川本三郎はわたしにとって現代最高の映画評論家。
該博な知識に裏打ちされた、節度ある文章は映画以外の事物をあつかったときもまことに美しいのでぜひ。
たとえば、村上春樹との共著「映画をめぐる冒険」は、お互いのユーモアが化学反応を起こしてすばらしい一冊になっていた。あれがどこの文庫にも入っていないのはなんでかな。幻の名著にしておくには(商売上も)もったいないと思うんだけど(古書価格はとんでもないことになってます)。
さて、川本の経歴には一種の影がさしており、「マイ・バック・ページ」はその部分をなんと「リアリズムの宿」「松ヶ根乱射事件」「リンダリンダリンダ」「天然コケッコー」の山下敦弘が映画化したもの。
無責任なブログなので実名で紹介すると……
東大を卒業して朝日新聞に入社した川本三郎(妻夫木聡)は、当時全共闘を雑誌ごと支援していた朝日ジャーナルへの配属を希望するが、その望みはかなわずに週刊朝日の記者となっている。彼のもとへ、当時過激な活動で知られていたセクトの一員を名のる菊井良治(松山ケンイチ)があらわれ、川本と意気投合する。ふたりは学生運動の思想的リーダーだった滝田修(山内圭哉がいい感じ)と対談するなど関係を深めていく。
同じころ、週刊朝日のカバーガールだった保倉幸恵(忽那汐里)と川本は心を通わせる。菊井のセクトは赤衛軍を名のり、朝霞の自衛隊駐屯地に侵入。銃を奪おうと自衛官を刺殺する。彼らの行動をスクープしようとした川本は……
みずからがフェイク(偽者)ではないかという思いを、本物よりも過激な行動をとることで払拭しようとしたふたりの若者のお話、と結論づけては酷だろうか。
菊井の行動は自己顕示欲の発露にすぎず、川本は週刊朝日の企画で(労働者のふりをして)ドヤ街でテキ屋とつき合っているのがその象徴。自分が何者なのかに揺らいでいるために、彼らは急いで何らかの結果を求める。
背景にあったのは、どんな行動をとっても注目されないことに苛立つ菊井の絶望。新聞の余り紙で本を出させてもらっていると揶揄される出版局の新聞本体へのコンプレックス。それらの裏返しが、彼らの過激な“愚挙”につながる。
60年代末から70年代はじめにかけての政治の季節。学生たちやそのシンパの心情には、冷たいようだがそんなあせりが確実にあったのだろう。
結果として彼らは離散し、川本も含めて逮捕され、保倉はのちに……。ただ、自衛官の死を歴史的に見つめることで、彼らの行動を単なる愚行と結論づけるのは少しさみしい。フェイクではあったかもしれないが、政治の季節をすぎて、少なくとも川本の文章はいまわたしの心をうっているのは確かなのだし。
山下敦弘たち若い作り手たちは、このストーリーに二人の“本物”を置くことで川本と菊井のフェイク性を強調している。
「ファイブ・イージー・ピーセス」を川本といっしょに観た彼女は
「きちんと泣ける人が好き」
と、主演のジャック・ニコルソンを経由して自衛官の死に泣くことができない川本世代の独善性をつく。演じた忽那汐里(くつなしおり)は確実にスターになる逸材。本気でモスバーガーに走ってナン・タコスを食べたくなります。
もうひとりは冒頭で川本といっしょにテキ屋としてひよこ(わははは。ご指摘ありがとうございました。売ってたのはうさぎね)を売っていたタモツ。生活者としてしっかりと根をはって生きる彼は、久しぶりに会った川本に
「あれかい?……ジャーナリストになれたのかい?」
と無邪気にたずねる。その返答とともに泣き出す妻夫木の最後の大芝居にも、わたしは本物を感じた。すばらしい映画だ。
さて問題は、この傑作をキネ旬ベストテンがどう扱うか。なにしろ一種の『身内の映画』だから評論家たちも迷うところだろう。
そんなことを抜きにしても、山下敦弘の最新作に、長塚圭史と山本浩司の「リアリズムの宿」コンビが出演しているのがまずうれしい。これで尾野真千子も出てくれていたらもっとうれしかったんだけどな。