●
男性の社会にはそういう単純な言葉が多い。
そういう単純な概念の言葉を一語用いるだけで、
男子たる者の心の志向や、その生涯の方向を言い表してしまう。
(司馬遼太郎)
@@
男は単純、
女は複雑。
男は論理、
女は情。
これもジェンダーステレオタイプだと思うが、
司馬小説の中で、さらりと書かれると
うんうんとなる。
●
ゴローニンは高度に知的な男でありながら、
その知性は、すべて肉眼と筋肉による体験に裏付けられており、
かつ、体験を蒸留させて知性の質と量をつねにふやしていた。
(司馬遼太郎;菜の花の沖」より
@@@
知性のほとんどは、認知心理学では手続的知識と呼ぶカテゴリーに入る。
多くは技能をさ支える知識である。
もっぱら体験を通して学ぶ。
なお、
宣言的知識も知識レベルで手続き的知識に変わることもある。
これが使える知識である。
新たな知識を生み出すためには必須である。
●
300年の武家社会は、
人間の現象のいっさいを
形式で仕立てあげるということで、
人間社会の秩序を維持しようとした歴史である。
(花神、中、p503、)
@@
戦争の仕方さえ形式化し、
それが、大村益次郎(村田蔵六)の一人の戦争(戦術)の天才によって
壊されたのが倒幕のきわめて重要な一面であった。
形式が現実認識を間違わせ、
対応を誤らせ、
結果として壊されたり、壊れたりする。
●
(感情を表に出せず)
嘉兵衛は、顔の始末に困った。
(司馬遼太郎)
@@@@
うまい表現だなー
こういうのが随所にあるので、
司馬小説、やめられない。
菜の花の沖」より
感情はストレートに表情に出てしまう。
口ではごまかせても、顔ではごまかせない。
07/3・30
放送大学ラジオ「心理学研究法」テキスト 原稿
1章 心理学研究法概説 海保博之
本章の学習目標&ポイント********************
心理学ほど、その研究法が問題にされてきた領域はあまりない。それだけに、心理学研究法の歴史をたどり、その多彩さのわけを考えてみると、そこには、科学方法論的にも興味深いテーマが豊富にある。心理学研究法は、科学方法論の宝庫といってもよいほどである。本章では、その宝庫からいくつかのテーマを取り出して論じてみることで、2章以下で紹介される個々の具体的な研究法の背景的および基礎的な知識や考え方に馴染んでもらうことをねらいとする。
<キーワード>フェヒナーの法則 弁別閾 精神物理学 恒常法 ブント 知能 構成概念 刺激錯誤 行動主義 認知主義
*****************************
1-1 なぜ、心理学では研究法が問題になるのか
●実証の科学たろうとしたから
心理学の概論書には定番になっている以下のような1節がある。
「心理学を哲学から独立した科学にさせるべく、ブント(Wundt,W.M.(,)1832−1920)は、1879年、ライプチヒ大学(独)にはじめて心理学の実験室を創設した。」
この1節で大事なことは、哲学からの独立である。心の研究や省察の歴史は古い。それをもっぱら担ってきたのが哲学である。今田恵「心理学史」の巻末年表を開いてみると、ギリシャ時代の紀元前624年、哲学者・ターレス誕生からはじまっている。
その哲学から独立するとはどういうことであろうか。注1**
言うまでもなく、哲学は思弁の学問である。心について思索をめぐらして今日に至っている。しかし、17世紀になると、物の科学としての自然科学が急速に発展しーー後に科学革命の時代と呼ばれるーー、それにつられるかのように、まずは身体、そして心も科学の対象として扱われるようになってきたのである。そこでは、思弁ではなく、冷徹な観察と緻密な実験による実証が求められるようになってきたのである。こうした時代思潮の高まり、そして、それを実現した心についての個別実証研究の積み上げがあっての、1879年の哲学からの独立である。その間、足かけ3世紀もの年月が経過しているのにもあらためて驚かされる。
ところで、ブント以前に、まぎれもなく心の実証研究をおこなった、ブントと同じライプチヒ大学教授フェヒナー(Fechner.G.F.,1801−87)の精神物理学を、ここで簡単に紹介しておく。今でも、フェヒナーの法則として教科書に載っている研究である。
重り100gと102gだと重さの違いがわかる。200gだと204gになると違いがわかる。つまり、重さの違いがわかる限界(弁別閾)については、刺激強度をI、その増分をΔIとすると、
ΔI
I = 一定(ウエーバの比)(重さの感覚では、約0.02)
フェヒナーは、弁別閾を測定するいくつかの手法を開発して各種の感覚について、ウエーバ比を定め、それに基づいて、より一般的な,刺激の強さIと感覚量Sとの関係について次の法則を提案した。
