「我が師を語る」学術月報
タイトル「ディレッタンティズム」
●出会い
まずは自分のことから。大学1年生の頃から睡眠研究のグループに入って毎週1回の徹夜での脳波計測のお手伝いをしていたこともあり、かなり学問的には早熟でした。授業だけではうかがい知ることもできない大先生方の日常的な研究の現場にもかなり早くから出入りもしていました。
そんな中で、ある夜、当時、学位論文を執筆されていた、我が師・金子隆芳先生に被験者を頼まれました。色パッチを何かの規準で並べ直す実験だったと思います。実験が終わって金子先生いわく「君の色彩感覚はおかしいね」。多分、先生の考えていたようなデータではなかったのだと思います。
これが記憶に残っている金子先生との出会いでした。さらに、自分が心理学科に入って3年目、先生は助手から講師に昇進されて、はりきって授業をされていました。その中でも思い出に残っているのが、2つあります。
一つは、人間工学の講義です。心理学がこんなところでこんな風に現場で役立っているのか、ということを知りました。これが後々、自分の進路を陰に陽にガイドするものとなっているのですから、出会いとは面白いというか、怖い?というか。
もう一つは、実験心理学の演習。ここで、ケーラーの心理物理同型説の紹介をするように一冊の英文の本を与えられました。悪戦苦闘するも、どうにも理解できないままレポートするはめになって恥ずかしい思いをしたのを今でもしっかりと覚えています。
それやこれやであまりはっきりした目的意識もないままに、金子先生の研究室やその周辺にいる大学院生の実験室に出入りするうちに、卒論も大学院での指導も、そして仲人もお願いすることになり、さらに、筑波大学創設にあたってその一員としてのお誘いも受けて、先生と同じ大学でおよそ20年間ご一緒させていただくことになりました。
●文理両道
さて、師を語ることにします。まずは、金子先生の最も際だったことから。それは、文理両道タレントの発揮です。
先生は、東京高等師範学校で数学を専攻された後に、東京文理科大学の心理学に進まれました。それが文理両道の履歴的な意味ですが、実質的にも、理系と文系の両方のタレントを随所で発揮されました。
理系タレントは、先生のライフワークである色彩研究でいかんなく発揮されています。不肖の弟子どもは自分も含めて、実は、金子色彩学を数学的知識不足のため理解できていません。したがって、その内容をここで紹介できないのが残念です。わずかに、岩波新書「色彩の科学」「色彩の心理学」の2冊からうかがい知る程度です。
文系のタレントは、翻訳でいかんなく発揮されてきました。いずれも、心理学、というより人間学のグランドセオリーにかかわる大著をいつもお一人で翻訳、出版されてきました。最も新しいものは561ぺージにも及ぶ大著「ヒトはいかにして人となったか」(新曜社)です。
* ディレッタンティズム
先生の研究スタイル、さらには研究についての考え方を適切に表現する言葉を探しあぐねていましたが、やっと思いついたのが、この言葉です。「学問や芸術を趣味として愛好する人(dilettantism)」(大辞林)の意です。
「僕の学問は趣味ですから」との言説が先生の口から発せられたのを何度か耳にしたことがあります。
それは、具体的には、その学問研究への気負いのなさ、自然体での研究、高度な知への強い志向性を周囲に振りまくことになりました。いわば学問貴族と呼ぶにふさわしい雰囲気が先生にはありました。
●「日本色覚差別撤廃の会」会長として
先生は、大学では、研究科長、学系長、学類長、さらに附属中学校校長(併任)として、また学会関係では、日本色彩学会の会長、日本心理学会の会長を歴任されてきました。いずれもたんたんとその職務をこなされてきました。
そして、今は、「日本色覚差別撤廃の会」の会長を務められています。こちらのほうは、これまでの「長」とは大分異なるようです。「たんたんと」職務をこなすような状況にはないらしいのです。
「色盲」ムム現在は「色覚異常」と呼ぶーーとして差別を受けたご自身の体験を原点にしての活動は説得的で積極的です。新聞への投稿や登場による世論喚起、省庁への働きかけなどもあり、かなりハードな職務をこなされて、結構ストレスフルな毎日を過ごされております。
* ***68行 本文
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写真のキャプション
「菊地正・筑波大学教授のお世話で毎年1回行っている先生を囲む春の宴での金子先生と筆者」