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誰もが心理学者

2007-06-13 | 認知心理学
あああああいいいいいうううううえええええおおおおおかかかかかきききききくくく
00/7/31 素朴心理学 人は誰もが心理学者   
●自分の心は自分が一番わかるか
 「自分のことは自分が一番よく知っている」といるからほっといてというのは、他人から忠告を受けたりして反発するときの常套句の一つである。果たしてそうであろうか。
 確かに、人には他人からはうかがい知ることのできない心の世界がある。ジョハリの窓(注1)で言うなら、盲点領域と未知領域とである。
 自分からは見えないが他人からは見える盲点領域に関しては、人からの忠告に謙虚に耳を傾けるほうが、自分を知る上では得策である。
 自分も他人も知りえない未知領域も実感としては、確かにある。だとすると、ここでも、自分のことは自分が一番よく知っていると豪語するのもはばかられる。

●自分の心を知っているという信念
 それでも、我々は自分の心の存在を知っており、心の働かせ方も知っているという信念はかなり強くある。メタ認知力があるからである(-->「メタ認知」)。
 しかし、メタ認知が仮に十全に機能したとしても---絶対にそんなことはありえないのだが---、それが導く認識や行為の妥当性は保証されない。なぜなら、メタ認知を支える知識のすべてが妥当なものばかりで構成されてはいないからである。
 メタ認知を支える知識には、2種類ある。一つは、心理学の知識である。このすべてが妥当な知識であると言うつもりはないが、一応、実証ベースの科学的な裏づけはある。
 問題は、もう一つの知識である。体験的知識である。心にまつわる長年の体験から生み出された知識である。ことわざがその典型である。(注2)その真実性の保証はないが、個人の中では確固たる生きた知識として機能している。

●素朴心理学の心理学
 そこで、心理学についての知識のない「普通の人」が持つ、心や心理学についての知識や信念を研究対象とする心理学が成立することになる。入れ子構造になっているので、ややこしいのだが、まぎれもなく、心理学の重要な研究対象であることは間違いない。
 たとえば、A.ファーナムの著書(注2)には、もっぱら質問紙を使ったいろいろの研究が紹介されている。次のような質問に、あなたならどう答えるであろうか。
 ・一般的に、男性より女性のほうが他人に同調しやすいか
 ・意思決定の際に、集団での会議のメンバーは1人の時より保守的になるか
 ・精神遅滞の大部分の人は、精神病か
 いずれも、心理学的には「いいえ」が正解であるが、いかがであろうか。心理学的にはかなりあやしい素朴心理学がかなり根強くあるらしい。素朴心理学の心理学の社会的な意義の一つは、心や心理学についてのこうした誤った信念(偏見)を正すことにある。
 
●素朴心理学と心理学との関係
 心理学研究者も、研究を離れれば普通の人としての生活がある。そこでは、その人なりの素朴心理学に従って生活をしている。しかし、研究と生活とを完全に心の中で分離はできない。研究の中に素朴心理学が持ち込まれることになる。とりわけ、仮説を作る段階では、みずからの素朴心理学が強力なガイドになる。そして、ある段階からそのガイドを離れて、心理学の論理の世界へ入っていくことになる。(注3)
 その逆に、研究者の素朴心理学の中に、心理学が持ち込まれことも当然ある。「心理学をやっています」というと、「人の心が読めていいですね」とか「心が豊かになりますね」とか言われると、違和感はあるものの、多少はそんなこともあるだろうとの思いはある。その思いは、心理学の社会的な意義の認識につながる。心理学的知識を多くの人に知ってもらい、心豊かになってほしいとの願いになる。

●素朴心理学と心理学とを使い分ける
 ところが、ここで、話はねじれにねじれる。最近の認知研究の成果(注5)から、素朴心理学は「素朴なりに」適応的な機能を果たしている様子がみえてきたのである。先ほどは、「偏見」や「誤り」の一言で済ませてしまったが、それこそ、生活の知恵として妥当に機能しているありさまがみえてきたのである。
 普通の生活の中で、心理学を振り回しても角が立つだけ。かといって、どうにもならない心の状態に陥ってしまったときに素朴心理学を持ち出せば、「生兵法は大怪我のもと」になる。要するに、状況に応じて、素朴心理学と心理学とをバランスよく使い分けることが肝要ということらしい。そういう素朴心理学を人は持って生活をしているらしい。
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注1 ジョハリの窓 
           自分が
       知っている  知らない