S=k1 logI +k2 (フェヒナーの法則)
(kは、感覚モダリティによって変わる常数)
この研究で注目しておくべきことは2つある。
一つは、心(感覚量)が「科学的に」量的に測定できることを示したことである。精神物理学的測定と呼ばれている。「科学的に」とはいっても、実験参加者自身が測定器になって自分の感覚を主観的に判断させのであるから、自然科学的な測定とはかなり異なる技法ではある。
その技法の一つである恒常法は今でも精神物理学的測定法の一つとして使われている。やや細かい話になるが、恒常法の手順と論理を紹介しておく。
1)標準刺激Isの前後の適当範囲に(複数の)比較刺激Iiを用意する。
2)Isと任意のIiを選び、Isと比較して、「重い」か「軽い」の判断を求める。
3)IsとIiの比較対それぞれについて、数十回の判断を求める。
4)各判断対について、「重い」と判断された割合を図にプロットする。
5)なめらかな曲線の当てはめをすると、図1—1に示すような正規分布の累積曲線になることが知られている。これを精神測定関数という。
6)この曲線で「重い」と判断する割合が50%なる刺激の大きさを主観的等価値、さらに75%にあたる刺激の大きさと主観的等価値との差を弁別閾とする。
図1−1 精神物理学的関数
別添
フェヒナーの研究で注目すべきもうひとつは、心と外界の刺激とが、法則的(関数的)に対応がつけられることを示したことである。これは、外界の刺激を原因、心(感覚量)の変化を結果とする因果的な研究の枠組とみなすことができる。心の研究も自然科学と同じ方法論で研究できることを示したといえる。その点では、心理学研究法の歴史上、画期的とも言える研究である。
●研究の対象が見えないから
自然科学の進歩を素人目でみていても、見えないものを見えるようにする可視化技術の進歩がその科学の発展を支えてきたのがわかる。
原子や病原菌のようなミクロの世界も顕微鏡の進歩によって驚くほどの精度で見ることができるようになった。望遠鏡の進歩は、逆に遠くのマクロ世界を可視化し、たくさんの新たな星の発見をもたらした。
最近の可視化技術で心理学にも深く関係するのは、脳機能の可視化技術である。かつての脳波による粗くて間接的な測定よりははるかに近くで、高精度で、脳機能をみることができるようになり、心と脳との対応関係がはっきりとわかるようになってきた。12章を参照されたい。
しかし、こうした自然科学での可視化技術の進歩は、心を研究する心理学にとっては、ほとんど無縁であった。なぜなら、心は「物のように」実体として存在するものではないからである。実体として存在しないものを可視化するのは、不可能だからである。
確かに、心は「物のような実体」ではない。しかし、「心の理論」研究(子安、2000)によると、すでに4歳頃になると、子どもは、人には心(記憶や意図)があることがわかってくるらしい。ましてや、大人になれば、誰しもが、心の存在を疑うことはない。その意味で「心は存在している」ことは確かなのである。
では、心理学では、「物のような実体ではないが、存在はしている」ことは確実な心をどのようにとらえることによって、科学の対象にしているのであろうか。
話を具体的にするために、「知能検査作成」の心理学的研究を例にとってみる。
1)定義をする
たとえば、「知能とは、高度な抽象的能力」と定義する。**注2***定義したところから、知能は、心理学の構成概念として機能しはじめる。この構成概念は、すでに心理学の理論の中に存在する他の構成概念とのさまざまな形での関連が問われるところに一つの特徴がある。研究の進歩した領域ほど、ここでの作業が極めて重要になる。たとえば、知能概念なら、学力、適性、創造性などといった構成概念との関係が問われる。
2)定義に従って、測定可能な行動をいくつか設定する。
知能が高いとするなら、与えられた問題を早く正確に解けるはずである、との仮定を立てて、そうした問題をたくさん作成する。ここで、仮定が妥当でなかったり、問題の選択が不適切であったりすると、妥当性のない測定になる。なお、ややひらきなおった主張ともみえるが、「測定したものが知能なり」という逆転した定義もあり、操作主義と呼ばれたこともある。
3)データを集め、知能の構成概念としての妥当性を検証する
用意した問題を、一群の実験参加者に解かせることで得られる正答数や解答時間などのデータを統計的に処理することによって、1)の構成概念としての妥当性と2)の検査問題の妥当性を検証する。この最後の段階が、いわゆる実証にかかわっていることに注意されたい。
