のあった場所を知りたいのですが、、、」と聞くと、「エッ」と言っていぶかしそう。「やばいなあ、こりゃあマンガンから説明せなあかんなあ」と心の中でつぶやいていたら、「そういう資料はありません」と素っ気ない返事。
 本当に無いのかも知れないが、私はこの女性はマンガンのことなど何も知らなくて、面倒な仕事が嫌なだけでそう答えた様に思えた。私は日本中あちこちの博物館、資料館を訪ねたが、そこの職員さん、司書の方、研究者の方など驚くほど親切な方ばかりであった。電話で問い合わせただけで、参考資料など沢山郵送してくださった方もおられた。
 私の求める資料が無いとしても、もう少し他の方法を探ったり、再調査などをする仕草だけでも欲しかった。横でニヤニヤしている上司らしき男性も気にくわない。なんとも気分の悪い郷土資料館であった。日吉町の図書館の職員さんが随分親切だっただけに残念だ。
 スプリング日吉で昼食をとり、木住(こうずみ)川に向かう。木住トンネルの500mほど手前右手に笛吹神社なる神社がある。神社由来では、「秦川勝がこの地の大欅を使って広隆寺を建て、大山住尊を祀った。大山住尊は住吉大明神で農(田)の神さまであり、神楽の笛を吹く役であった云々」とある。
 大山住は大山祇(おおやまづみ)のことかと思うのだが、そうなると住吉社とは関係なさそうだが、単に住の字だけでこのように乱暴な由来となったのだろうか。私は神さまについてはとんと不案内なのだが、住吉神は農の神さまというより、海の神さまだろう。まして笛の役などというのも怪しげな話である。Img_3698 Img_3696 Img_3695
 




 笛吹の由来は他のところにあろうかと思うが、山梨県の笛吹川は水晶や砂金、信玄の隠し金山なんて臭いもするし、岩手県の笛吹川は正真正銘の鉄の産地で、橋野高炉など日本の近代的製鉄のはしりでもある。つづく

【作業日誌 9/9】
九条ネギ植えつけ
草刈り(7-10)いつまでやってんねん。

今日のじょん:おか~が帰ってきたの図。車の音がしてから車庫に入れるまでこのスタイルで尻尾振ってる。カーテンと立てずでこうやらないと見えないのだ。おもろいやろ。Img_3674

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AKB 長宮峠(2) 8/10

2011-08-10 | 上林界隈(AKB)

2011.8.10(水)

 やがて道は右に稲葉(いなば)を分ける。稲葉は上川合の範疇になり、地図を見ると長宮と同様に奥が深く、質山峠の道に降りるのと綾部、田野町に降りる峠道が見える。Img_3463

右に行くと稲葉、この谷も相当深いぞ。


  その後も道は広く、なんだ簡単なーんて気楽に走っていると、集落の手前で右の斜面に取り付く。鋪装はされているが植林の間の細い道で、すこぶる急登だ。倒木や土砂崩れでもあったひにゃあとことんバックするしかない。植林のため陰気で見通しも悪く、心細いことこの上ない。今回軽トラだが、乗用車だとちとつらい道だ。軽トラでもチエンソーとスコップぐらいは必要かも。
 嫌というほど登って、切通しの峠に着く。ここも陰気で憂鬱な峠だ。峠につきもののあのほっこりする感じがない。お地蔵さんや道標など無いか覗いてみるがそれらしいものはない。実はこの峠道、小学校の遠足で通った思い出があるのだ。多分綾部まで歩いて菊人形かなんかに行ったのだろうと思うのだが、記憶に残ってるのは明るい日差しの指す民家の庭先だけである。本当にそんな遠足があったのか、不思議に思っているのだが、いずれ同窓会かなんかで確認してみたい。Img_3464 Img_3466
 
峠の切通しと綾部市街の遠望。


 峠を少し下ったところに綾部の市街が見下ろせるところがある。たいした風景ではないのだが、それまで展望がきかなかったのでほっとする。その後もぐれぐれと曲がった道を下っていくと、左手に草に埋もれた鳥居が出てくる。長宮不動公園という石柱があり、奥にお堂らしき建物も見えるのだが、こう草に埋もれていると行ってみる気もしない。どんどん下ると田野町に出て、左手に松寿苑の大きな建物があって、見覚えのあるところに出てきた。Img_3467
 