人知っている  開放領域   盲点領域

    
 知らない   隠蔽領域   未知領域

注2 たとえば、、宇津木保(1984)「ことわざの心理学」 ブレーン出版

注3 A.ファーナム著(細江達郎監訳)1996「すべては心の中に」(北大路書房)では、個人が抱く心についての信念--偏見のほうが多いのだが---が詳細に分析されている。
 
注4 入っていけないでぐずぐずしていると、研究にならない。余談になるが、卒論指導などでは、この「ぐずぐず」に悩まされることが多い。実感や体験にこだわってそこから発想することは、心理学研究ではそれなりの価値はあるが、「下手の考え 休むに似たり」ということもある。
***
注5 日常推論の研究からは、論理的には誤っている推論にも、適応論理とも呼ぶにふさわしい論理があるらしいことが、また、状況的認知の研究からは、算数の知識の
まったくない子供が生活の中でかなり高度の「算数」を使っていることが示されている。


 
 

 

検索抑制

2007-06-13 | 認知心理学
02/9/12海保 検索誘導忘却の生態的意義  紀要原稿のおわりに

カテゴリー事例検索において、記憶事例を検索すると、記憶しなかった事例の再生が抑制される現象を検索誘導忘却という。一見すると、これまでの常識からは考えられない、この現象の生態的意義は何か。
 
 検索抑制と関連づけて検索誘導忘却にかかわる諸問題を論じてみた。テスト効果のように、検索には、抑制とは逆に、検索をすることによって、後の検索がより促進される効果があることも知られている(たとえば、******)。検索の機能の多彩さがうかがえる。今後、包括的に、検索条件や検索目的との関係で、その多彩さを整理することが一つの課題になる。
 もう一つの課題は、検索誘導忘却の適応的な意義を考えることである(佐野、2002)。前述したように、この現象が基盤的な認知能力だとすると、そこには、なんらかの適応的な意義があると想定されるからである。
 一つの可能性として考えられるのは、カテゴリー・事例関係の中でこの現象が見られることから、検索事例と、それによって抑制される未検索事例との差別化ねらいである。カテゴリーが検索手がかりとして有効なことはよく知られているが、それが有効な機能を果たすためには、それに属するすべての事例が引き出されてしまっては困る。そこで、事例間に過去の検索に基づいて利用可能性に関して差別化しておくのである。こうした考察を支える一つの事実として、カテゴリー事例にみられる、事例の典型性がある(*****、19***)。
 これはさらに発展して、意味記憶としてのカテゴリー・事例関係の形成が、検索誘導抑制も含めた、どのようなエピソード体験を通して起こったのかにまで思いをはせさせることになる。

 

研究の評価

2007-06-13 | 教育
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11字 91行 
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研究評価を妥当なものに
 研究開発に投入される税金が格段に増加してきている。たとえば、文部省・科学研究費は1000億を越えて増え続けている。当然、どれだけの成果が上がったかが厳しく問われることになる。短期的かつ限定的な費用対効果だけを考えれば、その低さは、物作りへの公共投資---分母となる額は圧倒的に少ないのだが---の比ではないと思う。
 さてでは、いかにしたら実のある「厳しい」研究評価ができるのであろうか。成果ベースの評価と企画ベースの評価とに分けて、考えてみたい。
 まずは、成果ベースの評価から。
 

成果評価は
は比較的簡単。発表された論文(誌)からわかるからである。
企画評価が難しいのである。
経常経費としての研究費の重要性を忘れてはならない。
研究費があるときは研究し、ないときは研究しないというわけにはいかないからである。

