心の風景 認知的体験

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視線をコントロールして気持ちをなだめる

2007-06-29 | 心の体験的日記

●視線をコントロールして気持ちをなだめる
最後に視線に関する余談を一つ。
PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)の治療のひとつに、過去の心的体験(トラウマ)が不本意に想起され気持ちが乱れた時、規則的に動かす手先に視線を集中させて気持ちを落ち着かせる手法があります。
視線のほうに注意を誘導してトラウマから気を逸らさせる手法です。
日常的にもこれに類したことをすることがあります。じっと一点を見つめたり、動く指先を目で追ったりして気持ちを落ち着かせるのです。
こんなことにまで思いをはせると、視線っておもしろいですね。 

うつむきプレゼン

2007-06-29 | 教育

● 学生のうつむきプレゼン
演習では、学生にプレゼンをしてもらうことが多くなります。黙っていると、最初は、書いてきたものを演台に置いて、それをぼそぼそと読みあげることになります。そこで、指示が飛ばします。「顔をあげて視線を聞き手にむけよ」。
さらに、聴衆に語りかけるのに、そちらのほうを見ないのは、そっぽを向いて相手と話すようなものです。失礼です。
TVでも、カメラのどのあたりを見て話すと、視聴者の目線と会うかが計算されているのです。それくらい視線は大事なのです。
視線を合わすのは、プレゼンの場の緊張感を作り出すのに必須なのです。
といったようなことを話すと、最初は、おずおずと顔をあげながら話しますが、次第に良くなっていきます。
なお、多数の聴衆相手の視線配りの作法は、視線が合い、かつ会場全体に散らばっている3,4人を見つけて、順繰りに彼ら(彼女ら)をみながら話すことが基本であるとされています。


情報源記憶

2007-06-29 | 認知心理学

●情報源記憶(source memory)
あることを思い出したときに、それをいつどこで入手したのかを思い出せることもある。前者を意味記憶、後者をエピソード記憶という。
情報源記憶は、エピソード記憶にかかわるが、これには、さらに、今思い出していることを、自分が頭の中で考えたことか、それとも現実に起こったことかの区別ができることも含む。この区別を特に、現実世界と思惟世界との峻別ということで、現実モニタリング(reality monitoring)という。
鍵を締めたつもり(省略エラー)、あるいは、自分で考えたつもりが人のアイディアだったなどは、現実モニタリングの混乱の例である。

写真 公園にいた猫。人なつっこくて思わずとってしまった。
なお、自分は、大の動物嫌い、とりわけ、犬嫌い

おかしいぞー、ビジネスマナーその3

2007-06-29 | 心の体験的日記
交通事故と注意管理の映画の編集を手伝った
すでに完成しているはずだが、半年たっても
なんの音沙汰もない。
監修者として名前が出ているはず。
だとするなら、最終完成版は、みせて
もらってもよいはず。
これは、マナー違反より悪質なケース。

と*たさん、そりゃーないぜーよ!!

●使い勝手調査(

2007-06-28 | わかりやすい表現

●使い勝手調査(usability
testing)
製品、とりわけコンピュータおよびコンピュータを組み込んだ機器を実際にユーザ(消費者)に使用させて使い勝手を調査すること。
これが国際標準化機構による国際標準(ISO 13407)として制定されるまでになったのは、コンピュータという高度技術が急速に一般ユーザ(使用者)に普及したことに伴う、使い勝手の悪さへの不満がある。
コンピュータは、認知的人工物と呼ばれることもあるように、従来の機械や道具と異なり、それを使いこなすには、ユーザ側の知的対応を要求する。そこで、コンピュータとユーザが交流する接面(インタフェース)の設計にあたっては、ユーザの知的特性に配慮する必要がある。ここで、心理学的な知見や研究手法が有効となる。


還元主義

2007-06-28 | 教育
 脳への還元のほかに、最近では、遺伝子への還元も注目されている。性格を遺伝子配列によって説明しようとする話さえある。かつては、体液への還元説もあった(ヒッポクラテス;460-377B.C.)。すべて、物質的な基盤に心を還元しようとするものである。


表象主義

2007-06-28 | Weblog

●表象主義と計算主義のドグマ
 認知科学が、表象主義と計算主義との2つのドグマから成り立っていることを指摘したのは、ガードナーであった(1985)。
表象とは、頭の中に構築されるシンボル世界のこと。そして、表象主義とは、その表象の生成、変容、運用のメカニズムを明らかにすることを認知科学のねらいとするべしというもの。、
そして、計算主義とは、そのメカニズムの解明をコンピュータに可能性として実装できるような形でモデル化するべしというものである。認知科学の発生からほぼ20年間、1970年頃までの認知研究者が共有していた車の両輪のごときドグマであった。