一時は力入れて整備された公園なんだろうけど、今は草の中。


 車なので簡単に越えてしまったが、どう考えても古くからの峠道とは思えない。第一あの斜面の登り方は車用の道であって、歩いて登る道ではない。峠だってあんな大きな切通しは必要ない。帰ってから二万五千分の一地形図「綾部」で確認する。
 やはり峠道は長宮の集落を通って谷筋を詰め、車道の峠に合流している。多分あの切通しの脇にでも本来の峠が在るのでは無かろうか。もう少し探索すれば良かった。峠道は尾根筋を安場に下っている。歩いて楽しむのならこのルートが良かろうと思うのだが、田野に下る車道ルートと安場に下る尾根ルートのどちらが本来の綾部街道なのか解らない。いつか歩いて本来の峠道を越えてみたい。Img_3468

田野町松寿苑のところから長宮峠を振り返る。左の尾根の向こう。 


【作業日誌 8/9】
薪割り

今日のじょん:よしずが怖くて外に出られないのは先日話したが、散歩もぽんぽこぽんもけーとくちんも終わって、さあ家に入ろうというとき、ちっとも表からやってこないのだ。迎えに行くとお座りしてかいかいしている。変だナーと思っていたのだが、そーなんだ、出るとき怖いものは入るときも怖いんだ。ナルホド。Img_3442 Img_3446

出るとき~、入るとき~

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AKB 長宮峠(1) 8/9

2011-08-09 | 上林界隈(AKB)

2011.8.9(火)晴

 お盆前の定休日には川合(かわい)へ墓掃除に行っている。株内で揃ってされるのだが、日曜日にされるのでこれには参加できない。やむなく定休日に行ってるが、現地に行くと先日済んだばかりということできれいになっていた。なす事もないので、墓石の年号を見たり、懐かしい珪石鉱山跡の写真を撮ったりする。先日のマンガン坑の記事に書いた川合の珪石鉱山は、生家の丁度真向かいにあり、頂上直下を大きく切り開き、坑道を堀り、鉱石はケーブルで真下の府道まで降ろしていた。稼働していた記憶は無いのだが、山肌は大きくえぐられ、ズリは府道まで続いていた。小学校の5,6年頃か、坑道まで登り、懐中電灯の灯りを頼りに中を探検した。トロッコ道が残る大きな坑道だったが、外の灯りが届くか否かのところで落盤が起きており、子供の力ではそれ以上進むことも出来なかった。Img_3459 Img_3460
 
我が家の正面の山の頂上直下に坑道があった。
その山のみぎ斜面にもあり、右写真の丸い山の麓辺りに降りしていた。

 その東側、深山にも大がかりなケーブルがあって、子供の遊び場になっていたが、その坑道はどこにあったのか知らない。小学校の1,2年生ぐらいまでだろうか、珪石鉱山で働いていた朝鮮の一家が府道沿いに住まいしていたのを憶えている。
 その廃屋の下が夏休み中の水泳場所だった。毎日飽きもせず泳いだり、魚捕りや砂遊びをしていた。懐かしく見ていると、赤色チャートが眼に入る。上林独特のものと思っていたのだが、この地にもあったのだ。先日大原の神社下の河原を探索したとき、らしいのが一個あっただけで、割合は上林に劣るが、存在することは間違いない。それにしても子供時分の記憶は当てにならない、上林に来て初めて見たような思いがしていたのだ。 Img_3462_2Img_3461
 
かつての水泳場、川底に赤色チャートが見える。


  帰りに買い物を頼まれていたので、岼から綾部に抜ける長宮峠を越えることにする。岼の渋谷神社で府道59号から709号に入る。その右手に当たる山の中腹にも過去の珪石鉱山があり、長い間土砂が見えていた。ここも小学校の4年生当時か何人かで探検し、コウモリを捕獲して学校に持っていったことがある。
 長宮峠は参勤交代の道で、綾部街道であると聞いたことがあるが、とりあえず京都に向かうとして、この道はどう考えても遠回りだと思われるのだが、、。藩の見回り役の道というのは肯ける。綾部藩にとって河合村というのはドル箱だったと読んだことがある。山村にて石高は上がらないが、綿だの煙草だのなんか特産物があったようだ。ましてや加用(かよ)だの大身(おおみ)だのと言われれば、世の中米だけじゃないんだなと考えさせられる。しかし中世、近世のことには疎いので、本当のことは解らない。
 つづく