 最後は、評価規準の透明性である。
 今年度のCOE(*****)も決まり、否にはその理由が簡便ながら当事者に伝えられることになっている。

しかしいたずらに、厳しくするだけでは研究の質は上がらない。

●評価規準さまざま
 研究の評価規準は、さまざまであるが、規準の高低と質が思案のしどころとなる。
 まずは、評価規準の高低。卒論と博論を同一の規準で評価すれば、誰も大学を卒業できなくなる。さらに、これは明示的に言うのははばかられるところもあるが、学会誌間でも---ということは、学会間でも、ということになる---規準の高低はある。ただし、これは、あくまで主観的で暗黙の規準としてである。格づけの好きな(?)アメリカあたりでは、あからさまに、これは格が低い(掲載規準が低い)雑誌である、と言う。投稿者も、「この論文なら、この雑誌へ」との配慮をする。
 その雑誌がどれくらい他の雑誌から引用されるかを指数化したインパクトファクターなる格付けもある。
 次は、研究評価の規準の質、換言すれば、評価の観点。
 もっとも大まかなものは、「掲載可能から掲載不能」「優れているから劣っている」まで、2段階から5段階くらいまでの判断をもとめ、あとは、その理由を付すようなものである。この対極にあるのが、独創性、斬新さ、論理性、方法の完璧性など観点別に点をつけて、それを総合する形式のものである。
 どんな評価規準を採用するかは、学問(学会?)文化や評価する目的によって異なる。そのあたりをつい忘れて「絶対評価」をしてしまうと、評価の「妥当性」が疑われることになる。

●評価が一致しない
 ほとんどの研究評価は、実質的には、2人か3人の専門を同じくする「仲間内」で行なわれる。「仲間内」であっても、しかし、評価者間で判定の一致する割合は、それほど高くはない。したがって、その調整に手間取ることになる。
 ある学会誌で3年間、編集委員をしたときの経験では、最初の段階での3人の査読者間の一致は、採否2分割で言うなら、4割程度ではなかったか思う。
 評価が行なわれるところならどこでもそうであるが、トップレベル(きわめて独創的なものは除く)とボトムレベルの判定は一致する。問題は、採否、合否のボーダーライン近辺である。しかも、これが圧倒的に多い。ここで判定が割れる。
 また、研究費申請の審査では、これからこんな研究をしてみたいという申請についての評価をすることになるが、採用人事と同じような難しさがある。過去の業績のない若手研究者のきわめて独創的な研究申請が落とされがちになる。
 
●妥当な研究評価をめざして
 評価には、評価される人が、評価結果に納得してくれる、ということも結構大事になる。納得してもらえない評価は、やる気を削いでしまうからである。時には、大騒ぎになることもある。
 しかし、評価は、その人が属する組織全体のクオリティを保証するため、という大義がある。個人の納得性のみを重視するわけにはいかない。
 この両者の要請を満たすためには、評価規準を「ある程度まで」透明化した上での、エキスパートや仲間による「主観的な」評価を行なうことになる。
 ここで、「ある程度まで」と「主観的」について一言。
 評価規準を「完璧に」定めることは不可能であるし、また、あまりに細部に渡ってまで定めてしまうと、評価コストがかかるだけでなく、被評価者も目標が見えなくなってしまう恐れがある。
 「主観的」とは、最終的な評価は、評価者の主観に頼らざるをえない部分があることを言いたいためである。「主観」のない評価は、過去の数量的な実績に依存することになりがちで、ともすると、将来への展望をにらんだ評価にならないこれでは、大義にもとる。
<---126行














 奇妙なことには、すべての点において平均よりちょと上という「手がたい」研究が通りやすい。そして、一度通ると、一連の研究は、だいたいが同じ査読者に審査してもらうことになるので、どんどん通ることになる。



これも日本的ではないかと思うが、実質のあとに形式があって、編集委員会とか審査委員会とかが開かれて全員一致の形をとる。



査読者(だいたいが、2、3名)が、この暗黙の規準を知らないで評価をしてしまう、ということが起こると悲劇であるし、そんなことが実は結構ある。
●評価の結果が怖い




●ボーダーライン研究が多い
 一番しんどくて気が重いのは、採否のボーダーラインにある研究である。しかも、これが圧倒的に多い。評価は、心理的には、おおむね正規分布をなしていて、採否の規準は、暗黙裏に平均値あたりを設定しているから、当然、こういうことになる。
 純粋理工系の論文や研究ならこんなことはないと思うが、少なくとも心理学関係だと、記述が完璧に誤りという判断がしにくいことが多い。したがって、確信を持って、ある論文を非とすることができないことが多い。