***
図1—2 知能研究の基本的な図式 別添ppt
*****
なお、こうした構成概念的なアプローチが心理学研究の主流ではあるが、王道ではない。これ(我)こそ王道と主張する研究法がいくつもある。どうしてそういうことになるのか。次節で考えてみる。
1−2 なぜ、心理学の研究法は多彩なのか
●研究上の立場や現実的な制約が多いから
本講義で紹介することになる研究法は、12種類になる。これですべての研究法を網羅しているわけではない。それほど多彩な研究法がなぜ必要なのであろうか。
まずは、研究者の心についての立場(定義に反映される)の多彩がある。心をどのようなものとしてみるのかにさまざまな立場があるために、多彩な研究法が必要となるのである。たとえば、
・心は、脳が生み出す産物である
・心は、情報処理機械である
・心は、外界刺激の変換装置である
・心は、社会が作り出した共同思考の産物である
どのような立場を研究者が、あるいはその時代の思潮として採用するかは、ある意味で任意なのである。任意ではあるが、そこにこそ、心の研究の多彩さ、新しさが発揮される場合のである。
心理学研究法には、さらに、その立場から発する研究を実践するためのリテラシー(約束事)の違いがある。心理学研究法の場合は、その多くは、実証のためのリテラシーの違いである。データをどのように集めれば、みずからが提案した仮説が実証できるかに、立場によって違いがあるのである。
ここには、さらに、これにデータ収集のための現実的な制約がかかわってくる。実験協力者をどうするか、研究に使えるコストの制約、14章で述べるような研究倫理上の配慮をしたかどうかなどなど、さまざまな制約を克服するために多彩な研究法や研究技法が編み出されることになる。
なお、ここで、データを集める具体的な手順が、研究技法になる。そして、一つの研究法には、複数の研究技法がありうることに注意されたい。しかも、研究法と研究技法との違いは、実はそれほど明確には分離されていないことが、心理学の場合には多い。これが、研究法の多彩さと混同されることにもなっているようなところがある。
一般に、成熟科学では、技法は研究法とは独立して存在している。たとえば、気温の測定技法と気象モデルの構築法とは独立している。そこに、実証性の高さ、強さをみることができるのだが、心理学の場合は、科学としての歴史の短さゆえの、研究技法と研究法の癒着という未熟さがまだある。
●心そのものが多彩だから
「心は実在するが物のような実体がない」と述べた。実体があれば、それについての限定的かつ共通的なイメージを作り上げることができる。
一個の岩を考えてみてほしい。硬い、ひんやりとする、重い、黒いなどなど表面的な特質から、粒子の荒さ、構成成分、鉱物としての特性、さらには分子構造などなどのミクロな特質まで、あるいは岩の環境的な特質まで思いをはせれば、確かに多彩ではあるが、しかし、野放図に研究対象としての実体イメージが拡散してしまうことはない。
では、実在だけは確信できる心については、どうであろうか。人それぞれの心のイメージがある。その多彩さは、物のそれとは比較にならない。たとえ心理学の研究者に限定しても、事は同じである。心あるいは心にかかわる定義や構成概念の多彩さが、その証拠の一端を示している。
本講義でも、12の研究法を紹介することになるが、注意してほしいのは、それぞれの研究法で扱われている「心」の領域が異なっていること、そして、その結果として、それをどのような研究法で研究するかも異なっていることである。
さらに、もうひとつ注意してほしいことがある。それは、そうした多彩さがあるにもかかわらず、研究法全体を通底するものがあることである。それは、実証である。これが、心理学での心のイメージの野放図な拡散に強い、時には強すぎる制約をかけている。実証については、14章でさらに考えてみる。
●時代思潮が変わるから
研究法の多彩さをもたらす最後の要因は、やや曖昧な要因になるが、心についてのその時代、時代での考え方(時代思潮)が異なることによるものである。前述したように、心についての考えが変われば、当然、その研究法も異なってくる。
現代心理学を歴史的にみて、その時代思潮は、大きく4つに区切ることができる。
①心重視の時期(1879年から1913年)
はじめて心理学実験室を開設したブントの業績は多岐にわたるが、心理学研究法の観点からすれば、内観法によって心を「科学的に」研究しようとした業績を忘れることはできない。ブントは、心理学を直接経験の学と定義し、それを構築するために、心を直接、内観することから得られるデータを使おうと試みた。