【作業日誌 8/9】
草刈り(7-2)
薪割り

今日のじょん:じょん Vs 玉虫
虫には過剰反応を示すじょん君だが、うつくしい玉虫にはどうだろう。初めて見るらしく、遠巻きに観察しているが、ちょっと動くとびっくりしてどうも苦手みたいだ。唸ることも吠えることもないが、腰が引きっぱなしだ。Img_3454 Img_3456
 

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マンガンぱらだいす 8/5

2011-08-05 | 上林界隈(AKB)

2011.8.5(金)曇

 鳥垣にマンガン坑跡があると桜井さんに聞いていた。浅原、大唐内、古和木にもあるように聞いているが、もっと他にもあるに違いない。丹波のマンガンは京北町や日吉町が有名で集積地の殿田は随分賑わったそうだ。殿田マンガンというブランド名があったそうだ。現在は閉鎖中だが京北に丹波マンガン記念館があって見に行ったことがある。当時あまり興味が無かったので簡単に坑内や展示物を眺めて帰ってきた。かなり詳細な記録なども展示してあったのでしっかり見てくれば良かったと反省している。再開の運動もされているというので期待している。
もう少しマンガンについて調べるべく、午前中図書館に行き「マンガンぱらだいす」という本をリクエストしてくる。

 参加者 桜井、高橋、田中、小原
 小野田橋    13:00
 アシ谷出合い 13:20  おりと奥の広場を過ぎ、二つ目のえん堤上。アシ谷は
 右に分岐しており、ここに軽トラを置く。Img_3421
 
二つ目のえん堤の上にアシ谷出合いがある。 


 マンガン坑着   13:40 最初左岸、やがて右岸に移り、高巻くようになる。数
 カ所岩が出てくるが、最も大きい岩壁の右端に坑道が口を開けている。Img_3423

30cmぐらいの穴がよくぞ残っていた。


 一服してまた掘り始める、入口上部から剥離した50cm程の岩が埋まっていたがなんとか取り出し、1m程度の穴が開いた。Img_3424Img_3425

小一時間ほどで這って入れるぐらいになった。


 桜井さんがヘッドランプを点けて入坑する。坑道は6,7mで終わっていた。ライトに当たって銀色に光っていたのは岩盤に着いた水らしい。やがて、「空き瓶があるで」といって口の割れた空き瓶が出てきた。ダイニッポンブルワリーとあるから葡萄酒が入っていたのだろうか、廃鉱の日に飲んだのかも知れない、この穴に人が残した物はこの瓶と坑内の鏨(たがね)の跡のみである。Img_3427 Img_3428
 交替して私が入坑する。むっとした湿気がある。岩盤がしっかりしているのだろう、ほとんど崩れ落ちた岩はない。一番奥の岩盤から岩の破片を取り、道中の壁にある鏨の跡を確認する。入口近くに動物が巣くっていたのか枯れ葉などが集まっているところがある。四つんばいで出てくると、桜井さんと同じように「黄泉の国からよみがえったなあ」と口から出る。
 坑内と入口付近から数個のらしい石を拾って帰る。Img_3431
 
坑道はこんな感じに開けた。大きさを見るために立ってもらったが、まだまだ土砂は溜まっている。


 私の生まれた川合にはマンガン坑は無かったが珪石の坑道はいくつもあった。懐中電灯、ローソク、ロープを持って探検に行った、坑内は真っ暗で、あちこちが崩れ落ちており、子供心に恐怖を感じたものである。そんな40年以上前の感覚が、今日よみがえってきた。つづく

今日のじょん:いくみちゃんが来てええかっこしなきゃいかんのに、ボールはなんとも皮肉な場所に落ちる。「こんなん取れへんのかいな、あかんわ」なーんて言われて、すっかりしょげ込むこととなる。「涼しくなったら鍛え直しますから、、」とかみさんの弁。Img_3419 Img_3420


 
 

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AKB 続・胡麻 7/16

2011-07-17 | 上林界隈(AKB)