 審査基準は、諾否、採否の2分法というのはまれで、
 


 ボーダーライン研究は、複数の査読者間で、判断が割れる。


学会によって、いろいろの工夫がなされている。
・まず、採否で判断し、ついで、その理由を書かせるもの
・いくつかの観点別に評定させて、その重みづけ合計点で、採否を決めるもの
・無条件採択から無条件不採択まで、いくつかの段階をおくもの

●研究が評価される
 文系と理系の狭間に位置する心理学の中で研究していると、アカデミズム全体の風潮がよくみえるということがある。学会こそ存在するものの、学会誌もなく学会発表の抄録もない学会から、学会発表にさえ事前審査のある学会まで

 研究の現場でパワーを発揮できなくなってきているのであるから、こんなところで


 年中、そうした仕事を抱えている感じ 



 予算がらみの研究審査以外は、まったくの無料奉仕である。



 
●研究を評価する
 研究開発に投入される税金が増えてきた。それに伴って、研究の「価値」の評価が次第に厳しくなってきた。「価値」のない研究に税金を投入することは、無駄な公共投資と見なされることになる。

●仲間内の評価と仲間外の評価のギャップ
 通産省が絡んだ研究評価だと、「産業界への波及効果はあるか」といった評価項目が入ってくる。基礎研究に携わっている者には、違和感のある評価項目であるが、資金投入をすしようとする当事者からすれば当然の項目ということになろう。

しかし、これまで、実験室でひっそりとやっていた研究

 研究評価の主流は、仲間内評価(peer review)である。 

●研究者のライフサイクル
 研究者にもライフサイクルがある。がむしゃらに最先端をめざしてがんばる20代後半から30代。40代は、自分の研究者としてのアイデンティティの確立。50代になると、研究管理的な仕事をする。
 こんなところが、典型的なライフサイクルであろうか。もちろん、へそ曲がり?もいる。50代、60代になっても、研究の最先端にいて一人で学会発表をするような研究者も数は少ないが、いることはいる。
 さて、筆者も50代の後半になった。




















































































































































































































































年金騒動

2007-06-13 | 心の体験的日記
わずかだが、職域加算分の年金をもらっている。
ありがたいことではある。
それにしても 、そのわかりいくいことおびただしい。
たった一枚の葉書に
書かれていることも理解できない。
もっと大きな所では、システムが理解できない。
高齢者相手なのだから、もっと情報もわかりやすく工夫できないものか
周辺の誰に聴いても、まったく関知せずという豪傑がたくさんいるのにもびっっくり。

社会保険庁のあおりをくったのか、国家公務員共済も電話がまったくつながらない。
書類1枚を取り寄せたいのだが、これで2日間、何度も電話しているが、だめ。
年金は、半分は自分の治めたお金なのだぞー。もっとちゃんとサービスしてほしい!!

日常事故を防ぐ

2007-06-13 | 安全、安心、
03/3/12海保 人事院 月報

2400文字

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30文字 x 80行=2400文字



ちょっとした日常事故をちょっとした配慮で防ぐ



      筑波大学心理学系 海保博之



●危険一杯の身の回り

 乱雑な研究室では、しょっちゅう物につまずいたり、机の角などにからだをぶつける。幸い、これまで怪我をするまでには至っていない。しかし、60歳にもなれば運動能力は低下してくる(はずな)ので、いずれ、転倒などの大きな事故ににつながるのではないかとは思っていながら、相変わらずの毎日をおくっている。

 一つの大事故を生み出すまでには、たくさんの軽い事故やヒヤリハット体験があるとのハインリッヒの法則は知らないわけではないが、痛い目にあわないと(法則を体験的に実証しないと?)、なかなか実践とまではいかないのが、人間のようである。