ブントにとって、実験も、厳密に統制された刺激が感覚・知覚に直接どのように経験できるかをできるだけ素直に内観させるための手段であった。それによって、内観データの主観性を克服しようとした。ブントの弟子・ティッチナーは、観察者の持つ知識が直接経験を汚染する(刺激錯誤)ことを防ぐため、観察者に観察の訓練さえしたほどだった。
ブントよりやや遅れるが、この時期、もう一人、まったく別の心の領域に関心を寄せ、画期的なアプローチを採用した心理学者、精神科医がいる。それは、フロイト(Freud、S.,1878-1958)である。医学者としての訓練を受けたフロイトの基本的なスタンスは、因果関係重視の自然科学的なものであった。ヒステリーなどの神経症の発症の原因を無意識世界のリビドーの抑圧であるとして、その解放こそ治療のねらいであることを、豊富な症例で実証してみせた。もっとも、その実証は、後付け実証と呼ぶにふさわしいもので、実験的に検証可能な意味での実証ではなかったので、科学かどうかの評価は当時から分かれてはいた。
②行動重視の時期(1913年から1954年)
1913年は、ワトソン(Watson,J.B.,1878-1958)が「行動;比較心理学概論」を出版した年である。この年が、ほぼ半世紀にわたり続く心理学界における行動重視の時代思潮のはじまりであった。
評価は今となっては、毀誉褒貶相半ばするが、行動主義が、厳密な自然科学足らんとして採用した刺激―反応(S-R)パラダイムは、実証科学としての心理学の地位を一気に高めた点では、異論を唱えないはずである。また、そのパラダイムに基づいて蓄積された知見の膨大な集積にも、その内容への評価はさておくとして、誰もが一定の敬意を表するところであろう。
③再び、心重視の時期(1954年から1985年)
1937年、コンピュータが開発された。これが心を考える上での格好のモデルになることに気がついたのが、後にそう呼ばれるのだが、認知科学者であった。刺激と反応の関数関係を知ることに腐心することが科学であると信じきっていた行動主義心理学とは違って、心の中身(メカニズム)の解明に研究の関心を向けたのである。再び、ブントとはまったく違った意味での心重視の心理学の時代になったのである。行動主義に対して認知主義と呼ばれる。4章で紹介する心へのモデル論的アプローチが花開くことになる。
④心も行動もの時期(1979年より)
認知科学の中にも、心の世界だけを自閉的に研究しても、人の心はわからないとの認識が共有されるようになってきた。このような認識は状況論という新しい立場を生み出した。人を取り巻く状況との関係性にも目をむけて心を考えるようなってきたのである。
このきっかけになったのが、ギブソン(Gibson,J.J.)の生態学的視覚論(1979)である。彼は、アフォーダンスという考えを提唱し、外界にあって自然に人の行為を導く仕掛けの大事さを訴えた。
ここで、方法論的な多彩さが許容される雰囲気が醸成されることになる。それは、あたかも最先端科学が、最先端テーマを研究するために、斬新な方法論と技法とを開発するような雰囲気といってもよい。そのあたりの雰囲気は、7章,8章の質的研究法あたりで感じ取ってほしい。
1-3 まとめ
1)1世紀余にわたる現代心理学は、心への内観的分析からはじまり、その反動として、20世紀前半、自然科学的な因果実証研究のパラダイムを踏襲した行動主義の流れが隆盛を極めたが、20世紀後半になると、心のメカニズムについてのモデル構築を志向した認知主義の大きな流れができた。
2)心理学研究法は多彩である。その理由としては、心そのものが多彩であること、研究者によって心についての基本的な考えがさまざまこと、心についての考えに時代的な思潮(流行)があること、の3つがあることを指摘した。
●演習問題
「課題」
1)自らの心の存在を実感するのは、どんな時か。
2)最近、人の行動を心理学的に説明することがはやっている。これを心理学化と呼ぶ人もいる。その問題点を3つ指摘せよ。
「課題の略解」
1)心が快調に働いている時には、心を意識することはない。逆に、心の機能がストレスや病気などで極端に低下している時にも、心を意識することはない。では(心を意識するのは)どんな時か。
2)①すべてがその人の心に原因があることになりがち。②あいまいな概念を持ち出せば、すべてが本当のように説明できてしまう。③その人の解釈にすぎない。
注1 やや世俗的になるので、注にした。「哲学からの独立」という時には、制度的な意味での独立の意味もある。近年の心理学ブームで日本ではさすがに哲学科の中に心理学がぽつんとあるような大学はなくなったが、いまだ文学部や人文学部の中の一つの学科として心理学があるところはいくつもある。
