●宗教心はなぜ心の元気をつくるのか
上にあげた2つをもう少し突っ込んで考えてみたいと思います。
まず、「つらさを丸ごと受け止めてくれる人々と場」です。
これは時代だったのか、それとも田舎ゆえなのか、今、都会や観光地でよくみかけるご婦人どうしの息抜きの場を母が持っていた形跡がありません。そうした場としては、せいぜい実家へ帰るくらいだったのではないでしょうか。
どれほどひどい状況になっても、誰にも相談できず、気晴らしもままならずではなかったかと思います。
そこに、突然出現した自分と同類の仲間、しかも、カウンセリング・マインドたっぷりの仲間。どれほどの助けになったことか。
もちろん、現実逃避という一面はあったと思いますが、宗教の癒しの力をその場に見つけたのですから、のめりこんで当然ですね。
その上で、心の元気づくりに貢献したのが、「つらい現状をもたらした原因を自分の心に求めることによる自己鍛練」です。
当時、耳にたこだできるくらいに聞かされたのが自己懺悔でした。
「自分がいかに至らなかったから、こんなことになった」というものでした。そして、母は本当に変わりました。
そうして自己懺悔を繰り返すことで、自分を変えていったのです。これがまぎれもなく母の心の元気の素になりました。
日常的に自分を変えている(高めている)母の姿は、崩壊寸前の家庭の精神的な支えであり続けました。
知の包括的な科学である認知科学が登場してから半世紀あまりが過ぎた。この間、知的マシーンとも称せられるコンピュータの驚異的な進化に引きづられて、人の知について研究してきた認知心理学も、研究上のドグマ(立場)を幾度か変えながらも、膨大な知を蓄積してきた。
本書では、認知科学と認知心理学とをベースに、今社会で起こっている知をめぐる風景の変貌について自在に論じてみたい。
とやや大げさな言い方になったが、自分の知的な体験をベースに縦横に「知」について論じてみたい。
このことによって、本シリーズでの本書の位置づけにふさわしい「認知と学習の心理学」への招待にもなるし、また、そこで蓄積されてきた知の活用の例示にもなるのではないかと思う。
本書では、認知科学と認知心理学とをベースに、今社会で起こっている知をめぐる風景の変貌について自在に論じてみたい。
とやや大げさな言い方になったが、自分の知的な体験をベースに縦横に「知」について論じてみたい。
このことによって、本シリーズでの本書の位置づけにふさわしい「認知と学習の心理学」への招待にもなるし、また、そこで蓄積されてきた知の活用の例示にもなるのではないかと思う。
キュウリ、トマト、自家菜園で作ると
あまって困る
もらって困る
それで思い出した
昔、農家だった
高校生ころ、学校に行く途中、野菜を自転車の後ろに積んで
市場に持っていくのである
それが学費とこずかいになった
今、そんな場所、ないのかなー
スーパーなどで買い取ってあげたらいいのになー
あまって困る
もらって困る
それで思い出した
昔、農家だった
高校生ころ、学校に行く途中、野菜を自転車の後ろに積んで
市場に持っていくのである
それが学費とこずかいになった
今、そんな場所、ないのかなー
スーパーなどで買い取ってあげたらいいのになー
集中力は、がんばるだけではだめ
「一所懸命がんばれば集中できる」
「集中できる自身さえあれば」
「鉄のような意思さえあれば集中できる」
「やりとげようとする意欲が集中を生む」
「集中力は気合である」
などのいわば精神主義的用語による説得は、集中力に限らず心のコントロールを考えるときにはしばしば耳にします。
どれをとっても格別間違ったことを言っているわけではありません。
本書でも、ほんの少しですが、この種のセリフを使ってはいます。
確かに人間はこうしたセリフで動くことがあるからです。。
しかし、どれ一つとっても、具体的にはどのようにやればいいのかさっぱり見当がつきません。
「がんばれば」といっても、「どのようにがんばったら」いいのでしょうか。
「熱意を持て」と言われても、熱意が湧いてこないで困っているのに、と言いたくなります。
こうしたセリフに効果があるのは、言われた人が自分なりにもっと具体的な行動や環境設計はどうすればよいのかをよく知っている場合です。
それを知らない、したがって、どうしていいのかわからない人にとっては、途方に暮れてしまいます。
こうした精神的用語、あるいは精神主義は、人間の心のコントロールにとっても大変便利でしかもわかりやすいので、つい安易に使いたくなりますし、納得したような気になってしまいます。
しかし、要注意です。
まず、前述したように、そのことばが具体的な世界でどうすれば良いかがかっているかどうかです。
「友達を大事に」(精神主義的セリフ)は「友達には嘘をつかない」「借りたお金は必ず返す」(行動的セリフ)に翻訳できるかどうかです。
もし、できないとすれば、あなたにとってそれはあまり意味のないことになります。
精神主義的用語を具体的なことばにするコツの一つは、因果関係を考えることです。
熱意があるから集中できるのか、集中できるから熱意がわいてくるのかを考えてみるのです。そして、その原因を自分自身で操作できるかを執拗に考えてみるのです。
精神主義的用語や精神主義が怖いのは、自分の心を漠然としてホンワカした言葉でわかったつもりにさせてしまうところです。
一種の「めくらまし」言葉としてあなたがあなた自身をごまかすのに使ってしまうと、自分自身をしっかりと冷静に眺めることができなくなってしまいます。
