00/9月14日締切り 教育時評 海保博之
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心の癒しブームに思う
●心理学部が誕生
中京大学に心理学部が設置された。心理「学科」は、大小とりまぜてかなりの数になるが、心理「学部」となると、中京大学がはじめてである。その心理学部の1学年定員は200名弱、今年の受験者総数(重複も含む)3000名余である。
筑波大学でも、人間学類(定員120名)には教育と心身障害と心理の3つの専攻があるが、入学してくる学生の7割近くが、心理学の専攻を希望する。
これほど多くの学生を集める心理学ではあるが、実は、集客(?)の核になっているのは、臨床心理・カウンセリング分野、つまり心の癒しにかかわる心理学の1分野である。
「学生さえ集まれば/学生さえ喜ぶなら、なんでもあり」の今の大学改革(?)の中で、臨床心理学・カウンセリング心理学には大学経営者や管理者から熱い期待が寄せられている。
ここまで学生を引きつける背景には何があるのであろうか。臨床心理学とはあまり関係のない認知心理学の教育・研究をしている自分にとってもひどく気になる。
●心理学を学びたいと思わせるもの
まず第一に、青年期が、自分についての「心理学」を強烈に欲しがる時期であるということがある。自分のことを知りたい、自分の心をコントロールしたい、にもかかわらず思い通りにはいかない歯がゆさが、心理学を学べばという気持ちにさせているようなところがある。
さらに、ひきこもり、不登校、家庭内暴力、果ては少年犯罪など、自分の身近に見られる心の臨床事例は、一体なぜという疑問も、心理学へ向かわせるきっかけになっている。入試面接で受験動機を問うと「自分が/友人が不登校でーーー」の類を言う受験生が圧倒的に多い。
もう一つは、資格取得にからんむものがある。文部省は、95年度からスクールカウンセラー派遣事業(現在、小中高2250校)をはじめている。そして、その派遣のための人材プールとなっているのが、臨床心理士の資格者(88年より民間の資格として発足、現在、7000余人の有資格者)である。その資格につながる心理学を学びたいということになる。
しかし、こうした直接的な要因もさることながら、底流には、さらに次のような2つの要因もあるように思えてならない。
●心の癒しブームの底流にあるもの
一つは、心のボーダレス化が生み出す不安である。
人物金、そして情報が国境(ボーダー)をやすやすと越える時代になった。それと連動するかのように、心のなかにもあったはずのボーダー(たが)も緩みやすやすとあちこちへ越境するようになった。
たとえば、次のような事例にそれが反映されている。
・普通の子がとんでもない犯罪に走る
・子供が大人と同じ遊びをする
・法律遵守のはずの警官が実は法律違反をしている
・家の中ですることを外でも平気でする
・振舞いや格好に男女差がなくなっている
・誰もが知りたいことを知ることができる
心のボーダーレスは悪いことばかりではない。心の自由、心の創発へとつながることもあるからである。しかし、一方では、自由は不安を伴う。たが(規準)が見えないだけに、心がどこに行ってしまうかわからない不安が高まる。それを鎮めてくれるものとして、もしかしたら心理学が役立つかも、という次第である。
もう一つは、心の管理の高度化圧力によるストレスの高まりである。
世の中が物質的に豊かになると、心への関心が高まるようなところがある。これも悪いことではない。しかし、みずからの心への関心を持てば持つほど、自分の心のしょうもなさにも気づかさせることになる。「これではいけない、もっときちんとしなければ(心の管理の高度化)」ということになりがちである。これの裏返しとして、身の回りの人々のちょっとした心の管理不全--ちょっと変よ---が気になり許せなくなる。かくして、自縄自縛のストレス状態に陥り、もしかしたら心理学が役立つかも、という次第である。
この2つの底流は、イラストに示すように、心のたがの緩みによる不安を、ある限定された領域、たとえば、友人関係の領域での心の管理の高度化---「ちょっと変」と思われたくないための心の自己コントロール圧力---によって擬似的に逃れようとしているようなところがあるように思えてならない。浅いが優しい友人関係、強固な自分主義(ジコチュウ・ミーイズム)はその現れではないかと思う。
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●癒しのブームに応えられる心理学を構築する
心理学は、こうした切実な期待にこたえられるのであろうか。
20年前だったら、そんな期待はないものねだりだから無理、心理学にそんなパワーはないと言ってつっぱねても大学の心理学は成り立っていけた。しかし、心理学がここまで期待され至る所で制度化されてくると、そうも言っていられなくなってきた。ともかくやれだけやってみるしかない、というのが正直なところである。では、今、日本の心理学は何をすべきなのだろうか。
日本の心理学100年の歴史の主流は、アカデミック心理学、つまり、「心ってなーに?」という、基礎的で哲学的な問を実証ベースで研究することに明け暮れてきた。その傍でほそぼそと、あるいは隠れるかのごとく、困っている人々を相手にもう一つの心理学として臨床心理学・カウンセリグ心理学が研究され実践されていた。その力関係の逆転がここ10年くらいの間に起こりつつある。
まずは、このことの認識を、心理学研究者が共有する必要がある。
その上で、「臨床医学的」あるいは「工学的」心理学をいかに構築するかを考えてみたらどうであろうか。ここで、臨床医学的あるいは工学的とは、医学あるいは工学研究のイメージで、心理学の再構築をはかってみたらどうかということで使ってみたものである。
つまり、困っている人の治療やケアーをしなければならない現実、あるいは、心の陶冶が必要な現実がある。ほっとおくわけにはいかない。ともかくあれこれ試行錯誤しながらでも、厳しい制約条件のもとでなんとか現実的な解を見いだし実践していかなければならない。そこで、基礎医学的、自然科学的知見をベースにしながら、現実的な対応をしている臨床医学、あるいは工学と同じスタンスで、心理学を再構築してみたらどうであろうか。
アカデミズムの中には、構造的に自閉志向がある。研究の水準を高めるためには、理論的な体系の高度化をめざすことになる。そのためには、どうしても現実よりは理論のほうに目を向けて研究をすることになる。理論が理論を呼ぶような研究環境が作り出されてくる。現実と切り結ぶ研究は、どうしても理論的には雑になりがちで、したがって、評価もされないため、手を出す研究者も少なくなる。かくして、研究環境全体が現実離れした自閉的なものになってくる。
この傾向は、その学問領域が成熟してくればくるほど強まる。1世紀余の歴史を経て心理学も、成熟学問の域に達したのかもしれない。しかし、成熟はたちまち衰退につながるのが世の常である。そうならないためにの一つのヒントが、臨床医学や工学の研究スタンスの中にあるように思う。
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