●表象主義の何がどのように教育に影響を与えたか。
 眼前の光景をイメージとして頭の中に取り込むのも表象の一つであるが、それらを既存の表象と体系づけた、表象と呼ぶよりも、知識と呼ぶにふさわしい膨大な世界がある。
 表象主義が教育に与えた影響の一つは、この知識の分類の視点とその特徴についての知見を提供したことであろう(図2、Tulving、1972,1985)。
 とりわけ、宣言的知識に分類されるエピソード知識と、宣言的知識と対峙される手続き的知識とである。これは単なる分類の域を越えて、新しいタイプの知識の発見といってもよい。
 教育の中で重視されてきた知識は、言うまでもなく、意味的知識である。あらかじめ決められている意味的知識をいかにたくさん効率的に子どもに取り込ませるかが最大の関心事であった。そうした流れの中で、あらたに、エピソード的知識と手続き的知識との存在と位置づけが提案されたのである。これを教育の中でいかに位置づけるべきかが一つの大事な関心として浮上してきたのである。
 たとえば、エピソード的知識に関して、それが、意味的知識の記名や想起の際に重要な役割を果たしていることが、状況依存記憶の研究から明らかにされたことで、意味的知識だけを切り離しての知識教育の脆弱さが批判されることになった。従来、体験教育としてあいまいなままに散発的に実践されてきたことに、認知理学的な裏づけが提供されたとも言える。
 さらには、理論志向、実用性欠如という批判に十分に答えうる示唆に富む具体的な教育実践もおこなわれた。たとえば、1冊の研究雑誌で特集が組まれるほどの斬新な試みをおこなったランパート(1986)。そこでは、小学校4年生のクラス(児童数28名)を対象として「手続きと意味の一体的な理解」をめざした実践が報告された。お金という具体物や図解を媒介に、シンボル世界と現実世界の往復をさせることで、多位数どうしのかけ算の学習の手順をその意味を実感しながら習得させることに成功している。

● 表象主義の破綻
 理論志向の認知科学が、ただそこにだけ安住していれば、「破綻」といったような厳しい言葉を使わなくともよいのだが、人工知能の実現への貢献をも期待されたことが、表象主義の破綻に気づかされることになった。
 表象主義では、外界を抽象化したシンボル世界を計算論的に記述することとセットになって人工知能への実装をねらうはずだった。ところが、その成果が、人間の知能と比較すると実に貧弱なものにしかならなかったのである。その最大の理由が、人工知能に実装した表象世界の自閉性であった。自閉することで計算論的に完璧な表象世界が構築できても、いざ現実とかかわろうとすると、ほとんど役にたたないのである。
 具体的な、克服困難な問題を2つ挙げておく。一つはシンボル接地問題である(Harnad,1990)。表象世界でのシンボルと現実との対応づけがうまくいかないのである。卑近な例を挙げれば、<笑い>というシンボルが、現実世界の「笑い」とうまく対応づけられないのである。これでは、現実とうまくかかわれる人工知能が作れるはずがない。
 もう一つは、記号接地問題をよりスケールを大きくしたものとも言えるが、フレーム問題である。現実世界に対応する表象世界を記述する際に、どうしても、記述の残滓が出てしまうのである。たとえば、ある時点での光景を完全にシンボルで記述できたとしても、その1秒後の光景、あるいは、1m動いた場所からの光景は違ったものになる。そのすべてを人工知能の表象世界として記述するのは不可能である。だとすると、ここでも、現実との対応がうまくいかない事態が発生してしまう。
 こうした人工知能がらみの問題は、たちまち、逆に、子どもや人の認知的な優秀性へと関心を向けさせることになった。その一つが、第4で考察する身体性である。身体に組み込まれた知は一体どんなものでどんな働きをするのかにあらためて研究者の関心が向けられたのである。もう一つは、状況とのかかわりの中で構築される知の世界への関心である。次項であらためて考えてみたい。

東京成徳大学 応用心理学部

2007-06-28 | 教育
 学部の名称及び学位の名称
 心理学にも他の学問と同様、基礎分野と応用分野とがある。その境は必ずしも明確ではないところもあるが、基礎分野では、精緻な理論構築をねらいとした研究が行われるに対して、応用分野では、基礎心理学の知見を最大限に活用して現実の諸問題の解決にせまる研究が行われる。心理学の基礎分野と応用分野は、ほどよい緊張感関係を保ちつつ、これまで互いの発展をはかってきた。
 このたび、本学で、応用心理学部の名称を冠したのは、臨床心理学科と福祉心理学科とが、共に、現実の中で発生しているさまざまな課題の解決に立ち向かう応用心理学を教育研究のねらいとして定めているからである。
 そして、学士(福祉心理学士)、学士(臨床心理学士)としたのは、それぞれの習得したカリキュラムと卒業後の活躍の場には、共に応用心理学をベースにしながらも、それぞれの特徴があり、それを明確にしよと企図したからである。すなわち、福祉心理学科では、社会福祉にウエイトを置いたカリキュラムに従って学習をし、卒業後の活躍の場が福祉ケアーの領域であるのに対して、臨床心理学科卒業生は、一貫して基礎心理学から臨床心理学まで幅広く学び、卒業後の活躍の場が学校や病院や企業などでの臨床の領域という違いがあるからである。

