あああああいいいいいうううううえええええおおおおおかかかかかきききききくくく
00/7/31 素朴心理学 人は誰もが心理学者
●自分の心は自分が一番わかるか
「自分のことは自分が一番よく知っている」といるからほっといてというのは、他人から忠告を受けたりして反発するときの常套句の一つである。果たしてそうであろうか。
確かに、人には他人からはうかがい知ることのできない心の世界がある。ジョハリの窓(注1)で言うなら、盲点領域と未知領域とである。
自分からは見えないが他人からは見える盲点領域に関しては、人からの忠告に謙虚に耳を傾けるほうが、自分を知る上では得策である。
自分も他人も知りえない未知領域も実感としては、確かにある。だとすると、ここでも、自分のことは自分が一番よく知っていると豪語するのもはばかられる。
●自分の心を知っているという信念
それでも、我々は自分の心の存在を知っており、心の働かせ方も知っているという信念はかなり強くある。メタ認知力があるからである(-->「メタ認知」)。
しかし、メタ認知が仮に十全に機能したとしても---絶対にそんなことはありえないのだが---、それが導く認識や行為の妥当性は保証されない。なぜなら、メタ認知を支える知識のすべてが妥当なものばかりで構成されてはいないからである。
メタ認知を支える知識には、2種類ある。一つは、心理学の知識である。このすべてが妥当な知識であると言うつもりはないが、一応、実証ベースの科学的な裏づけはある。
問題は、もう一つの知識である。体験的知識である。心にまつわる長年の体験から生み出された知識である。ことわざがその典型である。(注2)その真実性の保証はないが、個人の中では確固たる生きた知識として機能している。
●素朴心理学の心理学
そこで、心理学についての知識のない「普通の人」が持つ、心や心理学についての知識や信念を研究対象とする心理学が成立することになる。入れ子構造になっているので、ややこしいのだが、まぎれもなく、心理学の重要な研究対象であることは間違いない。
たとえば、A.ファーナムの著書(注2)には、もっぱら質問紙を使ったいろいろの研究が紹介されている。次のような質問に、あなたならどう答えるであろうか。
・一般的に、男性より女性のほうが他人に同調しやすいか
・意思決定の際に、集団での会議のメンバーは1人の時より保守的になるか
・精神遅滞の大部分の人は、精神病か
いずれも、心理学的には「いいえ」が正解であるが、いかがであろうか。心理学的にはかなりあやしい素朴心理学がかなり根強くあるらしい。素朴心理学の心理学の社会的な意義の一つは、心や心理学についてのこうした誤った信念(偏見)を正すことにある。
●素朴心理学と心理学との関係
心理学研究者も、研究を離れれば普通の人としての生活がある。そこでは、その人なりの素朴心理学に従って生活をしている。しかし、研究と生活とを完全に心の中で分離はできない。研究の中に素朴心理学が持ち込まれることになる。とりわけ、仮説を作る段階では、みずからの素朴心理学が強力なガイドになる。そして、ある段階からそのガイドを離れて、心理学の論理の世界へ入っていくことになる。(注3)
その逆に、研究者の素朴心理学の中に、心理学が持ち込まれことも当然ある。「心理学をやっています」というと、「人の心が読めていいですね」とか「心が豊かになりますね」とか言われると、違和感はあるものの、多少はそんなこともあるだろうとの思いはある。その思いは、心理学の社会的な意義の認識につながる。心理学的知識を多くの人に知ってもらい、心豊かになってほしいとの願いになる。
●素朴心理学と心理学とを使い分ける
ところが、ここで、話はねじれにねじれる。最近の認知研究の成果(注5)から、素朴心理学は「素朴なりに」適応的な機能を果たしている様子がみえてきたのである。先ほどは、「偏見」や「誤り」の一言で済ませてしまったが、それこそ、生活の知恵として妥当に機能しているありさまがみえてきたのである。
普通の生活の中で、心理学を振り回しても角が立つだけ。かといって、どうにもならない心の状態に陥ってしまったときに素朴心理学を持ち出せば、「生兵法は大怪我のもと」になる。要するに、状況に応じて、素朴心理学と心理学とをバランスよく使い分けることが肝要ということらしい。そういう素朴心理学を人は持って生活をしているらしい。
****1行不足
**
****
注1 ジョハリの窓
自分が
知っている 知らない
他
人知っている 開放領域 盲点領域
が
知らない 隠蔽領域 未知領域
注2 たとえば、、宇津木保(1984)「ことわざの心理学」 ブレーン出版
注3 A.ファーナム著(細江達郎監訳)1996「すべては心の中に」(北大路書房)では、個人が抱く心についての信念--偏見のほうが多いのだが---が詳細に分析されている。
注4 入っていけないでぐずぐずしていると、研究にならない。余談になるが、卒論指導などでは、この「ぐずぐず」に悩まされることが多い。実感や体験にこだわってそこから発想することは、心理学研究ではそれなりの価値はあるが、「下手の考え 休むに似たり」ということもある。
***
注5 日常推論の研究からは、論理的には誤っている推論にも、適応論理とも呼ぶにふさわしい論理があるらしいことが、また、状況的認知の研究からは、算数の知識の
まったくない子供が生活の中でかなり高度の「算数」を使っていることが示されている。
00/7/31 素朴心理学 人は誰もが心理学者