2011.7.16(土)快晴

 胡麻というところに閉塞感を感じるのは、今が自動車中心の交通形態であるからで、徒歩の時代には京街道が通っていたし、鉄道の時代には舞鶴線(現山陰線)が敷設され通行の盛んな地域であったと思われる。綾部から胡麻に行くには、下山から細い道を辿るのだが、下山バイパスが出来て少し短縮されることになった。胡麻に近づいたところに水別れの道という看板が立っている。道を挟んで日本海側(由良川水系)太平洋側(大堰川水系)ということのようだ。分水界というのは日本のどこでも割合しっかり分かれているものだが、丹波地方は標高が低いためか複雑に入り組んでおり、随分移動もしているのである。胡麻の附近は分水界が何度も移動し、畑川などは大堰川水系になったり由良川水系になったりしている。(現在は由良川水系)Img_3293

胡麻には川らしい川はないが、太古にはこのような地形を作る水流があったのだ。(丸山)


 実はその由良川もかつては瀬戸内海にそそいでいたという、最も数万年前の話だが、、、。丹波高原というのはそういうところなのだろう。
 今回の目的は南丹市図書館の日吉図書室と言うところへ胡麻に関する資料を探しに行くことである。明治鍼灸大の下の生涯学習センターというところにあった。図書室というから貧相な施設かと思ったら、立派な設備で蔵書も豊富である。探している資料も親切に案内してくれて大変満足な図書館であった。胡麻地名のこと、鋳物師のこと、マンガン鉱のことなど充分調べて図書館を後にする。Img_3292

一階の広いスペースが図書館。綾部から見るとうらやましい。


 新町周辺や木住周辺をめぐってみたいのだが、時間がないので、胡麻駅の南にある丸山を見に行って帰ることにする。この丸山は名のとおり丸い山なんだが、その丸さは測ったような丸さである。地形図で見ると、上林の志古田や弓削の繞谷丘陵地形と同様のものらしい。上林川のように顕著な流れを持つ河川ではないが、あれだけの地形を作り出す水流と言うものは凄い力を持つものと思うが、やはりその主役は数十万年という長い時間の経過であろう。これだけ顕著な円形なら神社や墓地、あるいは古墳などあってもおかしくないのだが、地図上にはそれらしいものを見かけられない。西側、南側は車でも簡単に行けるので車を駐めて、人が居たら聞いてみようと思ったがこれまた歩いているような人は居ない。次回訪問時は歩いて登ってみよう。Img_3296
 
丸山南面、千木の乗った茅葺き屋根は珍しい。


 帰り道、京丹波町に入った少しの所に春日神社の鳥居がある。自動車道が整備されていて参道は荒れているが、由緒書きを見ているとここも丸山であった。山頂に神社があるそうだが、次回は訪れてみよう。明智光秀が勧請したとあるが、この道が重要な京街道だったのだろうか。Img_3298Img_3297_2

下山の春日神社の参道と由来の看板、この山も丸山である。

 
 27号線に戻るとあと二箇所の丸山を訪ねる予定だったが、時間が無くて次回にゆずることにする。

 

【作業日誌 7/16】
じょんのび看板完成

今日のじょん:14日の今日じょんが消えてしまったので、改めて14日号を掲載する。
今年の虫の多さは異常である。特にマダニの被害が多いようで、遂に発熱などの症状がきつくて病院に担ぎ込まれたなんてのも聞くようになった。下肢から腹部は咬傷痕だらけで、悲惨な状況となっている。じょんはフロントラインのお陰でダニ被害は無いようだが、蚊やブヨの被害は人以上である。機嫌良く寝ているかと思ったら急に飛び起きてカイカイを始める。キンカン塗ってやるわけに行かず困ったものだ。Img_3284  
カイ~ノ。

コメント (2)
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AKB 胡麻 7/15 

2011-07-16 | 上林界隈(AKB)

2011.7.15(金)快晴

 AKB・上林界隈なんていったら叱られそうだが、上林からちょいと行ける所という意味で堪えて欲しい。大唐内の胡麻峠の由来を探るべく胡麻を訪ねる。胡麻は元々船井郡日吉町にあり、今は南丹市となっているが美山町同様南丹市とはなにかそぐわないなあと感じる。子供時分は国鉄山陰線のSLの列車に揺られて京都まで何度か行ったが、トンネルの数を数えたり、駅名を憶えたり楽しい思い出がある。その中で記憶に残った駅が変な名前の安栖里(あせり)と胡麻(ごま)である。Img_3287 Img_3295
 