注2 知能の定義も、実は一つではない。「学習能力」「新しい
環境への適応能力」などもで定義として使われることもある。
研究の最初の段階では、研究者の数だけあると言われたくらいである。
参考・引用文献
Cibson,J.J. 1979 The ecological approach to
Visual perception. Boston,MA;Hougton Mifflin
(古崎敬ら訳 生態学的視覚論 サイエンス社)
今田恵 1962 心理学史 岩波書店
海保博之・加藤隆編 1999 認知研究の技法 福村出版
子安増生 2000 心の理論 心を読む心の理論 岩波書店
(海保博之)
放送大学ラジオ「心理学研究法」テキスト 原稿
1章 心理学研究法概説 海保博之
本章の学習目標&ポイント********************
心理学ほど、その研究法が問題にされてきた領域はあまりない。それだけに、心理学研究法の歴史をたどり、その多彩さのわけを考えてみると、そこには、科学方法論的にも興味深いテーマが豊富にある。心理学研究法は、科学方法論の宝庫といってもよいほどである。本章では、その宝庫からいくつかのテーマを取り出して論じてみることで、2章以下で紹介される個々の具体的な研究法の背景的および基礎的な知識や考え方に馴染んでもらうことをねらいとする。
<キーワード>フェヒナーの法則 弁別閾 精神物理学 恒常法 ブント 知能 構成概念 刺激錯誤 行動主義 認知主義
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1-1 なぜ、心理学では研究法が問題になるのか
●実証の科学たろうとしたから
心理学の概論書には定番になっている以下のような1節がある。
「心理学を哲学から独立した科学にさせるべく、ブント(Wundt,W.M.(,)1832−1920)は、1879年、ライプチヒ大学(独)にはじめて心理学の実験室を創設した。」
この1節で大事なことは、哲学からの独立である。心の研究や省察の歴史は古い。それをもっぱら担ってきたのが哲学である。今田恵「心理学史」の巻末年表を開いてみると、ギリシャ時代の紀元前624年、哲学者・ターレス誕生からはじまっている。
その哲学から独立するとはどういうことであろうか。注1**
言うまでもなく、哲学は思弁の学問である。心について思索をめぐらして今日に至っている。しかし、17世紀になると、物の科学としての自然科学が急速に発展しーー後に科学革命の時代と呼ばれるーー、それにつられるかのように、まずは身体、そして心も科学の対象として扱われるようになってきたのである。そこでは、思弁ではなく、冷徹な観察と緻密な実験による実証が求められるようになってきたのである。こうした時代思潮の高まり、そして、それを実現した心についての個別実証研究の積み上げがあっての、1879年の哲学からの独立である。その間、足かけ3世紀もの年月が経過しているのにもあらためて驚かされる。
ところで、ブント以前に、まぎれもなく心の実証研究をおこなった、ブントと同じライプチヒ大学教授フェヒナー(Fechner.G.F.,1801−87)の精神物理学を、ここで簡単に紹介しておく。今でも、フェヒナーの法則として教科書に載っている研究である。
重り100gと102gだと重さの違いがわかる。200gだと204gになると違いがわかる。つまり、重さの違いがわかる限界(弁別閾)については、刺激強度をI、その増分をΔIとすると、
ΔI
I = 一定(ウエーバの比)(重さの感覚では、約0.02)
フェヒナーは、弁別閾を測定するいくつかの手法を開発して各種の感覚について、ウエーバ比を定め、それに基づいて、より一般的な,刺激の強さIと感覚量Sとの関係について次の法則を提案した。
S=k1 logI +k2 (フェヒナーの法則)
(kは、感覚モダリティによって変わる常数)
この研究で注目しておくべきことは2つある。
一つは、心(感覚量)が「科学的に」量的に測定できることを示したことである。精神物理学的測定と呼ばれている。「科学的に」とはいっても、実験参加者自身が測定器になって自分の感覚を主観的に判断させのであるから、自然科学的な測定とはかなり異なる技法ではある。
その技法の一つである恒常法は今でも精神物理学的測定法の一つとして使われている。やや細かい話になるが、恒常法の手順と論理を紹介しておく。
1)標準刺激Isの前後の適当範囲に(複数の)比較刺激Iiを用意する。