集中力に限らず、それは自分の心のコントロールにとっては大敵です。
「一所懸命がんばれば集中できる」
「集中できる自身さえあれば」
「鉄のような意思さえあれば集中できる」
「やりとげようとする意欲が集中を生む」
「集中力は気合である」
などのいわば精神主義的用語による説得は、集中力に限らず心のコントロールを考えるときにはしばしば耳にします。
どれをとっても格別間違ったことを言っているわけではありません。
本書でも、ほんの少しですが、この種のセリフを使ってはいます。
確かに人間はこうしたセリフで動くことがあるからです。。
しかし、どれ一つとっても、具体的にはどのようにやればいいのかさっぱり見当がつきません。
「がんばれば」といっても、「どのようにがんばったら」いいのでしょうか。
「熱意を持て」と言われても、熱意が湧いてこないで困っているのに、と言いたくなります。
こうしたセリフに効果があるのは、言われた人が自分なりにもっと具体的な行動や環境設計はどうすればよいのかをよく知っている場合です。
それを知らない、したがって、どうしていいのかわからない人にとっては、途方に暮れてしまいます。
こうした精神的用語、あるいは精神主義は、人間の心のコントロールにとっても大変便利でしかもわかりやすいので、つい安易に使いたくなりますし、納得したような気になってしまいます。
しかし、要注意です。
まず、前述したように、そのことばが具体的な世界でどうすれば良いかがかっているかどうかです。
「友達を大事に」(精神主義的セリフ)は「友達には嘘をつかない」「借りたお金は必ず返す」(行動的セリフ)に翻訳できるかどうかです。
もし、できないとすれば、あなたにとってそれはあまり意味のないことになります。
精神主義的用語を具体的なことばにするコツの一つは、因果関係を考えることです。
熱意があるから集中できるのか、集中できるから熱意がわいてくるのかを考えてみるのです。そして、その原因を自分自身で操作できるかを執拗に考えてみるのです。
精神主義的用語や精神主義が怖いのは、自分の心を漠然としてホンワカした言葉でわかったつもりにさせてしまうところです。
一種の「めくらまし」言葉としてあなたがあなた自身をごまかすのに使ってしまうと、自分自身をしっかりと冷静に眺めることができなくなってしまいます。
集中力に限らず、それは自分の心のコントロールにとっては大敵です。
「司馬遼太郎を読むおじさん」たちは村上春樹を読まず、「村上春樹を読むおねいさんたち」は司馬遼太郎を読まないという興味深い非対称からも推察されるのである。(内田ブログより)
**
自分は、両方、読んでます
おもしろいです
最近は、司馬本、ごぶさた
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自分は、両方、読んでます
おもしろいです
最近は、司馬本、ごぶさた
●知識も準備体操が必要
運動するときには、準備体操をしてからだをほぐす。知的活動も同じで、使いそうな知識を使えるように、あらかじめ準備体操をしておくのがよい。 左のクイズをやってみてほしい。知識の準備体操の効果が実感できるはずである。この場合は、わざわざ誤りが起るように仕組んであるが、我々は、このようにそのとき活性化している知識をもっぱら使って知的活動をしているのである。 不適切な知識を活性化してしまうと誤りが発生するが、適切な知識を活性化しておけば、知的活動が促進される。「よくわかる」「なるほど」ということになる。 だとすると、知的活動をする前に、できるだけたくさんの関連する知識をあらかじめ活性化する方策を立てるのが得策である。
●知識を活性させる 実は、そんな工夫が、知ってか知らずか、至る所でなされている。たとえば、こんなことである。 読み終った本を本棚に置いておくことで、それを見るたびに、本から仕込んだ知識に思いをはせる。 あるいは、人に自分の思いを話す。話すことで、大事な知識や自分の思いを作り挙げている知識を確認できる。 要するに、頭の中に知識をしまいこんだままにしないことである。 折に触れて知識を使うような心がけることが肝心である。そうしないと、不良在庫の山を頭の中にかかえこむことになってしまう。
運動するときには、準備体操をしてからだをほぐす。知的活動も同じで、使いそうな知識を使えるように、あらかじめ準備体操をしておくのがよい。 左のクイズをやってみてほしい。知識の準備体操の効果が実感できるはずである。この場合は、わざわざ誤りが起るように仕組んであるが、我々は、このようにそのとき活性化している知識をもっぱら使って知的活動をしているのである。 不適切な知識を活性化してしまうと誤りが発生するが、適切な知識を活性化しておけば、知的活動が促進される。「よくわかる」「なるほど」ということになる。 だとすると、知的活動をする前に、できるだけたくさんの関連する知識をあらかじめ活性化する方策を立てるのが得策である。
●知識を活性させる 実は、そんな工夫が、知ってか知らずか、至る所でなされている。たとえば、こんなことである。 読み終った本を本棚に置いておくことで、それを見るたびに、本から仕込んだ知識に思いをはせる。 あるいは、人に自分の思いを話す。話すことで、大事な知識や自分の思いを作り挙げている知識を確認できる。 要するに、頭の中に知識をしまいこんだままにしないことである。 折に触れて知識を使うような心がけることが肝心である。そうしないと、不良在庫の山を頭の中にかかえこむことになってしまう。