国道27号線沿い安栖里駅と府道50号線沿いの胡麻駅。鉄路は下山から園部の間は道路とは別の経路を辿っている。


 大人になって自動車で綾部に向かうようになると、国道9号線、27号線を使うのだが、この胡麻は現れない。あの山陰線の通っていた胡麻はいったいどこにあるんだと不思議に感じていた。自転車のトレーニングで美山や京北に行くようになって殿田(とのだ)から大堰川沿いに京都に帰ることもよくあったが、胡麻は通らない。自転車のチームで胡麻のあたりで練習したことがある。先導のバイクに続いて集団で走るので信号が無いこと、車の通行が無いことが必須条件である。20数年前のことだからそういう条件に合っていたのだろう。ただ、行き帰りはみんなで一列になって走るので地理的にはどこを通ったのかわからない。ゴルフに通い始めて太閤坦、グランベール、クラウンヒルズなんてゴルフ場に行くのだが、殿田駅(現日吉駅)の先の踏切で左折するもんだから、胡麻は結局通過しないわけだ。
 上林に住み始めて、明治鍼灸大に所用があって27号線下山からグリーンハイツの中を通って胡麻に行く。嘘だろうと言うような細くてわけの解らない道をぐねぐねと走り、目的地に着く。Img_3289

下山から胡麻まではいわゆる胡麻高原の開拓地で牧場が沢山ある。

  憶えのある道に出て初めてほっこりするのだが、綾部からだとこの道が最短なんだと解る。そして胡麻と云うところが袋小路になった、抜けるところのない所なのだと解り、そのことが地理的に理解の出来ない原因であったと解った。それだけにとても不思議で魅力的な町でもあるわけだ。つづく

【作業日誌 7/15】
看板ニス上塗り
草刈り(6-1)

今日のじょん:猛暑が続き、朝の散歩も手抜き気味になっているんだが、そのせいかぽんぽこぽんの一投目はすぐに帰ってこなくて、芝生広場をグルグル廻って帰ってくる。カンカン照りのくそ暑い中を全力疾走するもんだから後はくたくたになっている。Img_3278

 

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AKB 続・猪鼻・大原 7/10

2011-07-10 | 上林界隈(AKB)

2011.7.10(日)晴

 大原に着くと左手に休憩所がある。何度も何度もこの地を通り、その時々の様々な想いが残っている。産屋に目をやると、日本一周自転車旅行に行く前の、嵐と自転車のトラブルに打ちひしがれていた時のことを思い出す。そしてその翌年、同じ道を日本一周をやり遂げて最後のバイクランをしたのもこの道なのである。いつもこの高みから産屋を眺めていた。今日はじっくり産屋の処まで降りて眺めてみよう。休憩所から歩いて5分もかからない場所なのに何でそこに行くことがなかったのだろう。Img_3172 Img_3170
 
産屋と案内板。


 産屋は単純な作りである。茅葺き、切り妻の建物に入口にぶら下がった鎌、中には御幣と産後の埋め場があり、屋根から力綱が垂れている。実際の場では御幣は無かったのではないかと思うが、このみすぼらしい産屋に十二把の藁をもって籠もった母となる女性に畏怖感を憶える。真っ暗で心細いこの藁屋の中で彼女たちは何を思っただろう。その間父となる男は母屋でどのような気持で過ごしたのだろう。
 完全看護でなんの貢献も出来ない、いわば出産とは直接的には無縁の空間を過ごす現在の男も同じような境遇かもしれない。女はその間の孤独感と不安感、恐怖感と不条理感とを耐え抜いて、もう男にはとてもおよびもつかない強い力を得て、男達のか弱い、虚勢ばかりの世界を超越して生きているのではないかとこの産屋は思わせるのである。
【作業日誌 7/10】
看板焼き印押し
ゴーヤネット張りImg_3267 Img_3269

あとはニス塗り。


 今日のじょん:夕方の散歩が終わって一時間余り、じょんは玄関で待っていることとなる。涼しい時期は気持ちの良い芝生広場で待っているのだが、暑い時期はこの場所が一番いいのだ。ダニは居ないし、蚊取り線香は炊いてあるし、谷からの涼しい風が来る場所なのだ。ところが本人、いや本犬は放って置かれるのが嫌なみたいで、しゃー無いから目に付くところで作業することにしている。Img_3266

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