集中してリラックスする

2007-06-28 | 認知心理学

6 集中してリラックスする

 瞬発カを発揮するまでのリラックスの話をしてきたが、それ以上に大事なのは、瞬発力を発揮する瞬間のリラックスである。最高に集中した状態でリラックスすることができたら、すばらしいカが発揮できる。
 テニスでは、サーブ、レシーブの際に相手のサーブがコートを外れてしまった時にも、思わず球を打ち返すことが多いのだが、そういう時に限って、実にすばらしい球が相手のコートに返る。カを抜いて無心に球を打ち返すのがいい結果につながるらしい。これが「集中してリラックス」の例である。
 テニスの講習を受けたりすると「ハイ、そこでカを抜いて」というアドバイスをもらう。わかってはいてもまずできない。カを抜くことを意識すると、かえって力が入ってしまう。これができるかどうかがアマとプロの違いかと、絶望的になる。
 坐禅のエキスパートの坐禅中の脳波をとると、普通の人がボンヤリしている時に出てくるアルファ波が見られる。しかし、坐禅を組んでいる人が、まさかボンヤリしているとも思えない。一種の集中状態にあるはずである。普通の人が、何かに集中すればベータ波が出てくるのに、坐禅では集中してもアルファ波が出てくるらしい。

図 典型的な脳波と精神状態

 多分、坐禅中の心の状態が、ここで言う「集中してリラックス」にあたるように思われる。こんな状態になりたいものであるが、そのためには、膨大な訓練が必要のようだ。ただ、こういう状態のあることを知っておくと、何かの時に自分でも体験できるかもしれないと思い、紹介してみた。

図 集中と緊張を組み合わせると p219の図

またお菓子!!

2007-06-28 | 心の体験的日記
お菓子2箱をしっかりと食べ終わった
その翌日、またお菓子をいただいた
またしっかりと食べている
貧乏性の年寄りにはつらいものがあるが、でもおしいものを
食べられるのは、こんな時しかない。
がんばるぞー

おかしいぞ、ビジネスマナー

2007-06-28 | 心の体験的日記
原稿依頼の封書を受け取った
見本など一式が入っていたが、
肝心の諾否の葉書と返信用の封筒が入っていない
しかたなく、メールでこちらから連絡をとった。

ほっておいたら、どうなるのだろう。

メールの普及が、こうしたおかしなマナーを流通させたのかなー。

認知的エキスパート

2007-06-28 | 認知心理学

◆認知エキスパート(cognitive expert)
種々の認知機能において、並み外れた能力を示すもうひとつのケースが認知エキスパート(専門家、熟達者)である。雛の雌雄弁別の得意な人、計算機並みの計算技能をもつ人、円周率を4万桁も暗記している人、速読で30分で文庫本1冊を読んでしまう人などである。いずれも独特の方略を使っている。例えば記憶術者は、覚えるものを連合させるための符号表を使ったり、計算エキスパートは、頭の中でそろばんを動かしたりする。したがって、その方略を使うことを訓練すれば、誰しもが一定レベルの認知エキスパートになれる。

認知的体験 再掲

2007-06-28 | 心の体験的日記

●認知的体験「ここ数日、仕事への意欲が低下」06/9/17海保
朝3時起きは習慣。しかし、おきてから仕事をするのは、半習慣なので、時折、せっかく朝起きても、仕事をせずにまた寝てしまったり、このブログを書いてしまったり、麻雀をしてしまったり、ということもしばしばある。
ここ数日は、それまでがあまりに快調に仕事が進んだことの反動か、やる気が起こらない。まーいいか。60年がんばり続けてきたのだからーーー最近、この言い訳をよく使う。効果抜群ムムム。でもあまりこんな状態が続くと地獄をみるからなー。まもなく初稿原稿が2冊分、どっとくる予感もあるし。あと2日すると、後期の授業が始まるから、否が応でも気力を振り絞らなくては!!

定年

2007-06-27 | 心の体験的日記

●認知的体験05/7/3海保
「やめるか続けるか」
定年を機会に、といろいろ考える。今していることのうち、やめたいものと、続けたいものとを分ける作業がこれから必要になりそう。やめてばかりであまり暇になってしまうのもつらい。かといって、定年後のほうがかえって忙しいというのもいやだしーーーそういう
人が結構多い。見えもあるとは思うが生活環境の激変がそういう感じにさせることもありそうだーーー。それに定年後だからはじめられることもあるし。あと9か月。そろそろ仕分け作業に入る時期かもしれない。協会の会長は2年前から止めると宣言しているが、さてどうなるか。自分のことばかり考えるのもまずい。社会へ恩返しの考えもあってよい。