2)Isと任意のIiを選び、Isと比較して、「重い」か「軽い」の判断を求める。
3)IsとIiの比較対それぞれについて、数十回の判断を求める。
4)各判断対について、「重い」と判断された割合を図にプロットする。
5)なめらかな曲線の当てはめをすると、図1—1に示すような正規分布の累積曲線になることが知られている。これを精神測定関数という。
6)この曲線で「重い」と判断する割合が50%なる刺激の大きさを主観的等価値、さらに75%にあたる刺激の大きさと主観的等価値との差を弁別閾とする。
図1−1 精神物理学的関数
別添
フェヒナーの研究で注目すべきもうひとつは、心と外界の刺激とが、法則的(関数的)に対応がつけられることを示したことである。これは、外界の刺激を原因、心(感覚量)の変化を結果とする因果的な研究の枠組とみなすことができる。心の研究も自然科学と同じ方法論で研究できることを示したといえる。その点では、心理学研究法の歴史上、画期的とも言える研究である。
●研究の対象が見えないから
自然科学の進歩を素人目でみていても、見えないものを見えるようにする可視化技術の進歩がその科学の発展を支えてきたのがわかる。
原子や病原菌のようなミクロの世界も顕微鏡の進歩によって驚くほどの精度で見ることができるようになった。望遠鏡の進歩は、逆に遠くのマクロ世界を可視化し、たくさんの新たな星の発見をもたらした。
最近の可視化技術で心理学にも深く関係するのは、脳機能の可視化技術である。かつての脳波による粗くて間接的な測定よりははるかに近くで、高精度で、脳機能をみることができるようになり、心と脳との対応関係がはっきりとわかるようになってきた。12章を参照されたい。
しかし、こうした自然科学での可視化技術の進歩は、心を研究する心理学にとっては、ほとんど無縁であった。なぜなら、心は「物のように」実体として存在するものではないからである。実体として存在しないものを可視化するのは、不可能だからである。
確かに、心は「物のような実体」ではない。しかし、「心の理論」研究(子安、2000)によると、すでに4歳頃になると、子どもは、人には心(記憶や意図)があることがわかってくるらしい。ましてや、大人になれば、誰しもが、心の存在を疑うことはない。その意味で「心は存在している」ことは確かなのである。
では、心理学では、「物のような実体ではないが、存在はしている」ことは確実な心をどのようにとらえることによって、科学の対象にしているのであろうか。
話を具体的にするために、「知能検査作成」の心理学的研究を例にとってみる。
1)定義をする
たとえば、「知能とは、高度な抽象的能力」と定義する。**注2***定義したところから、知能は、心理学の構成概念として機能しはじめる。この構成概念は、すでに心理学の理論の中に存在する他の構成概念とのさまざまな形での関連が問われるところに一つの特徴がある。研究の進歩した領域ほど、ここでの作業が極めて重要になる。たとえば、知能概念なら、学力、適性、創造性などといった構成概念との関係が問われる。
2)定義に従って、測定可能な行動をいくつか設定する。
知能が高いとするなら、与えられた問題を早く正確に解けるはずである、との仮定を立てて、そうした問題をたくさん作成する。ここで、仮定が妥当でなかったり、問題の選択が不適切であったりすると、妥当性のない測定になる。なお、ややひらきなおった主張ともみえるが、「測定したものが知能なり」という逆転した定義もあり、操作主義と呼ばれたこともある。
3)データを集め、知能の構成概念としての妥当性を検証する
用意した問題を、一群の実験参加者に解かせることで得られる正答数や解答時間などのデータを統計的に処理することによって、1)の構成概念としての妥当性と2)の検査問題の妥当性を検証する。この最後の段階が、いわゆる実証にかかわっていることに注意されたい。
***
図1—2 知能研究の基本的な図式 別添ppt
*****
なお、こうした構成概念的なアプローチが心理学研究の主流ではあるが、王道ではない。これ(我)こそ王道と主張する研究法がいくつもある。どうしてそういうことになるのか。次節で考えてみる。
1−2 なぜ、心理学の研究法は多彩なのか
●研究上の立場や現実的な制約が多いから
本講義で紹介することになる研究法は、12種類になる。これですべての研究法を網羅しているわけではない。それほど多彩な研究法がなぜ必要なのであろうか。
まずは、研究者の心についての立場(定義に反映される)の多彩がある。心をどのようなものとしてみるのかにさまざまな立場があるために、多彩な研究法が必要となるのである。たとえば、
