わたしは京都がわからない。文句なく最も著名な古都であり、プライドの高さも日本一。その強固な中華意識(しかも洛中でなければならないのだそうだ)については、井上章一の「京都ぎらい」(朝日新書)に詳しいそうなので、これはぜひとも読んでみよう。
で、祇園。
特殊なルールが支配し、客に“粋”を求める祇園では、他の地域では衰退がつづくお座敷遊びが、現在もなお隆盛を誇っている。わからない。
そのお座敷遊び。あれ、面白いんですか?
わたしにはどうしても不毛そのものに思えるのだ。踊り、三味線、鼓、花……わからないなあ。
芸事にうるさい溝口健二は、この川口松太郎原作の映画で、女性を“所有”しようとする男の身勝手さと、ひと皮むけばスマートな売春にすぎない(すみません偏見ですか)祇園の非情さをクールに描いている。
旦那を持たず、芸妓として自立している美代春(木暮実千代)のもとに、家出同然で舞妓志願の栄子(若尾文子)が転がり込んでくる。身体をこわし、商売もたちゆかない父親(進藤英太郎)は栄子の後ろ盾にすらなってくれない。まるでスポ根ドラマのように修行を積む栄子は、ついに祇園デビューを飾るが、そのデビューの意味を彼女はよく理解していなかった……。
若尾文子とは不思議な女優で、十代の性典などのアイドル映画で出てきたかと思えば、60年代にはキネマ旬報主演女優賞を、実に三度も受賞しているのだ。作品によって、何色にでも染まってみせる気概が感じられるし、だからこそ増村保造などのファナティックな要求をかます監督にとって、最高の素材だったのだと思う。
この映画でも、祇園の泥水(それを象徴しているのは浪花千栄子が強力に演ずるお茶屋の女将だ)に抵抗する強さは、彼女でなければ納得できないところ。無粋ながら、京都ぎらいにとっては、なかなか敵(京都)は手ごわいなと思わせる傑作でした。