●ちょっとした日常事故を引き起こすもの

 日常の行為の特徴は、いつもと同じ状況で多彩なことを、ほとんど無意識的かつ自動的(習慣的)に行なところにある。

 たとえば、我々大人の朝起きてから家を出るまでにする多彩な行為を考えてほしい。いずれも無意識的かつ自動的だからこそ、ごく短時間で意識的な努力もせずにこなしている。子供の朝のぐずぐずぶりと比較されたい。

 こんな日常の中では、事故は無縁のように思えるが、現実には、かなりの頻度で発生してしまう。なぜか。

 一つは、「いつもとちょっと違う」日常が発生しているのに、いつもと同じようにやってしまったために、状況と行為との間にギャップが生じてしまったことによる事故である。

 机の位置がちょっと動いていたのに、いつものようにまっすぐ歩いてぶつかってしまった。いつもは閉まっているドアが開いていたために、ドアにぶつかっってしまったなどなど。

 2つは、状況はいつもと同じなのだが、自分のほうが変化していて、状況と行為の間にギャップが生じてしまったことによる事故である。

 人の能力は、高まるものもあれば衰えるものもある。いつもと同じにやっているつもりでも、たとえば、高齢者の場合は、70%しかパワーが出ていない、若者の場合は130%のパワーが出ていた、というようなことがある。この30%が、高齢者の場合は、「能力劣化による事故」、若者の場合は、「勢い余っての事故」を起こす。

 さらに、頭の働き、とりわけ注意も時々刻々と変化している。いつもはそれとなく注意を払ってやっていた皿洗いが、あわてたために失敗してしまう、ひげそリ時に子供が泣きだし、そちらに注意がとられて、ついうっかり顔に傷を作ってしまうなどなど。

 要するに、日常のちょっとした事故は、状況と自分の行為との間に「みえにくい」ギャップが発生してしまうために起こるのである。



●ちょっとした事故をちょっとした配慮で防ぐ

 したがって、ちょっとした事故を防ぐためには、次の3つのちょっとした配慮することになる。

 一つは、状況を変えることである。

 事故の起こったところに、あるいは、ひやりはっとしたところには、そうさせた状況要因があるはずと考えて、点検し、それを除去することである。

 幼児の誤飲事故やつまずき転倒事故などは、飲み込むもの、つまずかせるものがあったからの事故である。それを取り去ってしまうえば事故は起こらない。

 2つは、ギャップの存在を気づかせる仕掛けを作り込むことである。

 もっともよくやるのは、表示である。そこでは、いつもとちょっと違うように、あるいは、意識的に行為してもらうために、その旨を目立つように表示する。「足もと注意」「危険。よそ見」などなど。

 いつもできるわけではないが、可能なら、状況そのものの中にギャップの存在に気づくような仕掛けを作り込んでしまう。入ると危険なところは囲ってしまう、注意してほしいところは普通より培の手順が必要なようにしておく(フール・プルーフ)などなど。

 3つは、あまり効果のほどは期待できないのだが、しかし、誰もが一番よくする配慮として、行為者/自分を変えることで、状況とのギャップを埋めようとするものである。

 「もっとゆっくり」とか「慎重に」などなど。しかし、前述したように、日常の行為はそうした意識的な自己コントロールをしない/できないところに特徴があるので、この配慮はあまり効果的ではない。にもかかわらずコストがかからないためか。実によく使われる。むしろ、こんな配慮をしないことに配慮してほしいところである。



●誰が配慮するか

 「それぞれが自分で」とつい言いたくなるが、それはだめと言ったばかりなので、やめておく。

 家庭なら、親は子供に対しては安全管理の責任者となる。夫婦であれば、いずれか一方がその役割を担うことになる。

 職場には、安全担当者がいる(はず)。ただ、それは、「日常」の安全担当ではなく、「現場」の安全担当であることが多い。輪番性でもよいから---むしろ輪番性のほうが全体の意識向上にもなる---、もう一つ、「日常」の安全担当を置いて、職場の日常安全環境を作ることもあってよいかもしれない。