・心は、脳が生み出す産物である
・心は、情報処理機械である
・心は、外界刺激の変換装置である
・心は、社会が作り出した共同思考の産物である
どのような立場を研究者が、あるいはその時代の思潮として採用するかは、ある意味で任意なのである。任意ではあるが、そこにこそ、心の研究の多彩さ、新しさが発揮される場合のである。
心理学研究法には、さらに、その立場から発する研究を実践するためのリテラシー(約束事)の違いがある。心理学研究法の場合は、その多くは、実証のためのリテラシーの違いである。データをどのように集めれば、みずからが提案した仮説が実証できるかに、立場によって違いがあるのである。
ここには、さらに、これにデータ収集のための現実的な制約がかかわってくる。実験協力者をどうするか、研究に使えるコストの制約、14章で述べるような研究倫理上の配慮をしたかどうかなどなど、さまざまな制約を克服するために多彩な研究法や研究技法が編み出されることになる。
なお、ここで、データを集める具体的な手順が、研究技法になる。そして、一つの研究法には、複数の研究技法がありうることに注意されたい。しかも、研究法と研究技法との違いは、実はそれほど明確には分離されていないことが、心理学の場合には多い。これが、研究法の多彩さと混同されることにもなっているようなところがある。
一般に、成熟科学では、技法は研究法とは独立して存在している。たとえば、気温の測定技法と気象モデルの構築法とは独立している。そこに、実証性の高さ、強さをみることができるのだが、心理学の場合は、科学としての歴史の短さゆえの、研究技法と研究法の癒着という未熟さがまだある。
●心そのものが多彩だから
「心は実在するが物のような実体がない」と述べた。実体があれば、それについての限定的かつ共通的なイメージを作り上げることができる。
一個の岩を考えてみてほしい。硬い、ひんやりとする、重い、黒いなどなど表面的な特質から、粒子の荒さ、構成成分、鉱物としての特性、さらには分子構造などなどのミクロな特質まで、あるいは岩の環境的な特質まで思いをはせれば、確かに多彩ではあるが、しかし、野放図に研究対象としての実体イメージが拡散してしまうことはない。
では、実在だけは確信できる心については、どうであろうか。人それぞれの心のイメージがある。その多彩さは、物のそれとは比較にならない。たとえ心理学の研究者に限定しても、事は同じである。心あるいは心にかかわる定義や構成概念の多彩さが、その証拠の一端を示している。
本講義でも、12の研究法を紹介することになるが、注意してほしいのは、それぞれの研究法で扱われている「心」の領域が異なっていること、そして、その結果として、それをどのような研究法で研究するかも異なっていることである。
さらに、もうひとつ注意してほしいことがある。それは、そうした多彩さがあるにもかかわらず、研究法全体を通底するものがあることである。それは、実証である。これが、心理学での心のイメージの野放図な拡散に強い、時には強すぎる制約をかけている。実証については、14章でさらに考えてみる。
●時代思潮が変わるから
研究法の多彩さをもたらす最後の要因は、やや曖昧な要因になるが、心についてのその時代、時代での考え方(時代思潮)が異なることによるものである。前述したように、心についての考えが変われば、当然、その研究法も異なってくる。
現代心理学を歴史的にみて、その時代思潮は、大きく4つに区切ることができる。
①心重視の時期(1879年から1913年)
はじめて心理学実験室を開設したブントの業績は多岐にわたるが、心理学研究法の観点からすれば、内観法によって心を「科学的に」研究しようとした業績を忘れることはできない。ブントは、心理学を直接経験の学と定義し、それを構築するために、心を直接、内観することから得られるデータを使おうと試みた。
ブントにとって、実験も、厳密に統制された刺激が感覚・知覚に直接どのように経験できるかをできるだけ素直に内観させるための手段であった。それによって、内観データの主観性を克服しようとした。ブントの弟子・ティッチナーは、観察者の持つ知識が直接経験を汚染する(刺激錯誤)ことを防ぐため、観察者に観察の訓練さえしたほどだった。
ブントよりやや遅れるが、この時期、もう一人、まったく別の心の領域に関心を寄せ、画期的なアプローチを採用した心理学者、精神科医がいる。それは、フロイト(Freud、S.,1878-1958)である。医学者としての訓練を受けたフロイトの基本的なスタンスは、因果関係重視の自然科学的なものであった。ヒステリーなどの神経症の発症の原因を無意識世界のリビドーの抑圧であるとして、その解放こそ治療のねらいであることを、豊富な症例で実証してみせた。もっとも、その実証は、後付け実証と呼ぶにふさわしいもので、実験的に検証可能な意味での実証ではなかったので、科学かどうかの評価は当時から分かれてはいた。
