その2はこちら。
ブロンソンは街を徘徊し、自らをおとりにして犯罪者を殺し始める。熱狂する市民たち。苦虫を嚙み潰したような表情の刑事(ヴィンセント・ガーディニア)……
当時、このブロンソンの行動は論議を呼んだ。自警主義(ヴィジランティズム)を賛美するのはいかがなものか、という批判。イーストウッドの「ダーティハリー」が暴力礼賛だとなじられたのと同根だろう。
しかし問題は、警察がブロンソンを利用し始めたこと。彼のおかげで犯罪発生率が激減したという大人の事情だ。すでに犯人がブロンソンであることを特定しながら、警察は彼に
「街を出ろ」
と命ずるだけだったのである。そして、移り住んだシカゴでも、彼は同じことをするだろうと観客に予想させる結末。
ただ、久しぶりに再見して、マイケル・ウィナー監督は能天気に自警主義バンザイ、ワンマンクルセイダー(独り十字軍)出でよ、と主張しているわけではないことに気づく。
最初の殺人のときには嘔吐するぐらいに懊悩したブロンソン(くどいようだけど、そうは見えませんが)は、次第に殺人に慣れ、むしろ食欲旺盛になるなど、彼の狂気の側面もきっちり描いている。
本来であれば、いくら犯罪者とはいえ、これだけ殺せば主人公にもなんらかの報いがあるのがハリウッドというものだった。
そこを、わざとはみ出して見せたのが「狼よさらば」という作品の存在意義だと思う。論争がまき起こるのは承知の上だったろう。ディノ・デ・ラウレンティスの商売のセンスが光る。
そしてなにより、チャールズ・ブロンソンにとって主人公ポールは最大の当たり役となり、あろうことかシリーズ化されるという驚きの展開も見せたのだった。
ということでようやく「デス・ウィッシュ」に続きます。
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