●自分の心は自分が一番わかるか
「自分のことは自分が一番よく知っている」といるからほっといてというのは、他人から忠告を受けたりして反発するときの常套句の一つである。果たしてそうであろうか。
確かに、人には他人からはうかがい知ることのできない心の世界がある。ジョハリの窓(注1)で言うなら、盲点領域と未知領域とである。
自分からは見えないが他人からは見える盲点領域に関しては、人からの忠告に謙虚に耳を傾けるほうが、自分を知る上では得策である。
自分も他人も知りえない未知領域も実感としては、確かにある。だとすると、ここでも、自分のことは自分が一番よく知っていると豪語するのもはばかられる。
●自分の心を知っているという信念
それでも、我々は自分の心の存在を知っており、心の働かせ方も知っているという信念はかなり強くある。メタ認知力があるからである(-->「メタ認知」)。
しかし、メタ認知が仮に十全に機能したとしても---絶対にそんなことはありえないのだが---、それが導く認識や行為の妥当性は保証されない。なぜなら、メタ認知を支える知識のすべてが妥当なものばかりで構成されてはいないからである。
メタ認知を支える知識には、2種類ある。一つは、心理学の知識である。このすべてが妥当な知識であると言うつもりはないが、一応、実証ベースの科学的な裏づけはある。
問題は、もう一つの知識である。体験的知識である。心にまつわる長年の体験から生み出された知識である。ことわざがその典型である。(注2)その真実性の保証はないが、個人の中では確固たる生きた知識として機能している。
●素朴心理学の心理学
そこで、心理学についての知識のない「普通の人」が持つ、心や心理学についての知識や信念を研究対象とする心理学が成立することになる。入れ子構造になっているので、ややこしいのだが、まぎれもなく、心理学の重要な研究対象であることは間違いない。
たとえば、A.ファーナムの著書(注2)には、もっぱら質問紙を使ったいろいろの研究が紹介されている。次のような質問に、あなたならどう答えるであろうか。
・一般的に、男性より女性のほうが他人に同調しやすいか
・意思決定の際に、集団での会議のメンバーは1人の時より保守的になるか
・精神遅滞の大部分の人は、精神病か
いずれも、心理学的には「いいえ」が正解であるが、いかがであろうか。心理学的にはかなりあやしい素朴心理学がかなり根強くあるらしい。素朴心理学の心理学の社会的な意義の一つは、心や心理学についてのこうした誤った信念(偏見)を正すことにある。
●素朴心理学と心理学との関係
心理学研究者も、研究を離れれば普通の人としての生活がある。そこでは、その人なりの素朴心理学に従って生活をしている。しかし、研究と生活とを完全に心の中で分離はできない。研究の中に素朴心理学が持ち込まれることになる。とりわけ、仮説を作る段階では、みずからの素朴心理学が強力なガイドになる。そして、ある段階からそのガイドを離れて、心理学の論理の世界へ入っていくことになる。(注3)
その逆に、研究者の素朴心理学の中に、心理学が持ち込まれことも当然ある。「心理学をやっています」というと、「人の心が読めていいですね」とか「心が豊かになりますね」とか言われると、違和感はあるものの、多少はそんなこともあるだろうとの思いはある。その思いは、心理学の社会的な意義の認識につながる。心理学的知識を多くの人に知ってもらい、心豊かになってほしいとの願いになる。
●素朴心理学と心理学とを使い分ける
ところが、ここで、話はねじれにねじれる。最近の認知研究の成果(注5)から、素朴心理学は「素朴なりに」適応的な機能を果たしている様子がみえてきたのである。先ほどは、「偏見」や「誤り」の一言で済ませてしまったが、それこそ、生活の知恵として妥当に機能しているありさまがみえてきたのである。
普通の生活の中で、心理学を振り回しても角が立つだけ。かといって、どうにもならない心の状態に陥ってしまったときに素朴心理学を持ち出せば、「生兵法は大怪我のもと」になる。要するに、状況に応じて、素朴心理学と心理学とをバランスよく使い分けることが肝要ということらしい。そういう素朴心理学を人は持って生活をしているらしい。
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注1 ジョハリの窓
自分が
知っている 知らない
他
人知っている 開放領域 盲点領域
が
知らない 隠蔽領域 未知領域
注2 たとえば、、宇津木保(1984)「ことわざの心理学」 ブレーン出版
注3 A.ファーナム著(細江達郎監訳)1996「すべては心の中に」(北大路書房)では、個人が抱く心についての信念--偏見のほうが多いのだが---が詳細に分析されている。
注4 入っていけないでぐずぐずしていると、研究にならない。余談になるが、卒論指導などでは、この「ぐずぐず」に悩まされることが多い。実感や体験にこだわってそこから発想することは、心理学研究ではそれなりの価値はあるが、「下手の考え 休むに似たり」ということもある。
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注5 日常推論の研究からは、論理的には誤っている推論にも、適応論理とも呼ぶにふさわしい論理があるらしいことが、また、状況的認知の研究からは、算数の知識の
まったくない子供が生活の中でかなり高度の「算数」を使っていることが示されている。