②行動重視の時期(1913年から1954年)
1913年は、ワトソン(Watson,J.B.,1878-1958)が「行動;比較心理学概論」を出版した年である。この年が、ほぼ半世紀にわたり続く心理学界における行動重視の時代思潮のはじまりであった。
評価は今となっては、毀誉褒貶相半ばするが、行動主義が、厳密な自然科学足らんとして採用した刺激―反応(S-R)パラダイムは、実証科学としての心理学の地位を一気に高めた点では、異論を唱えないはずである。また、そのパラダイムに基づいて蓄積された知見の膨大な集積にも、その内容への評価はさておくとして、誰もが一定の敬意を表するところであろう。
③再び、心重視の時期(1954年から1985年)
1937年、コンピュータが開発された。これが心を考える上での格好のモデルになることに気がついたのが、後にそう呼ばれるのだが、認知科学者であった。刺激と反応の関数関係を知ることに腐心することが科学であると信じきっていた行動主義心理学とは違って、心の中身(メカニズム)の解明に研究の関心を向けたのである。再び、ブントとはまったく違った意味での心重視の心理学の時代になったのである。行動主義に対して認知主義と呼ばれる。4章で紹介する心へのモデル論的アプローチが花開くことになる。
④心も行動もの時期(1979年より)
認知科学の中にも、心の世界だけを自閉的に研究しても、人の心はわからないとの認識が共有されるようになってきた。このような認識は状況論という新しい立場を生み出した。人を取り巻く状況との関係性にも目をむけて心を考えるようなってきたのである。
このきっかけになったのが、ギブソン(Gibson,J.J.)の生態学的視覚論(1979)である。彼は、アフォーダンスという考えを提唱し、外界にあって自然に人の行為を導く仕掛けの大事さを訴えた。
ここで、方法論的な多彩さが許容される雰囲気が醸成されることになる。それは、あたかも最先端科学が、最先端テーマを研究するために、斬新な方法論と技法とを開発するような雰囲気といってもよい。そのあたりの雰囲気は、7章,8章の質的研究法あたりで感じ取ってほしい。
1-3 まとめ
1)1世紀余にわたる現代心理学は、心への内観的分析からはじまり、その反動として、20世紀前半、自然科学的な因果実証研究のパラダイムを踏襲した行動主義の流れが隆盛を極めたが、20世紀後半になると、心のメカニズムについてのモデル構築を志向した認知主義の大きな流れができた。
2)心理学研究法は多彩である。その理由としては、心そのものが多彩であること、研究者によって心についての基本的な考えがさまざまこと、心についての考えに時代的な思潮(流行)があること、の3つがあることを指摘した。
●演習問題
「課題」
1)自らの心の存在を実感するのは、どんな時か。
2)最近、人の行動を心理学的に説明することがはやっている。これを心理学化と呼ぶ人もいる。その問題点を3つ指摘せよ。
「課題の略解」
1)心が快調に働いている時には、心を意識することはない。逆に、心の機能がストレスや病気などで極端に低下している時にも、心を意識することはない。では(心を意識するのは)どんな時か。
2)①すべてがその人の心に原因があることになりがち。②あいまいな概念を持ち出せば、すべてが本当のように説明できてしまう。③その人の解釈にすぎない。
注1 やや世俗的になるので、注にした。「哲学からの独立」という時には、制度的な意味での独立の意味もある。近年の心理学ブームで日本ではさすがに哲学科の中に心理学がぽつんとあるような大学はなくなったが、いまだ文学部や人文学部の中の一つの学科として心理学があるところはいくつもある。
注2 知能の定義も、実は一つではない。「学習能力」「新しい
環境への適応能力」などもで定義として使われることもある。
研究の最初の段階では、研究者の数だけあると言われたくらいである。
参考・引用文献
Cibson,J.J. 1979 The ecological approach to
Visual perception. Boston,MA;Hougton Mifflin
(古崎敬ら訳 生態学的視覚論 サイエンス社)
今田恵 1962 心理学史 岩波書店
海保博之・加藤隆編 1999 認知研究の技法 福村出版
子安増生 2000 心の理論 心を読む心の理論 岩波書店
(海保博之)